「世界がもし二つの季節しかない村だったら」二つの季節しかない村 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
世界がもし二つの季節しかない村だったら
トルコアナトリア地方の僻地の村。その広大な大地は一面雪に覆われ建物や草木などの風景だけでなく人の心まで覆いつくしてしまうかのよう。
そこに赴任させられた美術教師のサメット。彼は都会のイスタンブールへの転勤を希望しすでに四年の月日が経過していた。
インテリである彼はこの地をゴミ溜めと忌み嫌い住民の人々を見下していた。部下に対して横柄な態度をとる軍警察の人間に嫌悪感を覚えながら自身も生徒たちに対して同様の態度をとってしまう。
ある日生徒から告発されたことから彼の日常に変化が訪れる。執拗に告発した生徒の名前を聞き出そうとするサメット。それが自分が目をかけていた女生徒セヴィムとわかると彼は困惑と怒りから自分を抑えられず彼女に露骨なパワハラをしてしまう。
告発の原因が同僚で同居人の友人ケナウにあると聞くと、腹いせに自分が彼に交際を勧めたはずのヌライと関係を持ち彼を傷つけようとする。
サメットを友人として信頼していたヌライの気持ちも考えずに涙する彼女と無理やり関係を持つサメット。
人間としてのありとあらゆる嫌な面をさらけ出すこの主人公。しかしヌライの家から突然彼が映画スタジオらしき場所に移動するシーンが。
彼に嫌悪感を抱いていた観客は突然冷や水を浴びせられる。このメタ構造は何を表してるのだろうか。これはすべて芝居である、このサメットという男の狭量さ、傲慢さ、利己的な考えを目の当たりにしてあなたたちは何を思うのかと本作は見る者に問いかけてるように思える。
自分の置かれた状況に不満を言うだけで、自分では何も行動しない。この雪深い村から出て都会に行けば何かが変わるのか。クズな自分はどこへ行こうともクズのままなのでは。人生において世界の中心は常に自分であり自分が変わらない限り世界は変わらない。どこで生きるかではなくどう生きるかが大切ではないのか。
テロで足を失ったヌライは自分の境遇に愚痴をこぼすことはない。自分の信じる通りに生きてきたからだ。障害を持つ身になろうがけして後悔はしない。
ヌライの家での息詰まる二人の討論、自分の生きるこの世界のために自分の信じるもののために行動することが大切だという彼女に対し、なにものにも縛られずに自由でいたいというサメット。なんとも分が悪い。確かに彼の気持ちもわかるが彼が言う自由は何もせずに得られるものではない。誰もが自由に生きられる世界は理想だが、今の世界はそうなってはいない。自由を求めるには代償が必要だ。
インテリ気取りで政治を批判するが自分は何も行動に移さない。ヌライの言葉は実に耳が痛かった。
二つしか季節がない村。長い冬を耐え抜きようやく冬の終わりを告げられ芽吹いた草花はとたんに強い夏の日差しに照り付けられ青々とした葉をつける間もなく萎れてしまう。雪深い村から解放されたサメットが都会に行ったところで彼が芽吹くことはけしてないのだろう。
今年も日本では10月になっても最高気温が30度の真夏日が続いた。年々秋と春の間隔が短くなっている気がする。気がするのではなく現にそうなっている。
地球規模の環境破壊、終わらない地域紛争、経済格差による貧困、いずれは世界を取り巻く混沌も解消されて春が訪れるはず。そう信じて何もせずにいると春の訪れは永遠に来ることもなく世界は二つの季節しかない村となってしまうのだろうか。
セヴィムに希望を託すサメット。現代社会に生きる大人たちが抱く無力感、そして次の世代を担う者たちへの期待を込めた物語なんだろうか。あるいは温暖化による環境破壊で大人たちのツケを払わされるグレタ氏などの若き活動家たちに責任を委ねて何もせずただ春を待ちわびるだけの私を含む大人たちの姿を皮肉った作品なんだろうか。
このアナトリアの広大な大地で日々些末なことに振り回されるだけの主人公と同じく多くの人間がその生涯を終えていく。人間がいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされる作品。
ちなみにトルコの人はあんなに紅茶を飲んで結石とか大丈夫なんだろうか。
紅茶をよく飲む国は、カルシウムの多い食品をとっている筈です。カルシウムは腸管内でシュウ酸(茶葉の)と結合しシュウ酸カルシウムとして糞便中に排泄されます😊
レビューにとても共感しました。本当に同感です。
お茶文化の国って飲む頻度が半端ないですよね!トルコも、そして香港映画でも何かあると乾杯の意味でもよく飲むし!トルコのコーヒー、結構好きでしたが映画では登場してませんでしたね