「「ウェス・アンダーソン流「マーズ・アタック!」リメイク映画 」」アステロイド・シティ jin-inuさんの映画レビュー(感想・評価)
「ウェス・アンダーソン流「マーズ・アタック!」リメイク映画 」
本作のウェス・アンダーソン監督は映画にとってストーリーはもう二の次、三の次!と考えてるみたいです…。本作に起承転結やドンパチシーンはありません。ストーリーを追うだけだと、なんにも起こらないので実に退屈な映画です。ではストーリー以外でどうやって観客を楽しませるか?そこにこの映画の仕掛けが詰まっています。
①設定の奇妙さと演劇やフィクションへの愛
まず本作は、現代演劇の制作過程を追うドキュメンタリーのテレビ番組という設定で、テレビ司会者が劇の脚本家を紹介するところから始まります。脚本家は俳優や制作陣に向けて書き上げた脚本の設定を説明します。その脚本を映像化したものがこの映画、という凝った設定です。TV→舞台劇→映画という3重の入れ子構造のメタフィクションという構造です。しかもTV司会者や俳優はこの3重構造を行ったり来たりします。
脚本家(エドワード・ノートン)と主役俳優(ジェイソン・シュワルツマン)は芸術家同士の相互理解とリスペクトを通り越して男同士の愛を交わしてしまいます。
オーディションに合格した舞台俳優たちは一同に集められコーチから洗脳のようなセッションを受けます。そういう演劇制作の舞台裏もチラ見させます。「登場人物の皆が人生で最も深く心地よい眠りにそっと誘われる」シーンを挿れたいと俳優たちに語る脚本家。眠りとは一人ひとりが現実を離れ、それぞれの夢を見るということであり、その間は脚本からも演出からも完全に自由な時間になるということです。俳優たちはてんでんばらばらに眠りのシーンを演じ始めます。さらに全員で“You can’t wake up if you don’t fall asleep”というセリフを大声で連呼。まるで俳優組合のデモのスローガンを聞いているみたい。「眠りに落ちなければ目を覚ますことはできない」というこのセリフはもちろん、睡眠と覚醒のバランスが大事だと言っています。睡眠だけでもダメだし、覚醒だけでもダメ。睡眠とは【夢、フィクション、演劇、映画、芸術、物語、心の栄養】。覚醒とは【現実、リアルワールド、政治、経済、軍事、コロナ、金銭】。コロナ禍の間、人は夢を見ることを忘れていたのではないか。現実ばかりにかまけて、フィクションをおろそかにしていたのではないか。そういう俳優たちからの告発と怨嗟の声に聞こえてきました。
脚本のテーマが理解できなくて自分の演技に悩んだ映画の主人公は途中でセットを抜け出し、舞台演劇の演出家(エイドリアン・ブロディ)に会いに行ってしまいます。そしてそれまで写真でしか登場しなかった死に別れた妻に再会します。彼女は今は別の舞台に出演中の女優です。
普通の映画監督は、「作り物をいかに現実っぽく見せるか」に一生懸命でした。現実が主でフィクションが従。アンダーソン監督はつねに「作り物であること」を主張してきます。現実っぽく見せようなんてさらさら思っておりません。創造主アンダーソン監督の脳内妄想の中で俳優たちも観客も右往左往することになります。
②隔絶された砂漠の町
外界と隔絶されたかのような砂漠の町が舞台です。そこにはダイナーとモーテルとガソリンスタンドが1件ずつ、あとは天文学研究所しかありません。外界と繋がれるはずの高速道路は永遠に工事中です。登場人物たちはこのなにもない町に集められ、外部との接触を絶たれ、しばらく共同生活を強いられます。まるで映画の撮影のスタッフたちみたいに。
③美術と色彩
いつも晴れた青い空、植物のない砂漠、そこにポップな色彩あふれる大道具と衣装が映えます。
④音楽
50年代のノスタルジーあふれる音楽は気楽さ満点。「マーズ・アタック」オマージュの「Indian Love Call」が流れるのも楽しい!この町に取り残された5人のジャグバンド(白人4名、黒人1名)たちの演奏も古すぎて逆に新鮮!
⑤キャスト
戦場カメラマンという設定の本作の主役がもしブラッド・ピットだったらどうなったでしょうか。ただの保守的なノスタルジー映画でしかなくなります。「古き良きアメリカ」という牧歌的な設定の映画の主役にジェイソン・シュワルツマンとジェイク・ライアンの二人を据えること。とまどいと言うか含羞というか、常にどうして僕はここにいるの?と言いたげな表情で屈託を抱えた風情の二人。さらに、舞台演出家役のエイドリアン・ブロディ。彼らの表情と演技は異化効果満点!
