ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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人生で一番期待外れだった。
「ジョーカー」を観に行ったのにずーっとミュージカル映画を観せられて、めちゃくちゃラーメン食いたくてラーメン屋入ったのにカレーラーメンしか置いてなかったというくらいコレジャナイ感しかない映画だった。
ジョーカーが全然ジョーカーしてなくて
ジョーカーよりも看守の方が人殺してたのも「は?」って感じ。
前作がジョーカーが誕生して終わったので
さらに悪のカリスマになっていく様を期待していたら
全然観たいものではなかった。
とにかく歌ばっかで
歌声はめちゃくちゃ良かったけど
別に歌を聴きにきてるわけじゃない
「ジョーカー2」という企画が立ち上がって何かしら作らなきゃいけなくなっちゃったけど
社会的影響を考慮して監督が日和ったという印象しかない。
「カメラを止めるな」みたいに最初我慢してれば
後半メチャクチャどんでん返しで良くなると思ったら終わった。
「ジョーカー2」という気持ちで見るのではなく
全く別物として観るならまだ良かったかもしれない。
スターウォーズ8を思い出した。
「高水準な映画で、アーサーの哀しみと絶望を体現した作品だが、前作の予想外の反響に火消し的なアンサーに走ったように見える」
前作のレビューに未だにいいねを頂けるので、やめようと思ったけどアンサー的な感想になりますが、初日に近い時期に見て、予想よりもダウナーで2億ドルかかった大作なのに、内向的なアート映画感が強くてオヤ?となり賛否が分かれているのも納得の作品。
良かった点は、やはりアーサーを演じるホアキン・フェニックスの全てが凄く印象に残り素晴らしい!これだけで、ご飯三杯はいけます!
MGMの『バンド・ワゴン』やフレンチミュージカルの名作『シェブールの雨傘』など往年の名作ミュージカルの曲や映像オマージュの演出も所々あり映像や音楽も上出来で重い雰囲気からすると一瞬夢心地になる。(そのあとの現実との対比はキツいけど)
このミュージカル部分で不満をあげるとやはり往年の本職ダンサー出身の俳優と比べるとダンスパフォーマンスが弱いと感じる。
このへんは『ラ・ラ・ランド』にも当てはまるけどそんなにつつく点ではないのと、本職のレディー・ガガはパフォーマンスをホアキンと兼ね合いで抑えいるらしいけど
悲惨な刑務所生活と中盤から始まる法廷場面は、ある種の怒りと哀しみ満ちた衝動と行動をした事で現実世界でも多くの模倣犯(日本も)を出してしまった前作(ジョーカーとゆう作品)を裁いている構造にも見えて、監督や製作側の決意なのか?火消しなのか?に迷うのと、何度もみた予告編や出回っているビジュアル写真で例の階段でノリノリなジョーカーとクイーンの姿を、みて今回は2倍は暴れてくれるのだろ!と期待した観客(ワシも)に目覚ませ!とばかりに冷や水をぶっかけてくれる。(ちなみにIMAX上映の入場者プレゼントは階段ノリノリのポスターでした)
ネタバレあり!
前作でジョーカーとして暴動の扇動や悪のカリスマとして多くの人々に支持を集めたアーサーが、自分を信奉する男に殺されるラストもまた自らの起こした事の因果応報を受ける部分で、物語としては非常に理にかなっている。
ハーレイ・“リー”・クインゼル役のレディー・ガガの存在感も良かったが、アーサーが彼女と結ばれる事で、わずかな救いと安堵得てからの絶望感も半端なく辛く、まるで誘惑者メフィスト状態だが、扱いにやや中途半端にも感じる。
自分が見落としているかも知れないが、前作にチラッと存在が提示されたバッドマンことブルース・ウェインの部分はスルーされていて、完全にDC映画との切り離しをされている。(もっともDC作品を製作してるワーナー映画自体が、またも過去の繋がりをリセットすると発表したので…)
全体的に良い面もあり映画としては、ビジュアルも優れており見応えはあるが、報われない男が『時計仕掛けのオレンジ』の様な奔放な暴力の爽快感や絶対悪と化して暴れるのを期待すると、ガッカリだが映画の出来事を超える現実世界の混乱振りを考えると仕方ない部分だと思う。
2019年に前作の『ジョーカー』が公開された後に、あの2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件が起きて間違った観念や方向性をもつカリスマ的トリックスターが、扇動者になる事へのアンサーになっているのだろう。(なんせ民主主義を破壊する選挙否定と扇動や女性レイプで有罪なのに大統領候補になり支持を集めているヤカラがいる国なので、やむ得ないのかな。日本も裏金や脱税しても、のうのうとしてる政治家が、いて変わらんけど😭)
映画でとんでもなくお馬鹿な事や作劇としてのバイオレンスやアクションやちょっとしたお色気などは、映画の作り事として現実とは違う非日常を分けて楽しんでいきたいのに、真似する🎠🦌が後を立たないのはホントに残念です。
ちなみに前回のレビューは以下です。
『ジョーカー』2019年
「全てにおいて悲惨な仕打ちと人生を受けたコメディアン志望の男が、扇動者として悪の道に落ちる。
アーサー(のちのジョーカー)が富裕エリートのやな奴らを、地下鉄内でブッ殺すところは、奇妙な爽快感があり、大富豪のトーマス・ウェイン(バットマンのブルースの父)側もあまり同情出来ないので、貧困層のデモの中でシンボルと化すジョーカーが、悪では無く、今の極端な格差社会に報復を唱える解放者に見える確信犯的な作り。
ホアキン・フェニックスの演技も凄いが、個人的には、舞台となる70年代末風のニューヨークとシカゴを合わせた景観のゴッサムシティを捉えたリアリティーがあり荒廃した雰囲気あるとても美しい撮影が、全編に渡ってともかく素晴らしい。
製作された社会情勢や時代を振り返って語られる傑作誕生だと思う。
もし続編が作られるならブルース・ウェイン役は、製作もしているブラッドリー・クーパーでぜひ。」
冒頭の部分はなくてもいいかも
予告を観た時から、レディ・ガガがピッタリだなあと思い、楽しみだった。公開当日朝イチで。
