ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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誰もが「アーサー」として人生を知る
前作は現実に虐げられた男がいかにして
「ジョーカー」となったのかを描いた。
本作はそれを前振りに今度は反対に
世間から注目を浴び、神格化された男がいかにして
「アーサー」となったのかを描く。
前作の関心事がどこからどこまでが現実で
どこからどこまで妄想だったのかに余白を残す作りだったのに対して、
本作はその種明かし、そしてより人間ドラマとして完成された作りとなっている。
名物司会者を生放送中に銃殺するという前代未聞の事件から2年後。
閉鎖病棟と法廷を舞台にアーサーは恋をし、
また「ジョーカー」というペルソナをかぶり始める。
もちろん、劇中に挟まれる妄想やバカ笑いなども健在。
ただ、前作とは異なり、本作は
現実と虚構が明確に区分けされている。
これは掃きだめとは言え閉鎖病棟での治療により、
アーサーの精神状態が前作よりも安定したことの表れだろうか?
虚構は一流のエンターテナーであるレディー・ガガにより、一層華やかに、
現実は一流のアクターであるホアキン・フェニックスにより、一層痛々しく、
描かれた。
虚構はずっと見ていたくなるが、現実は目をそむけたくなるばかり。
虚構は持ち上げ、現実はたたきつけてくる。
劇中主題歌の歌詞のように。
ドット・フィリップス監督は「ジョーカー」の根っこを描きたかったのではなく、
「アーサー」というキャラクターを描くために「ジョーカー」を使った。
結局は「ジョーカー」というキャラクターが放つ呪いともいえるものに耐え切れなくなった
男は「アーサー」に戻ることになる。
その姿から「ああそもそも生きるってこういう事だ。人間だって他の生き物と変わらない。
力が弱ければ踏みつぶされるし、頭が悪ければ飢え、擬態を辞めれば、それにだまされていたやつらに食われる」
前作の方が浮遊するような面白さはあったが、本作はまた別の「引力」を感じるような
趣深さがあった。
そんな煙草の量がより一層増えた今宵。来月の健康診断が楽しみだ。
アーサー
上手い幕引きだなと思う。
オリジナルが死ぬ事で、以降、ゴッサムシティを混乱に陥れバットマンと敵対する「ジョーカー」を模倣犯として切り離せる。
ジョーカーの信者が、あのメイクとあの衣装を身につけて「ジョーカー」を名乗ればいい。
ジョーカーを産んだのはアーサーでも、その後のジョーカーはアーサーでは無いわけだ。
アメコミを知らないから、作中に語られるエピソードは原作にあるものの解釈を飛躍させたものなのかと思って見ていたのだけど、どうにも違和感が拭いきれない。あまりにも狭い主観のような世界観で物語が進んでいく。
1番の違和感は「歌」だ。
コレをどう理解するべきなのか…。
外の世界観はほぼ漏れ聞こえてくるような状態で、熱狂だけが伝わってくる。
時折、挟まれるジョーカーとしての怒り…アレを具現化して第1作がジョーカーのカリスマ性を生み、大衆が感化されていくのだろう。アーサーである時にでも彼を発端に周囲が狂乱していくようなシーンもあって、ジョーカーとしての立ち位置が分かり易いなとも思った。
だが…
「歌」がなぁ…。
それまでのアーサーの人生には無かった感性が「歌」なんだろか?「歌」自体にも含まれるモノはありはするが…アーサーにとっては異質にしか思えない。
彼はずっと周囲に翻弄されてた。
リーには特に。
利用されようとしていたのか、騙されていたのか、恋愛を知らないアーサーが愛に絡め取られていく。
でもさ…アーサーには妄想癖って設定があって、コレがどこで発揮されてたのかと思うと、リーとの時間自体が嘘くさく思えてもくる。
つまりは歌が絡んでくるシーンは、全て彼の妄想とか。とても厄介な構成になってしまう。
そんな事は無いのかもだけど、どうにも作品としても整合性があるような無いようなで、始末が悪い。
どれがホントでどれか嘘なのか?
