ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
全294件中、1~20件目を表示
ノーランの影に苛まれたトッド・フィリップス
ホアキン・フェニックス/アーサーの肩甲骨がみたかった?
ファーストシーンはアニメーションで、本作の概略と共にジョーカーが戯画として描かれていた。だから、実写になってホアキン・フェニックス-アーサー-ジョーカーの痩せ細り浮き出た肩甲骨と肩の不均衡さがまざまざと映し出されたのは衝撃だった。
ただ本作をみた10人中の8人、いや9人がきっとこう思っただろう。
「そんなのみたくない…」
マジで誰も期待していないし、望んでもいない彼の肩甲骨。凄いのは分かるけれど、そんなのがみたいわけじゃない。あのジョーカーが、今回はどんな狂人ぶりで死体の山/丘を築くのかそれがみたいのだ。なのにアーサーはいっこうに監獄のままだし、故に裁判劇だし、妄想以外では全く加害行為に及ばない。本作の彼はいつまでも暴力に受け身で何もできない無力の存在だ。さらにミュージカル調でもある。頭を抱えざるを得ない。
観客の期待外れは興行収入や、いまいち盛り上がっていない様からも明らかだろう。
なんでこんな物語にしたんだ???
気になって監督をしたトッド・フィリップスを調べた。すると彼が1970年生まれであることが分かった。では他に1970年生まれの映画監督が誰か調べると、一人の監督が現れる。そうクリストファー・ノーランである。
その時、私は納得した。トッド・フィリップスは本気でアカデミー賞作品賞を獲りにいったのだと。単なるDCコミックスシリーズの一作ではなく、現代の批評性を備えつつ娯楽性にも富んだ作品にしようとしたのだと。そのことはジョーカーのファンの期待に背くことになる。けれど期待通りであれば、ジョーカーという「影」を追従するだけに留まるし、それではいけないと困難な道を選択したのだろう。
さらに私がしているようにトッド・フィリップスはクリストファー・ノーランと比較をされ続けたに違いない。ノーランは『ダークナイト』でジョーカーを描いているし、『オッペンハイマー』でアカデミー賞作品賞を受賞した。ではトッド・フィリップスは?『ジョーカー』で第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているけれど、作品賞は獲れてはいない。
なんだかトッド・フィリップスはアーサーその者に思えてきた。では彼がノーランと同格となるにはどうするか。
ノーランができない心理描写を『ジョーカー』以上に深化させる。そのことは悪のカリスマであるジョーカーをアーサーという一人の人間に近づけることを意味する。ノーランができないミュージカル演出を『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』で第67回ゴールデングローブ賞作品賞(ミュージカル・コメディ部門)で受賞した彼は採用する。『雨に唄えば』や『ウエスト・サイド・ストーリー』、『ラ・ラ・ランド』、『ショーシャンクの空に』へのオマージュ/目配せもする。その選択の結果が本作の物語化に違いない。続編でアカデミー賞作品賞を獲ろうとするならば『ゴッド・ファーザーPARTⅡ』以来の快挙ではないだろうか。それほど困難な道をトッド・フィリップスはノーランと同等と認められるために、選択したのだ。そう考えると本作の物語化にも納得がいく。
ではその選択が功を奏したか。残念ながら私は全面的に肯定はできない。
ミュージカル演出においても、監獄や法廷を舞台化できたとは言える。けれど、レオス・カラックスの『アネット』をもう観てしまったからね…トイレ/排泄を舞台化したり、ミュージカルの本質を抽出してしまった『アネット』と比べたら見劣りしてしまうし、裁判劇で画変わりしないことをミュージカル調で補っているようにしか思えない。しかもミュージカルシーンは説明描写に留まるしーあえてそうしているのか?ー、典型的な感情の吐露や心理描写になってもいないのはどうかと思うーアーサーが弁護士を解雇するミュージカルシーンは見応えがあったー。
