ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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素晴らしい。アメリカ現代文学作品の文脈
Tennessee WilliamsとJohn Steinbeckのテーマを現代の文脈に巧みに織り込んだ作品といえる。Williamsの描くキャラクターたちは、しばしば精神的に崩壊し、孤独や人間関係の歪みによって破滅する。アーサーの内面の葛藤や、社会からの疎外によって狂気に陥る姿は、Williamsの『A Streetcar Named Desire』のBlanche DuBoisや『The Glass Menagerie』のAmanda Wingfieldのようなキャラクターたちの精神的脆さを想起させる。特に、前作アーサーの幻想的な人間関係(隣人との妄想的な恋愛)や母親との複雑な関係は、Williamsの作品に登場する家庭内の緊張や壊れた関係性と強くリンクしている。
一方で、Steinbeckが描くアメリカ社会の厳しさと、貧困や不平等が個人の精神に与える圧力も、アーサーの物語に色濃く反映されている。『The Grapes of Wrath』や『Of Mice and Men』では、Steinbeckのキャラクターたちは、社会的な構造や経済的困難に立ち向かう中で、次第に追い詰められ、希望を失っていく。アーサーもまた、経済的困窮や精神的な問題を抱えながら、無関心な都市社会に取り残され、やがて暴力的な形でその怒りと絶望を爆発させる。この点で、Steinbeckが描くような社会的無力感と、アーサーの行動は強く結びついている。
Tennessee Williamsの描く内面的な崩壊とJohn Steinbeckが追求した社会的テーマの双方を取り込み、現代の社会問題や個人の精神的な崩壊を深く掘り下げた前作と今作。アーサー・フレックが狂気に陥っていく過程は、Williamsの繊細な人間描写とSteinbeckの社会批判の融合と言える。孤独、疎外、そして不平等に苦しむ現代の人間像を鮮烈に描き出している。
存在と死
現実への影響も含め前作へのケリ付けに来たぞ。
日本でも有ったよね、電車内でジョーカー事件とか、安倍晋三銃撃とか。ドナルドトランプのQアノンもそれに見えたり。
あまりに話題の問題作になってしまっての事か今作ジョーカーが法で裁かれる映画。
俺も当時、ほとんど話もした事無いような職場の先輩がジョーカー見た。とか聞いて、うわ!「あのジョーカーは俺らですよね?」って社の飲み会で珍しく語っちゃったもん、横席の上司気にせずにw
てまあ、前作のホアキンジョーカーには心重ねたモンですよ。
で、今作そのホアキンジョーカーが裁かれる、責任能力が有るのか?精神異常者なのか?
そして彼は罪をただの犯罪と認め、情け無く振る舞い周囲を夢から醒めさせ大きく落胆させてしまう。
ジョーカーは俺たちのカリスマじゃ無かったのか?
女にも捨てられ全て無くした彼はボロ雑巾のようだった、あの長い階段で。
そして最後にはしょうもないチンピラに刺されてしまう。
優作の探偵物語最終回みたいに。
ジョーカーはあそこで死んだのかも知れない、終わったのかも知れない。
じゃジョーカーは居なくなるの?いやジョーカーは死なないだろう、ホアキンジョーカーが殺されたとしても。
何故ならジョーカーは僕達そのものの意思で有り、僕達がジョーカーの存在を望むから。
そもそもバットマンのライバルにして、そちらに行ってしまっただけのバットマンだぞ、消える訳が無い。
たぶん100年後もジョーカーは語られて居るだろうな、僕達が望む限り存在し続けるんだ。
例えば知ってる?ミッキーマウスがデビューしたのほぼ100年前なんだよね、未だ僕等はミッキーマウスを知って居る、愛している。
キャラクターは死なないんだよ、例え生みの親が死んでも、あのダミ声が聞けなくなっても死なないんだ。
僕達が存在を求める限り、そこに居続けるんだ。
ドラえもんみたいに、優作みたいに。
賛否両論わかる!
