ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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光が強いほど影は濃い
今回ジョーカーを引っ張り出すのは、くそみたいな世間ではなく愛する女性だった。
・ミュージカルシーンは作品の世界観を邪魔するものではなく、むしろ「これがアーサーの心象風景か」と腑に落ちた
・他の方も言うように、リーがそのまんまガガに見えた部分は現実に戻ってしまい少し冷めた
・アーサーとリー。お互いに惹かれ合い(?)影響し合う2人の対比の描かれ方が容赦ない(リーがあの階段をスタスタと登っていく姿など)
・承認欲求の塊であるアーサーが、世の中から認められることよりもリーへの愛を優先したのに、リーを含め皆が好きなのは、アーサーの影であるジョーカーの方だった。やるせない絶望感。
ヒース・レジャーのカリスマ性に抗う後日譚
1. Heath Ledgerの功罪
Jokerは1940年にアメコミのBatmanに登場した悪役(villain)であり、設定等は時代と共に変遷するも、実写化以前から最強の天敵。そこにカリスマ性を与えたのが2008年の "Dark Night"。C. Nolanが監督した2作目のBatman映画。何より話題になったのが、H. Ledgerが体現したJoker。喜々として悪の限りを尽くし、どちらの知人を助けるかBatmanに究極の選択をせまる。滑稽さは微塵もなく99%の狂気に、漂う1%の哀しみ。どんなに悪事を尽くしても満たされない自分。自分が最も自分を諦めれている哀しみ。2008年のJokerは演者の容姿も相まって、得も言われぬ魅力があり、カリスマ的な人気を博した。更にH.Ledgerが急性薬物中毒で公開前に亡くなった事で、遺作は伝説になった。
この伝説は2つの意味で罪深くもある。軽めの罪としては、Jokerを演じるハードルが上がり過ぎた事。2016年の"Suicide Squad"では、2013年にアカデミー助演男優賞を受賞した J. Leto が演じたが、酷評が殺到した。Jokerには奥深い役作りと、シリアスで切実な演技が必須になった。
より重い罪は、Jokerがアンチヒーロー化した事。魅力的過ぎるvillainは一部の人間にとっては、罪を犯すハードルを下げかねない。この問題が2019年の"Joker"で拍車がかかり、2024年の本作につながる。
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2. "Joker" が "The Dark knight" の前日譚じゃなくても
前作の "Joker" の鑑賞時、自分は何となく "Dark knight" の前日譚だと誤解していた。同様に混乱した人の中には、前作で悪に目覚めたjokerが何故 H. Ledger が遺したカリスマ性を再現しないのか!と不満を抱きそう。しかし調べると、前作のwikiにもDCユニバースとは独立した作品であり、"Dark knight" の前日譚ではないと明記されていた。
とは言え、前作"Joker"が"Dark knight"と無関係と言い張るには無理がある。Jokerを主役とする(事実上の)スピンオフの企画が通ったのも、160億円(世界興収)稼げたのも、H.Ledgerが遺したカリスマ性なしにはは語れない。しかも、虐待された妄想男が”Joker"として目覚める過程を説得力をもって描いた2019年の前作は、Jokerのカリスマ性に必然性(正当性)を与えた。敢えて言えば、模倣犯が出やすい状況形成に加担していた。
そして2021年、日本で模倣犯が出現した。ハロウィンの夜の京王線。Jokerの仮装をした男が特急列車の中で刃渡り30cmのナイフを手に暴れ、17人を負傷させた。数ヶ月前に福岡から上京した男は、供述調書でJokerへの憧れを語っている。