ジョーカーってキャラの本質を問うてるようにも思うけれど、作品としてはホアキンの芝居も相まって高尚すぎてタチが悪い。
ホアキンは流石であった。
ホントに。
ジョーカーであるアーサーも
アーサーであるジョーカーも
しっかり背負ってた。
冒頭、収監され痩せこけたアーサーからは、ジョーカーの片鱗なんか微塵も感じない。
が、その佇まいが異様で、居るだけで異様だ。
無気力な瞳、生気のない体つき…ジョーカーの燃えカスみたいだった。このアーサーを作り上げた時点で、本作におけるホアキンの仕事の8割は終わったんじゃないかと思える。
そして、あの笑い方…あんな声量で笑うのに、なんとも寂しくてやるせなくて、ホントによくぞアレに辿り着いたと賞賛の雨霰である。
アーサーの最期なんかは、息を呑む。
ボロ雑巾みたいに朽ちていく。
俺の中でホアキンと言えば、必ず出てくるカットになった。
ガガは…なんなんだろなぁ。
あんま彼女である事に必然性は見出せなかった。
ホアキンのジョーカーは、これで見納めだろう。
めでたくバットマンシリーズへの橋渡しも無事に終え、「ジョーカー」の名前と存在だけが1人歩きしていく。
狂人の如きジョーカーはアーサーではなく、突如笑い出す奇病も持ち合わせてはいない。
冒頭のアニメにはたまげたけれど、思い返してみるとアレはプロットみたいなもんだったのだな。
ジョーカーってタイトルで、アーサーを克明に描いた作品だったのだな。
2回目の鑑賞で気づきました
前作とのあまりの違いに“肩透かしを食らった”と酷評した後、何かモヤモヤとした気持ちが残り2回目の鑑賞をしました。
なるほど、そういうことか。
まんまとミスリードされていました。
前回のレビューを撤回し削除しました。
共感して下さった皆さん申し訳ありません。
アーサー・フレックの振る舞いや、ジョーカーを信奉する連中に、バットマンが登場しないジョーカーの世界にあって、鑑賞者である自分はヒーロー気取りで嫌悪し批判的な気持ちになり、法廷での最終的な展開に彼らに対して“ざまあみろ”的な眼差しを向けていたはずなのに、最終的なアーサー・フレックの境遇には落胆してしまいました。
切ない終わりではあったものの、ジョーカーが消えることに安堵やハッピーエンドには思えませんでした。
「ジョーカーは?これで終わり?」前作で勢い良く振り出したバットは空振り?
自分も法廷から去っていった信奉者と同じくジョーカーに何かを期待していたのです。
いや、期待させられていたのです。
ミュージカルシーンも、心のどこかで「こんなのいらないから、もっとジョーカーなアーサー・フレックが見たい」と。
知らぬ間にジョーカー信奉者になっていました。
そして新たに生まれてくるであろうジョーカーに一抹の期待も、、、
真のジョーカーは、この作品を見る者の心を操ったトッド・フィリップス監督かも。。。
ミュージカル&法廷劇(?)
私にとっては「バットマン」のジャック・ニコルソンのジョーカーが「ジョーカー」なので、どうにもピンとこなかった。
題名が「アーサー」だったら、印象は全く違ったかも。
ジョーカー コレ・ハ・ドゥ なの?
中途半端な★3.8
配給会社の煽り文句で、もう少しだけ作品の方角を示してもよかったのではないか。私は公開からしばらくしての鑑賞だったため、当サイトや米国サイトのレビューをチェックしておりガッカリ度ダメージは相当に少なく済んだ。
然るべく、エンタメは常に賛否両論あるもの。とはいえ否定的な評価は受けたいものではないだろう。ならば何故バットマンファンを直球で期待させてしまうような予告に留めたのかとおもう。興行収入へのアプローチとは理解するのだが「衝撃の結末」という訴求はアラートとしては遠回りすぎやしないか。
本作の物語のスジはこうだろう。前作は言ってみれば「ジョーカー0(ゼロ)」で、今作が「ジョーカー0.5」。以上は『アーサー編・ゴッサム犯罪の夜明け』だ。次は無いかもしれないが、あるとしたら「ジョーカー1」(スターウォーズのローグワンの位置)それから「BMビギンズ」「ダークナイト」「DKライジング」ってことですよねえ。思いっきり推測ぐるみはご容赦いただきたい。そんなスジを知らなかったもので、観る前は今作てっきり「ジョーカービギンズ」とばかり思ってしまった。
私も含めてノーラン's バットマンが「至上」と思っているヒトは多いわけだから、今回のがジョーカー0.5だよと判ってさえいれば、大ラスの出来事は非常に衝撃的なものになっただろうし、ヒース・ジョーカーの『何でこんな男が世にでてきたのか』という遥かな疑問への、かなり腹落ち感のあるアンサー作品になり得たはずだと思うのだが。
そんな個人的かつ身勝手な妄想で本作を捉えてみれば、重要なゴッサム史ムービーとして受け止めることができた。デートムービーではなく、激コアなやつ。
文字通り判定をブチ破った大爆破。あーキタキタこれがゴッサムシティのカオス!始まっちまった。ゴッサムのカオスそのものはアーサー、君とアーカム精神病院から生まれたのだと。急げブルース!ああ、そういえばまだ修行中だよな(泣)とね。
まあ…それにしてもだ。せっかくのヒリヒリした恐怖感を、妄想とはいえ甘い歌で中和してしまうことの繰り返しにより全編を冗長なものにしてしまった。アーサーの二面性の表現方法は他にもあったはずだ。カガ起用の副作用はいかにも残念。
気分悪いが見応えがある
社会的弱者がいたぶられる映画なのでストレートに気分悪いです、感情移入しやすく演技が素晴らしいがため胸くそ感も増し増しです。
