クラブゼロのレビュー・感想・評価
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ハネケより意思は明快
ノヴァク先生は、
生徒たちを巧妙に統率し、
洗脳的な手法でその心を操る。
ハムハム
彼女の「教育」とは、単なる指導に留まらず、
心理的な操作を含んだ支配的な側面を持っている。
ハウスナー監督は、
映像によって観客の視覚と感情を巧みに操作し、
その心を徐々に統率していく。
圧倒的に多用されるズームアップ、ズームバック、
今までのハウスナー作品で,
多用されていたドリーアップ、バックのカメラワークは、
本作では数カットのみである。
その技術的な選択に強い意図を感じさせる。
ハムハム
登場人物たちの心情を神のように俯瞰し、
また悪魔的に一瞬でヨリ、ヒキ、
切り替えることで、観客を不安定な状態に追いやる。
ズームによるヨリ、ヒキの使い方は、
特に大きなスクリーンで観ると映像がチープに感じられる。
スクリーンが大きければ大きいほど、
ズームアップ、ズームバックはその効果が過度に目立つ、
映画では多用されない理由のひとつだ。
(アルトマンは逆手に取る、効果的に使う事に長けている。
マネをする監督、カメラマンもたまにお見掛けするが・・・)
しかし、ハウスナーはあえてその手法を選んだ。
この選択は、ハネケやオストルンドとは違い、
観客を不安にさせ、
感情的に揺さぶることだけを狙っているのではなく、
その映像的意図を明確に伝えようとしているように思える。
ハムハム
また、本作における色彩の使い方は、
特に前作『リトル・ジョー』から一層明確に表れている。
学校や家庭の壁、床に至るまで、
さらには登場人物の衣装にも一貫した配色が施されており、
その色調は単なる視覚的な装飾にとどまらない。
ウェス・アンダーソン作品に見られるような、
色彩の単なる遊び心とは異なり、
ここではそれぞれの色が物語や登場人物の心情、
さらには社会的なメッセージを強調するために用いられている。
一方で、音楽もまたこの映画の重要な要素だ。
奇抜な弦楽器の音や、不意に鳴り響く打楽器の音が、
物語の進行に合わせて奇妙に響く。
その音の使い方には、
まるで観客の神経を逆撫でするかのような不穏さと、
変な心地よさが漂い、
観客はそのリズムに引き寄せられていく。
ハムハム
音楽と映像、色彩が一体となり、
子供たちがエクストリームな異物に引き込まれていく様子が描かれる。
これこそが、
ハウスナー監督なりの観客に現実を突きつける方法なんだろう。
映画全体を通して、統制と調整が繰り返し行われ、
その中で登場人物たちと観客自身が少しずつ「洗脳」されていく。
しかし、それが単なる精神的な支配を意味するだけではなく、
むしろ現代社会のさまざまな問題に対する洞察を提示している。
最後の晩餐のようなラストカット、
静止画のような動画では、
そのすべてが集約され、
観客は自らが「ゼロだったクラブ」のメンバーに入信する、
あるいは、
拒否する、
または、
家族が入るとどうなるんだろう・・・
そこから何を思い、
どう感じるかは、観客一人ひとりの問題として残されるのだ。
ハムハムハム
『クラブゼロ』は、ただのサスペンス映画ではない。
それは、視覚的、音響的、そして色彩的に観客を巧みに誘導し、
心理的に揺さぶりをかけることで、
現代社会の深層(or浅層)に迫る作品となっている。
モヤモヤ映画
コンセプトは分かるし、洗脳怖いなーって感じるんだが、そこに説得力ない。食べる欲求がもっとあった方が良いし、禁を破って仲間からの仕打ち、侮辱、諦め等のキャラクターいないのはおかしいし。みんないい子に直ぐに洗脳されすぎ。
撮り方も前半はズームアウト、インを多用して面白かったがけっこう何回も出てきて飽きてしまう。
ファーストカットのグルっと回るカメラは期待を持たせた感じ。
ラストカットもエンディングの長回しも最後の晩餐的な感じなのか?
もう少し面白く出来たのではないかって惜しい作品。
ベンが可哀想だった
食べ物に向き合い、小さく切って、見つめて、口に入れて、よく噛む
量はともかく、この食べ方を真似したらダイエットできるかも?
