関心領域のレビュー・感想・評価
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人間とは … かくも恐ろしきものなり
冒頭から流れる微妙に音程をずらした楽曲に限界を感じ始めた頃、実写映像となった。
アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘスをクリスティアン・フリーデルが、妻ヘートヴィヒをザンドラ・ヒュラーが好演。
邸宅の隣で起きている事に家族が皆気付かないふりをし、平静を装い生活を続ける。
ヘスと同じ立場に置かれた時、自身はどう行動するのだろう。逃げ出す事は出来るかも知れないが、果たして反逆者となる事が出来るだろうか。
ヘスが絞首刑となる1947年4月16日の2ヶ月程前に、ヘス自身が拘置所で執筆した手記が、「 アウシュビッツ収容所 」という本になっている事を知り、早速図書館に予約しました。
彼が、私達に何を遺し何を伝えたかったのか、少しでも知りたい、そう思っています。
映画館での鑑賞
モキュメンタリーっぽさ
制作ロゴ、タイトルの後、画面は暗転、重苦しい音楽と共に約2分間真っ暗な画面を見せられ、一転して長閑な明るい風景。
ミニシアター系でやりそうな映画をTCXで鑑賞した。音がポイントの映画だから、それは良かった。
淡々とした日常の暮らしを見せられる。平和な、幸せな一家の日常。でも良く見ると、良く聴くと異常なことに気が付く。まるでモキュメンタリー。
家族は、家政婦の存在に気付いてないのかと思った。でもそんなことなかった。
終盤になると異常さに拍車が掛かる。レジスタンス?の少女の行動、ユダヤ人の記録、展示館となった収容所の現在。ユダヤ人が受けてきた迫害を知れというメッセージか?だからといっていまのイスラエルの行動を許せるか?
いまだから「アウシュビッツ」は忌避するけど、当時はまだただの地名。そこに暮らしを築いたら離れがたい日常になるだろう。そう、「フクシマ」も同じ。
「オッペンハイマー」に続いて怖い映画だった。
エンドロールで え!って声が出てしまった
玄人に言わせると凄いなのだろが
奥さんに何も言えない夫が単身赴任するってだけの映画じゃないか!
エンドロール始まった時に え!って声が出てしまった
もちろん映像美や横の収容所 隣に住む裕福な幹部の家族 アンバランスな一時なのだけど何も無さすぎる
A24映画はほとんど見ているがここまで何も起きなかった映画はない
不穏さをたたえる映像以上に、「音」の恐ろしさが際立つ一作
ホロコーストを描いた映画としては、『SHOAH ショア』(1985)や『シンドラーのリスト』(1993)、『サウルの息子』(2015)など膨大な作品が存在しますが、本作はアウシュビッツ(=ビルケナウ)強制収容所に隣接した邸宅を舞台にしていながら、収容所で何が起きているのか、直接描写していない点が大きな特徴です(周囲の状況をはっきり見せない、という点で『サウルの息子』と共通する作劇法とは言えます)。
収容所内で起きていることからあえて目を逸らして、平穏な日常を享受しようとする収容所所長家族ですが、もちろん視界に入れなければ事態に触れなくて済む、というものではなく、遠くからは絶えず不穏な物音や悲鳴のような声が聞こえてきます。そしてさらに、映像では伝わってきませんが「臭い」も。
作中でたびたび清掃をする場面が登場するのですが、それはこの、臭いの存在を観客に伝えるための表現ではないかと思いました。
『落下の解剖学』でも謎めいた人物を演じたザンドラ・ヒューラーが本作でも収容所所長の妻、ヘートヴィヒ・ヘスを演じていますが、本作の何が恐ろしいかって、自分たちが何をしているのか知りながら、そこから得られる利益を当然の権利のように受け取っている姿です。その本性が現れる後半のあるセリフは背筋が凍り付くほど。
ホロコーストだけでなく、今現在も生じている重大な問題から目をそらして平穏な日常を維持しようとする我々すべてに、もう一度自分自身を見直せ、と迫ってくる本作。鑑賞には予想以上の覚悟が必要でした……。
ずっと不協和音を聴いているような、なんとも言えない不安感、常に漂う...