どんな気分かというと、2時間ずっと辱めを受け、ジョーカーは本当は惨めで弱くて知能が低く童貞で社会に嘲笑される道化、憐れなピエロ、最後には期待を裏切ってしまい、自らも裏切られ、社会に殺される、まさにピエロの中のピエロで、それは理不尽すぎる今の社会を生きる自分たちに向かって、まさにオマエのの物語だよと言われた気分です。
私は見栄を張る人間なので、良い車に乗り、金持ちそうにして、幸せそうに生きる人間ですが、それがメッキを剥がされ続けることに共感し苦しみを感じましたが、またそれとは別に癒やしでもありました、ああこれは本物のピエロを見ているのだという気持ちで、そういう意味ではすんごく鮮烈に記憶に刻まれる映画。現代のみせもの小屋なのかもしれまへん。
しかし、しかし、こういう映画を求めてはなかったので精神的なダメージがあるので、万人には決してオススメなどできません。
幻の「初代ジョーカー」の男のストーリーとも受け取れます
この作品にガッカリした人々の気持ちも分からなくはありません。美しく色気たっぷりの赤いスーツのジョーカーが完全ヴィランとして楽しそうに踊りながらも、一方で暴力や殺戮に走り街を混乱に陥れる内容だと期待した人も多いと思います。確かに私もそういう世界線を見てみたかった思いもあります(アーサーの妄想の中でチラッと「そういう世界線」も一応描かれてはいますし、タップを踊るジョーカーは格好良いです)。しかし、この作品はかえってそういう路線に行かないことがむしろ良かったのかな?とも感じます。反発が来ることを怖れずこの内容にした監督や俳優、スタッフらに敬意を表します。米国では酷評とのことですが、アメコミや原作バットマンにそこまで深い思い入れがない日本人の方がこの「情緒・わびさび」のある人間ドラマを理解できるような気がします。
映画の最後で確かにアーサーは亡くなりました。しかし「ジョーカー」という概念はほかの人物の体を借りて、永遠に生き続けることとなりました。アーサーを匿おうとしたジョーカーコスプレ兄さんや、アーサーを最後あんな目に遭わせたサイコ男など、アーサーが「ジョーカーとして生きるのを止める」と決意しても、別のジョーカーが生まれる土壌は既に出来てしまっている。ある意味アーサーは、「完全な悪にはなり切れなかったが、確実に初代ジョーカーだった」と言えるのではないでしょうか。もしかしたら二代目になるのはサイコ男やコスプレ兄さんかもしれない。そして二代目ジョーカーが、大人になったブルースウェインと対峙することになるのかもしれない。そうすればバットマンの本来の世界とも繋がる。
日頃ほとんど映画を見ない私が、ホアキン主演のジョーカー映画2本だけはチケットを買って見に行きたいと思ったほどの魅力ある作品でした。批判の多いミュージカル部分も、色彩のないアーカムの生活にカラフルな色を添えていて、衣装を変えて新たな魅力をふりまくジョーカーが見られて良かったです。こういう人が現れたらそりゃ人々は熱狂するよなあ…と思わせる説得力があります。
前評判が良くないという理由だけで「見るの止めた」と決めるのはもったいないような気がします。
間違いなく映画館で観るべき傑作、ネット評のせいで観ないのは損
アーサー・フレックという一人の男を人間に戻そうとする人々と怪物に成らせようとする人々が綱引きする映画。中心にいるアーサーを引き裂いても止まらない、狂っているのは周りの人々の方。
怪物にならなければ愛して貰えない。でも例え怪物になったとしても、愛されている「それ」は自分ではなかった。アーサー自身も狂ってしまえたらいっそ楽だったのかもしれない。
前作が「弱者は暴力によってしか世界と繋がれない」事を描いた作品だったとしたら、今作は「弱者は暴力に頼ってすら、結局は世界に居場所を見付ける事ができなかった」っていう更に更に救いようのない現実を突き付ける作品だった。それはもうミュージカルにでもしないと辛くて観ていられないくらいに。
アーサーを離れて、ジョーカーという影だけが激しく踊りだして、やがてアーサーそのものを必要としなくなっていく。そして影は次の誰かを飲み込んで、ジョーカーという幻想だけが引き継がれていく。
冒頭のアニメで映画の全体を全部説明してくれてるんだけど、それがホアキン・フェニックスとレディー・ガガの名演で繰り広げられると胸をえぐられてどうしようもなかった。
アーサー本人を、一人の人間として、たった一人だけ見ていてくれた存在は、同じく最も弱い境遇にあった小人症の彼だけだった。
(多分最後に面会に来たのも彼だったんじゃないかと思う。)
ジョーカーフォロワーと見せかけたガガ様が、実は最も強烈にアーサーを奈落に引きずり込もうとしている楽園の蛇の役割で、その声音と目線があまりにも蠱惑的でたまらなかった。
二人で踊っているんじゃなく、ガガ様に呪いをかけられて、死ぬまで踊り続けることを強いられているだけのアーサー。
ラスト手前、愛した人に殺してすら貰えない、アーサーの悲哀が極まってた。
アーサーの狂気が人々に伝播していくんじゃなく、アーサーの虚像に狂った人々の妄想が、アーサーを死ぬまで苦しめる。そう意味でのフォリ・ア・ドゥだった。
前作があまりにも成功してしまったために、世界にまかれてしまった「弱者がこの世界を抜け出せる唯一の道は暴力なんだ」という幻想、呪い。
それを解くための今作で、無事にアーサーは人間に戻って、それでよかったはずで、なのに…という所で映画は終わる。