レディ・ガガは歌要員でキャスティングされたのか、さすがホアキンの怪演に負けない歌声。アーサーの妄想世界など歌の場面が多かったけど、まあアーサーやハーレーの気持ちの表現として良かったかな。
と思いつつ観ていたら、衝撃のどんでん返し。アーサーはジョーカーじゃないんかい!ホアキンがつくったジョーカーの新たな深掘りイメージがひっくり返ったよ笑。アーサーを殺したサイコパスが偽?ジョーカーになるんだよね(口角をナイフで切ってたし)。まあ、それはそれで、イカれたジョーカーといえばジョーカーである。つまり今シリーズは結局はアーサーのストーリーだったんだな。そう考えるとホアキンは、悲しいアーサーを上手く演じたと思う。
サブタイトル詐欺
フォリ・ア・ドゥとは、「感応精神病」のこと。このことを知って、私はジョーカーとハーレイが一緒に暴れまわる作品を期待した。ジョーカーの妄想がハーレイに伝染して、ゴッサムを混乱に陥れる的な。だが実際にはそんなことはなかった。期待とは違う結末が描かれたので、あまり評価はできない。海外で酷評なのも頷けるなと思った。
本作の大まかな流れは、①前作で収監されたアーサーの様子→②ハーレイとの出会い→③裁判→④裁判所からの脱出→⑤アーサー死亡である。ジョーカーは暴れません。
①から③で、自分はアーサーかジョーカーか揺れ動きながら妄想が伝染したハーレイのおかげでジョーカーだと認めればよかったものを、最終的に出した答えは「自分はジョーカーではない」という答え。そもそもこの答えに至った理由もよく分からなかった。直前に監獄仲間が看守に殺されてしまう展開があったので、前作と同様に虐げた者への復讐をするんだなと思ったのでそう強く感じた。そうじゃないだろ。今こそジョーカーになるべきだと。
④は実に雑な展開だった。裁判所が突如爆破され、アーサーは脱出できたが、爆破された理由が「どこかの誰かが仕掛けた爆弾のおかげ」。それはないだろうと。ハーレイが適当に爆弾魔を抱きかかえて指示したとかの方がまだマシだった。
で、最後の⑤。監獄でジョーカーに憧れてたらしい自称サイコパスが失望して刺殺する展開。死ぬ直前にアーサーはミュージカルで「自分の思想を子供に継がせたかった」と吐露したが、え?そうなの?としか思えなかった。そのサイコパスが次のジョーカーになるのを匂わせてたらまだ許せたけど、ぽっと出のキャラにいきなり殺されるのは実に残念だった。演技が良かっただけに本当に残念。
アーサーの物語
冒頭の子どもに見せられないアニメ
ジョーカーらしく私は結構好きです
傘とかピエロメイクの配色が綺麗なのとても好きです
アーサーは相変わらず最後まで魅力的ですね
とても悲しくて
凡人は悲惨な結末を迎えるのですね
私はアーサーを愛したかったです
リーの歌は素敵で力強い感じ
不安とか悲しみは感じなかったけど
虐待を受け、自宅に放火した女性はあんなに強いものですか?
気になったのは裁判のシーンがかなり長く感じたこと、妄想のミュージカルシーンももっと短くても良いような気がしました
最後に出てきた彼が2代目?真の?ジョーカーですか?