ずっと不協和音を聴いているような、なんとも言えない不安感、常に漂う不穏な空気。キューブリックやウェス・アンダーソンも思い出させるような、完璧な構図の定点カメラが映し出す美しく家庭的な日常と、鳴り止むことのない凄惨な雑音との違和感。贅沢な暮らしに溶け込む収容者たちの遺品。本当に恐ろしい。アカデミー賞国際長編映画賞と音響賞、カンヌ映画祭グランプリを受賞。
死角
人間の五感は優れていると言いますが、私たちが関心をもって見ているものはかなり限られているんだろうな、と改めて考えさせられました。
ましてカメラを通して記録された歴史的記録映像、ドキュメンタリーから見て取れるものはごく一部なんでしょうね。
登場する家族も、家の隣で起きていることばかりか、家のなかのことも無関係であるかのように見えました。そこも、モデルになった実在の家族も実際は、隣で起きていたことをもう少し気にしていた可能性もあるよな、と期待してみたくもなりました(目や耳は塞げても匂いは避けられなかった気がしますし)。
関心すら寄せられていないもの、関心を持っていながら目を向けられていないものも多いですが、見えているのに無関心というのが危ういものをもたらすんだと実感させられました。
とはいえ、リンゴを配ってみるような想像力や行動力を持つことは難しいですね。
音だけでなく臭いも感じる
映像の背後に絶え間なく聞こえる音。画面に写っていることより、音で察せられる画面に写っていないことの方に気持ちが向いてしまう。これは確かに、拡張された映画体験と言えるものだろう。
ドキュメンタリー調とも違う、自然でありながら無機質で表層的な映像は、無数の隠しカメラで撮った断片を繋ぎ合わせたものとのこと。登場人物たちの感情を読み取ることが難しい。
壁の向こうから立ち上る煙や、闇の中の炎を見ていると、音と相まって臭いも迫ってくるように感じられて、気分は悪くなってくる。
直訳のタイトルが深い。制作時には意識していなかっただろうが、今は期せずして、パレスチナの現況を思い起こさずにはいられない。
最も映画的と言えるのが、ヘンゼルとグレーテルの読み聞かせでの反転映像の少女のシーンだが、観ているときは意味がわからなかった。後で公式サイトで確認して理解はできたが、効果を上げていたとは言いづらい。
エンドロールの不協和音のような音楽もあり、後味は悪い。映画館を出たあと、目に入る街の灯りが不穏なものに見えた。
アクトオブキリングを思い出した
命令されてやると罪悪感が薄くなるって、自分もやってしまいそうで本当に本当に怖い。
観たあとも怖くてエンドロールの音楽が夢に出そう。
最後のえづきはアクトオブキリングを思い出した(同じくらい怖かった)
抽象化しすぎてないだろうか?
『関心領域』(原題:The Zone of Interest)。
マーティン・エイミス原作、ジョナサン・グレイザー脚本・監督の米・英・ポーランド共同製作。
2023(日本は2024)年公開。
アカデミー賞国際長編映画賞、音響賞。
冒頭、タイトルバックに不穏な音(音楽?)が鳴り始めスクリーンが体感3分ほどブラックアウトする。
テレビなら放送事故だ(笑)。
その後、川のほとりに楽しむ家族のシーンに切り替わる。
アウシュビッツ強制収容所に隣接した豪邸に住むルドルフ・ヘス一家の日常を描く。
※Wikipediaでは、副総統のヘスと区別するため
「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」で表記されている。
ほとんどすべての挿話が、
◆婉曲表現
◆暗示や暗喩
で構成されていて、スッキリとは入ってこない。
人類の歴史に残る愚行は、
具体的に描写できるようなスケールでないことは理解しているつもりだが、ここまで抽象化されると、
もう「前衛芸術」のように感じてしまう。
確かに、本作はアートだろう。
だが、狂気の表現としては
『ヒトラーのための虐殺会議』
には及ばないと感じてしまった。
ヘスの妻ヘートヴィヒ役のザンドラ・ヒュラーの演技には脱帽しつつ、☆2.5
前知識が必要
学生時代のどこかで習ったんだろうけど、勉強しなかったので、新たに前知識として、予習しました。
アウシュビッツ強制収容所で罪なく亡くなったのが、110万人と言われてるが、110万人って??