町山智浩さんの取材では、だからこそ T. Phillips監督は本作で主人公Arthurを断罪したようだ。生い立ちがどんなに不幸でも、現状がどんなに惨めでも、人から命を奪っていい理由にはならない。自分の前作に対するレビューでも、一部正当防衛にあたるケースもあるが、他の殺しに正当性は見いだせない。そんな犯行を映画が劇的な演出で正当性を与えるのは危険過ぎる。スーパーマンのマネして、地面に水平に飛び出して怪我した子供もいる。京王線で暴れる阿呆の出現も想定の範囲内。T. Phillips監督が責任を感じても不思議じゃない。
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3. 殺し屋の悲惨な末路は、コンプラ以前からの伝統
1972~1991年までコンスタントにシリーズ化され、それ以後もSPなどで度々制作される時代劇に必殺シリーズがある。普段は正業に勤しむ殺し屋(刺客)が、金で雇われて町民らの恨みを晴らす人気作。殺し屋は無類の強さを誇り、毎回危なげなく目的を達するが、最終回に悲惨な末路を迎えるのが定番。追い詰められた狙撃者は、火縄の為の火薬を大量に撒いて爆死。特にトラウマになのが、素手で人を殺す念仏の鉄の最期。数人に羽交い締めされて、腕をカマドに入れられまっ黒焦げに焼かれる。即死こそしないが翌日遊郭で目覚め無い。
「ファブル」も「ベイビーわるきゅーれ」も「SPY✕Family」も今は楽しいけど、日本の伝統に則れば悲惨な末路を辿るのかもしれない。
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4. 夢落ち?ニュアンスの戸惑い
本作で一番引っかかるのは、終盤で面会にArthurが刺される場面。刺された瞬間、転換する妄想のシーンで彼はLee (Lady Gaga)に撃たれる。あれっ、この妄想は映画の前半と同じ...つまりArthurが刺されたのは法廷が爆破された後ではなく、前半で面会に来たLeeに会う前なの...? と時系列が混乱する。
もし "Sixth sense" や "Vanilla sky" のように、実なあの場面で既に死傷してましたという意味なら、Leeと面会した以降の映画の3分の2くらいは、Arthurが刺されて息絶えるまで見た走馬灯くらい早い妄想になってしまう。合唱部でLeeと話したのは現実でも、映画で火事を起こした逃走騒ぎも、独房に忍びこんだLeeとのsexも妄想って事に。そもそも、Leeが本当に金持ちだとしても、独房に連れて行ってもらえる程、看守を手懐けられるのか? つまり、Arthurは自分が殺した者たち同様、惨めに殺されただけ。しかも死にゆくArthurに、笑いが止まらない無名の若者の手で...
殺人者が受ける酬いに異論はない。ただ夢オチかちゃうか曖昧なラストは不誠実に感じた。
求めてたのはこれじゃない
歌上手いジョーカーは必要ない。
レディーガガのビブラートでホアキンフェニックスの演技が一気に冷める。
理想のジョーカーを歌で表現しようとする物語はわかるが、他に方法があったはず。
期待外れでとても残念でした。
私が監督だ。
みんなジョーカーの信者がジョーカーとして復活してくれると期待してたのに
最後唯一の理解者ゲイリーがアーサーの目を覚させてくれたから僕はジョーカーではなくアーサーだって言ったから信者が離れていって最後みんなに裏切られて殺されたのかも。リー(ガガ)様も呆れて消えたw
そして後継者が最後アーサーを殺した人って感じかな。
検察官も戻ってこなかったからグルだろうねぇ。
ざっくりと言うとね。
そして結局アーサーは心優しいはずなのに不運を背負う運命。家庭環境が悪すぎた。
結局悪として生きていく事しか運命はなかったんだなぁ。
これはこれで良い話だと思う。
でもみんなが言いたい事もわかる。
みんなが求めてたのはイカれ狂ったジョーカーなんだよね!見てる私達もいつの間にかジョーカーの信者になってたんだよね笑
そして前作出していた幼少期のバットマンの事もみんなずっと気にしてたよね。
今回その事に関しては全く描かれていなかったよね。
惜しいょ。
後半のテロ事件で裁判所ぶっ壊した時に脱走したんだからそのまま本物のジョーカーになってハーレークイーンとの本当のゴールを決めて欲しかった。
で、その後にバットマン幼少期が現れたら最高の
ストーリーだったのになぁ。
みんなダークナイトの時のジョーカーを求めてるんだよね。