なんか変な宗教みたいで怖かった
途中で抜けた二人みたいに、何かおかしいぞと気付ける人でありたい
生徒が持ってるトートバッグのマークが自民党(統一協会)に似ていたのは偶然でしょうか
ヤバいもの見たさだとOKだけど、真面目すぎると感化されてしまいそう
2024.12.10 字幕 アップリンク京都
2023年のオーストリア&イギリス&ドイツ&フランス&デンマーク合作の映画(110分、G)
持続的な断食を提唱する教師とその教えに従う生徒を描いたブラックコメディ&スリラー映画
監督はジェシカ・ハウスナー
脚本はジェシカ・ハウスナー&ジェラルディン・バヤール
原題の『Club Zero』は、劇中で教師ノヴァクが生徒に教える団体の名前のこと
物語の舞台は、ヨーロッパのどこかの進学校(ロケ地はイギリスのオックスフォードにあるセント・キャサリンズ大学)
エリート校「The Tallent Campus」では、父母会の強い要望を受けて、栄養学の先生ノヴァク(ミア・ワシコウスカ)を招くことになった
ノヴァクは「断食茶(Fasting Tea)」などを手掛け、「意識的な食事をして、永続的な断食をする」というモットーを掲げていた
校長のドーセット(シセ・バベット・クヌッセン)はノヴァクの方針に寛容的で、彼女は7人の生徒を受け持つことになった
自制心を鍛えたいエルサ(クセニア・デブリン)、糖尿病を患うフレッド(ルーク・バーカー)、トランポリンのために脂肪を落としたいラグナ(フローレンス・ベイカー)、奨学金のために参加するベン(サミュエル・D・アンダーソン)、環境保護に関心のあるヘレン(グウェン・カラント)、原始人ダイエットに興味のあるコルビニアン(アンドレイ・ホゾック)、マインドフルネスに興味のあるジョアン(サデ・マクニコルス=トーマス)の7人は、ノヴァクとの関わりの中で、自身の中にある「意識的な食事」というものを考えるようになった
だが、意識的な食事まだしも、単一食事(Mono Diet)あたりからついていけなくなり、とうとう「断食」のゾーンに入ってくると、コルビニアンとジョアンは離脱してしまう
当初は反抗的だったベンも、母親(シセ・バベット・クヌッセン)の期待に応えるために食事を残せないという理由がわかり、母親の呪縛から逃れるように促されてしまう
彼はエルサに気があることがバレていて、エルサは彼に近づいて、ベンを取り込んでいく
生徒も協力する流れが生まれ、5人とノヴァクは強い絆で結ばれていくのである
映画は、さながらカルトの洗脳を傍で眺める感じになっていて、客観的視点だと危険な入り口というのはよくわかる
主に3つの動機からなる生徒たちは、親との関わりに悩む者、自分本位の者、対外的意識高い系に分かれている
そんな中で能動的にのめり込むのが自分本位型で、背中を押されて抵抗できないのが親との関係に悩む者となっていた
意識高い系(興味本位系)はあっさりと脱落し、もう一人はスイスに旅行に行っていたために残ることになったのだが、おそらく意図的なものになっているのだろう
エンドロールでは、残されたヘレンを中心とした「最後の晩餐」のようなショットが延々と描かれるのだが、どうやらこれは偶然の産物らしい
一応は映倫区分Gなのだが、エログロはないけど倫理的にアドバイスが必要なような気がする
とは言え、12歳前後だと意味がわからないので、16〜18歳くらいだと助言が必要になるのかな、と感じた
いずれにせよ、頭が良い人がハマってしまうカルト図解という感じの内容で、どのように人が感化されて洗脳されていくかを描いていた
SDGsを揶揄する内容になっていて、それらしい理屈が登場しつつ、自分で考えて選択したように誘導するのは上手いと思う
映画は結論ありきでキャラクターが動くので、ノヴァクと同じことをしても同じようにはならないが、このような罠にハマらないためのヒントはたくさんある
なので、自分ならどこで違和感を持てるかとか、家族の対応としてどうすれば正解なのかをシミュレーションできるので有意義な映画なのではないだろうか
ただし、後半のあるシーンは直視できない人が多いと思うので、あまり「満腹」では鑑賞しない方が良いのではないか、と感じた
生徒たちの家庭がまあまあ訳あり。そこで孤独やプレッシャーを感じてい...
