「人間の心中を如実に描いている傑作。サメットは薄気味悪い!」二つの季節しかない村 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
人間の心中を如実に描いている傑作。サメットは薄気味悪い!
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は大好きな監督の一人で、80%の作品は鑑賞してレビューを書いている。三時間もあるので、一度では鑑賞できないので、3回に分けて鑑賞する。
そして、一時間鑑賞してからレビューを三度にわたってかく。であるから、私のレビューは断片的になる。好きなシーンを主に書く。
1)この映画の舞台はカレヤス(Karayazi)と言って、トルコのErzurumの町(村)の一つだと聞いた。Nuray(Merve Dizdar) 足の悪い高校の英語の先生、が言うように、英語を教えているより、クルド語を習っていると言ってる。だから、クルド人が多い地域と察する(日本にいるクルド人もトルコ政府の抑圧から主に日本に来ているからだ)。少数民族クルド人に対しでだから、学校は権力を行使していて子供の態度やナイフの保持していることなど抜き打ち検査をするようだ?
主人公、サメットの性格をこの冬の長い極寒の季節が表現している。学校まで雪の長い道のりを歩き、途中で拾ってくれる人がいれば、恩恵を被る。行動的ではなく、根暗な性格をしているようで、ビタミンdを飲めと声をかけたくなるような人だ。
学校では美術の教師だが、子供に夢を与えるわけでなく(知っているものを絵ががせるだけ)エコ贔屓が半端じゃない。優柔不断そうな雰囲気を十分に表し、何にでも飛び込んでいけない消極的なサメットの人柄を表現している
一番好きなシーンは主人公であるSamet サメットが同僚であり、一緒に住んでいると言ってる(housemate)Kananケナンにいい人を紹介すると言って喫茶店でNurayを紹介するシーンだ。初めに、Nurayヌライに好意を持っているSametがなぜ、彼女をKananに紹介するのか理解不足だったが、SametサメットはKananと水を汲みに車で行ったとき、自分はイスタンブールに行くからここには長くいないと。そして、結婚もしたくないと。Samet はNurayヌライに二人で会ったときも似たようなことを言っている。しかし、Samet サメットの目線は明らかに彼女に興味を示してる。ちょっと理解し難いがSamet サメットの未練たらしい、明るくない性格の一部だと理解した。
この喫茶店のシーンで、車は自由を与えて、田舎を探検することができるとヌライ。サメットは雪がと。ケナンは道はあると。そして、Diyadin Canyon(地図で調べると彼らのところから169k離れていて、二時間15分だとGoogle Mapで)に行こうと。サメットは雪の嵐がと。ケナンはいつも心配していたら何にもできないよと。行動に移すだけさと。これだけの会話で、三人の人柄が明確になっている。
理解し難いシーンはクラスの女の子の書いた恋文をサメットは返さないことだ。Sevim(Ece Bagci)はわかっている。先生のサメットが持っていることを。先生に対しての気持ちを書いた恋文だから。多分、サメットの自己満足性だと思う。この恋文は彼の自信がなく行動的でないサメットの心を満足させるものものであり、証拠であるから。自己を満たすものだから返したくないのだと察した。
2)「訴えられたら、どんなことがあっても、誰が訴えたかを見つけ出してはいけない。大問題になる」と教育委員会?から言われたのに。サメットは(Tolgaから)聞き出し、Sevimと友達が訴えたことを知る。これが映画の後半でどう問題になるかちょっと楽しみだ。この映画の初めのシーンで、サメットはSevimにプレゼントをあげ、その時、腰や肩に手を回した。トルコの地方の文化は知らないが、この時、私はサメットの態度にゾッとした。
サメットにケナンはこの地域の学校の文化について『この地域はサメットのきたところとは違う。地域によって、それぞれの現実や伝統がある』と。Tolgaは同意する。私もそう思う。この地域はトルコ人の文化だけでなく、アルメニアやクルド文化などもある。アルメニアとクルドは過去において、トルコ人に虐待・集団殺人された歴史もあり、少数民族の人たちを敬えよということだ。
サメットの自暴自棄で、生徒への理解が足りない態度には呆れる。未来のある生徒に対して、『誰もが芸術家になれない』とか言ってさ。生徒の心を傷つけるのは得意のようだ。情けない。