わたしは広島人なので、原爆で亡くなった人は15万人ぐらいらしい。
110万人とは、現在の広島市の人口に等しい。
と、思うと…
そのアウシュビッツ強制収容所の司令官が、塀の外のすぐ隣で悠々自適に暮らしてる様を描く。
収容所の残虐なシーンは一切出てこないが、セリフが心ない言葉で残虐だったり、何より音楽がとても恐い❗
今から規模が大きくなり、効率良く大量虐殺が行われるんだろう所で終わる。
現代の観光になってる、アウシュビッツ強制収容所のシーンもあるので、是非 YouTubeとかで、予習して見て欲しい。
個人的には、パーフェクトデイズ推しだったけど、世界的にはそうだな。。
納得の、アカデミー外国作品賞である。
装う無関心の闇深さ
アウシュヴィッツ収容所長の妻を中心に描かれる何気ない幸せそうな一家の日常でした。淡々とした映像でしたが一方訴えるような音響効果(音)が印象的です。収容所からは間断なくほとんど上映中を通しておぞましい音が聴こえてきます。とあることで怒った所長の妻が家政婦に発した「あなたも焼かれて灰になるのよ」の言葉が私欲の為に敢えて本質をとらえず無知無関心を装ってるようでした。ただ一緒に住むために来た妻の母親が収容所からの音に耐えきれず夜逃げ同然に出ていった姿に僅かばかりの良心を感じました。不都合なこと不利益なことにも本質を知ることが必要かと。結末には触れず一人一人に考えてもらうことがテーマかなと思いました。
嫌な映画だけど気になってしょうがない
映画全体の最初の印象としては、現代美術館で流しっぱなしにしているインスタレーションの映像をボーッと見ているような気分になって不謹慎にも気持ちよくなってちょっとウトウト。ほぼ全編を通して鳴っている「ゴーッ」という感じの音もいわゆるホワイトノイズ(空調の音とか、ジェット機のエンジン音)のようで心地よい(すみません)。
ただその音の中に不快な悲鳴や銃声らしき音が混じっていてそのたびに画面の状況に引き戻される。
よくよく見ると画面の中の様子も一見普通で平和に見えるが、まちがい探しの絵のように異質な部分が気になってくる。あれ、そう言えばなんであのメイド長靴洗ってんだ?とか、なんであのお母さん急に窓閉めたんだろう?とかいろいろ気になってくる。
そもそも関心領域というタイトルが絶妙で、個人的には視聴動機の半分はこれのせいだと言っていいくらい。
もちろん言葉自体はナチスドイツがつけた古いものだがたぶん「要監視区域」みたいなニュアンスであって、関心・無関心の関心とわざと曲解してみせたマーティン・エイミスはすごいなと思いました。
まさにヘス家の「関心領域」はヘス夫人ヘートヴィヒを中心に同心円状に広がっているが、基本的に無理やり自己暗示にかけてなんとかしようとしているので、子どもたちにはストレスが身体の不調として出てきているし、ヘス本人もアウシュビッツに帰れることになって喜んでいるにも関わらず、体が拒絶反応を起こしている。それから、ユダヤ人の灰や体に触れるとゴシゴシ洗うくせに、衣類や貴金属には平気で触れるのはなんか不浄観がバグってる感じで気持ち悪かった。
一見クールに見えるこの映画もジョナサン•グレイザー監督の熱い思いに裏打ちされていると思うと映画の見え方も自ずと変わってくる。
ラストシーンで未来を幻視したヘス。こっちを見て何も言わないけど「オレにとってはこれがベストの選択なんだ、なんか文句あるのか?おまえはどうなんだ?」と目で言っている。あっえーっと焦ってる間に、「おまえの答えなんか興味ねえ」と言わんばかりにさっさと階段を降りるヘス。
正直もう一度見るのは気が重い。でも見ていろいろ確認しないわけにもいかないそんな気分にさせる映画。
関心
ちょっと見る側の知識と想像力に委ねられまくってて「これわかんない奴ヤバいよ?」という圧しか感じられない映画だった。
本当に心の底からこの映画面白いと思ってる人いるんかと。
印象的なのは綺麗なお花とエンディングのキモい曲のみ。
確かに、今の世界情勢の関心無関心をミクロ的に表現しているというのはそうなんだろうけど。
本当に淡々と、家族の日常が流れていきます。私は、映像そのものよりも...