詳しくわからないけど、前作を撮った時に一緒に撮っていたのか?あそこまでガリガリになったホアキン、そんなに何度も痩せられないよね。でも、続編分も撮っていたなら5年も寝かせておくなんて凄いな。
タイトルのフォリ・ア・ドゥ、2人狂いとか妄想が他人に感染するって意味らしいけど、まさにそんな内容で、ジョーカーに憧れたリーがわざわざ施設に入って接近。2人で歌い踊るシーンはほとんどがリーの妄想。それがいつのまにかアーサーの妄想になっていたり。
裁判の最後で、狂気のジョーカーではなく、素のアーサーになって殺人を認めたら、リーは急に冷めてしまって途中で法廷を出てしまう。リーには狂気のジョーカーしかみえてなかった。ちょっとアーサーが気の毒にも思えた。
刑務所の中でもフォリ・ア・ドゥ状態な感じはあったようだし、アーサーを、刺した青年は2人狂いの状態だったのかな。あの最後はまあそうなっちゃうだろうな〜て展開だった。
この映画、賛否両論あるらしいですね。そんな否とは思わないし、面白かった。ただジョーカーの続編というより、ジョーカーのスピンオフ、リーの物語、と感じた。
スーパーヒーローの居ない世界にはスーパーヴィランも居ない。
前作でジョーカーになったアーサーは今作では終始囚人でメイキャップしても不快な看守どころか一人も殺さずジョーカーは居ないと宣言した後は散々陶酔されてたリーにも見放された挙げ句に囚人仲間に刺殺されてしまう。
あまりに呆気無い結末に驚いたけど元々ヒーローのバットマンが居ない(ブルースが成長してないからだけど)世界だからヴィランのジョーカーは幻影でアーサーもただの人間でしかないという監督からのドライな答えなのかもしれない。
後ミュージカルシーンは無意味かつやたら多くてノイズでしかない上に前作みたいにやな奴を殺すスカっとするシーンも無いから低評価なのも納得。
【”人生は、全てショーの中で展開される。”優しきコメディアン志望の男が極悪になった後、刑務所に収監され裁判を受ける様を描いた作品。そして、今作がミュージカル風に描かれるシーンが多い意味を考えてみた。】
ー 前作では、優しき心を持っていたコメディアン志望のアーサー(ホアキン・フェニックス)が、不寛容で狂った世の中で悪になって行く様を描いていた。
だが、今作の序盤での刑務所に収監されたアーサーはガリガリに痩せ、ジョークも言わないし、笑顔も浮かべない、一人の哀れな男として描かれている。
だが、そこに収監されていた謎の女リー(レディー・ガガ)が現れ、二人は惹かれ合って行く。ー
◆感想
・故、ヒース・レジャーが演じたジョーカーは極悪そのものだった。物凄かった。善の欠片も無かった。それ故に、ヒース・レジャーに悲劇が訪れてしまった。
・ホアキン・フェニックスが演じたジョーカーは、前作では心優しき男として描かれていた。そこから悪に染まっていく様を、名優ホアキン・フェニックスが見事に演じたからこそ、心に残る新しいジョーカー像が生まれたと、私は思っている。
■今作では、序盤はアーサーは優しき心を取り戻しているのではないか、と思いながら見ていた。刑務所内でも模範囚として暮らしている。
だが、そこに現れたリーが、アーサーの眠っていた悪の部分を揺すり始める。リーはアーサーを誘い、自らもジョーカーの彼女としてメイクをする。
しかし、劇中でも語られている通り、リーは父親は医者で裕福な家庭で育ち、自ら志願して精神科病院へ入っている。
リーは、アーサーを利用し、アーサーを崇めるゴッサムシティの心を病んだ人々の注目を”二人狂い“(フォリア・ドゥ)として、見せたかったのではないかと私は思ったのである。
アーサーは、自らの裁判で、脳内で裁判長を殴り殺すシーンを考えつつも、実際の裁判では、彼を熱心に弁護する女弁護士メリーアン(キャサリン・キーナー)を解雇し、自らが弁護人となる。アーサーはこの時点で、リーを愛しつつ優しき心を持った善性の男の心を完全に取り戻していたのだと思う。
・検事は、あの”ツー・フェイス”ハービー・デントが務めているが、彼に焦点が当たる事は無い。
そんな判事の前で、アーサーは母殺しも含めて6人の殺人を全て認めるのである。動揺する法廷。アーサーに見切りを付けたように、裁判所を後にするリーの姿が印象的だ。
・だが、その直後、裁判所の直ぐ傍で車に仕掛けた爆弾が炸裂する。アーサーは、彼を助けようとする若者達の車に載せられるが、このシーンで車内で流れる音楽が、”ビリー・ジョエル”の名曲”My Life”である。
”もう、君に何を言われてもいい。これが私の人生さ。自分の人生をどうか、ほおって置いてくれ。”
アーサーの気持ちを代弁するように、私には聞こえたよ。
・そして、アーサーは逃げる中、あの急な石段でリーと会うが、彼女は冷たくアーサーを見捨てて何処かに去っていくのである。
彼女にとっては、”善”なるアーサーは何の魅力もないからである。
<再び刑務所に戻ったアーサーは、若き囚人から”ジョークを聞かせてくれよ。”と言われながら、彼に何度も腹部をナイフで刺されて、息絶えるのである。
元々は心優しき男の哀しきショーは観衆が誰も居ない中、刑務所でひっそりと終わるのである。
今作がミュージカル風に描かれているシーンが多い意味を、私は”人生は、全てショーの中で展開される。”という意味で受け止めた。
今作は、優しい心を持っていたアーサーが、一度は極悪になるもリーと出会い、心の平安を得る中、ありのままの自分と他者が求める”自分”との間で揺れ動く彼の心を描いた作品ではないか、と私は思ったのである。>
クソつまらないアーサーの物語
「ジョーカー」を求める人間には盛り上がりにかけるつまらない映画。
前作が心優しいアーサーという男がジョーカーになっていく熱狂を描いたものだとしたら、今作はジョーカーはアーサーでしかない現実を描いた映画。
アーサーの中にあるジョーカーの人格は彼の一部でしかなく、アーサーが自分の為に作り上げた人格でありそこに社会的問題提起などない。あくまでアーサーは自分を笑った奴らに復讐したに過ぎない。
勝手に彼を悪のカリスマとして自己投影し、自分を主人公にしてジョーカーに勝手な理想を押し付けるジョーカー信者たち。妄想が感染するとはまさにこのこと!!!!