生徒たちの家庭がまあまあ訳あり。そこで孤独やプレッシャーを感じているがゆえに、ノヴァクの教えを実践することで褒められ認められることで、自分の価値を形成しており、非常に危うい。裕福な家庭の子も数名おり、過剰消費を批判したり環境保護を口にしているのを見るとシラけてしまう。思想的にもう陰謀論の方向へと進み、取り返しのつかないところまでいくのもなんだかかわいそうだった。ベンのとこだけでも救われてほしかった笑 先生はなんで健康そうなの?
ここ1、2を争うくらい不快な映画だった。
「食育」の皮をかぶったカルト洗脳をめぐる風刺劇。ハーム、ハーム、ハーム、ハム!!
まー、底意地の悪い映画だよね(笑)。
個人的にはじゅうぶん楽しめたけど、
ちょっと思ってた映画とは違ったかも。
監督がミヒャエル・ハネケの弟子だって言われて
さもありなんって感じだったな。
いちおうは「食事」と「教育」の話の「ふり」をしてる。
だけど、それは象徴的な入口に過ぎない。
実際は「宗教」だったり「政治」だったり「カルト」だったりも含めた、「洗脳」や「分断」を扱った包括的な風刺が目的の映画だろう。
だから、本作で語られていることは、
ある種の「寓話」「戯画」だと思って観るべきなのは間違いない。
この映画でクッソミソにバカにされているのは、
なにも「ファスティング(断食)」だけではない。
同じくらいの見下し方で、
愛情いっぱいの食育とか、
ブルジョワ家庭の豪華な食事も
思い切りバカにされている。
要するに、食事が大事とする家族論・健康論も、粗食をよしとする精神主義も、どちらも同じくらい「ばかばかしいもの」として断罪されているわけだ。
とくにリベラル層がもてはやしそうなものが、徹底的にやり玉にあげられているので、自分が責められているような気がしてムカつくという左派のお客さんは結構いそうだが、監督がバカにしているのは、必ずしもリベラル層だけではない。
彼女の攻撃は、全方位に及んでいる。
なんにせよ、子供たちを扇動するノヴァク先生も含めて、本作のなかで「悪意をもって」動いている人が一人もいないということが、一部の観客にもやもやした想いを抱かせるのは確かだろう。
たとえば、師匠のハネケが撮った『ファニー・ゲーム』も不条理な崩壊劇だったが、あそこには絶対的な悪意の存在があった。それは観客にとっては、ある種「安心できる」要素でもある。悪い奴がいるから悪いことは起きる。それはとても理屈が通っていて、自分を棚にあげるには都合のよいありようだからだ。
あれはトランプが悪い。プーチンが悪い。自民が悪い。
そういっている「自分」は安全地帯で正義を語っていられる。
だが本作では、先生も、生徒も、親も、教師も、「良かれと思って」行動している善良な人々ばかりである。これは、正義を信じ、良かれと思って政治を語り、社会を語り、旧悪と戦っているつもりの人たちにとっては「とても都合の悪い」状況だ。
誰もが自分の正しいと信じることをやっていても、歯車が変にかみ合ってしまえば、こんなどうしようもない悲喜劇が生じてしまう。この事実を突きつけられるのは、きわめて居心地の悪いことであるに違いない。
本作では、イキったプチブルがはまって、
良かれと思っていい気になってるような、
ポリコレとか、動物愛護とか、
環境保護とか、温暖化対策とか、
おためごかしの親の愛とか、PTAとか、
クラスの自治とか、子供の自主性とか、
メディテーションとか、スピ全般とか、
日本食とか、キモノを夜着にするとか、
とにかく、すべてをこき下ろしていて、
そこは、ある意味爽快なくらいだ。
僕自身、上記のような類の「偽善」は、右も左も関係なくみんなムカつくし、不愉快だし、気に食わないし、バカじゃないだろうかと毎日思いながら生きてきた手合いなので(笑)、そのへんはむしろ非常に痛快だし、小気味いい。
僕は左派思想の一部にそこそこ共感するが、それを支持している左派の攻撃性と正義ヅラと上から目線の偉そうな物言いには耐えられない。
僕は右派思想の一部にもそこそこ共感するが、それを支持しているネット民の負け犬根性とチー牛臭さと嘲笑的姿勢に我慢がならない。
理想を語るやつがきらい。
正義を語るやつがきらい。
人を叩いて図に乗るやつがきらい。
自分の醜さを善だととらえる欺瞞がきらい。
その意味で、この監督のメンタリティは、
僕のそれとまあまあ近しい気がする。
ある意味、親近感まで覚えてしまう。