楽しげにザクザク刺してましたね
予想外の展開でしたが、色々メッセージや内容について考えさせられて私は好きでした
狂気は伝染する。
ジョーカーの作り出した狂気は伝染する。
それは、民衆の意思表明に。
それは、一人の女を虜に。
それは、囚人たちを熱狂の渦に。
この時は間違いなく、ジョーカーの絶頂期であった。
だが、精神的重圧に耐えかねたアーサーはジョーカーであることを辞めた。
そこからの転落は早かった。民衆から逃げ出し、女から見放され、狂信者に刺される。
そして、新たなジョーカーが誕生する。
もはや一種の宗教と化したジョーカー。
もう止められるものはいない。
光が強いほど影は濃い
今回ジョーカーを引っ張り出すのは、くそみたいな世間ではなく愛する女性だった。
・ミュージカルシーンは作品の世界観を邪魔するものではなく、むしろ「これがアーサーの心象風景か」と腑に落ちた
・他の方も言うように、リーがそのまんまガガに見えた部分は現実に戻ってしまい少し冷めた
・アーサーとリー。お互いに惹かれ合い(?)影響し合う2人の対比の描かれ方が容赦ない(リーがあの階段をスタスタと登っていく姿など)
・承認欲求の塊であるアーサーが、世の中から認められることよりもリーへの愛を優先したのに、リーを含め皆が好きなのは、アーサーの影であるジョーカーの方だった。やるせない絶望感。
ヒース・レジャーのカリスマ性に抗う後日譚
1. Heath Ledgerの功罪
Jokerは1940年にアメコミのBatmanに登場した悪役(villain)であり、設定等は時代と共に変遷するも、実写化以前から最強の天敵。そこにカリスマ性を与えたのが2008年の "Dark Night"。C. Nolanが監督した2作目のBatman映画。何より話題になったのが、H. Ledgerが体現したJoker。喜々として悪の限りを尽くし、どちらの知人を助けるかBatmanに究極の選択をせまる。滑稽さは微塵もなく99%の狂気に、漂う1%の哀しみ。どんなに悪事を尽くしても満たされない自分。自分が最も自分を諦めれている哀しみ。2008年のJokerは演者の容姿も相まって、得も言われぬ魅力があり、カリスマ的な人気を博した。更にH.Ledgerが急性薬物中毒で公開前に亡くなった事で、遺作は伝説になった。
この伝説は2つの意味で罪深くもある。軽めの罪としては、Jokerを演じるハードルが上がり過ぎた事。2016年の"Suicide Squad"では、2013年にアカデミー助演男優賞を受賞した J. Leto が演じたが、酷評が殺到した。Jokerには奥深い役作りと、シリアスで切実な演技が必須になった。
より重い罪は、Jokerがアンチヒーロー化した事。魅力的過ぎるvillainは一部の人間にとっては、罪を犯すハードルを下げかねない。この問題が2019年の"Joker"で拍車がかかり、2024年の本作につながる。
🃏
2. "Joker" が "The Dark knight" の前日譚じゃなくても
前作の "Joker" の鑑賞時、自分は何となく "Dark knight" の前日譚だと誤解していた。同様に混乱した人の中には、前作で悪に目覚めたjokerが何故 H. Ledger が遺したカリスマ性を再現しないのか!と不満を抱きそう。しかし調べると、前作のwikiにもDCユニバースとは独立した作品であり、"Dark knight" の前日譚ではないと明記されていた。
とは言え、前作"Joker"が"Dark knight"と無関係と言い張るには無理がある。Jokerを主役とする(事実上の)スピンオフの企画が通ったのも、160億円(世界興収)稼げたのも、H.Ledgerが遺したカリスマ性なしにはは語れない。しかも、虐待された妄想男が”Joker"として目覚める過程を説得力をもって描いた2019年の前作は、Jokerのカリスマ性に必然性(正当性)を与えた。敢えて言えば、模倣犯が出やすい状況形成に加担していた。
そして2021年、日本で模倣犯が出現した。ハロウィンの夜の京王線。Jokerの仮装をした男が特急列車の中で刃渡り30cmのナイフを手に暴れ、17人を負傷させた。数ヶ月前に福岡から上京した男は、供述調書でJokerへの憧れを語っている。