確かにジョーカーを人間に近づける描写はよかった。裁判に当たって、アーサーの担当医を登場させ、彼の殺意が精神疾患由来であることを導出しようとしている。それはジョーカーのパフォーマンスを狂人のカリスマ性から普通の人の精神疾患へと横滑りさせる描写だろう。けれどアーサーが本当に求めていることは精神疾患だと診断されることではなく、むしろジョーカーという影を纏い、その影に魅了されるリーと性愛的に結ばれることに見出すシニカルさは最高だと思う。
ただアーサーの責任能力についての描写はどうかと思う。彼の裁判劇は殺人の事実の有無ではなく、責任能力の有無が焦点ではある。そして彼の自己弁護も虚しく、有罪になってしまう。けれどその責任能力について彼のバックグラウンドや精神疾患の判定を考慮に入れた主文が述べられることもなく、法廷が爆破されて省略される。それを映画だからと、省略するのは構わないが、ヒューマンドラマに仕立てリアリティラインを上げたのならちゃんとみせてほしいと思ってしまう。むしろこの爆破はリーと再会するために準備されたもののように思えるし、精神疾患だと診断する以上の答えを映画≒フィクションが持ち合わせていないようにも感じさせる。この物足りなさが、現実やモッブのドキュメントとしては適当ではあるが、その乗り越えとしては不十分という印象をもたらしてしまっている。
さあ、本作の描写する現実はかなり厳しい。ジョーカーの存在は否定される。存在するのは、監獄に収監され、看守に虐められ、肩甲骨を浮かび上がらせるひ弱な白人中年男性・アーサーのみ。彼に惹かれるリーも、セックスのときはアーサーにジョーカーのメイクをさせるようにアーサーその人を決してみていない。ヒロインのリーもまたカリスマ的なジョーカーの「影」を追う一人でしかない。アーサーが自由になる爆破もリーが引き起こしたわけではない。しかも彼が外の世界で彼女に会っても、見放され、再び監獄に戻ってしまう。あげくには彼は監獄の中で物語で全く焦点が当てられないモッブの男に刺し殺されて死んでしまう。華麗な脱獄劇もヒロインの駆け落ちもない。ヒロインに殺されることも許されない。ひ弱な男はダークヒーローにもなれず、誰にも救済されず死ぬしかない。この残酷な事実を誰がみたいというのだろうか。
ノーラン作品にも裁判のシーンは多いから、きっと現代のアメリカは映画≒フィクションで真面目に残酷な現実を提示しないとどうしようもない世界なのだと思う。アリ・アスターの世界線を突っ走ったら崩壊するんだ。
本作は前述のようにジョーカーファン以外にも届くようにウェルメイドなつくりになっている。ただ良くも悪くも秀作の域に留まっている。それをアカデミー賞はどのように評価するのか。少しは楽しみになってきた。
いいも悪いも、全てをその目で見届けたい貴方にオススメ🎶
観てきました〜♪
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」
「フォリ・ア・ドゥ」=
フランス語で「2人狂い」の意味だそうです。もう略して、「ジョーカー2」ってことでいいかしらん🙄
感想は、
賛否両論分かれる内容でした。
ミュージカル映画が嫌いな人は、苦手かもしれません。私はというと、昔は嫌いだったミュージカル映画が、昨今の名作ミュージカルによってその魅力に開眼。今はミュージカル映画大好きな方の人です。
で、そんな私ですが、
おっとこれは、もしかして?
ミュージカル映画的なやつかいな?
と、気がついた時には、
既に遅し…。
想定外のパンチに肩透かしを喰らい
若干、感情のスタートラインが出遅れてしまった模様…。
う〜ん、
やりたいことは十分に分かるのだけれど、残念ながら感情が追いつきませんでした。私の有り余る想像力と妄想力をフル稼働しても、主人公たちの気持ちに寄り添うことはできませんでした。
だってね、ひと6人も殺した極悪犯になったことないし🙄
極悪犯だって人間やし、恋するのも分かるよ。分かるけどもや…
えぇ?いつ?そんなに好きなん?