ぶっちゃけ、リベラルにせよ、保守にせよ、宗教にせよ、無宗教にせよ、スピリチュアルにせよ、ニヒリズムにせよ、何かの「イズム」を信奉している時点ですでに、人はおおいにおのずから胡散くさいわけですよ。
そこをちゃんとわかっている監督さんであることは確かだ。
― ― ― ―
この「意識的な食事法」で用いられている「手順」は、そのまま自己啓発セミナーだったり、新興宗教の勧誘だったり、政党のオルグだったりに置き換えることができるものだ。
まずは毒気のない「クラブ活動」から始めて、
友愛と精神的つながりによる絆を築き上げて、
階梯を上がっていくことで達成感を生み出す。
親兄弟の干渉を最初から教義に織り込み済みで、
それに反発し、最終的には「出家」することを促す。
ここで描かれているのは、オウムや統一教会や創価学会や共産党や幾多のスピリチュアルやトクリュウや詐欺グループの世界で、何度も何度も繰り返されてきた、洗脳と囲い込みのメカニズムである。
僕の高校の級友で、一緒の大学に行ったS君がいた。
彼は医学部に入るくらいの超優秀な男だった。
そんな彼が原理研究会に入った。統一教会の下部組織である。
仲間と聖歌を歌いながらホームへの道を歩く彼の姿が頻繁に目撃された。
彼は組織のなかで成り上がって、青年部の役職まで手に入れていた。
彼の親御さんは当然心配して、同じ大学に進んだ同級生たちにSOSを送ってきた。
われわれはS君と学生会館で会うたびに、なるべく声をかけ、旧交を温めた。
だが、信仰の話となると、彼はとてもかたくなだった。
僕が「よくそんな荒唐無稽な教義を信じられるね」といったら、
「君の口を借りて悪魔が試練を与えてくることは最初からわかっていた」と返してきた。
結局、僕たちも高校の担任も親御さんも、彼を脱会させることはできなかった。
彼はその後、いちおうちゃんと医者になって、今でも地方病院で働いている。
ただし、この話には恐ろしい落ちがついている。
あれだけS君を脱会させようとしていた親御さんが結局どうなったか。
S君の親御さんは、最終的に統一教会に入信したのである。
僕はこの映画を観ながら、ずっとS君のことを思い出していた。
S君が友達から、家庭から、
そして、「常識」から切り離されていく過程が、まさに同じだったからだ。
S君は元気にしているだろうか?
一緒に修学旅行に行ったのを覚えているだろうか?
彼に借りた『めぞん一刻』で、僕の人生が変わったことをどう思ってくれているだろうか?
― ― ― ―
この映画を観ていて、思い出した映画がある。
『ピクニック at ハンギング・ロック』。
1975年にまだ若いころのピーター・ウィアーが撮った、不条理設定のカルト・ムーヴィーだ。
ご覧になった人なら、両者にはいくつかの共通点があることがご理解いただけるだろう。
高校生くらいの年齢の子供たち。
寄宿舎付きの英国式の私立学校。
ワンマンで仕切っている女校長。
思春期性の高さと物語の象徴性。
ピュリティとイノセンスの暴走。
「登山」と「食事」の性的寓意。
そして、女性教師と複数名の生徒たちが「本人たちの意思で高みへと昇って行った」結果として、最後には「ひとまとめに神隠しに遭って居なくなる」という「ほぼ同じ結末」が待ち受けている(『ピクニック~』では前半のイベントだが)。
そういえば、途中まで仲間に追随していたのに、離脱して助かることになる「眼鏡っ娘」の存在も共通している。
パンフで、この映画の出発点は「ハーメルンの笛吹男」だとあったが(なるほど)、『ピクニック~』についての言及はない(弱っていく子供たちのメイクのヒントを、黒澤明の『どですかでん』から得たという話は出てくる)。
でも、思春期の子供たちの純粋さゆえの結束と暴走、親世代への反抗と自由への逃走といった部分では、監督は間違いなく『ピクニック at ハンギング・ロック』を意識して作っていると思う。
― ― ― ―
最初に、面白かったけど、思っていた映画とはちょっと違った、と書いた。
何が違ったかというと、おもに前半の展開にまったくリアリティを感じなかったという部分が大きい。後半のカルト化と滑稽な末路についてはほぼ期待どおりだっただけに、この辺はとてももったいなかった感じがする。
とにかく、ノヴァク先生が簡単に受け入れられすぎ。
ここまであからさまに「おかしなことをいっている」先生が、ほとんど無抵抗で学校、親、子供に受容され、頼りにされてくことなんてあるのかな?