本当に淡々と、家族の日常が流れていきます。私は、映像そのものよりも、そこに漂っているだろう「臭い」を想像して気持ち悪く感じました。だって、隣では・・・・。賛否両論の音については、わざとらしく、かつ映画の流れを分断させているだけの印象であまり好きではありません。
地味な画面が想像を掻き立てる「塀」の話
おそらくこの映画はアウシュビッツに強い関心がなければ理解が難しい。説明もなく、ドラマもなく、淡々と日常が写されているからだ。私も一見しただけでは消化できないエピソードも多く、自分の知識不足を感じた。
しかし、注意を払って見た部分は印象に強く残る。収容所の煙突から常に煙が出ていて、平和で裕福な家族の外では常に死体が燃やされ続けている。主人公であるルドルフ・ヘスのミーティングのシーンでは回転式焼却炉の話をしている。もう殺すことは日常であり、その処理をどうするかが目下の関心事。時折り、塀の外から脱走者の処刑の銃声や叫び声が聞こえてくる異常な環境でも、ヘスの妻は収容所という地獄から塀を挟んだ自宅を楽園であり、永遠に続くものと思ってる。転勤の可能性を告げられると感情を露わにして拒否する。妻の母が訪れるが、彼女はおそらく異常さを感知して突然帰省してしまう。別に妻の母も良識派な人間ではなく、ユダヤ人が使っていたカーテンを隣の人に奪われたと愚痴る程度には、当時の差別や収奪を当然のことと思っている。家の使用人もユダヤ人から収奪した衣類を配られると、一目散にお気に入りを選ぼうとする。一見すると何気ないシーンだが、アウシュビッツの存在が当然のことと捉えられている。一度、無関心を決めると人間は徹底して無関心を貫き、それが普通の人間なのだと印象づけられる。
時間が経過するにつれて、ドイツの状況は悪くなっているはずだが、画面からはまったくその状況は見えない。ヘスの家族はヒトラーによって幸福を得たのだから、ヒトラーに従えばずっと幸福であると信じているのだろうか。それともヒトラーが誤る可能性を考えなかったのだろうか。思考の外に関心を払うことはない。
後半、ヘスが嗚咽を繰り返し、現代の博物館化したアウシュビッツが映る。そこでのアウシュビッツも館員が掃除をしているシーンであり、これもまた、ありふれた日常である。これには感情を揺さぶられた。アウシュビッツの清掃員もまた悲惨な遺産や遺品を日常的なものをして扱わざるを得ない。仕事という性質にはそういう部分がある。関心領域が違う。本来ならとても強い関心があるだろうから、アウシュビッツに関わっているだろうに、どうしても仕事となると関心領域の外に置いてしまったように見える。
ルドルフ・ヘスの嗚咽が彼の良心なのか違和感なのか、精神的な不協和音からのものだとすると、彼はそれを隠すように自分の仕事と割り切って関心領域の外に置いて平静を保ってきた。その点ではアウシュビッツの清掃員もそうだし、この映画も見た私も普段はあらゆることを関心領域の外に置いている。そうじゃないと精神が保てないから。
映画は日常を徹底的に描くことで、異常を浮かび上がらせるものだった。当時のドイツ人は今こうしてみると異常であるが、私たちもまたアウシュビッツの塀をあらゆるところに作っているのではないかと感じた。
境界型の鉄槌
The Zone of Interest
展開が少ない映画だと聞いていたが(とんでもない)、作中では無数の「重要な」ことが起こっている。子供の成長、夜泣きの過酷さ、母は生活ぶりを見に来る、家族の大黒柱は栄転したが、家族は着いて来ずに体良く一人で追い払われている、そして出先において更なる昇進をして暗黒に沈む。
ヘートヴィヒが家を離れたくないのは
姉妹にお揃いの服を仕立てたように
一から時間をかけて設計し作り上げた庭、教育環境、そして周囲との関係性があるから、だけではない。壁の向こうの音は最早聞こえないものではない、むしろ常に耳の中に響き自分の優位性を再認識させてくれる。
無理やりボートに乗せられて泣き出す子供に人間の文化を感じる。しかし文化は、それぞれを大切にするどころか、まるで相手から奪い取るべきものと、宣言をしている。
人間味を残したサーモグラフィー、しかし自分の生活を捨てる気はない。
今となっては、ホロコーストを、「歴史」として扱うことを自然の摂理としている。
今も展示も壁と隔てて、内側を綺麗にしているだろう。
興味は展示としての関心領域に移っているだろう。
観る人を試す映画
まず、ドラマの基本構造の起承転結に従っていないので、監督が伝えたいことが分かりやすくダイレクトに表現されていない。延々と続く小エピソードの果てにエンドロールが出てくるので観る側が意識しないと伝えたいことがわからないのでないだろうか。また、登場人物のアップ映像が少ないので各シーンで何を思っているのかが伝わりづらく、観る側の想像に委ねられている。さらには、説明的シーンが削ぎ落とされているので、各シーンが何を表しているのかは事前の知識がないと把握しにくい。
この映画の一家の主人はルドルフ・ヘスなのだが、私はエンドロールが出るまでわからなかった。映画の前半に夫を部下の兵士が「司令官」と呼称している段階で気がつくべきだったが不肖にも知識不足で気がつかないまま、終わりを迎えてしまった。もし、このことに気付いていれば各エピソードの捉え方は相当に違っていたような気がする。
その意味で、私にとってアウシュビッツは関心領域外だという事実を突きつけられた。この映画はこんな感覚を持たせる映画ではないだろうか。
なお、この映画の紹介に「アウシュビッツの隣に住んでいるにも関わらず壁の向こう側に関心を持たない家族」という文脈が使われることがあるが、この一家がルドルフ・ヘスである事実を踏まえるとそういうぬるい表現ではすまされないかもしれない。彼が何を行い、研究者によってどう評価されているのかを踏まえたときヘスの夫人を単なる無関心者としてとらえていいのかどうか改めて考えたほうがいいのではないだろうか。
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