いいじゃんね。もう絶望の道しかないから本物の悪になったって事にすれば、、、、。
みんなもう信じれない。だから俺はゴッサムタウンを支配する。
それでよかったはずなんだ、、、。
くそっ、、、私が監督やりたかった。笑
何がしたいのか、、、
前回の感想で
本当は別に殺したいわけじゃないのにダークヒーローとして祭り上げられちゃってみんなに受け入れられるにはそれしかなかったからジョーカーになったけどやっぱり苦しくなっちゃって自殺したらいい作品だと思えるのにって考えてたんだけど
今作で最終的にはジョーカーが剥がれてアーサーとして見られたいが出てきてでもジョーカーなしじゃハーレイには捨てられて「君なしじゃ生きられない」って言ってたのに結局自殺するどころかアーカム戻って普通に生活しだして最後どうでもいいやつに刺され死ぬダサさ
ジョーカーとして見るにはあまりにも不甲斐ないダサすぎる
けど自分じゃどうしようもなくてその道しか辿れなかったんだろうなと
あれはアーサーは不甲斐ないやつだっていう演出かなとも思うのでよかった
1、2合わせて1本の映画だったら良かったのにと思った
あとミュージカル要らんなんやあれお前歌手志望じゃなくてコメディアン志望だろ
ハーレイの設定にちゃんと精神医学もいれてて彼女を信用するなってセリフ入れたならもっと盛大に裏切ってジョーカーをゴミみたいに捨てろ
あのジョーカーはどこまでも可哀想な奴だったら良かったのに中途半端な映画だと思った
どうしたいんあれ
人生はトランプ。誰もがジョーカーを押し付けあう。
「配られた(トランプ)カードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。」
漫画「スヌーピー」に出てくるセリフだが、確かに言い得て妙だ。
トランプゲームには様々な種類があるが、勝負のカギを握るのはジョーカーが多い。つまりジョーカーというのはその場面場面で絶大な影響を及ぼす反面、ある者にとっては好都合、ある者には不都合な、まったく異質な存在として扱われる。
こちらのセリフをあえて現代風に言ってみよう、「人生はジョーカーの押し付け合いである…それがどういう意味であれ」と。
もしも配られた手札に「ジョーカー」があったなら、あなたはどうするだろうか。
前作の「ジョーカー」では抑圧されてきた(ババを引かれた)弱者が暴力による改革により、社会システム(ゲーム)をひっくり返すためのきっかけが描かれた。
主人公アーサーは革命のシンボルとなり、その姿は原作にも忠実な‘‘アンチヒーロー‘‘として大衆(観客)に支持された。
しかし元より、前作の最初に描かれたのは「弱い個人」であり「孤独な人間」であるアーサーだ。アーサーはなりたくてジョーカーになったのではない。ましてや精神が脆くて繊細な人間が、突然強くなったり痛みに鈍くなるはずがない。
本作がジョーカーを持て余す社会にフォーカスしたのは至極当然な成り行きだろうし、逆にこの展開以外にはありえないように思われる。
前作が「抑圧の解放」をテーマとするならば、本作は「隔絶された社会と個人」だろう。
知略に長け、暴虐を尽くす「ジョーカー」なんてものは実際の現実世界には居ない。マンガやドラマの中でのおとぎ話である。
そしてそのような‘‘幻影‘‘を追い求めているような者たちにこの映画はオススメできない。
暴力や派手な展開を望む者は「スーサイド・スクワット」「キック・アス」のようなアクション娯楽映画でも観てればいいのだ。
少なくとも頭空っぽのまま観ることはできない。
アーサー個人の苦悩や取り巻きを描いたからこそ、この映画は我々が生きるこの世界に生々しい傷跡を残す。
アメリカや日本で賛否両論が噴き出すのは間違いなく制作陣の目論見に違いない。
なにせ、すべてを肯定しても否定しても、この世界は「絶望」に転んでしまうのだ。そうなれば戦争や暴力は当たり前のこととして扱われてしまう。暴力社会へのアンチテーゼがここには詰まっている。
社会は思ったより救いようがあるらしい、というのが本作を取り巻く評価に対する私個人の所感だ。
全体的な感想になってしまったので、ストーリーに対する感想を少し。
まず、レディーガガ。
演技、うまい。
歌、うまい。
日本映画界も見習ってほしい。商業的な理由で主演に抜擢される演技へたくそなアイドルよりアメリカのシンガーははるかに高い次元にいる。