今作を全体的につまらないと感じてしまった自分自身もその一人だと思うと悲しい気持ちに襲われる。
ジョーカーは悪のカリスマでも、アーサー自身はどこまでも孤独だということは十分に描かれていた。
リー(ハーレイ)が主人公のように見える点も、誰もアーサーを見ていないことを強調しているようで良かった。ジョーカー信者はみんな自分しか、自分の見たいものしか見ていない。そしてリーの中のジョーカーが理想のジョーカー過ぎるゆえに、リーにとって完璧なジョーカーの間だけめちゃくちゃカッコイイのが私自身もアーサーを見ていないと痛感させられて嫌になる。劇中でアーサーがリーに出会ったあと、本当の自分を求めてくれる自分を捨てない人に出会った〜的なことを歌うのが泣ける。リーはアーサーを一番求めていなかったのに。
アーサーのたった一人の理解者はゲイリーなんだと、アーサーが前作でゲイリーに言った「僕に優しかったのは君だけだ」と言う言葉のアンサーが今作の法廷で、ゲイリーからアーサーに語られた「僕を笑わなかったのは君だけだ」に込められていた。アーサーと同じ言葉を投げかけジョーカーには怯える彼がたった一人のアーサーの友達だったのではないか。
さらには本当のアーサー自身を見ていたのはリーをはじめとするジョーカー信者や私のような観客でもなく弁護士の先生や、皮肉にも看守の男なのかもしれないと看守からメイクを落とされアーサーに戻っていく様を見て感じた。
物語のクライマックスでジョーカーの信者たちが暴走していくなかでの衝撃のラストは消化不良であったが、誰もがジョーカーになれてもアーサーにはなれず、あくまでアーサーによるジョーカーの物語はこれで終わりなんだということか。ダークナイトのジョーカーを彷彿とさせる男にはフォーカスせず、どこまでもアーサーがドアップで映り続けるしらけるラストは、熱狂的なジョーカーファンへのこれはアーサーの物語だとうい戒めか。
前作ラストの熱狂につつまれ事故車からジョーカー信者たちより祭り上げられて復活を遂げる興奮のラストと、今作のアーサーという一人の男の呆気ない終わりのつまらなさは凄い対比だ。アーサーというピエロの悲劇を喜劇で終わらせないためかもと思ったり。
そう考えると前作がコメディショーという舞台に観客がいたのに今作は2人よがりな観客のいないミュージカル仕立てなのもそれを表しているよう。
それにしても自分は何者でもないと語ったリーがハーレイになり、クライマックスでは前回のアーサーと同じくノックで変貌を遂げるのはよく出来ている。
前作に熱狂した人間には今作がクソ程つまらないのが大正解であるように感じたため⭐︎5。
この物語がDCにおける正史ではないと前作で釘を打たれていた点も、ジョーカーではなくアーサーの物語に戻っていった点から大きく頷けた。
しかし個人的に前作のラストは、アーサーはジョーカーの中の一人格に過ぎないことを示唆していると思っていたので、あくまで今作は無数にいるジョーカーという悪意の中から悪のカリスマになりきれなかったアーサーという男が消されただけかもと思ったり。
何はともあれ、そう思いたい程ホアキンのジョーカーがかっこよかった。
だからこそ製作陣の想定を破り賛否よりも熱狂を生んだ前作に対するアンチテーゼとしての今作だと思うと、製作陣は何としても私達の目を覚まさせたかったんだなぁ。
期待はずれという酷評は彼らにとって何よりの賛辞かもしれない。
密室劇かつカタルシスなし
ミュージカルというほどみんなで歌って踊る映画ではありません。
ほぼ留置所と法廷で話が進む。
ハーレクインが単なる殺人犯のグルーピーにしか見えない。
ガガの歌やパフォーマンスは悪くないだけに残念。
ホアキンの演技がすべての映画。
アーサーをジョーカーを愛でるだけで不満はない。
前作で軛から解き放たれたかにみえたアーサーが実際は囚われたまま亡くなれば救いも赦しも何もない。
非誕生譚「悲劇のピエロ」
海外でかなり低評価とのこと。
がぜん興味が湧き上映当日に劇場へ。
前評判の影響もあってか予約席は閑散としてました。
この映画をひと言で表現するなら「悲劇のピエロ」。
主人公のアーサーは喜劇に心惹かれています。
しかしその生き様は悲劇そのものでした。
海外で低評価の嵐なのは悪役としての期待があったからかと。
しかし中身は、生まれに苦しみ、その期待に殺された男の物語。
彼を観てきた観客さえレビューにて加害者役にされる作り込み。
寂しく哀れな男ですが、6人も殺害しており同情の余地なし。
最後はかっこ悪く地味で痛々しく例の笑顔すら出せず死にます。
せめて「男」ではなく「ピエロ」として飾るのは慈悲やも。
さてこの男…ピエロですが、二重人格を演じられませんでした。
愛を友情を知らず、少し触れるだけで歓喜し素が出てしまう。
まるでババ抜きでジョーカーを掴まされ続ける悲劇の処理係。
ただ面白くもあり恐いなと思ったのは「もしも」の世界。
上映された内容は喜劇好きのアーサーにとって最悪のシナリオ。
しかしどこかで惨劇を好めばスーパーヴィランが誕生したか。
アーサーには悪いですが「悲劇のピエロ」として終わり安心。
彼にはヴィランとしての悪運があり、才能が芽生えかけていた。
それを法廷でのやり取りなどで偶然にも摘み取れた気がします。