って、突っ込みたくなっちゃう悪い癖でちゃった。ミュージカル映画が苦手だった頃をほんのり思い出す苦い後味となりました😅
でもでも、
見どころは沢山あったよ🤭
レディ・ガガ好きなあなたは、もうそれだけで最高よ。主演のジョーカーを演じたホアキン・フェニックスも一作目同様、物凄い演技なのよ。すごい俳優さんなのよ。私の感情さえ追いついて、ストーリーに入り込めていたら、きっと物凄いお洒落でいてなおかつ、悲哀に満ちた傑作映画になっていたに違いない。
そもそもだ、
一作目が名作すぎた問題よ。
こちら気合い入れすぎて、前日にAmazonプライムでしっかり復習済みだから、感情の期待値はもうMAXなのよ。チラッとみた不評らしきレビューには目もくれず、かなり前のめりで観に行ったのも、よくなかったのかもしれません。
とにかく、
いいも悪いも、
全てをその目で見届けたい貴方😎
レッツ、フォリ・ア・ドゥ♪
でございます。
体力MAXで行くべき
私には合わなかった。
1は何度も見たし、曲も好き(That's life 好きだからレディーガガ版が聞けたのは嬉しかった)だけど、ずっと歌ってなかった?シナリオも1見てる前提だし。
妄想と現実を行き来してるのはある意味ジョーカーらしいとは思ったけど、あまり繰り返し過ぎると疑心暗鬼になってきて、現実すらも疑ってしまうからちょっと多すぎでは?と。
二度は見たくないな。初めの方は少し眠ってしまった。だから体力MAXで行くべき映画です。
ハッピーエンド
10/11@Tジョイエミテラス所沢、10/14@MOVIX昭島(10/4ジョーカー@丸の内ピカデリー)
本作は世界的に酷評されたことで有名である。私はジョーカー1が公開された当時、主人公(アーサー)にひどく感情移入してしまい、珍しく劇場で2回観賞したことを覚えている。今回も本作公開に合わせて、予習のために丸の内ピカデリーで1回、DVDをレンタルして自宅で1回観賞した。
率直な感想としては、予想とは反対方向へ進んでしまったが、完成度が非常に高いなという印象である。
5名の殺人を犯したアーサーは留置場で生活していた。同施設内で生活していたリーから言い寄られる形で恋に落ちていく。その中で裁判は進んでいき、アーサーとリーの関係も揺れ動いていく。
前作では、アーサーの日々の暮らしから、ジョーカーに変貌するまでを描いた。1人の心優しい青年が殺人を犯すまでの過程をこれ以上なくリアルに描いていた。観客はアーサーの境遇に同情するし、殺人に関しても、悪者というよりむしろよく敵に立ち向かってくれたというような気持ちにさせられる。アメコミではダークヒーローであるが、前作では正義のヒーローとして描かれていた。
ところが、本作ではジョーカーの存在を否定するようなつくりになっている。アーサーは、前作での下克上的な行いにより、一部の人々のヒーローとなった。本作では一部の人々の代表がリーにあたる。彼女はアーサーではなく、ジョーカーを愛する女性である。性行為の際に、メイクを強要するのは象徴的なシーンである。アーサーはリーに嫌われないよう、ジョーカーであり続ける必要があった。
本作は前作と大きく方向転換した。アーサーは過去の過ちを冷静に受け止め、更正したいと思う反面、大衆からはジョーカーとしての振る舞いが求められる。最終的にアーサーは、ジョーカーの存在を否定し、元のアーサーとして生きることを選択する。しかし、これは世の中では受け入れられず、社会的に見捨てられる結果となった。
公判でゲイリーと話すシーン。アーサーはここではじめて本当の被害者の存在に気付かされる。本当の自分を友達と言ってくれた人物に背き、ジョーカーとして振る舞うことを受け入れた。この後に最後の公判があるが、アーサーの目にカメラがアップしていくシーンがある。このシーンの前まで、最後どちらに転ぶのか私は分からなかった。しかし、目線はどこか自信がないのを見て、理解できた。
映画の中の群衆も、この映画の観客もジョーカーを観たくてきた。しかし、アーサーが選択したのは、元の優しい青年として生きていくことだった。映画としての世界的な評価も、映画内での群衆からの評価もまったく同じものとなった。監督は、当然これを見据えて作ったのだろう。