世界に必要なのは愛なんだとどれだけ繰り返し歌っても、それは決して世界に響くことなく、暴力という希望だけが更に更に伝染していく。
これまで描かれてきたどんな「悪」よりも怖い。そう感じたのは自分だけなんだろうか。怖い怖い映画だった。
制作者が混乱した映画だったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はずっとこの映画を観ていて、一体何を描きたいのか良く分からない作品になっていると、1観客としては思われていました。
するとようやく映画の終盤辺りで、以下の事が描かれていると分かって来ます。
A.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、多重人格者の精神病者として認定されれば、死刑の有罪を免れられる
B.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、精神病者でなく、全く一貫性ある正常なカリスマとしてのジョーカーそのものの犯行であったと認定されれば、死刑の有罪にはなるが、カリスマのジョーカーとして殉教者になれる
つまり、今作は映画『ジョーカー』で主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)が犯した5人の殺人事件(実際は母親を入れて6人の殺人事件)を、裁判で裁く物語だったことがようやく映画の最終盤で分かるのです。
ところが、この映画のトッド・フィリップス監督や制作者が混乱していると私的感じられたのは、この映画を、Aの主人公・アーサーは分裂病者の無罪とも、Bのアーサーは死刑の有罪だがジョーカーとして殉教者になるとも、描かなかったところにあると思われました。
つまり、
C.主人公・アーサー・フレックは、精神分裂病者でもなく、ジョーカーというカリスマでもなく、単なる6人の殺人者として死刑になるという結末
(実際は違う最期でしたが‥)
にトッド・フィリップス監督や制作者がしたのです。
なぜこれで監督や制作者が混乱していると私的感じたかというと、以下が理由になります。
メリーアン弁護士(キャサリン・キーナーさん)は、Aの主人公・アーサー・フレックが精神分裂病の精神病者だとしてアーサーの無罪を勝ち取ろうとしています。
しかし、メリーアン弁護士が、アーサー自身のBのカリスマ性(ジョーカーの存在性)を、Aのアーサーが精神分裂病との主張により失わせようとしていると、主人公・アーサーは逆に激怒して、遂にメリーアン弁護士を解任してしまいます。
そして主人公・アーサー・フレックは、ジョーカーとして本人訴訟の法廷に立ち、いかに自身がカリスマとして存在しているかを法廷でアピールします。
当然この振る舞いは、Bのカリスマ性=ジョーカーの実在性の証明の証言であり、アーサー=ジョーカーの精神は一貫している(精神病ではない)つまり有罪の死刑になる主張であり、しかし主人公・アーサーはジョーカーとして殉教者になる、という主張でした。
ところがこの時の主人公・アーサーのジョーカーとしての法廷証言には、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソンさん)らを侮蔑する内容が含まれており、主人公・アーサーが刑務所に戻ると法廷のTV中継を見ていた看守のジャッキーらに激しく暴行され、挙句はアーサーに影響されて大声で歌い出した若い囚人(コナー・ストーリーさん)が煽りで看守のジャッキーに殺害されてしまいます。
そしてこの時の経験により、主人公・アーサー・フレックは、次の法廷でジョーカーの存在性を前回の主張をひるがえして否定します。
その証言によって、(Aの精神病による無罪でもなく、Bのジョーカーとしての殉教者としての死刑有罪でもなく)アーサーはCの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪になるのです。
ところが、1観客の私には、例え看守のジャッキーらの激しい暴行を受けたとしても、この時、若い囚人が煽りで殺害されてしまったとしても、主人公・アーサー・フレックが最後の法廷証言で心変わりをし前回までの主張をひるがえして、これまでの幼児虐待の経験などから生まれたジョーカーの存在を自ら否定するには、残念ながら根拠が薄すぎるように感じました。
(例えば、主人公・アーサーはこの時、若い囚人が看守のジャッキーに殺害された声を聴いたと、TV中継ある法廷で証言し、再び社会批判を繰り広げるカリスマのジョーカーとして振舞うことも可能だったはずです。)
すると、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、社会現象にもなったジョーカーの存在を、Aの多重人格者の精神病による無罪での生き延ばせも、Bの殉教者のカリスマとしてのジョーカーの死(死刑)も、外野の影響によって選択できなかった混乱がこの映画にあったのではと思われたのです。
つまり、Cの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪の主人公・アーサー・フレックの選択は、映画(の登場人物)の内在的な自然な方向性から出た選択ではなく、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、現実の映画の外野の圧力に屈して歪んで選んだ選択と感じられたのです。