もし惨劇を愛するアーサーが生まれれば、例のジョーカー誕生。
悲劇的な自らの生き様に惚れ惚れし、皆にもプレゼント。
愛や友情より惨劇こそ人生の価値と最低最悪のピエロになった。
そんな「もしも」の世界の「最悪ピエロ」は良く知ってる。
なので今更それを映画にされても二番煎じで見飽きただろう。
この映画はそんな着飾るヴィランが生まれなかった世界線。
誕生秘話なる映画と対になる非誕生譚とでもいえばいいのか。
スーパーヴィランが偶然にも生まれなかった映画がこれです。
自分だけでここまでイメージできず興味深い作品に出会えた。
①ヴィランではなくアーサーのその後が気になった人
②映画内の不幸・苦痛・惨劇を客観的に受け止められる人
であれば、斬新な映画として娯楽になったのではないか。
最後に「もしも」の世界について。
終わりにアーサーをめった刺しにした自称サイコパス。
あれがフォリアドゥで、未来のジョーカーになったりなんて。
期待への裏切り、あるいはジョーカーへの完璧な答え
前作の公開から5年。「ジョーカー」が世界に与えた衝撃は凄まじいものだったと思う。一部かもしれないが、アーサーの物語に呼応し、共感し、その影響は現実世界でも不穏な事件として表面化したと言って良いだろう。
公開から2年後のハロウィンの夜、京王線で事件が起きたというニュース映像を見た時、そこにアーサーの影を見た者は少なからずいたはずだ。
前作のレビューで「アーサーのままでいられなかった」青年の話をしたが、今作は「ジョーカー」のままでいられなかった男の話である。
彼はジョーカーとして祭り上げられ、アーサー・フレックという個人のキャパシティに収まりきれないほどの「集団の勝手な期待」を背負うことになった。その象徴であり最も行動力を持った存在こそがハーレイ・リー・クインゼルという女性だ。
リーとの出会いが彼にもたらした変化を、アーサー自身は好意的に捉え、彼女の選んだ男として自信を持って振る舞おうとする。
俺は可哀想な男なんかじゃない、と。
だが、リーが愛する男とはアーサーだろうか?ジョーカーだろうか?
少なくとも、一時の狂乱が冷めてアーカムで過ごすアーサーの振る舞いにジョーカーらしさは見当たらない。弁護士との面会に向かうために階段を昇る、その「昇る」という行為は前作で「自分を善なる存在に繋ぎ止める行為」ではなかっただろうか。
逆光の中に映し出されるアーサーの背中、その光はスポットライトの光ではなく、暖かな陽射しでありアーサーが元々持っていた「善」の部分が彼を迎え入れるための光なんじゃないだろうか。
だが、リーを通して集団の期待に触れることで、彼はジョーカーとして脚光を浴びる妄想の機会が増えていく。その光がまがい物であることに気づかずに。
アーカムの運動場のシーンで、隅っこのほんの少しの日向に膝を抱えて座るアーサーのシーンがある。きっと誰にも呼ばれなかったら、彼は小さく座っていることで光の中にいることを許されたのだろう。だが無情にも誰かがアーサーを求める時、アーサーは影の中に入っていくしか無いのだ。
アーサーは裁判で証人として呼ばれたゲイリーと再会する。その裁判で彼は完全にジョーカーとして振る舞い、ゲイリーへの反対尋問を行う。
前作でのアーサーとゲイリーの立ち位置は非常に似ていた。2人ともピエロの仕事をしているが、客を笑わせるピエロではなく「笑われる」道化だ。
魂の双子とでも言うべきゲイリーの存在は、この映画の肝である。
アーサーが起こした殺人事件とは、弱者からのしっぺ返しだった。だから当然同じ立場のゲイリーは敵意を向ける存在ではない。むしろゲイリーはアーサーに寄り添い、ジョーカーを讃え、ジョーカーの犯罪に鼓舞されるとアーサーが考えていてもおかしくないだろう。
だがゲイリーは言った。
「事件以来、怖くて眠れない。今、君が目の前にいることも怖いんだ」と。
ものすごい上から目線な表現になるが、アーサーの殺人はゲイリーの為の殺人だ。「小さくて、自分は何もできなかった」ゲイリーに代わって、ゲイリーのような(もちろん事件以前のアーサーのような)力なき人々の為に行った革命。
だが、本当に救いたかった人はそんな自分を恐ろしいと言った。思えば法廷に現れたゲイリーを、暗に道化扱いしてしまったのはジョーカー自身ではなかったか。結局、アーサー自身もジョーカーに過大な理想を求めていただけで、ジョーカーは世界を救う革命家なんかじゃない、という事実が突きつけられただけだった。
ゲイリーは無力な自分を嘆いたが、ゲイリーこそ無力なまま善であろうと必死に自分の人生を生きている。仕事もなくなり、それでも妄想に逃げず、誰かに鬱憤を晴らしてもらおうともせず、自分だけが自分の人生を築いていける存在であると覚悟して。
ゲイリーはその小さい体でずっと階段を昇り続けているのだ。
その事実を目の当たりにして、アーサーはジョーカーでいられなくなった。
思えばアーサーの狂気の発端は彼の母だったのではでないか?彼女もまたウェインの愛人であったという妄想を抱き、報われない自分たち母子のことをいつかウェインが助けてくれるという妄想の中に生きていた。
アーサーのコメディアンへの妄執も、「人をハッピーな笑顔に」という母の言葉がきっかけである。