いくら「寓話」であり「戯画」であるといっても、さすがにうまく行き過ぎではないか。もう少し子供たちからの混ぜっ返しや、展開上の波乱があってもよさそうなものだが……。
「小食がよい」「粗食がよい」というのはわかる。
むしろ、東洋人のわれわれには受け入れやすい思想だろう。
お坊さんとか、精進料理とか、カスミを食う仙人とか。
だが、そこから一足飛びに「食べないのがよい」へは、さすがに進めないのでは??
だって、ふつうはもう少し葛藤や疑念が生じると思うんだよね。
「食べないと死ぬ」って原理原則を否定するのって、かなり難しいような……。
そもそも、この先生は「何を食べて」生活しているのか??
本当にファスティング・ティーだけを飲んで生きているのか?
だとすれば、なぜ先生の見た目は健康そうで痩せていないのか?
意思さえあれば、本当に食事をとらないでも生きられる「世界観」の映画なのか?
「クラブゼロ」は作中世界で実在している組織なのか?
出された食物を食べずに捨てるのは、むしろ「エコ」の対極ではないのか?
親が食事をつくる「前」に、食べないって言わないといけないのでは?
さすがに糖尿病管理に失敗して倒れたら、親はクラスから離脱させるのでは?
……など、いろいろと疑念はつきない。
観客サイドから見てかなり気になる世界観のゆがみや、ノヴァク先生の異常性を放置したまま、ただただ淡々と子供たちの掌握と現実からの逸脱が進んでいくので、前半はかなり「こんな作りでええんかいな?」との思いが強かった。
そのうち、人がゲロ食べだしたり、犬がゲロ食べだしたりと、いろいろ面白いことになったので、どうでもよくなったけど(笑)。
もう少し前半で「ドラマらしいドラマ」が用意できていたら、ここまで単純に「冷笑的」なだけの突き放した風刺話にはならなかったし、単に底意地の悪い斜に構えただけの映画では終わらなかった気がするんだよね。
― ― ― ―
●冒頭の天井付近から見下ろす視点と、斜めに切れた梁の不安定さ、画面右端から入り込んでくるキャラなど、「監視カメラ」感のある窃視的カメラワークで、「ただものじゃない」感がよく出てる。
●黄色と青と赤の三原色を意識的に用いたカラリングがすばらしい。
●「ハーム」「ハーム」「ハーム」「ハム!」の、最後の「ハム!」を思いついたのが天才的(笑)。
●ミア・ワシコウスカは正面から見据える顔もいいんだが、上半身のスタイルの妙な「生々しさ」が役によく合っている。
●エルサ役の少女(素人さんらしい)がエマ・ストーンっぽい。
●バレエやってる子が踊っている「ピーターと狼」は知ってたが、ピアノリサイタルでエルサが弾く曲と、オペラで使われている曲はまったく知らない曲だった。ホイットニーの「I Wanna Dance with Somebody」が使われていたが、彼女も何度も「激ヤセ」でニュースになってた記憶があるよね。
●ラストは「最後の晩餐」のパロディ。眼鏡っ娘(素人さんらしい)の最後のセリフの言い方と顔つきがすばらしい。
あと、一見、静止画エンドだと思ったら、みんなずっと微妙に動いてるのね。パゾリーニやグリーナウェイもやっていた「タブロー・ヴィヴァン(活人画=人を用いて舞台上で絵画を再現する)」ってやつですね。
にしても、何があったかホントに知りたいのなら、まずは途中離脱した黒人の少女と白人の少年を呼びなさいよ(笑)。洗脳されかけた過程とついていけなかった部分を知るには最適だと思うんだけど。
この映画で一番イキイキ演技合戦してたのは、ダメPTA軍団かもしれないなあ。
カルト宗教の方程式と同じ。
世間でも評価の高い栄養学の教師による「最新の健康法」を学ぶ生徒たち。
その教えは次第にエスカレートしていき、生徒たちは心酔していく。
その行き着く先は?