町山智浩さんの取材では、だからこそ T. Phillips監督は本作で主人公Arthurを断罪したようだ。生い立ちがどんなに不幸でも、現状がどんなに惨めでも、人から命を奪っていい理由にはならない。自分の前作に対するレビューでも、一部正当防衛にあたるケースもあるが、他の殺しに正当性は見いだせない。そんな犯行を映画が劇的な演出で正当性を与えるのは危険過ぎる。スーパーマンのマネして、地面に水平に飛び出して怪我した子供もいる。京王線で暴れる阿呆の出現も想定の範囲内。T. Phillips監督が責任を感じても不思議じゃない。
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3. 殺し屋の悲惨な末路は、コンプラ以前からの伝統
1972~1991年までコンスタントにシリーズ化され、それ以後もSPなどで度々制作される時代劇に必殺シリーズがある。普段は正業に勤しむ殺し屋(刺客)が、金で雇われて町民らの恨みを晴らす人気作。殺し屋は無類の強さを誇り、毎回危なげなく目的を達するが、最終回に悲惨な末路を迎えるのが定番。追い詰められた狙撃者は、火縄の為の火薬を大量に撒いて爆死。特にトラウマになのが、素手で人を殺す念仏の鉄の最期。数人に羽交い締めされて、腕をカマドに入れられまっ黒焦げに焼かれる。即死こそしないが翌日遊郭で目覚め無い。
「ファブル」も「ベイビーわるきゅーれ」も「SPY✕Family」も今は楽しいけど、日本の伝統に則れば悲惨な末路を辿るのかもしれない。
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4. 夢落ち?ニュアンスの戸惑い
本作で一番引っかかるのは、終盤で面会にArthurが刺される場面。刺された瞬間、転換する妄想のシーンで彼はLee (Lady Gaga)に撃たれる。あれっ、この妄想は映画の前半と同じ...つまりArthurが刺されたのは法廷が爆破された後ではなく、前半で面会に来たLeeに会う前なの...? と時系列が混乱する。
もし "Sixth sense" や "Vanilla sky" のように、実なあの場面で既に死傷してましたという意味なら、Leeと面会した以降の映画の3分の2くらいは、Arthurが刺されて息絶えるまで見た走馬灯くらい早い妄想になってしまう。合唱部でLeeと話したのは現実でも、映画で火事を起こした逃走騒ぎも、独房に忍びこんだLeeとのsexも妄想って事に。そもそも、Leeが本当に金持ちだとしても、独房に連れて行ってもらえる程、看守を手懐けられるのか? つまり、Arthurは自分が殺した者たち同様、惨めに殺されただけ。しかも死にゆくArthurに、笑いが止まらない無名の若者の手で...
殺人者が受ける酬いに異論はない。ただ夢オチかちゃうか曖昧なラストは不誠実に感じた。
求めてたのはこれじゃない
歌上手いジョーカーは必要ない。
レディーガガのビブラートでホアキンフェニックスの演技が一気に冷める。
理想のジョーカーを歌で表現しようとする物語はわかるが、他に方法があったはず。
期待外れでとても残念でした。
私が監督だ。
みんなジョーカーの信者がジョーカーとして復活してくれると期待してたのに
最後唯一の理解者ゲイリーがアーサーの目を覚させてくれたから僕はジョーカーではなくアーサーだって言ったから信者が離れていって最後みんなに裏切られて殺されたのかも。リー(ガガ)様も呆れて消えたw
そして後継者が最後アーサーを殺した人って感じかな。
検察官も戻ってこなかったからグルだろうねぇ。
ざっくりと言うとね。
そして結局アーサーは心優しいはずなのに不運を背負う運命。家庭環境が悪すぎた。
結局悪として生きていく事しか運命はなかったんだなぁ。
これはこれで良い話だと思う。
でもみんなが言いたい事もわかる。
みんなが求めてたのはイカれ狂ったジョーカーなんだよね!見てる私達もいつの間にかジョーカーの信者になってたんだよね笑
そして前作出していた幼少期のバットマンの事もみんなずっと気にしてたよね。
今回その事に関しては全く描かれていなかったよね。
惜しいょ。
後半のテロ事件で裁判所ぶっ壊した時に脱走したんだからそのまま本物のジョーカーになってハーレークイーンとの本当のゴールを決めて欲しかった。
で、その後にバットマン幼少期が現れたら最高の
ストーリーだったのになぁ。
みんなダークナイトの時のジョーカーを求めてるんだよね。
いいじゃんね。もう絶望の道しかないから本物の悪になったって事にすれば、、、、。
みんなもう信じれない。だから俺はゴッサムタウンを支配する。
それでよかったはずなんだ、、、。
くそっ、、、私が監督やりたかった。笑