それとこの映画の肝心の「歌」の部分だが、
まず「ミュージカル」がうざいとの声がチラホラ聞こえて驚く。
よく考えいてみてくれ、ミュージカル抜きだとこの映画は死ぬほど陰鬱であるし、もう救いようがない。
例えば「ダンサーインザダーク」から歌をとったら何になる? 恐らく目も当てられないくらい退屈で悲惨なものになる。
ジメジメとして薄暗い刑務所(閉鎖空間)に花を添える意味でもミュージカルを取り入れたのは正解だ。ましてや1シーンごとに短く挿入されるため、繋ぎとしても完璧である。
そしてその歌詞にスポットを当てるならば、ある意味底抜けに絶望な人生へのアーサーのせめてもの反抗だし、捨てきれない愛のための讃美歌だろう。
しかしそれも最後には打ち砕かれてしまった。
「歌」とはその者が生きている「証」だし、生きている限りに続く「音」でもある。
歌うのを拒んだアーサーは最後、たとえ殺されなくても既に死んでいたのである。
いや、先にジョーカーが死に、最後にアーサーとして死んだのは彼にとって救いだったのかもしれない。
しかし彼の中のジョーカーは言う。「息子に跡を継いでほしかった」。
彼は知っていたのだ、たとえ血が繋がってなかろうとジョーカーがこの世から消えることはないということを。
現実社会に
1作目がとても面白かったので、続編ということで観に行きました。
前作の物語はジョーカーの作り話だったという解釈をしていたので、正直続編は無い方がよいのでは、しかしどのような続編になるのかは気になる、という感じでした。
前作の物語は本当だったようで、その後の収容所生活と裁判が描かれますが、ミュージカル演出のシュールさ、誇張し過ぎな妄想と現実のギャップなど、どこか歪な明るさがやはり絶望感を強くさせます。
光と闇を意識させるカット、シュールな華やかな歌唱シーンなど、映像的にも面白く、ホアキン・フェニックスやレディー・ガガの演技も良かったです。
ジョーカーになりきれなかったアーサーの結末は、なんともやるせないです。
良心が残っていたと感じましたが、そこから本当の自分を認めるものの、その姿は周囲から拒否されるという、絶望感しかない……
結末のあの若者が、いわゆる本当のジョーカーになるということなのかとも。
何かしら救いがあればと思っていたのですが……
映画の中ではなく、リアルに現実社会にジョーカーを真似して犯罪行為を行う人間もいるようなので、ジョーカーはいない、抑圧されていたとしても人の命を奪うような行為には報いがある、ジョーカーを免罪符に使うべきではない、そういうことを伝えているのだろうか、などと考えてしまいました。
アーサーを助けようとする存在は女性だったり、コントのような爆発だったり、この物語も作り話?妄想?というようにも考えてしまいましたが。
大衆に冷水をぶっ掛ける、前作へのアンサームービー
悪を一種のヒーローとして魅力的に描いた作品は、時に暴力の連鎖を産むことがある。作者が自らの妻が暴行されたことを元に書いた『時計仕掛けのオレンジ』は映画化され、感化されたフォロワーたちがいくつもの暴力事件を起こした。そのうちの1人が悪名高きアラバマのウォレス州知事の銃撃事件を起こし、彼の獄中手記は『タクシードライバー』の原案となり、タクシードライバーを見て影響されたある男が今度はレーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。前作『ジョーカー』はもちろんタクシードライバーに強く影響された作品でもある。
ジョーカーを気取って無差別テロを起こした人間がいる(ここ日本にも)。アメリカでは虚言癖の権力者に煽動された大衆が議会を襲撃した。この映画はジョーカーを讃えるような愚かな大衆に対して、バケツで顔面に冷水をぶっ掛けるような、監督自身によるアンチ・カタルシスな前作へのアンサームービーだ。前作で悪のカリスマに祭り上げられたジョーカーを、アーサーという1人の惨めな男に戻すための。
監督が観客の期待を裏切る意図を強く持っていた事は、あの階段のシーンが無いことでも明らかだ。予告編どころか海外ではポスターにも使われていた、ジョーカーとハーレイが裁判所の階段を踊りながら降りるシーンは本編には登場しない。