学校の教室や制服が何ともポップなデザイン。
なんと劇場売店でも買える、ライトグリーンの制服ポロシャツが画面に実に映える。
登場する家はどこも白をベースにしたシンプルなデザイン。
いかにも裕福な家庭ばかり。
そこで現代に語られるのは、昔なら伝統ある名門高校を舞台にした、怪しげな信仰で生徒たちを惑わせる物語と変わらない。
洗脳される生徒たちは、皆、真面目で意識の高い子ばかり、という図式はカルト宗教と全く同じ。
その一人のダンサー志望の生徒は、親が仕事ともう一人の子優先で、彼をほったらかし。
その子と教師がプライベートでオペラ(演劇?)に行ってしまったことが問題になった。
が、それが無ければ、表沙汰にならないままで、そのまま最後まで行っていたかもしれない。
法律や学校の規則に触れないまま、上手く進められていたら止める理由がなくなっていた。
まあ、結局、未成年者が親に無断でクラブゼロに行ってしまえば”違法”になるんだろうが。
自分たちも断食すれば行方が分かるのでは?と言い出す滑稽さ。
エンドクレジットの背景は、最初ストップモーションかと思ったら、少しずつ動いていて、途方に暮れる親たちを映し続けていた。
本作では、ここの長回しのカットが一番面白い。
茶葉の栽培も農家です。
名門校の生徒たちが赴任してきた栄養学の教師に洗脳され食べなくなる話。
自制心がーとか、健康的にーとか、環境がーとか、様々な理由から教師の宣う意識的な食事がなんちゃらという理論に生徒たちが洗脳されて行くストーリー…断食茶に秘密がなければあり得ないお話しだけどねw
何のデータも根拠も示されないのに洗脳され、どんどん視野が狭くなるアホな生徒たちと心配する家族達をみせていくけれど、先生あんたクラブ・ゼロのなんなのさw
そして何がしたいのさ???
風刺であったり問題提起であったりを孕んだブラックユーモアなのはわかるけれど、これだけの尺を使ってこれがオチ?という何の捻りもないヌメ〜ッとした終わり方だし、エンドロールも思わせぶりなだけだし、何だコレ?という感じで締まらなかった。
CLUB ZERO(映画の記憶2024/12/8)
洗脳ホラー降臨。
グロとか精神攻撃型的なホラーではありません。
子を持つ親にとっては脅威に感じる内容かな。普通にちゃんとした親子関係気づけてればいいだけなんだが、、、
やり口が怪しい通販、新興宗教の勧誘、嘘臭い投資話と一緒w
心の隙間を狙うタイミングを良く心得てらっしゃる。ある意味気持ち悪いホラーですわ。
最初9月公開予定(館内予告は6月くらいからやってた記憶)だったのが後ろ倒しになって今のタイミングになったのはなんとなく理解。映倫さん悩んだよねwカットシーンも多そうだからディレクターズカット出たら観てみたいな。
間接タイプの映画だから万人受けはしないでしょう。個人的評価から0.5〜1低めが一般的な評価かな?