人生はトランプ。誰もがジョーカーを押し付けあう。
「配られた(トランプ)カードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。」
漫画「スヌーピー」に出てくるセリフだが、確かに言い得て妙だ。
トランプゲームには様々な種類があるが、勝負のカギを握るのはジョーカーが多い。つまりジョーカーというのはその場面場面で絶大な影響を及ぼす反面、ある者にとっては好都合、ある者には不都合な、まったく異質な存在として扱われる。
こちらのセリフをあえて現代風に言ってみよう、「人生はジョーカーの押し付け合いである…それがどういう意味であれ」と。
もしも配られた手札に「ジョーカー」があったなら、あなたはどうするだろうか。
前作の「ジョーカー」では抑圧されてきた(ババを引かれた)弱者が暴力による改革により、社会システム(ゲーム)をひっくり返すためのきっかけが描かれた。
主人公アーサーは革命のシンボルとなり、その姿は原作にも忠実な‘‘アンチヒーロー‘‘として大衆(観客)に支持された。
しかし元より、前作の最初に描かれたのは「弱い個人」であり「孤独な人間」であるアーサーだ。アーサーはなりたくてジョーカーになったのではない。ましてや精神が脆くて繊細な人間が、突然強くなったり痛みに鈍くなるはずがない。
本作がジョーカーを持て余す社会にフォーカスしたのは至極当然な成り行きだろうし、逆にこの展開以外にはありえないように思われる。
前作が「抑圧の解放」をテーマとするならば、本作は「隔絶された社会と個人」だろう。
知略に長け、暴虐を尽くす「ジョーカー」なんてものは実際の現実世界には居ない。マンガやドラマの中でのおとぎ話である。
そしてそのような‘‘幻影‘‘を追い求めているような者たちにこの映画はオススメできない。
暴力や派手な展開を望む者は「スーサイド・スクワット」「キック・アス」のようなアクション娯楽映画でも観てればいいのだ。
少なくとも頭空っぽのまま観ることはできない。
アーサー個人の苦悩や取り巻きを描いたからこそ、この映画は我々が生きるこの世界に生々しい傷跡を残す。
アメリカや日本で賛否両論が噴き出すのは間違いなく制作陣の目論見に違いない。
なにせ、すべてを肯定しても否定しても、この世界は「絶望」に転んでしまうのだ。そうなれば戦争や暴力は当たり前のこととして扱われてしまう。暴力社会へのアンチテーゼがここには詰まっている。
社会は思ったより救いようがあるらしい、というのが本作を取り巻く評価に対する私個人の所感だ。
全体的な感想になってしまったので、ストーリーに対する感想を少し。
まず、レディーガガ。
演技、うまい。
歌、うまい。
日本映画界も見習ってほしい。商業的な理由で主演に抜擢される演技へたくそなアイドルよりアメリカのシンガーははるかに高い次元にいる。
それとこの映画の肝心の「歌」の部分だが、
まず「ミュージカル」がうざいとの声がチラホラ聞こえて驚く。
よく考えいてみてくれ、ミュージカル抜きだとこの映画は死ぬほど陰鬱であるし、もう救いようがない。
例えば「ダンサーインザダーク」から歌をとったら何になる? 恐らく目も当てられないくらい退屈で悲惨なものになる。
ジメジメとして薄暗い刑務所(閉鎖空間)に花を添える意味でもミュージカルを取り入れたのは正解だ。ましてや1シーンごとに短く挿入されるため、繋ぎとしても完璧である。
そしてその歌詞にスポットを当てるならば、ある意味底抜けに絶望な人生へのアーサーのせめてもの反抗だし、捨てきれない愛のための讃美歌だろう。
しかしそれも最後には打ち砕かれてしまった。
「歌」とはその者が生きている「証」だし、生きている限りに続く「音」でもある。
歌うのを拒んだアーサーは最後、たとえ殺されなくても既に死んでいたのである。
いや、先にジョーカーが死に、最後にアーサーとして死んだのは彼にとって救いだったのかもしれない。
しかし彼の中のジョーカーは言う。「息子に跡を継いでほしかった」。
彼は知っていたのだ、たとえ血が繋がってなかろうとジョーカーがこの世から消えることはないということを。
現実社会に
1作目がとても面白かったので、続編ということで観に行きました。
前作の物語はジョーカーの作り話だったという解釈をしていたので、正直続編は無い方がよいのでは、しかしどのような続編になるのかは気になる、という感じでした。
前作の物語は本当だったようで、その後の収容所生活と裁判が描かれますが、ミュージカル演出のシュールさ、誇張し過ぎな妄想と現実のギャップなど、どこか歪な明るさがやはり絶望感を強くさせます。