アーサー・フレックは世間で勝手に醸成された理想のジョーカーのイメージを期待されるが、それによって“アーサー”を慕ってくれた人々を傷付けることになる。そしてジョーカーではなく、アーサーとしての言葉を語ったところで「思ってたのと違う」と言われ周りから捨てられるのだ。この映画を見た観客たちの態度と全く同じ状況である。本作はいきなりルーニー・テューンズ風のアニメーションで始まるが、ジョーカーが自らの影に振り回されて破滅する、という話がすでにそのまま本作の内容を示している。最後の展開はセリフも含めて前作でアーサーがマレーにしたことと同じでもある。
なお劇中で鑑賞される『バンドワゴン』(1953年)はハリウッド黄金期の古き良きスタジオ製ミュージカル映画の最後の傑作とでも呼ぶべき作品。ほどなく社会の変化についていけなかったミュージカル映画は急速に斜陽となり、オリジナル作品は消えてブロードウェイ作品の映画化に取って代わられる。劇中の舞台と思われる70年代末頃には『ニューヨーク・ニューヨーク』や『ワン・フロム・ザ・ハート』がかつてのミュージカル映画の復活を期して製作されたが、興行的には失敗に終わった。バンドワゴンの主人公、忘れられたかつてのスターは周囲の期待に見事応えて愛と称賛を手にするが、人生はミュージカルのように全てがうまくはいかないのだ。
続編というより上下巻みたいな
ひとりの人間に起こった出来事が完結した、そんな物語で良かった。
私は前作に対して、親近感と、同族嫌悪と、嫉妬を抱いた人間なので、今作の死亡エンドは、展開に驚いたけれども、ハッピーエンドではない点において溜飲の下がる思いだった。
ただ、判決を下されて刑務所で過ごすエンドではなく、他人から殺され、その人は次のジョーカーになるかのようなエンディングは、ちょっと「物語的」で「特別な感じ」で、「ジョーカーは不滅」感があって良かった。
ひとりの男は死んだけど、ジョーカーは生き残ったみたいな。
ガガ最高だったよ!!!!
アーサー物語
ジョーカーではなくアーサー。
ふと、ジーザス・クライスト=スーパースターを思い出した。誰も本当のジーザスを知らず、知ろうともせず、祭り上げたかと思えば偽物だったのかと石を投げる。群衆は浅はかで恐ろしい。
アーサーも同じ。
群衆は熱狂的にジョーカーを崇拝する。リーも同様。群衆の熱は簡単には冷めない。ヒーローを信じる事が唯一の希望だから。しかし、リーは違う。もっと冷静だ。
リーはマグダラのマリアではなかった。リーもジョーカーの中のアーサーには気づいていた。弱いアーサーが強いジョーカーとして覚醒するのを最前列でみたかったのだ。群衆よりも遥かにその期待は大きかった。
それ故に最後の階段のシーンは2人にとって切ない。ジョーカーが『誕生』したあの階段でジョーカーは『死んだ』。部屋で銃口を自分に向けていたリーは夢から醒め、リーに決別し、ある意味『死んだ』。ジョーカーに見切りを付けたリーは後にハーレイ・クインが『誕生』したのだろう。
唯一ゲイリーだけが本当のアーサーの一部を知っていた。そして彼の証言が虚勢ジョーカーを元のアーサーに戻した。そしてあの最終弁論に繋がる。
ラストのアーサーの表情。ジョーカーではなく小さな小さなアーサー。悲しく虚しいけれど穏やかにも見えた。
1作目はそんなに好きじゃなかった。ジョーカーは理解不能で猟奇的であって欲しかったから。トラウマがジョーカーを生んだ、というくだりがありきたりでしっくりこなかった。
しかし本作を観てトッド・フィリップスの思惑が見えたようで腑に落ちた。彼はもともとジョーカーに興味はなかったのだ。理解不能な極悪人ジョーカーなんていない。いたのは理解されない普通の人、アーサーだけ。彼の切ない人生の物語。そしてアーサーを通じて我々群衆の恐ろしさを描きたかったのかも。2作品観て良かった。スッキリ。
それを観客が観たかったか。
ミュージカルで観たかったか。
それは話が別。
賛否両論(つまりは酷評)の理由は分かる気がする。
だって観客も群衆であり、リーと同じくジョーカーを求めていたんだから。
※メモ
・採点は『アーサー』として。『ジョーカー』としては★1.5
・裁判所爆破→リーが助けに来る→復讐大量殺戮の始まり…って流れを一瞬でも期待した人いるよね?