息子の妄想は母の妄想と共存し、2人妄想の中で生きて来た。違いがあるとすれば、アーサーは母の妄想を最後まで見抜けなかったが、母はアーサーの妄想に自覚的であったことくらいだ。
そう考えると、アーサーはずっとフォリ・ア・ドゥ(2人狂い)だったのだ。母の妄想、ジョーカーの妄想、リーの妄想、集団の妄想。時に相手を変えながら、アーサーは誰かの妄想に影響され続け、その影響下で自身の妄想を増幅させながら生きて来た。
その妄想に終止符を打ったのは、自分の片割れとも言うべきゲイリーであった。彼だけは妄想ではなく現実を生きていたから。
裁判所が爆破され、運良く逃げ出したアーサーは母と暮らしたアパートへの階段を昇る。現実の家へと昇る階段の途中に、リーを見つける。
妄想の中、何度も共に歌い踊り、今度こそ独りじゃないと信じた相手。
だが、彼女が愛した男はやはりと言うべきか、結局アーサーではなくジョーカーだった。アーサーはまた独りになったが、その表情に絶望はなかったように思う。もし何かの感情があったとしたら、それは諦念であったように感じた。
最悪で完璧な、最も有名な悪役である「ジョーカー」を期待したなら、間違いなくマイナス10点をつけたくなる映画である。
もちろん公開前に私が予想した「フォリ・ア・ドゥ」もジョーカーが完成する映画だった。
だが、社会派ヒューマンドラマとカテゴライズするならこんなに現実世界の残酷さを描写しきった作品は無いだろうし、「ジョーカー」に影響されて妄想の中に生きようとする者たちへ、誠実に向き合った作品としても高く評価できる。
「ジョーカー」をコミック原作のフランチャイズには絶対にしないぞ、というトッド・フィリップス監督の意地と気概にも賛美を送りたい。
ミュージカル仕立てであることが気に食わない、という人もいるみたいだが、アーサーの妄想と現実のメリハリとして十分機能していたし、アーサーの内面をバカみたいな説明セリフ抜きに、的確かつわざとらしくなく表現する意味でも素晴らしい。
今年のベスト、は難しいが期待して観に行った甲斐があった。
追記
本当はレビュータイトルを「おかえり、アーサー」にしたかった。前作のレビュータイトルが「さよなら、アーサー」だったし、私はアーサーという人物が好きだから、彼の帰還を好意的にとらえているので。
だが、タイトルで盛大にネタバレするので泣く泣くやめておいた。
タイトルネタバレはマジでダメ。絶対。
自分の影に翻弄された男の悲喜劇。
自分自身の影に翻弄され身を滅ぼしていく男。冒頭のアニメーションが本作を端的に物語っていた。
前作は一人の心優しき男がその不幸な境遇ゆえに次第に心を蝕まれ、殺人を犯しジョーカーというカリスマに祭り上げられていく様を描いた。
本作は法廷を舞台に否応なく自身の過去と内面を直視させられ、ジョーカーでい続けることに苦悩する男の内面をリアルに描き出した。
今回は彼の内的世界を描くことに終始し、あまりにリアリズムに徹したためか前作ほどのエンタメ性はないものの、彼の妄想をミュージカル仕立てで描いた点などはかなり良かった。
殺人を犯し閉鎖病棟に隔離されたアーサー。彼はカリスマ的人気を得て、いまや彼を主役にしたドラマも大人気だ。熱狂的なファンも多い。しかしここ閉鎖病棟で暮らす彼にとってそんな周りの熱狂などは関係なかった。彼らが熱狂するのはジョーカーであり、自分ではない。自分のことを理解してくれる人間などこの世にはいない。いくら周りが騒ごうとも彼の孤独な人生は今までと何も変わらなかった。そんな彼が運命的な出会いを果たす。
リーとの出会いで彼は救われたような気持ちになる。彼女こそ自分をわかってくれる唯一の女性だと。周りのようにジョーカーとしてではなくアーサーという一人の人間として理解し愛してくれる女性なのだと。
アーサーはただ不幸な境遇の中で生きてきただけの憐れな男でしかない。根は心の優しい普通の男だった。その彼がジョーカーというカリスマに祭り上げられた。
透明人間のように誰からも見向きもされない孤独な男はピエロのメイクをすることで周りから認められた。もう自分は孤独で憐れな男ではない。ひとたびジョーカーになれば世間は自分に注目する。皆が自分に熱狂する。
自らが生みだしたキャラクターであるジョーカーになった時だけ自分はこの社会で認められた。この時だけ生きている実感を味わえた。その快感は何ものにも代えがたいもの。彼はその快感に酔いしれた。しかし観衆はさらにどん欲だ。
この舞台で彼へのアンコールの声が鳴りやむことはない。幕が下りてもその声は鳴り続け、舞台を降りたプライベートでも彼らは要求してくる。もっと楽しませてくれと、今日のジョークは、と。
もう疲れた、これ以上この舞台で踊り続けるのは。アーサーは本来はただの普通の男でしかない。ジョーカーでい続けることは彼には荷が重すぎたのだ。そしてリーも所詮は周りの観衆と同じだった。彼女もアーサーではなくカリスマのジョーカーを求めていただけだったのだ。
絶望の中でアーサーは死んでいく。しかし、それは一人の憐れな男が死んだに過ぎない。彼を殺した男がその場で自分の口をナイフで切り裂く。
ここにまた新たなジョーカーが誕生した。ジョーカーはこの世界のどこにでもいる。誰もが潜在的なジョーカーなのだ。