光と闇を意識させるカット、シュールな華やかな歌唱シーンなど、映像的にも面白く、ホアキン・フェニックスやレディー・ガガの演技も良かったです。
ジョーカーになりきれなかったアーサーの結末は、なんともやるせないです。
良心が残っていたと感じましたが、そこから本当の自分を認めるものの、その姿は周囲から拒否されるという、絶望感しかない……
結末のあの若者が、いわゆる本当のジョーカーになるということなのかとも。
何かしら救いがあればと思っていたのですが……
映画の中ではなく、リアルに現実社会にジョーカーを真似して犯罪行為を行う人間もいるようなので、ジョーカーはいない、抑圧されていたとしても人の命を奪うような行為には報いがある、ジョーカーを免罪符に使うべきではない、そういうことを伝えているのだろうか、などと考えてしまいました。
アーサーを助けようとする存在は女性だったり、コントのような爆発だったり、この物語も作り話?妄想?というようにも考えてしまいましたが。
大衆に冷水をぶっ掛ける、前作へのアンサームービー
悪を一種のヒーローとして魅力的に描いた作品は、時に暴力の連鎖を産むことがある。作者が自らの妻が暴行されたことを元に書いた『時計仕掛けのオレンジ』は映画化され、感化されたフォロワーたちがいくつもの暴力事件を起こした。そのうちの1人が悪名高きアラバマのウォレス州知事の銃撃事件を起こし、彼の獄中手記は『タクシードライバー』の原案となり、タクシードライバーを見て影響されたある男が今度はレーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。前作『ジョーカー』はもちろんタクシードライバーに強く影響された作品でもある。
ジョーカーを気取って無差別テロを起こした人間がいる(ここ日本にも)。アメリカでは虚言癖の権力者に煽動された大衆が議会を襲撃した。この映画はジョーカーを讃えるような愚かな大衆に対して、バケツで顔面に冷水をぶっ掛けるような、監督自身によるアンチ・カタルシスな前作へのアンサームービーだ。前作で悪のカリスマに祭り上げられたジョーカーを、アーサーという1人の惨めな男に戻すための。
監督が観客の期待を裏切る意図を強く持っていた事は、あの階段のシーンが無いことでも明らかだ。予告編どころか海外ではポスターにも使われていた、ジョーカーとハーレイが裁判所の階段を踊りながら降りるシーンは本編には登場しない。
アーサー・フレックは世間で勝手に醸成された理想のジョーカーのイメージを期待されるが、それによって“アーサー”を慕ってくれた人々を傷付けることになる。そしてジョーカーではなく、アーサーとしての言葉を語ったところで「思ってたのと違う」と言われ周りから捨てられるのだ。この映画を見た観客たちの態度と全く同じ状況である。本作はいきなりルーニー・テューンズ風のアニメーションで始まるが、ジョーカーが自らの影に振り回されて破滅する、という話がすでにそのまま本作の内容を示している。最後の展開はセリフも含めて前作でアーサーがマレーにしたことと同じでもある。
なお劇中で鑑賞される『バンドワゴン』(1953年)はハリウッド黄金期の古き良きスタジオ製ミュージカル映画の最後の傑作とでも呼ぶべき作品。ほどなく社会の変化についていけなかったミュージカル映画は急速に斜陽となり、オリジナル作品は消えてブロードウェイ作品の映画化に取って代わられる。劇中の舞台と思われる70年代末頃には『ニューヨーク・ニューヨーク』や『ワン・フロム・ザ・ハート』がかつてのミュージカル映画の復活を期して製作されたが、興行的には失敗に終わった。バンドワゴンの主人公、忘れられたかつてのスターは周囲の期待に見事応えて愛と称賛を手にするが、人生はミュージカルのように全てがうまくはいかないのだ。
続編というより上下巻みたいな
ひとりの人間に起こった出来事が完結した、そんな物語で良かった。
私は前作に対して、親近感と、同族嫌悪と、嫉妬を抱いた人間なので、今作の死亡エンドは、展開に驚いたけれども、ハッピーエンドではない点において溜飲の下がる思いだった。
ただ、判決を下されて刑務所で過ごすエンドではなく、他人から殺され、その人は次のジョーカーになるかのようなエンディングは、ちょっと「物語的」で「特別な感じ」で、「ジョーカーは不滅」感があって良かった。
ひとりの男は死んだけど、ジョーカーは生き残ったみたいな。
ガガ最高だったよ!!!!