・ミュージカル場面ちょっと多すぎかな
・キャサリン・キーナーは歳を重ねて雰囲気変わったけどそれがまた素敵
・ホアキンの演技が上手すぎる。最初の歌唱ダンスシーンがお見事
・リーが高らかに歌うほどガガになる。ピアノの弾き語りなどガガそのもの。現実に引き戻される。その意味でミスキャスト。もっと歌唱シーン少ない方がガガがリーになれたかもね
これはもうスモーカー
前日に無印観て予習して、
無印はほとんどアーサーの妄想、空想で構成されてる派の自分からしたら、2もそうなんじゃないかと妄想オチが冷めるタイプなので、不安になってしまっている自分がいた。
joker2をいざみてみると、
もうずっとタバコ吸ってるホアキンフェニックス。
もう2/3のシーンはスモーカーしてたんじゃないかってくらい。
自分も喫煙者だから映画館で吸いたくなってしまう。
きっとミュージカルと喫煙のシーンは、
アーサーの妄想や空想劇の最中なんだろうな。と解釈。
ラストのシーンで、本来何者でもなかったアーサーが、何者でもない青年に刺殺されたのは因果応報で、マーレーを射殺した時とシンクロしてたのは解った。
考察で見た、後のバットマンと対峙したジョーカーは、アーサーではなくこの初代ジョーカーを刺殺し、己の口を裂いた次世代ジョーカー。
この考察はとても好き。
ハロウィン前に上映してどんな影響をもたらすか気になっていたが心配には及ばなそう。
個人的にはジョーカーに大暴れするシーンがひとつやふたつあればもっと満足できたと思う。
無印のラストシーンから勝手に期待してしまった。
勝手にイメージしてしまいテンポも悪くて退屈気味に感じた。少し残念。
映画としての完成度は高い
前作鑑賞済み、たしか前作は大ヒットしたが、今作はいまいち評判がよくないように思えた。
前作により精神病に収監されたアーサー、裁判を待つ身となる。狂気は潜めているよう。タバコをよく吸う、看守にもらったり。死刑を待つ身だが弁護士は精神鑑定で無罪を狙う。
精神病院のプログラムで彼のファンのリーに会い恋に落ちる。アーサーとリーとのJOKERとハーレクイーンとの恋のお話し。
個人的には完成度は高い、好みの映画だった。ときおり入るJOKERの妄想シーンのミュージカルも良かった。妄想の中のかれは狂気と自信をもっているが、現実のアーサーはひどく弱い。
リーはアーサーにではなくJOKERに憧れを抱いている。そのギャップの中でアーサーはJOKERになろうとするが、なりきれなかった。
自分自身を認め、裁判は進む。
ゴッサム・シティの話だからJOKERになりきるのかと思ったが、アーサーのままだった。
惨めなアーサーで死んでいくか、狂気と崇拝のJOKERで死んでいくか。そんなお話しに思いました。
歌唱シーンも音楽、映像どれも好き。ラストも含めて暗い話だから評価は高くないのかと思いました。見応えのある一作。
素晴らしい!