もちろん、リー(レディー・ガガさん)の存在は、ジョーカーのカリスマ性の肯定の象徴であり、しかしそれをずっと主人公・アーサーとのミュージカルシーンなどで描き続けるのは、残念ながら個人的には映画にとっての時間稼ぎであり、今作の本質は最終盤の裁判の場面からでしかなかったと思われました。
仮に今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』への批判や不評があるとしたら、映画の内在性が指し示した自然な方向性を、(ジョーカーの存在を肯定するにしろ否定するにしろ)現実社会の映画の外野の圧力によって歪ませてしまった、監督や制作者による映画そのものの自らの内在性の否定から、批判や不評が来ていると思われました。
また今作をわざわざ制作する必要もなかったのではとも思われました。
ただ、アーサー・フレック/ジョーカー役のホアキン・フェニックスさんの演技は相変わらず素晴らしく、リー役のレディー・ガガさんの演技や特に歌のシーンは圧巻ではあったので、今回の点数に僭越ながらなりました。
トッド&スコット等なりの『ジョーカー』の終結
2024年映画館鑑賞96作品目
10月14日(月)イオンシネマ石巻
ハッピーマンデー1100円
監督と脚本は『スタスキー&ハッチ』『ジョーカー』のトッド・フィリップス
脚本は『8 Mile』『ジョーカー』のスコット・シルバー
吹替版で鑑賞
前回の続編
冒頭なぜかいかにもアメリカなコメディーアニメーション
ミュージカル映画
吹替だがホアキンとガガの歌う場面はオリジナルで字幕
『メリー・ポピンズリターンズ』の反省か
ホアキンの笑い声もオリジナル
これだけ字幕が多いならいっそのこと字幕版で観た方が良い
ミュージカル色が強いアメリカ映画は吹替は向いていない
本職が声当てでも日本語じゃダサい
しかもガガだし
今の声当てで熊倉一雄とか山田康雄とか石田太郎のようなオリジナル以上の俳優はいないし僕は吹替より字幕の方が好きだ
刑務所と裁判所が主な舞台
裁判所が爆発し脱走するもすぐに逮捕される
アーサーは自分の中にジョーカーはいないと証言する
離れていく恋人リー
最後は若い囚人に殺される
炬燵ライターが書いた記事によるとこの作品は賛否両論らしいが賛否両論なんてどの作品いや世の中の全てにおいて言えることだ
世間では『バックトゥザフューチャー』がつまらないと感じる人がいるくらいだから
そもそも世のなか同じ意見じゃ気持ち悪い
そりゃネット民は気に食わないとすぐにブロックしたり削除依頼したり👎したりするから賛否両論が当たり前だと感じないんだよ
安倍晋三は殺されて当然などと山上徹也を英雄視するような連中にはこの作品は向いていない
自分はそういうタイプの人間ではないので前作とはまた違う味わいで楽しめた
僕は日本の典型的左翼が嫌いなだけで別に取り立てて安倍晋三を支持していたわけではないしダークヒーローに魅力を感じるほど幼くない
他人の意見なんてどうでも良い
自分と違う意見が存在することを熟知していればそれで充分
星5の作品として堂々と身近な人に薦めたい
ぶっちゃっけ星1や2の人に対してこれほど「ざまあみろ」と思った作品は他にない
配役
5人殺し(本当は6人)の受刑者でジョーカーとして崇拝されている元道化師のアーサー・フレック にホアキン・フェニックス(平田広明)
アーカム州立病院の音楽セラピーに参加していた精神病患者のハーレイ・リー・クインゼルにレディー・ガガ(村中知)
ジョーカーを崇拝する若い囚人のリッキー・メリーネにジェイコブ・ロフランド(上村祐翔)
アーサーの弁護士のメアリーアン・スチュワートにキャサリン・キーナー(塩田朋子)
アーサーを死刑にするため責任能力の有無で弁護士と対立するゴッサム・シティの新任地方検事のハービー・デントにハリー・ローティー(山田裕貴)
アーカム・アサイラムのドS看守のジャッキー・サリヴァンにブレンダン・グリーソン(斎藤志郎)
証人として出廷したアーサーの元隣人でシングルマザーのソフィー・デュモンにザジー・ビーツ(種市桃子)
証人として出廷したアーサーの元同僚の道化師のゲイリー・パドルズにリー・ギル(越後屋コースケ)
アーサーの精神鑑定を行い証人として出廷した心理学者のヴィクター・ルーにケン・レオン(前田一世)
アーサーの裁判の裁判長のハーマン・ロスワックスにビル・スミトロヴィッチ(角野卓造)
アーサーにインタビューする人気タレントのパディ・マイヤーズにスティーヴ・クーガン(木下浩之)
アーサーを担当する民生委員のデブラ・ケーンにシャロン・ワシントン(伊沢磨紀)
若い囚人にコナー・ストーリー(福西勝也)
前作が好きな人は…
前作を観た感想は、「面白いが、世間が騒ぐほどか?」というものであった。そんな自分にとっては、今作は前作と毛色がかなり違い、ややエンタメ寄りになったな、という感想で、比較的楽しめた。
個人的には、「ジョーカー」、ではなく、「アーサー・フレック」という男に惹かれていたので、そういう人には好まれるのではないかな、と。
前作終盤の彼は、吹っ切れているように見えて、どこか悲しげにも見え、解釈が別れるな、という印象だったが、今作では彼のパーソナリティが掘り下げられ、解像度が増したため、そこを評価したい。
なので、個人的には全体的に結構楽しめた。
ただ一点、明らかに前作のラスト、カウンセラーと対面しているシーンのジョーカーとはキャラ描写的にも、時系列的にもどうやっても繋がらず、そこだけが気になってしまう…。