アーサー物語
ジョーカーではなくアーサー。
ふと、ジーザス・クライスト=スーパースターを思い出した。誰も本当のジーザスを知らず、知ろうともせず、祭り上げたかと思えば偽物だったのかと石を投げる。群衆は浅はかで恐ろしい。
アーサーも同じ。
群衆は熱狂的にジョーカーを崇拝する。リーも同様。群衆の熱は簡単には冷めない。ヒーローを信じる事が唯一の希望だから。しかし、リーは違う。もっと冷静だ。
リーはマグダラのマリアではなかった。リーもジョーカーの中のアーサーには気づいていた。弱いアーサーが強いジョーカーとして覚醒するのを最前列でみたかったのだ。群衆よりも遥かにその期待は大きかった。
それ故に最後の階段のシーンは2人にとって切ない。ジョーカーが『誕生』したあの階段でジョーカーは『死んだ』。部屋で銃口を自分に向けていたリーは夢から醒め、リーに決別し、ある意味『死んだ』。ジョーカーに見切りを付けたリーは後にハーレイ・クインが『誕生』したのだろう。
唯一ゲイリーだけが本当のアーサーの一部を知っていた。そして彼の証言が虚勢ジョーカーを元のアーサーに戻した。そしてあの最終弁論に繋がる。
ラストのアーサーの表情。ジョーカーではなく小さな小さなアーサー。悲しく虚しいけれど穏やかにも見えた。
1作目はそんなに好きじゃなかった。ジョーカーは理解不能で猟奇的であって欲しかったから。トラウマがジョーカーを生んだ、というくだりがありきたりでしっくりこなかった。
しかし本作を観てトッド・フィリップスの思惑が見えたようで腑に落ちた。彼はもともとジョーカーに興味はなかったのだ。理解不能な極悪人ジョーカーなんていない。いたのは理解されない普通の人、アーサーだけ。彼の切ない人生の物語。そしてアーサーを通じて我々群衆の恐ろしさを描きたかったのかも。2作品観て良かった。スッキリ。
それを観客が観たかったか。
ミュージカルで観たかったか。
それは話が別。
賛否両論(つまりは酷評)の理由は分かる気がする。
だって観客も群衆であり、リーと同じくジョーカーを求めていたんだから。
※メモ
・採点は『アーサー』として。『ジョーカー』としては★1.5
・裁判所爆破→リーが助けに来る→復讐大量殺戮の始まり…って流れを一瞬でも期待した人いるよね?