歌唱シーンが多く、ストーリーの進行を若干邪魔してしまっている感があるが、アーサーとリーの心情を表すのに効果的である面もある。
全体として、前作から完成度はまったく落ちていない。各シーンのセリフや登場人物の細かな仕草など、複数回観ないとその意味に気が付かないようなカットが多い。
大衆が望んだジョーカーの続編にはならなかったが、アーサーが元の自分に立ち返る、前作から始まって、本作で1周回って元の位置に戻ってくる。物語の構成として、まさに王道である。
説教されて反省できるほど我々観客の現実は甘いものではない
観たのは1ヶ月も前ですが、要点だけでも書き記しておきます。
1つ目は、壮大なミスリーディングに対する感動がありました。「思ってたのと違う」とか「がっかりした」とか言ってしまえば簡単で、そのような映画もあるのですが、大抵は作り手側の力量不足や、政治的都合等で、そうなっちゃってるものだと思います。ですが今作はトッドフィリップス監督による明確な印象操作を感じました。端的に言うと、我々は2019年のジョーカーの暴動シーンよりも、もっと激しい破壊や混沌、狂気が見られると思っていました。まず副題の「フォリアドゥ」=「二人で狂気に堕ちる」その相方はレディー・ガガ。素晴らしいミュージシャンですが、音楽やファッションから、狂気的なイメージがある。そんなレディー・ガガ演じるハーレイクインと組んで更なるカオスを見せてくれるのではと思っていた。だがそうではなかった。
リーも裁判所のまわりや、刑務所でジョーカー信者になっていた連中も結局は幸せなやつらでしかない。家族も仕事もあって、アーサーほど惨めではなく、自ら手を汚す覚悟もないやつらだ。そしてそれは我々観客も同じで、映画館で1900円も払えるようなやつらが寄ってたかってアーサーもっと暴れろと期待する。ユニクロの服を着てポップコーンとか買いつつ。
だからこそアーサーはクラウンメイクを施して裁判所に現れる。心優しく弱いアーサーは、みんなの期待に応えようとする。真の友達であったゲイリーとのやり取りは、怒鳴り声で遮り終わらせようとする。泣いてしまったらみんなの期待に添えないから。
トッドフィリップスがこのような映画にした理由はいくつも考えられる。
・2019年に秩序を破壊し暴動を煽るような映画を作ったが、コンプライアンスとやらの波に飲まれ、社会的責任をとらされた。暴動を起こして革命家のカリスマになったところで、結局誰からも愛されずに信者に腹を刺されて死ぬだけだと。死刑ですらなく、同じように狂ったやつに意味もなく刺されて死ぬだけだと。わかったら底辺生活がどんなに苦しくても秩序を乱さずに暮らしてろ、というメッセージを作らざるを得なかった。さながら村上龍が『共生虫』を書いた後に『最後の家族』を書いたように社会的責任を果たした。なぜならトッドフィリップス自身も成功者で、権力側に立つものだから。
・映画館に来る観客たち、自分を底辺側だと思っている幸せ者の偽善者たちに対する説教。お前らが期待するからアーサーはクラウンメイクで演じなければいけないのだと。アーサーは誰よりも心優しい青年で、殺人だってしたくなかった。極限まで追い詰められて身を守るために人を殺めたに過ぎない。それでも殺人をしてしまったことは重すぎて、心が壊れてしまっていたが、劇中最後には、己の罪を悔いている描写もある。なのに、暴れることを期待し、「自分もジョーカーだ」という気分になっている下らないやつらが休日に顔に化粧水でも塗って映画館に来るから、だからアーサーは苦しんだのだと。
とても印象に残っているのが、私は劇場の後ろの方に座っていたのだが、はじまるギリギリに前の方の席な鮮やかな長髪金髪の女性がツカツカと入ってきて座った。その女性は、映画が終わりスタッフロールがはじまるや否や勢いよく立ち上がり出ていってしまった。見たかったものが見れなかった苛立ちは多くの人に共有されているのだと思う。
だが暴動を起こしてもいいことはない。秩序を守って暮らせというメッセージは届いたのだろうか。