⑥間の悪さと気まずさ
吹き出すような笑いはありませんが、随所に「間の悪さと気まずさ」を強調する演出が散りばめられており、映画を退屈から救っています。死者の遺灰を雑に扱うギャグはコーエン兄弟オマージュでしょうか。主人公の男は義父(トム・ハンクス)と気まずい関係にあります。
⑦風変わりな天才少年少女
発明コンクール受賞者の5人(男児3、女児2)の天才中学生たち。思春期真っ只中の微妙な年頃です。彼らはスマホもゲームも持ちません。ではどうやって遊ぶか。車座になって有名人の名前を付け足していく記憶ゲーム。牧歌的というかなんというか。でも天才なのでゲームは延々と終わりません。
常に無謀なチャレンジを繰り返す天才児の男の子。父になぜそんな無茶をするのか問われた彼は、「チャレンジしないと自分の存在を認めてもらえないから」と答えます。「自己の存在への根本的は懐疑と不安」という哲学的なテーマがさらりと語られます。主役父子のどこか不安げな表情にもそのテーマがうかがえます。この映画がただのノスタルジー映画でないのは、このテーマと彼らの演技があるからだと思います。
⑧収拾つかない子どもたち
主役のオーギー・スティーンベックには「異能の天才」と呼ばれる長男のウッドロウの他に幼い3人の娘たちがいます。お姫様と呼ばれるより魔女やミイラと呼ばれたいみたいです。社会科見学のバス旅行にやって来たらしい10人の小学生(男児6名、女児4名、全員白人で黒人もヒスパニックもいない)も出てきます。変な言動を繰り広げ映画をかき回します。天才児たちも軍による情報統制を軽々と破って情報を漏洩させます。大人の思惑になど全く従いません。最高裁で勝つまで戦う覚悟はアッパレです。
⑨Boys meet girls
主役の父子はそれぞれ、異性と出会います。有名映画女優の設定の女性はDVやアルコールの問題を抱えているようですが詳細は語られません。小学生の引率の若い女性の先生はバンドマンのカウボーイと出会います。未婚少子化の時代になんとも微笑ましいシーンです。
⑩脱力感満載の宇宙人とUFO
宇宙人とUFOの造形にはなんのやる気も感じられません。凝りに凝ったその他の大道具や美術との対比が鮮やかです。
⑪ノスタルジーと能天気さ
映画の設定は1955年ですが、1969年生まれのウェス・アンダーソン監督にとって、自分が生まれるはるか以前の1955年という年、あるいはその頃の風俗文化はどう見えるのでしょうか。自分の両親が青春を過ごしたはずのgood old daysなのでしょう。
遊んでるみたいな警察のカーチェイス、人ごとみたいな原爆実験のキノコ雲、ほっそい無害そうな宇宙人、遊んでるみたいな軍隊…。この映画には人種の分断やポリコレや幼児性愛者やドラッグやAIや経済格差や米中対立など、現実のアメリカを覆う深刻な話題は一切出てきません。現実社会の汚さダメさへの強烈なダメ出し、それがこの映画の能天気さの理由なのではないでしょうか。もしかしたら選択しだいでは、こんなポップな世界がずっと続く未来があったのではないでしょうか。
本作では飛来した宇宙人に対して何をするかというと、写真を撮るだけ。撃鉄は起こしますが発砲はしません。「未来や未知のものに対する過剰な不安と安易な暴力が今の暗い世界を作ったんじゃないの?」という監督のメッセージではないでしょうか。1996年に公開されたマーズ・アタックは地球人たち(特に大人や権力者)の間抜けなパニックぶりを描いた大傑作でした。その裏返しのような本作の地球人たち(特に子どもたち)は賢く冷静。彼らはちょっと戸惑ったような顔をするだけで、クールにシニカルに母親の死や宇宙人という異常な現実を受け入れます。「お母さんはお星さまになりました」とか「時がすべてを癒す」とか「神様」とかそんなちゃちな大人の嘘は彼らに通用しません。彼らは科学の力で真実を探求し新しいテクノロジーを開発します。それを悪用するのは親たちです。
本作にサブタイトルを付けるとすれば「まったく何も起こらない宇宙人飛来!非パニック映画!」。「Indian Love Call」の挿入でも感じましたが、本作はウェス・アンダーソン流「マーズ・アタック!」リメイク映画です。ティム・バートンのこと大好きなんでしょうね、きっと。