「侍の「見栄」町人の「見栄」・・・映画「碁盤斬り(柳田格之進異聞)」碁盤斬り 椿六十郎さんの映画レビュー(感想・評価)
侍の「見栄」町人の「見栄」・・・映画「碁盤斬り(柳田格之進異聞)
ポスターは見ていたが、映画の「碁盤斬り」が落語の「柳田格之進」である事を知っていたら劇場に行っていたと思う。迂闊であった。確かに落語「柳田格之進」は別名「碁盤割(ごばんわり)」とも言われていた。
落語の世界では、親の借金の為に娘が花街に「身を沈める」噺は良くある。一番有名な噺は「文七元結(もっとい)」である。この噺は、博打で身を持ち崩して借金まみれの亭主(長兵衛)のために諍いの絶えない家の事を思い、娘が郭に自ら身を売ると云う話し・・・。その娘の思いに一旦は改心した長兵衛であったが、借りた50両を仕事でしくじり大川に身を投げようとする若者(文七)に事もあろうにくれてやる。まあ、その後は「何だかんだ」で手代の無くした金は出てくるのだが、長兵衛は「一旦出した金は、引っ込めるわけには行かない!」と言いだし受け取ろうとしない。しかし、また「何だかんだ」有って、最後には文七と娘が所帯を持つことになると言う、何とも「ご都合主義の極み」とも言える「大団円」となる。こんな噺・・・、私は好きか?嫌いか?と問われれば、落語の中でも大好きな噺だと答える。特に、立川談春の「文七元結」は秀逸だ。噺が進んで行くと、このどうしようも無い亭主長兵衛が可笑しくも愛おしく思えてくる。そう思わせるのが話し手の腕だろう。そこら辺は、歌舞伎では亡くなった勘三郎さんが素晴らしかった。現在の感覚では考えられないが、これが江戸っ子の「見栄」なのであろう。見栄と言うと、今は「見栄っ張り」といった使われ方をするが、江戸っ子の持つ「粋」と云う概念とは表裏一体のものが「見栄」だと思う。
一方、落語「柳田格之進」(この噺は講談が原形で歌舞伎にもなっている)は、浪人の柳田格之進が、大店(おおだな)の主人と碁を切っ掛けに知り合うのだが、有るとき対局中にその部屋に有ったはずの50両が無くなる。疑いを掛けられた格之進は、商人に嫌疑を掛けられた事を「恥」と思い、一旦は切腹しようとする。しかし、ここでも娘が花街に身を沈めて50両を用立てる。更に、ここでも金は出て来て、「金が出て来たら番頭と主人の首をもらう」と云う約束が有ったために、格之進は両者の首を切ろうとする。しかし、主人と番頭は、互いに自分の首は取られてももう一方は許してくれと懇願する。このやり取りに感心した格之進は、こんなモノが有るからこんなことが起こったんだとばかりに碁盤を割るワケだ。噺家によっては「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(しょうぎ=将棋・・・碁ではないが?まあ良いと思う)になった」というオチを付けたりするが、終わりかたは色々ある様だ。ここでは、格之進の侍としての「恥」の概念がやはり「見栄」と表裏一体を成している。侍にしても江戸っ子にしても、見栄のために娘の身売りが当然のように進んで行く様は、現代人にはやっぱり全く理解できないが、それが時代というものかも知れない。
さて映画だ。監督は白石和彌だ。ならば、商家の主人を演じる國村隼は、「キル・ビル」の時のように首を飛ばされるのか?と思ったら、そうでは無く落語のように切られるのは碁盤だけだった。白石監督としては初めての時代劇と言う事だが、思いのほか綺麗な絵造りには感心させられた。特に、大門と夜の吉原や格之進が「股旅」姿で歩く中山道のススキの原などは、豚小屋をリンチのシーンに選ぶ様な監督とは思えない美しい場面で、つくづく映画監督って凄いなーと思わせる。ストーリーは落語の「柳田格之進」の通りに進んで行くが、格之進の仇討ちという「異聞」が加わり少し膨らませている。まあ、2時間に及ぶ映画に仕立てるには落語のエピソードだけでは足りないのでこれは当然で有ろう。また、金に汚い豪商の主人・萬屋源兵衛が、格之進と碁を打って行くうちにその清廉な「打ち筋」に影響されて商売への向かい方や自身の性格まで変わって行く様は、見ていて気持ちの良い思いがした。俳優陣は、先ず主役の草彅剛が達者で有った。また、ワキでは、國村隼は勿論、郭の女将お庚役の小泉今日子が良かった。
この噺・・・、映画でここまで描けるなら歌舞伎にも!と思えてくる。差し詰め格之進を団十郎、源兵衛を彌十郎、娘のお絹を團子・・・、なんて配役を考えてしまう。講談から落語、落語から映画や芝居と云う流れは間違いが無い。