・ミュージカル場面ちょっと多すぎかな
・キャサリン・キーナーは歳を重ねて雰囲気変わったけどそれがまた素敵
・ホアキンの演技が上手すぎる。最初の歌唱ダンスシーンがお見事
・リーが高らかに歌うほどガガになる。ピアノの弾き語りなどガガそのもの。現実に引き戻される。その意味でミスキャスト。もっと歌唱シーン少ない方がガガがリーになれたかもね
これはもうスモーカー
前日に無印観て予習して、
無印はほとんどアーサーの妄想、空想で構成されてる派の自分からしたら、2もそうなんじゃないかと妄想オチが冷めるタイプなので、不安になってしまっている自分がいた。
joker2をいざみてみると、
もうずっとタバコ吸ってるホアキンフェニックス。
もう2/3のシーンはスモーカーしてたんじゃないかってくらい。
自分も喫煙者だから映画館で吸いたくなってしまう。
きっとミュージカルと喫煙のシーンは、
アーサーの妄想や空想劇の最中なんだろうな。と解釈。
ラストのシーンで、本来何者でもなかったアーサーが、何者でもない青年に刺殺されたのは因果応報で、マーレーを射殺した時とシンクロしてたのは解った。
考察で見た、後のバットマンと対峙したジョーカーは、アーサーではなくこの初代ジョーカーを刺殺し、己の口を裂いた次世代ジョーカー。
この考察はとても好き。
ハロウィン前に上映してどんな影響をもたらすか気になっていたが心配には及ばなそう。
個人的にはジョーカーに大暴れするシーンがひとつやふたつあればもっと満足できたと思う。
無印のラストシーンから勝手に期待してしまった。
勝手にイメージしてしまいテンポも悪くて退屈気味に感じた。少し残念。
映画としての完成度は高い
前作鑑賞済み、たしか前作は大ヒットしたが、今作はいまいち評判がよくないように思えた。
前作により精神病に収監されたアーサー、裁判を待つ身となる。狂気は潜めているよう。タバコをよく吸う、看守にもらったり。死刑を待つ身だが弁護士は精神鑑定で無罪を狙う。
精神病院のプログラムで彼のファンのリーに会い恋に落ちる。アーサーとリーとのJOKERとハーレクイーンとの恋のお話し。
個人的には完成度は高い、好みの映画だった。ときおり入るJOKERの妄想シーンのミュージカルも良かった。妄想の中のかれは狂気と自信をもっているが、現実のアーサーはひどく弱い。
リーはアーサーにではなくJOKERに憧れを抱いている。そのギャップの中でアーサーはJOKERになろうとするが、なりきれなかった。
自分自身を認め、裁判は進む。
ゴッサム・シティの話だからJOKERになりきるのかと思ったが、アーサーのままだった。
惨めなアーサーで死んでいくか、狂気と崇拝のJOKERで死んでいくか。そんなお話しに思いました。
歌唱シーンも音楽、映像どれも好き。ラストも含めて暗い話だから評価は高くないのかと思いました。見応えのある一作。
素晴らしい!
最初は、すべてのシーンに意味があることを読みとれずに批判していましたが、全く違いました。リーは実在していないこと、ジョーカーの話ではなく、アーサー・フレックの話であること、人はゲイリーの目線を持てるかが主題であること、この映画に対する批判すらも織り込んでいること。。暗喩に満ちた、重厚過ぎる(だからこそ一般の人には理解できず、受け入れられない)傑作だと思います。
アーサーの涙
感想文にしたらば、長文必至なので、箇条書き。
・『JOKER』でなく、『ARTHUR FLECK』のタイトルにしたら、
誰も文句を言わなかったのに(でも、ほとんど誰も観たがらないなあ)。
・冒頭のアニメで、作品の骨子は説明済み。
ジョーカーの影が独り歩きして、本体だったアーサーことなど、
誰も気にかけていないよ。でも、権力に潰されるのはアーサーだけ。
影は、次のジョーカー役を探せばいいんだよ。
・映画(That’s Entertainment)も、外の世界(That’s Life)も言うことは一緒。
社会のせいにするんじゃないよ。個人責任だろう、と。
ジョーカー的な問題の根源(貧困、格差…etc.)をアーサー個人の問題に狭めようぜ。
・ジョーカー的な存在が生まれざるを得ない社会システムは現前に在る。
アーサーは、たまたま、ジョーカーの役に当たっただけ。犯罪統計学の問題。
何でもかんでも、個人の責任に押し付けるのは無理筋。
・小人さんのゲイリー・パドルズに「君だけはぼくをバカにしなかったのに」と
なじられて、涙ぐんだ時点で、アーサーはジョーカー失格。
ゲイリーは可愛かった。ガガより可愛かった! (★1~2個はゲイリーの分)
・ジョーカー(役)の自己否定。ガガはハーレイ・クインになり損ね、
ハービー・デントは一介の検事のまま(顔は焼けるけど)。DCU全否定w
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