世界が貧困と憎悪と狂気に包まれている限りジョーカーはどこにでもその姿を現す。そしてジョーカーは人々の鬱屈した思いを解放し社会を混乱に陥れる。今まさにそんなひとりのジョーカーがふたたび大統領の地位に返り咲こうとしている。
本作は賛否両論だけど、観客が「ジョーカー」というキャラクターに求めていたものが本作で描かれてないことに失望した人が多いみたい。これって劇中のアーサーがまさに世の中からジョーカーとして求められていたこととそのままリンクしていて、このことも監督が最初から意図して撮ったとしたらすごい皮肉が込められてるなあ。前作の「ジョーカー」が大ヒットして現実社会でもジョーカーの真似をした暴力事件が発生した。虚構が現実社会に侵蝕してしまったことに罪悪感を感じて監督は今作を撮ったそうだ。
ホアキンの演技は今回も相変わらず凄まじい。むかし竹中直人の笑いながら怒る人というネタがあったけどホアキンはまさに笑いながら泣く人だ。ただ、ヒース・レジャーの件もあるのでしばらくは普通の役に専念してほしい。
ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
メモ書きです。
・自分と影
冒頭のアニメーションで表向きのテーマ的なものを示してたように思えます。
影の自分に気押され、自分は間抜けな側面を晒し、影の面がしでかしたことまで全てを引き受ける。
・ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
それはリー、TVのインタビュアー、映画の観客でさえそういった人が多い。
ジョーカーに惹かれるが、アーサーには惹かれない。
それは自分もそういう面があります。
フォリアドゥの評価が低い理由の1つだと思います。
前作において、私も俺もジョーカーに共感した、似ている面がある。という人が多いと聞きました。ですが実際それはアーサーのアーサー的側面に対してです。ジョーカー的側面ではありません。アーサーからジョーカーを引いて、それでもなおアーサーに注目していられますか?自分はできないかもしれません。。
・そもそも影って?
皆が分裂だのなんだの言っているだけで、実際のアーサー自身には第2の人格などなく、ただただ自分の1側面でしかない。それを分けて考えられ、アーサーではなくジョーカーの面ばかりを見ようとしてくる人達に嫌気がさす。そんなふうに感じられました。
・ジョーカー
前回のジョーカーと今回登場するジョーカーは似て非なるように感じました。
前回は自分の1側面に驚きつつも、やっと能動的に笑えていました。
ですが、今回のジョーカーは受動的に思えます。皆がジョーカーを求めるから演じているような。妄想の中でははっちゃけますが、現実では裁判官?的な人の言葉である程度大人くしなる程度の人物です。
・アーサー
アーサーがアーサーとして人に笑いを届けるのは難しい。
それを実感したから序盤アーサーはジョークを言わないのかもしれません。
そしてジョーカーのジョークで笑うのは、闇を抱えていたり、社会から爪弾きにされていたりする人たちです。
けれど、それはアーサーが自身求めている笑いとは違うのかもしれません。
・リー
リリーもまたジョーカーに興味がある。書き途中。
冷めた夢の結末は?
前作の「ジョーカー」の世界的大ヒットがあり、実際観ても非常に面白かったため、以前から注目していた本作でしたが、前評判は賛否両論。というかどちらかと言うと”否”が多い感じだったので、一体どんな内容なんだろうと興味津々で公開初日に観に行きました。その結果、確かに”否”が多めになる理由が分かりました。
今回はレディー・ガガが共演ということで、前半からミュージカルテーストを入れ込みながら話は進み、前作と味付けは異なるものの、それはそれで成功していたように思われました。ところが、本作の主戦場である裁判シーンの大詰めで、夢から醒めたかのようにジョーカーが自らジョーカーであることを放棄してしまい、リー(レディー・ガガ)だけでなく観ているこちらの方もそのショックが冷めやらぬところで畳みかけるように裁判所が爆弾テロに遭って混沌は一層深刻化。さらには最終的に第2のジョーカーみたいなあんちゃんにジョーカーというかアーサーが刺されてしまうという結末は、流石に唖然としてしまいました。
結局社会全体とジョーカーとの冷酷な関係を描いた前作と異なり、リーとの関係に焦点を当てた本作は、その点においてスケールが狭まっていたように感じられてしまいました。前述の通り、レディー・ガガを起用したことでミュージカル要素が前面に出て、そこは大いに評価したいと思うものの、冷酷な社会に対してジョーカーが一撃も二撃も反撃を加えることでカタルシスを得られて締めくくられた前作とは対照的に、そんな社会から再反撃を喰らってジョーカーが敗れてしまった形の本作は、期待していたのと違うという意味で”否”が多くなるのもむべなるかなと思ったところでした。
ただ監督にしてもそんなことは百も承知でしょうから、敢えてそういう作品にしたんだとも思われました。祇園精舎の鐘の声を聞いて、諸行無常の響きを感ずるべき日本人的には、主役二人の歌声を聞き、沙羅双樹ならぬレディー・ガガという花の色を見て、物語世界どころか現実世界をも一世を風靡した盛者=ジョーカーの必衰を見るべき作品だったのでしょうかね?果たして真相は如何に?