(個人的評価6点/10点中)
クラブゼロは間違っていると言い切れない恐怖を描く秀作
舞台は私立のエリート養成高校。
少人数を対象のクラス編成で、講義内容は「意識的食事法(Conscious eating)」。
食事は「意識的」に行い、今食べているものに意識を集中し、食べ過ぎないように、ということから講義が始まります。
ヴィパッサナー瞑想を連想させます。
・少食で身体は活性化
↓
・過食は地球環境の破壊
↓
・プラーナ(光)からエネルギーを取り入れ、実は人は食事なしに生きていける。
↓
あなたたちは、来たるべき人類の危機に際して救われる極少人数のエリートである。
と話は進みます。
食事をしなくても生きていけるはずはないのですが、その当たり前のことに、
・古い価値観を捨てられない親や社会から決別しなくてはならない。
・あなたはあなた自身でなくてはならない。
・親の期待というプレッシャーのままに従って生きてはならない。
となっていきます。
異変に気づいた親たちは何とか子供たちを引き戻そうとしますが、時すでに遅し。
「あなたのことを思ってのことなのよ」
これは、いまや、親が子を虐待するときの言葉に過ぎません。
親は自分のエゴを子に投影してはならない…。
かくして本来説明する必要のない当たり前のことから子供たちは引き剥がされていきます。
教師は全く悪意がなく本気で子供たちを正しく導こうとしているのです。
この映画の恐ろしいところは、子どもたちは、最後に本当にどこか別の世界に旅立ってしまい、そのドグマが間違いであることが明示されないことです。
食べないで生きていける、は、もしかして本当かも…という余韻を残します。
子供たちは特に瘦せることなく、メークで顔色は悪く描かれるが、トランポリンやダンス、数学のパフォーマンスはむしろ本当に上がっているように見えます。
クラブゼロの主張は正しいのかも、を連想させる伏線のようで私にはかえって不気味に感じられました。
最後に「最後の晩餐」を彷彿させるシーンで映画は終わります。
食べることはもはや「最後」になるのだというメタファーでしょうが、
キリスト教は、このクラブゼロとは違うんでしょうね。
という問いを含んでいるとしたら強烈です。
教師は政治的に正しい言葉のみを使い、リベラルは彼女の言葉を否定しきれない。
子供たちは資本主義の成功者としてオリエンタルの雰囲気に吞まれながら、美しさと豊かさの中で薄く表層的な膜から逃れるように旅立ってしまいます。
リベラルは単一の思想で世界を覆い尽くそうとする営為です。(更新されるとは言え)
言わなくてもわかる、はもはや通じない。
もちろんこの映画は洗脳の過程を描いています。
リベラルを自称する人。そして宗教家には必見の映画だと思います。
多様な解釈が可能な”問題作”
とにかく不思議な作品でした。
主人公のミス・ノヴァク(ミア・ワシコウスカ)は、栄養学の教師。優秀ではあるものの、いわゆる”意識高い系”の非常に個性的な先生で、”小食”こそがあらゆる束縛から自由になる鍵だと説き、生徒たちもそれに感化されていく。彼女に影響を受けた生徒たちは、いずれも良いとこのお坊ちゃんお嬢ちゃんであり、傍から見れば何不自由なく人生を謳歌出来る羨ましいご身分でありながら、彼らの内心は全く満たされておらず、だからこそミス・ノヴァクの半ば新興宗教的な怪しげな説教に心が傾いていきました。やがて小食を通り越して食べないことこそ最上の手段であると言い始め、それを実践する集団である”クラブゼロ”に一部の生徒たちを引き込みました。
お話としては現実にはあり得ないファンタジーな要素が濃いのですが、現代世界の病巣をブラックユーモア的な感覚で抉り出しているようにも読み取れる点で中々面白い作品でした。いろいろな見方は出来ると思いますが、ミス・ノヴァクの主張は世界的な南北問題に対する抗議という意味で、正しい主張と考えられます。先進国では飽食で、食べ物を捨てているのに、後進国では貧困と飢餓が問題になっているのは厳然たる事実であり、”小食”は個人で出来る格差解消のムーブメントであると捉えることは出来るでしょう。ただそれを原理的に深化させていき、”絶食”こそが最上ということになるのは、社会から隔絶した暴挙に出ることになる各種過激派の辿った軌跡と軌を一にするものと言えるかと思います。
また、一方的な意見を盲信してしまう生徒たちの姿は、”オールドメディア”を批判しつつ、”ネットの真実”を盲信する一部ネットユーザーの姿にも重なりました。
以上、ミス・ノヴァクや生徒たちは、色々なもののメタファーになっているように捉えることが出来るところが、本作の魅力であったように思われました。
ただ、嘔吐物が丸写しになり、それを再度食べるシーンは、どんなホラーよりも身の毛もよだつシーンでした。あれは流石に引きましたけど、あのグロテスクな姿こそ、現代世界を最も象徴するシーンであり、監督が最も言いたかったことなのかなとも思ったところでした。
そんな訳で、色々と解釈をすることで楽しめた本作の評価は★3.4とします。
24-142
少なからず人間は悩みや不安を抱えて生きている。心の強い人は前向きに生きられるが、弱い人や若者は何かを拠り所としようとする。
信頼できるか、善き者なのかは、
いつしか頼りた存在に変わり、
妄信的に縋りついていく。
カルト的な存在を見抜く力がないものが不幸になる。その家族も。
「先生」という名のカルト宗教
新しく赴任してきた栄養学の教師が生徒たちに“意識的な食事”を説いていくが…。
意識高い系のその先まで行っちゃったような内容です。「ハム〜ハム〜♩」にすごいパワーがあるのか?