自分に自信がないから、堂々とできないし、調べるべきではない生徒の名前を知ったし、学校での噂になっているのを知ってるから、サングラスをかけて、学校にくる。自分の気持ちを生徒や同僚に知られたくないからね。マスクをかけて自分を隠している精神と似てるね。
好きなシーンは三人が喫茶店で会話してるシーン。小さい村の話をした時、サメットはこういう村には何にもないとバカにする。ヌライは「狂信者と過激派もいるよと。Alawi Villegeに行ってみたいと。私はsectarianじゃないけどね」と。そして、また、「A face that somehow embodies the story of this land.」と。これはヌライがケナンの表情に興味を持って言った言葉だ。厭世主義で、自意識の高い(嫌味ったらしい)男である、サメットに対して、Alawi Villegeという別の世界、つまりトルコ人の社会でなく、主にアラウィ派が住む村(アラウィ派は、ハタイ地域、特にシリア国境近くで大きな存在感を示す宗教的少数派である。ーー2025年の時点で、シリアのアサド政権崩壊後、アラウィ派の人々がアラブ諸国で平穏に過ごせますように)である。この村に興味を持つということは好奇心が強いということだと思うし、オープンマインドだと思う。彼女は自分のことを自分はsectarian(宗教派で他の人の考えを受け入れない)じゃなく狭くないよということだと思う。そこで、ケナンの表情に興味を持って何枚か撮影をして、表情ってこの国(トルコ)の物語の重要性をしめてると。いい言葉だね。トルコは多民族国家で、それぞれの文化からの顔にそれぞれのストーリーがあり、それが深く刻まれ人間の表情になるというようなことだろうと思う。だから重要だと。どの民族も重要だということだと思う。サメットはこのことより、ケナンとヌライの気持ちが近づいてきた方が気になっている。その後、私の思った通り、ヌライの家を一人で訪問して、ケナンとヌライを騙す。
3)サメットの人を馬鹿にしたような言動(ヌラインは思ったより頭がいいという言葉)が鼻につくなあ。ヌライがどこに行ってもサメットの問題はついていくと。スイスに行ったって同じことで、不平言って何か変わった?不平だけじゃ何にも変わらない。動かなきゃと。ヌライのいうことは真っ当だが、サメットの言うことにも一理あるね。みんなある形で社会に貢献している。ある人はあることができ、他の人は’他のことができると。でも、サメットは自己肯定意識が強いんだよね。ヌライに考えを否定されたと思うとすぐ、自己弁護するからね。サメットは正義や平等はユートピア的考えだって言うね。そして、ナンセンスだって。皮肉屋だけど、現実を見てるんだよね。そして、なぜみんなおんなじに考えなきゃいけないの、私の中でユニークな源が囁いてるんだよと。なあるほど。どんなことができるとヌライに聞くシーンがいいね。足が悪くて退職したんだといって、何もできないと言うヌライにサメットはそうは見ていないよと言う。本心かどうかわからないけど、彼女に安心感や希望を与えるね。
サメットがこの村を出ていくと決め、三人でアドゥヤマン遺跡に行くシーン。ここから理解できない。難解。モノログで、特に詩的な表現でサメットの心の中をぶち開けているが私の理解が乏しい。サメットは一人で山を登り、そこからは意識は二人と離れて、彼の心はSevimになる。彼女に愛情を示している詩という形で終わっている。ヌライに対する気持ちはなく、ケナンに対する自己満足的な嫉妬のためヌライを利用した。なぜ、Sevimがサメットの心をまだ占領するかよく理解できないが、彼の目線がそれを示している。多分、監督自身高齢になってきて、若い活発な異性に対する憧憬の気持ちがあるのではないか?それをサメットによって表現しているのではないか?Sevimの将来(季節が変わる)の若さと息吹きとヌライのいう固まっていて古臭く(ようにどこに行ってもあなたの問題はついていく)行動的でなく厭世的な(遺跡がそれを表している)対比が出ていると思うから。自分のことを生き生きとした大草原の中に何年もポツンと立っているアドゥヤマン遺跡だとも思っているのか?
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の作品の中でもこれはちょっと理解不足。助言を!
二つの季節しかない村
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