そんな訳で、レディー・ガガとホアキン・フェニックスの”フォリ・ア・ドゥ”=”2人狂い”のオンステージに感心しつつも、なんか生煮え感しか残らなかった本作の評価は★3.5とします。
心がえぐられるように痛かった
テレビCMだけ見て、ガガと二人でハチャメチャに大暴れするような内容を想像してましたが、素のジョーカーが心の奥底に抱える痛みの部分をグイグイ押さえつけられるような、悲しくて痛くて切なくて、鑑賞後のダウンタイムをずっと引きずったままで書き込んでます。
せっかく見つけた癒し=リリーにもあっさり見捨てられ、しかも衝撃のラストシーン。
これで安らかに眠れるんなら結果オーライなのか…
想像のナナメ下
ホアキンジョーカー1で時代のせいで哀しきピエロアーサーが悪のカリスマジョーカーへと変貌していく様をしっかりと描いた
だから2でその怪物ジョーカーが洗脳により手にした新たな相棒ハーレイクインと共に自分をこんな怪物に育て上げたゴッサムシティに恩返しをするストーリーを期待してしまっていた
だが、蓋をあけてみれば怪物ジョーカーとしての苦悩やアーサーのアイデンティティ、最初からイカレてるハーレイクインとの恋愛ミュージカルを見せられるからそのギャップで吐き気すら催した
ジョーカーになれなかった哀しきピエロアーサーを描きたかったんなら幼きバットマンやハーレイクイン、ハービーデントなんか出すなよ…
とにかく、バットマンファンはこの映画のターゲット層に入ってないことだけは確か
ただの衝撃的なストーリーではない
ジョーカーという仮面の下で自分の存在意義を叫んだアーサー。あの5年前もそうだった。
音楽と共にある時、彼は内面にひとり向き合い心酔しのびやかに踊った。
その姿は、負にひきずられそうな彼に音楽が呼応しながら何かを与えているかのようにもみえた。
それは例えば、惜しみなく手をさしのべ抱きしめ肩をたたき鼓舞する肉親だったり、さらけ出した感情を互いに享受する友や恋人のような役割だっだのかも知れない。
そうやって生き延びてきた孤独なアーサーの心情を追う今作にも、寄り添う歌やダンスのシーンは欠かせない深い意味があったのだと私は思う。
彼が音楽を通じ出会ったリーは、アーサーにとって類いなき魅力を放つメロディであり、リズムでありハーモニーになった。
文字通りそれを〝魅せる〟シーンでアーサーが、曲がった権力に諦めていく日常も、法廷で砕かれ散った母との思い出の言葉も、恐怖心を友に与えてしまった過ちも、彼女の存在があれば不運を分かち合い変わっていく未来を信じられたのが伝わってくるのだ。
悲しいかなその愛の歪みを知ることになるまでは。
ジョーカーは「あの日」から屈折した世界の眩いライトを浴び冷たく重い足枷だけをアーサーに遺したまま別者として動きだしていた。
そしてようやくみつけた心地よい愛が彼から消え去ったあと、もう1人の自分こそが取り返しのつかないほどに強大な力で自身に刃をふりかざしてくる相手だったとわかる。
そのリズムの波も、安らぎのメロディの風も、心を震わすハーモニーの温かさも霧の向こうの幻に。
popなアニメの冒頭〝Me and My shadow.〟がこんなにも苦しい意味だったなんて。
予告のイメージを遥かに超えたこの顛末、それを続編に掲げた意図とは。
愕然としながら、この瞬間も澄んだ目たちがみるものに心を沿わせる。
「虫も殺さぬ優しい少年だった」という彼の変貌。
未来を助けるチャンスはどこにどうあったのか。
この頭にずっとあるアーサーの最期の心の声がするエンディングと法廷のレンズ越しに突き刺してきた哀しみを宿したままの眼光。
それらにはきっとヒントがあるような気がしてならない。
憑依するMe and My shadow、ホアキンの全身全霊が物凄く苦しいアーサーをそこに呼ぶ。
ガガも凄まじい魅惑のキャラを思い切りぶつけてくる。
そうして「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーとなった男、アーサーの心を描いた。
これはただの衝撃的なストーリーではなかった。
訂正済み
シナリオ、ストーリー性を重視する自分には合わなかったです
「エンタメを期待する大衆に対するアンチテーゼ」だったりとか批評家を気取ろうと思えば褒める言葉見つからなくもないですが、
ジョーカーの続編を期待し、シナリオとストーリー性を求めてた自分には期待外れでした。
ミュージカルは歌詞で物語が進んでいくと思うんですが、
本作品ではただその場その場で物語とは関係ない歌を歌うだけでシナリオが進展しないまま進んでいくのが結構苦痛でした。
陰キャ中年の悲哀を表していた!!