最初は、すべてのシーンに意味があることを読みとれずに批判していましたが、全く違いました。リーは実在していないこと、ジョーカーの話ではなく、アーサー・フレックの話であること、人はゲイリーの目線を持てるかが主題であること、この映画に対する批判すらも織り込んでいること。。暗喩に満ちた、重厚過ぎる(だからこそ一般の人には理解できず、受け入れられない)傑作だと思います。
アーサーの涙
感想文にしたらば、長文必至なので、箇条書き。
・『JOKER』でなく、『ARTHUR FLECK』のタイトルにしたら、
誰も文句を言わなかったのに(でも、ほとんど誰も観たがらないなあ)。
・冒頭のアニメで、作品の骨子は説明済み。
ジョーカーの影が独り歩きして、本体だったアーサーことなど、
誰も気にかけていないよ。でも、権力に潰されるのはアーサーだけ。
影は、次のジョーカー役を探せばいいんだよ。
・映画(That’s Entertainment)も、外の世界(That’s Life)も言うことは一緒。
社会のせいにするんじゃないよ。個人責任だろう、と。
ジョーカー的な問題の根源(貧困、格差…etc.)をアーサー個人の問題に狭めようぜ。
・ジョーカー的な存在が生まれざるを得ない社会システムは現前に在る。
アーサーは、たまたま、ジョーカーの役に当たっただけ。犯罪統計学の問題。
何でもかんでも、個人の責任に押し付けるのは無理筋。
・小人さんのゲイリー・パドルズに「君だけはぼくをバカにしなかったのに」と
なじられて、涙ぐんだ時点で、アーサーはジョーカー失格。
ゲイリーは可愛かった。ガガより可愛かった! (★1~2個はゲイリーの分)
・ジョーカー(役)の自己否定。ガガはハーレイ・クインになり損ね、
ハービー・デントは一介の検事のまま(顔は焼けるけど)。DCU全否定w
アーサーかジョーカーか
誰かに愛されたい。というアーサーが、
惜しくもジョーカーという側面だけ愛されてしまった。
その結果、裁判所は爆破され、アーサーは殺されてしまう。
リーや民衆、そしてジョーカーを期待した映画鑑賞者も加害者になり得るだろう。
リーがアーサーに薬をやめさせたが、歌によってジョーカーの登場を助長させていた。
ジョーカーが出てくるタイミングを思い出すとその多くがミュージカルが引き金になっていたと思う。(うろ覚え)
私もミュージカルがやりすぎだと感じたが、それはリーによる狙いだったのだと最後の階段のシーンで感じた。
リーがミュージカルを始めようとしたが、アーサーは拒否。
アーサーはアーサーで、ジョーカーではなくなったので拒否ができたのだろう。
歌とタバコがこの映画での重要な役割だと思った。
リーに会う前はタバコも吸っていなかった。
薬もやめ、タバコも吸い、ジョーカーとしての自分を自信づける歌が始まり映画は進んでいく。
ざっと他の方のレビューやコメントを見ると、
良いレビューは、アーサーという人間の映画としてみた人
悪いレビューは、ジョーカーとしての物足りなさ、そしてミュージカルの嫌悪感。
下記は私のかなり偏った意見だが、
ジョーカーとしての物足りなさを訴える方は極端な話社会に不満を持っていて、ジョーカーに代弁でもしてもらいたいのかと思ってしまう。アーサーを心配する余裕がないともとれる。
ゲイリーの話から、
「ジョーカーになり得てしまう人には必ず理解者が必要である」
というメッセージ。
囚人を絞め殺した看守が、最後アーサーに会釈(仕事を続けられている)する話から、
「現代社会には変えられない闇が一定数存在する」
というメッセージ。
この映画を見終わってエンドロールの時間で、
自分の周りの人間でジョーカーになり得てしまう人がいないか頭の中で探してしまった。
好きな傾向の映画ではないけど面白かった
前作のような雰囲気を求めて行くと正直ガッカリするけど、映画としてはかなり良い出来だと思います。
前作の社会的な影響を考えると、あの終わり方にせざるをえないし、下手に犯罪者万歳みたいな終わり方だけにしなかったところは英断だったように感じます。(ただ洋画で爆発オチ使われるとは思いませんでした。笑いどころじゃないのに笑ってしまった)
ミュージカル調が合わない人もいるかと思いますが、ラストのあの終わり方にするための「溜め」だと考えると良い舞台装置だったなぁ、と個人的には推したい。(最初のアニメもそう言う感じにするよ、って前フリ入れてくれてたし)
ただ、なんも知らないで見に行った率直な感想は、「なんか知らんが汚いララランド始まったな」でした。いや、拒否反応はなかったんですが。