食べ物に関しては宗教だったり、思考だったり色々考え方はありますが、少食だと社会の束縛からも解放される、という考え方はもはや別次元…。そして次第に顔が青白くなっていく生徒たち。
学校のランチを食べずに捨てるのは環境に優しくないのでは(゚o゚;;
作品は色使いがキレイで、先生の単色のシャツも毎度可愛いかったです。
「食事」という身近な題材だったので、楽しめました。断食茶は飲んでみたい☕️
思想統制の怖さを思い知らされました。
ハマってしまう人と抜け出した人。その違いは何だったのか。
宗教ではなく食べる、という微妙なテーマによることも印象を強めています。
肥大化した食品産業に踊らされているのではないかと、健康に疑問を感じている人々につけこんでいるのか?彼らのほうが真実なのか?
自分は大丈夫という過信に陥らないために、このようなテーマには繰り返し触れてゆきたいです。
僅か2時間の鑑賞ですら何か正しいのか足元が揺らぐ恐怖を感じました。
食べれる事は幸せです
絶食を勧めるカルト教師と賛同してどんどん洗脳される生徒のお話し。
個人的に人間は食べて生きていく。
食べれる事は幸せだと思います。
だから全く共感できない2時間でした。
観客を飽きさせない為なのか、音楽が印象に残りました。
だけど、それだけしか残らない映画でした。
オートファジー!?
名門校に赴任してきた栄養学教師ノヴァクと“食”ついて学ぶ学生達の話。
教師ノヴァクの言う「意識的な食事」を意識し、学食、自宅食と食事制限を始めた生徒達だったが…。
知人女性から教えてもらいオートファジーな生活を普段から送る私でもあるのですが、食について、食とはと気になるワードで観たものの…、食事制限から始まり、食べたふりの絶食、何か生徒達の様子おかしくなるし、顔色悪くなるし、宗教めいてくしで何か眠い。
余談ですがオートファジーな生活を送り約半年、1日1.5食、多くて2食、リアル身長180、半年前の体重73でしたが今現在量ったら飯食った直後、服着てるのに67キロまで落ちてた!これは成功だ!…と個人的に思ってる!(笑)
あの先生は、本当に絶食してる??
上流階級の子供たちが多く入学する学校に、ネットで有名な絶食推進する人を、栄養学の先生に迎え、そして生徒達に食事に対する意識向上させる為、過激なマインドを徐々に浸透させていく作品でした。
身内との遮断・閉鎖的な空間・個人毎で抱える悩み、集団圧力から、徐々に否定的だった生徒たちも傾倒していく表現は、正にカルト教団が形成されていく構造と同じで面白いと思いました!👍
特に面白いと思った箇所は、絶食思想を特に崇拝している生徒の顔周りが絶食により黄疸化している中、絶食を推進していた先生は最初から黄疸していないのが印象的でした。
これは教団によって禁忌行為がある中、そのトップは禁忌行為を平然と行なっている事を暗示しているのかなと思います。
この映画で先生は、食べる事で食品産業が潤ってしまうと非難しておりました。
もし私がこの授業を受けていたら、先生に質問したい事が一つあります。
「じゃあ何故、先生は服を着ているの?」
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