何が「現実」で何が「妄想」なのか、その境界全てが曖昧な作品。華々しいジョーカーの活躍を期待した者は、「熱狂的なジョーカーファン」だったということに気付かされます。
オープニングがいきなりアニメから始まり、面食らいます。
ショーに出るジョーカー、
しかしジョーカーの影が本体をロッカーに閉じ込めて
影がショーに出てしまう……というアメリカのカトゥーンよろしく
ドタバタ劇が始まります。
殺人を犯したアーサー・フレックは隔離病院みたいな場所にいます。
弁護士に会うため、職員が傘をさし、
アーサーがずぶ濡れで歩いて行くシーン。
空を見上げたアーサーを上から見るシーンがありますが
カラフルな傘の色は一体何を意味していたのでしょう。
全体的に1作目の暗く重々しい空気感はやや薄らいでいたけれど
隔離病院の暗さは陰鬱な気分にさせます。
ミュージカル調でリー(ハーレイ・クインゼル)とジョーカーが躍るシーン、
予告編では全く気付きませんでしたが
途中からアーサーの妄想なんだろうなぁ~と気づきました。
リーはどこまでウソをついていたのか、もしかすると全てがウソだったのかも。
そしてリーが興味を持っていたのは「ジョーカー」でありアーサーではなかったこと。
ガールフレンドを作った事がなかったアーサーはそれに気づく事ができず
何とも哀れな中年男だな……と気の毒に思ってしまいました。
最終的にリーはアーサーの元から去ってしまいます。
アーサーは「アーサー・フレック」ではなく
「ジョーカー」として周囲に見られていた事。
「ジョーカー」は熱狂的なジョーカーファンによって
「悪のカリスマ」に仕立て上げられてしまった事。
気弱で精神的に病んでいるアーサーとはどんどんかけ離れていきました。
そしてアーサーは「『ジョーカー』ではなく『アーサー・フレック』として
自分を見て欲しい」と心のどこかで願っていたのかも。
アーサーは「ジョーカー」であることを装っていたけれど
証人として出廷した隣人のソフィー、元同僚のゲイリーは
アーサーを「ジョーカー」ではなく
「アーサー・フレック」として見ていたのかな、と感じました。
元同僚のランドルを射殺した時、
アーサーは「優しくしてくれたから」とゲイリーを逃がしました。
そして今回ゲイリーは「アーサーだけが自分に優しかった」と証言します。
このゲイリーの言葉でアーサーの心が動いたのかなと。
それが「ジョーカーはいない」というセリフに繋がっていったのかもしれないですね。
それによって更なる悲劇が襲い掛かることになってしまいましたが……。
ジョーカーになったアーサーが華々しく脱走して、
これから悪の象徴として君臨していくのかと思っていたら、意外な結末でした。
ある意味裏切られました。
多分、誰もがそう思ったと。
そういう意味では自分を含めこの映画を観た者たちは
「熱狂的なジョーカーファン」だったということですよね。
アーサーは子供の頃から作り話や妄想ばかりしていました。
だから、この話のほぼ全てが隔離病院にいるアーサーの妄想かもしれません。
いや、もしかすると「ジョーカー」になったのもアーサーの妄想話かも。
何が「現実」で何が「妄想」なのか……その境界が全て曖昧であり
観る者の受け止め方や考え方次第でこの作品の評価は随分と変わります。
実際に賛否両論が凄いことになっているみたいですね。
この騒動を俯瞰的に見つめている者がいたとしたら……
仮にそれが「ジョーカー」という男だったとしたら……
自分を含む観客全てが
その者の手のひらで踊らされていたというのか、転がされていたというのか……。
何とも不気味な映画でした。
いろいろと考えさせられる映画でした。
個人的には良作でした
どこにでもいる不幸を背負った一般男性、世間から見向きもされない透明化された社会的地位の低い弱者男性が、突発的に罪を犯してしまった時に偶々ピエロの格好をしていて、それが偶々民衆に受けて熱狂的に崇められた。
これはそんなジョーカーの話でした。
おそらく皆が期待していた悪のカリスマでは全くないです。
すごく惨めに描かれてました。
でもそこが自分には刺さりました。
アーサーは民衆がイメージするジョーカーを演じるけれど、結局その期待には応えられませんでした。
かつての職場の同僚、小人症のゲイリーが法廷で証言するシーンが印象深かったです。
罪を犯してしまったけれど、アーサーは本来心優しい性格のはず、、、アーサーの事を見てくれていた人は身近にいたんだなあと。
反対にガガの演じるリーは、アーサーの中のジョーカーにしか興味がなくて、ジョーカーに気に入られたくて不幸アピールするけど実は全部嘘だったり、自身の境遇でジョーカーになってしまったアーサーとは正反対のただのヤバい人で上手く対比されていました。
みんなが期待していたジョーカーとは違ったかもしれないけれど、これはこれで良い作品だと個人的には感じました。
色々と考えられていて、こちらも色々考えさせられます。
法廷でアーサーが「ジョーカーはいない」と発言したことで、民衆は失望すると同時に理想のジョーカー像を膨らませて、真のジョーカーが誕生する、、、といった感じでしょうか。
アーサーが引き起こしたジョーカー騒動が引き金になって後にバットマンと対峙することになる、視聴者が期待するようなジョーカーを生み出した。
そういう展開を妄想したりして、鑑賞後も浸っています。
何故ミュージカルに???『ムーランルージュ』と『シカゴ』を混ぜたよ...