けど、結局あの映画の主軸が「ジョーカーは死刑を回避できるか(脱獄できるか)」なのか「アーサーはジョーカーになれるか?」なのか、そこら辺がよくわかりませんでした。でもサブタイを考えると「リーと幸せになれるか?」なのか…?わからん…。
有識者コメントくれると助かります。
重くてつらくて、 かなしい
あと一週間は引きずりそうです
歌のとおり、ザッツエンターテイメント(ジョーカー)
と
ザッツライフ(アーサー)
もう、歌はいいから話をしよう
と言ったアーサーを受け入れなかったリー
ジョーカー推しの大衆もそう
映画館を出て、雲一つない青空で少し救われました
ストーリーというか、気持ちは、本当によく描けていたとかんじました
全作は納得
映画論とかそういうものは無く、ただ興味があるものを見ています。
本が読めない(じっくり活字に向かっていられない、何か始めちゃう)
人間なので、映画館でその時間に浸からないと最後まで物語を完結できない
そういう映画ファンです、多い時は月3本くらい見ています。
で前作は「差別貧困病気いじめ等、日本でもありうるドロップアウト物語」
として納得できる映画☆4.3評価でしたが、その後の裁判や神格化した応援者
などになるとさすがに・・・。特にミュージカルが苦手なので、妄想とミュージカル
両方入ってきて支離滅裂になっちゃいました。ただ終盤10分~のシーンはさすがに
映画として引き込まれました。なので3.5の評価です。レディガガと気が付いたのは
映画が始まってしばらくたってからw
期待度◎鑑賞後の満足度○ 『JOKER,』とはあるindividual を指していたのではなく、伝播する「狂気」「妄想」というphenomenon を指していたというオチの付け方。
①DCコミックスの「ジョーカー」というのは誰もが知っている確立したキャラクターなのに、あんな最後を迎えさせるとは誰も予想していなかっただろうから、もうトッド・フィリップ監督は確信犯というしかないだろう(前作から意図していたかどうかは分からないけれども)。
後から思うと、冒頭のアニメはこういう結末になることを暗に示していたのかも。
②映画としては、ミュージカルという体裁にしたせいかドラマ的に前作ほどの緊迫感はなくややタルい(前半はまだましだけれども)。
ただ、大好きな『Bewitched, Bothered and Bewildered』をアーサーが歌うシーンには感激したし、『(They Long to Be) Close to You』はどのシーンで使われるのかと思っていたらあそこで使ったのもなかなか良かった。
で、★★★⭐が妥当かと思ったが、上記のシーンの他、『That's Entertainment 』『There Is No Business Like Show Business』『Get Happy(どうしてもジョディ・カーランドが歌い踊るシーンが脳裏に蘇ってしまう) 』等懐かしいミュージカルナンバーがそこかしこで流れるので⭐一つオマケ。
③「狂気」というショーを始めた者がそのショーから降りた時に訪れる末路の姿と、それでも一度始まった「狂気」というショーは続いていく、ということを描いた映画だと思うが、もう少し穿った見方をすれば、あのラストはアーサーの役目(ショーを始める)はショーが始まったのでもう必要なくなり用済みとなった姿であり(結局アーサーに戻ってしまったし)、『JOKER 』という「狂気」の虚像によるショーが止まらなくなった(裁判所の爆破シーンが、その切り替わりを象徴するシーンだと思う)、誰もがJOKERになる、なれる世界が始まったということだと思う。
④も一つ想像を働かすと、リーが生んだ子どもが本当の「JOKER」になるのかも。
更に深読みすると、彼女は実はアーサーの種(DNA)が欲しくて近づいたのかも、つまり本作は“HARLEQUINE=JOKER=JOKERの母 ”の話なのかもしれない。
⑤鑑賞しながら思ったこと。ミュージカルという形態にしたのも悪くないな、と。だって私達の日常もミュージカルみたいなもの、音楽に溢れてるでしょう。少なくとも私にとってはそう。何かするのも大概鼻歌交じりでやってるし。仕事中でも時々鼻歌歌ってます。おおびらっにしないのは一応職場ではやらない方が良いという一般社会通念に合わせてるだけ。許されるなら時々踊りたい。
私の中にもJOKERは居るみたい。
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