冒頭のアニメで嫌な予感がしましたが、配信で観たら挫折していたと思います。前作からの期待値の高さは打ち砕かれました。映画は総合芸術なので、喜怒哀楽を表す為に歌やダンスのシーンを入れるのはまあ分かりますが、やり過ぎると「またかよ…」となります。また私達が観たいのは、純粋な悪であり常に体制側を混乱させる格好良いジョーカーだと思うので、陰キャ中年男性の悲哀を表した本作は文字通り「観とうなかった」ジョーカーだと思います。加えて、「裁判所の外に集結したプラカードを持った民衆」も表示されず、私達は高揚感を味わう事すら許されない為、映画を観て良くも悪くも目覚める者が現れないよう極力配慮されていると感じました。かといってロマンス全振りという訳では無く、弄ばれただけで惨めでした。裁判シーンは、まあ良くはないですが実際の宅間守の発言の方が印象に残るものでした。アーサーが早漏で笑えますが、終盤で「子供もできたし」とか言い出して、キモすぎて笑えました。ジャレッドのジョーカーは編集で「いたの?」という感じにされたので良く分かりませんでしたが、ヒース・レジャーのジョーカーは、偶々上手く行っただけなのかも知れませんがやはり偉大でした。もう終わったと思われた人生が、女と音楽によって再び回り出す事は大いにあると思いますが、殆ど楽しめなくて残念な映画でした。一人の精神病がもう一人に感染するという、「フォリ・ア・ドゥ」(二人狂い)では無かったです。Dancing in the Moonlightは好きな曲ですが、それまでの曲調と違い単に俺の選曲センス良くね?という感じ(ネトフリの「ヒットマンズ・ボディガード」のラストでも流れます)で、何か嫌でした。
途中まで
ここがゴッサムシティだってこと忘れかけてたわ
前作と比べれば比較的スプラッタ耐性は不要だし、重苦しい空気感は少な目でミュージカル的なポップさがあるのでライトユーザーにもオススメしやすい…わけない
自らジョーカーの仮面をはずした男の最後
エンドロールで流れるダニエル・ジョンストンの歌がダイレクトにテーマを伝えてくれている気がするので、うろおぼえの歌詞を記載する。
きっと真実の愛があなたを見つける
でもこれは条件つきの約束なんだ
それはあなたも真実の愛を探すこと
きっと真実の愛もあなたを探しているから
アーサーは「誰も僕に見向きもしなかった」と言ってジョーカーの仮面を被り、すべてを暴力という形で破壊した。かつての職場の同僚ゲイリ-はそんなアーサーの心優しい部分をきちんと見てくれていたが、目の前でアーサーに同僚を惨殺され、法廷で「いまでも恐怖で眠れない」と目に涙をためてアーサーに訴える。「僕の気持ちが分かるかい?君だけが、僕を笑わないでいてくれたのに」と。アーサーはこのとき、自分の暴力によって心を深く傷つけられた友人を目の前にして、かなり動揺したんだろうと思う。その後、自己弁論を無理やり切り上げる。
これまで誰かと親密な関係になることがなかったアーサーは精神科病棟で出会ったリーを愛すようになるが、リーはアーサー本人ではなく、最初からジョーカーという仮面のみを愛していた(ふたりの間にあるのは愛というより共依存っぽいけど)。だから、独房でセックスするときもリーは「本当のあなたを見せて」と言って、アーサーにピエロの化粧をほどこす。本当の姿のアーサーを彼女は求めていない。その後、法廷で自身の罪を懺悔し、ジョーカーの仮面を捨てたアーサーのもとを彼女は去っていく。
ゴッサムシティの民衆もまた、本当のアーサーを見てなどはいない。すべてを破壊する象徴としてのジョーカーとしてアーサーを見ている。爆破された裁判所からアーサーの脱走を手伝った住民は、車を降りて走り去るアーサーの背中に「ジョーカー!愛してるよ!」と叫ぶ。爆発が起きる前に、アーサーがもうジョーカーを演じることを降りてしまっていることも知らずに。民衆はアーサー本人の意思に関わらず、彼にジョーカーであることを求める。ジョーカーという影はアーサーから切り離せない。逃げる背中に浴びせられた叫びは、アーサーが求めた愛のかたち、もしくは承認のかたちなのだろうか。たぶん違うだろうと思う。
アーサーの「誰も僕を見向きもしない」の反対は「僕を見てほしい」で、「僕を愛してほしい」だったのかなと思う。でも、真実の愛と出会うためには、自分から真実の愛を探すこと、つまり自分から他者を愛することが必要。アーサーはそれができず、孤独・不満・不安・鬱屈を暴力という形で他者にぶつけて発散し、民衆にジョーカーとして持ち上げられることに快感を覚えてしまった。ゲイリーのように本当の自分を見てくれるひとが傍にいたのに、そのようなひとたちと正面から向き合わず、ジョーカーという歪んだ形で世界から認められようとしてしまった。だが、最終的に法廷でみずからジョーカーの仮面を外し、アーサーとして「彼らを殺さなければよかった」と告白する。
愛は実らなかったけれど、そこまで見られてわたしは満足です。加害者と被害者のあいだを行ったり来たりする、アーサーの複雑な人生と内面を言い表すのは難しい。けれど監督は、これでもかというくらい丁寧かつ真摯にアーサーの人生を最後まで描いてくれたと思う。
しゃあないのかな・・・。ただ、ラストのあれは
「自分をイジメたやつら、がっぺムカつく!(怒)」
そんなエガちゃんが自分のファンのあたおかな女性と良い感じになって、やったー!彼女できたー!と思ったら、「おもんない」ってフラれたみたいな話。
(エガちゃんは面白くて素敵だと思いますが)
このままだとこの映画クソだぞ、と思ってたら爆破。
「よっしゃ!やっぱりゴッサムシティっつったら爆破やろ!」と一瞬喜んだのも束の間、元に戻る。
酷評されるのも分かる。
なぜならこの映画は、俳優の演技や映像や世界観など、非常に素晴らしいのだけど、内容が酷くて、評価が「良いとこもあるけど酷い」なので、人によってどっちかかな、と思う。なので私は中間の3にした。
さらに期待されてた分、失望される。そして続編作るとなるとこうなるしかないのかなとも思う。
演技など、色々素晴らしいんだけど、内容が退屈で面白くない。
バットマン出すわけにもいかんし、捕まってる状態で、アーサーは現実を乗り越える知能も能力も勇気もないし、レディ・ガガ出して、妄想のミュージカルを膨らまして埋め合わせるしかないのかな。
続編作るの難しかったと思う。
ホアキンが凄い。
調子に乗って「弁護士なんていらない!俺がやるんだよぉ!」なんて言って結局頭が悪いからグダグダ。んで有罪。そんなマヌケなアーサーを演じきった。セックスシーンがあるが最近演じたナポレオンのセックスシーンと全く違う。アーサーの経験のない童貞のセックスシーンなんですよね。
この映画は「沼な人」の描き方がとにかく秀逸。よく理解している。ホアキンもよくわかってる。
タバコをよく吸うのは
左手がジョーカーで右手がアーサーを意味してるからかな?持つ手で使い分けてるらしい。タバコを使って分かりやすく表現しているのかな。
ラストの刺した犯人は
口を割いたのか?
首を切ったのか?
もし口を割いたなら、
新たなジョーカーの誕生かな?
アーサーはジョーカーじゃなかったということだが、ジョーカーを生んだのかもしれない。口を割いたなら次があるかもね。
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