何故ミュージカルに???『ムーランルージュ』と『シカゴ』を混ぜたような演出が、あの衝撃的な前作の続編として相応しかったのか疑問。ガガのキャスティングはこのためだったのかとやや苦笑。あと、ベタな選曲にもちょっと興醒め。『ザッツ・エンターテインメント』はあのフレッド・アステアの明るいイメージが強すぎるし、『遥かなる影』『ラヴ・サムバディ』『魅せられて』なども、まぁ内容には合ってますけど…って感じ。『ゲット・ハッピー』を狂人が歌うのは、あの『ツイン・ピークス』へのオマージュなのか?あと、法廷シーンで"お願いだからここでタップを踏まないで…!"と思っていたら、法廷内ではなかったがそのすぐ後にタップがあって驚いた。やりたいことは分かる気もするが、何か違う。ボブ・フォッシーの『シカゴ』や『オール・ザット・ジャズ』のようなセンス、カッコ良さが感じられない。ラズベリー賞の対象にならなければよいけど…。
監督自ら
アーサー、ジョーカーを殺したんだと感じます
前作から5年を経てあまりに影響が大きい存在になったジョーカーを葬った。ケリをつけたとも取れます。
ジョーカーはあのジョーカーではなかったという結末ですね。 アーサーはアーサーを取り戻したとも。
全編にわたって妄想だった(髭剃りの出血から刺されて殺されるまで)という解釈もできます。
1番悪いやつはリーだった、これは本作にもっと悪い事をしでかすジョーカーを望んだ観客を揶揄する人物だったのかも。。
ただ、ミュージカルパートがありすぎる!彼の言葉を歌で表現するのはわかるが、彼からのセリフでパンチラインとして見たかった。
まぁ酷評するのもわかる気がしてますw
かつてジョーカーと呼ばれた、人間アーサーの話。
多すぎるBGMとミュージカル的な展開に終始戸惑う。特にアーサーの下手な歌と上手すぎるハーレークインのギャップは、没入感を妨げるものだった。
鑑賞後の帰り道。ひとり反芻でふと思いついたのは、ハーレークインの存在や脱獄、法廷劇そのものがアーサーの妄想、すなわちミュージカルという仮説。
前作では妄想由来の破壊衝動だとすると、今回は妄想による恋愛劇。そのキッカケはクスリ。妄想が真逆に転じた。
その対象はハーレークイン。なるほどねぇー。
ファナティックな彼女は法廷を取り囲む群集の、言わば代表。アーサーの最終弁論での発言により洗脳から醒めたハーレークイン。残酷にも簡単に気持ちが離れていく。妄想でも気持ちが踏み躙られ、群衆からも走って逃げおおせる。
ミュージカルパートを除けば、単なる模範囚のアーサー。今やジョーカーは伝説状態で、カリスマ感は皆無。そのかつてジョーカーと呼ばれたアーサーを仕留めることで新たなジョーカーが・・・、プロローグとエピローグを繋げるだけでも十分に成立する。
前作はepisode.0的な位置付けなので、今作はヒースレジャー越えのジョーカーを期待してしまうのは世の必然。トッドラングレンとホアキンはその期待を淡々と裏切りながらも、1作目のコンセプトを貫き徹底して人間アーサーを描いたのではないだろうか。今作では誰も殺していないにも関わらず、オーディエンスはジョーカーを求め、メディアや看守には蔑まされ続けられ、八方塞がり。そんな状態で迎えるエンディングのカタストロフィ。
法廷劇の結末。アメリカ合衆国議会議事堂襲撃そのもの。あの時の恐怖が蘇る。
観たい画はわりとみれた。
ジョーカー2観てきた。
ネタバレあり。
首尾一徹わかりやすい映画で、これだけわかりやすいという事が、監督がいかに曖昧さを排して「ジョーカーはいない」というメッセージを伝えなきゃという使命感を持っているのかわかる映画でした。
アーサーは多分あのまま頑張ればジョーカーになれたと思う。
けど、それを阻止したのが、小人症の人の涙や、キスをした囚人青年の死だったのだと思った。
彼らは、アーサーとお同じように周りからバカにされてるけれど、アーサーだけは彼らをバカにしなかったからアーサーを慕ってくれた人たちで、そんな彼らを結果的に傷つけたり死なせてしまった。その罪悪感がアーサーをジョーカーにしなかったのだと思う。
最終的にジョーカーではなく、アーサーの分身のようなモブ囚人に殺される…というのが徹底して「ジョーカーはいない」を貫いているなと。
最後にホアキンがダニエルジョンストンを歌ってるのが、アーサーはジョーカーじゃなく、ダニエルジョンストンだったんだ…と思えて切なかった。
最初の面談のビデオ映像をみてすぐにビリー・ミリガンを思い出し、自分で自分を弁護するのはテッド・バンディを思い出した。
昔仰天ニュースでみたミリガンの面談映像思い出した。
ガガ様とホアキンのダンスも歌もタップも観れたし、観たいものは観た気になった。
面会室でカーペンターズ歌うところはとても良いシーンだった。
ジョーカーを昇華してアーサー
第一作は、ジョーカーの名を借りたレベルの高い心理ドラマだったけど、その救いようのない重さと暗さに、本作品を観るのは正直二の足を踏んでました。ところが、蓋を開けたら、監督のトッド・フィリップスの鮮やかな演出と主役二人のパフォーマンスに圧倒されました。舞台はほぼ刑務所と裁判所という閉塞感、天気は常に雨が降っている陰鬱さ。こんなシチュエーションで、主人公アーサーの心の叫びをまさかのミュージカルで表現するアイデアにビックリしました。さらに自分の理解者リーとの出会いによる内面の高揚感をさらに明るくポップなミュージカルシーンにしていく演出が素晴らしいです。そして、歌唱力には定評のあるホアキンとガガのデュエットはパンチがあって最高です。また、ストーリーにおいても、裁判の過程でアーサーが自分の本当の姿に気づいてしまい、リーから見放されてしまう展開は、あまりにも残酷で呆然とします。賛否両論ありますが、前作のような重厚な心理ドラマの二番煎じではなく、冷たい現実ときらびやかな幻想を織り込んでアーサーの真実を描き切ったトッド・フィリップスの度胸と才能には本当に感服しました。
織田裕二の気持ちがようやく理解できました。
非常に印象深い作品であった「ジョーカー」の続編。
鑑賞前は「あの作品に続編なんていらないのでは?」「レディ・ガガとくっつくジョーカーを見たいのか?」という思いもありました。
が、実際に劇場に足を運んでみると、いやいややっぱり見ていて興奮する訳です。ミュージカル仕立てでストーリーは進み、アーサーは理解者を得て、ジョーカーになることを一旦は決断します。
私自身も裁判所の前の信者たちの如く、「悪の権化」であるジョーカーの復活を待ち侘びてしまっていました。アーサーはジョーカーになり、リーはハーレクインとになり、悪逆非道の道に突き進む、というそんなラストを……。
しかし、物語はそう簡単に展開せず、アーサーに対して、アーサーであることを踏みとどまらせるのです。
「振り返れば奴がいる」というドラマがあります。織田裕二がある種のダークヒーローを演じた傑作です。彼は物語の最後の最後に唐突に殺されます。それはなぜかというと、演じた織田裕二自身が自分の役は「絶対に死ぬべきだ」と強く主張したそうです。
ダークヒーローはどこかでそのツケを支払う必要があるのです。ジョーカーを再度復活させれば非常に魅力的な終わり方として前作の支持者に喝采されたでしょうし、どこかでそれを期待している自分もありました。ですが、それをやってしまうと単なる前作の繰り返しの作品でしかありません。
そのような状況の中、ある種の因果応報をきちんと描き切った製作陣や出演者たちの勇気とケジメの付け方に拍手を送ります。
この映画の違った終わり方をどこかでいまだに求めてるもう一人の自分と向き合いながら、筆を置きます。
悪を誘うカリスマとして、担ぎ上げられたピエロ・・・
賛否両論!数々の想いが訴えられるのも納得です。
DC作品の中でも異彩を放った前作「ジョーカー」!本作は、更に異なる様相を現し、また違うジョーカーを見せてもらった気がする。
まるでミュージカル?作品のほとんどを占めるような歌声の数々。
勿論、レディ・ガガの起用も影響しているのかもしれないって言うより、この為に彼女をキャスティングしたのか?
ジョーカーに絡む女性と言えば、ハーレイ・クインが浮かぶんだけど、レディ・ガガが彼女なのか?
妄想シーンで歌い、踊る、二人の姿が見事にエンタメしてます。
この時点で、前作とはかなり雰囲気が違う。
こんなところが賛否両論の要因じゃないかな。結局は好き嫌い?
自分的には満足で、面白かった。ただし、途中で長い瞬きしちゃったけどね。まぁ、もう一度しっかり見てみようとは思ってます。
【ネタバレ。ラストに触れます】
そして、本当に衝撃的だったラストシーン。
まさか、あんなことになるなんて・・・
エンドロール後にオマケ映像でもあるのかと思ったら、そのまま終わってしまった。(これも賛否両論の要因かも)
結局、アーサーは、ジョーカーではなかった?
正確に言えば、バットマンのヴィランとなるジョーカーは、彼の意志を継いだ者だったということなのだろうか?
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