2019年からの5年間。この社会に虐げられてきた者たちは、ジョーカーに救われ続けてきた。誰もがアーサーに感情移入をして、マレー銃撃シーンから暴動シーンを繰り返し観て毒気を抜き、この辛い現実をなんとか生きてきた。辛くなったらジョーカーの終盤を観ればまたがんばれた。
だがこの者たちは2024年にゴミくずのように扱われることとなった。2019年より地獄になった世界で、やっと新しいジョーカーが再び救ってくれると思って、低い給料から1900円払ったのに、あったのは長い長い説教だった。たびたび挟まるミュージカルシーンは苦痛でしかないと思う、2019年のジョーカーファンの客層には。
んー、さて。きつい現実をどうしようか。映画を観てもつまんないしな。ジョーカーが代わりに暴れてくれないなら、俺が現実でKILL THE RICHムーブメントを起こすか。そもそもフィリップスもホアキンもガガも、金持ちセレブだろ全員。社会の底辺がどれだけ辛いかわかってるふりしたセレブだろ。お前らに分かるわけがない。報いを受けろ…クソ野郎共
ミュージカルときたか。。。
今作の大半はミュージカルだった。
前作のテイストが好きだったので、前の雰囲気のままに描いて欲しかった。
リーはきっと歌や言葉やその美貌で魅了してアーサーを再びジョーカーにしようとしていたのだと思う。その空想の世界とミュージカルはなんとなくマッチしていたのかもしれない。
アーサーを追いかけるカットから始まる。
その背中は、奇妙で歪で恐ろしい。
ホアキン・フェニックスという役者は本当に凄まじい人だと思う。この役をやるために肉体も精神もどれだけのものを追い込んだのだろう。本当に辛く苦しいものがあるのではないかと思う。そのくらい凄い肉体と演技だった。
ジョークも言えなくなりただひたすら同じ毎日を過ごすアーサー。本当にジョーカーだったのかと思うほどに気力がなくなってしまう。
ある日、リーと出会う。
リーは夢みがちな空想好きの女の子で、すぐ歌っちゃうし、すぐ嘘をつくし、、、。
アーサーを魅了してその世界に引き込み、再びジョーカーを呼び起こさせる。
人と人との間に愛は生まれ怒りは生まれ失望が生まれ、狂っていく。誰が悪いとかじゃなくて、人と人との重なり合いの中で狂気って生まれるのかなと思った。
ラストカットのアーサーの腹を刺した男性はずっとぶつぶつ言ってて、口を切ってたように見えたけど、見間違いかなぁ。俺が本当のジョーカーだと新たなジョーカーが生まれ、悪は次から次へと生まれ無くならない。ゴッサムシティに平和は訪れるのか。
これは酷い
前作ジョーカーは人々を喚起させて行動させる凄い力を持った作品だった。惨めな人生にクヨクヨしてないで、みんなで立ち上がって金持ちや政治家やぶっ殺しに行こう!というもので、格差社会においてジョーカーを題材としてとんでもない作品を作った。監督はその結果として世界中でこの映画に感化された人々が殺人事件を起こしたことにビビって、本作であれは妄想でした。ジョーカーも悪のヒーローにはなれませんでした。それで虚しく死にました。って……前作をも亡きものにするかのような手のひらがえしで観客はガッカリした。映画は悪徳でもいい。歴史的に繰り返されてきた表現の自由に乗り切れなかった監督の日和によって、ジョーカーという映画は永遠の名作とはならず一過性の流行のような映画のレベルの地に落ちた。
酷評が分かりました
観る前にこちらの口コミを見たら賛否両論でしたが、酷評が分かりました。
高評価の皆さんのそれは深くてなるほどと思いましたが、単純に私は期待外れで退屈してしまいました。
刑務所や裁判所であんなにタバコを吸ったり簡単に面会が許されたりするのを違和感を感ずる方が先に立ってしまいました。
想像ばかりで、中身は半分に短縮できると思いました。
単純に面白かったパート1を観たいという気持ちになりました。
理解度が低くてすみません。
(↓以下はネタバレ)
これもよく理解してないだけかもしれませんが、気になるのは最後。
面会に来たのは誰なのか?あるいは嘘で罠で呼び出したのか?
ジョーカーなんていない。
アーサーが裁判所で最後に言った言葉が全てだった。
この物語では誰もアーサーを見ていない。常にアーサーは孤独だった。
ジョーカーは多くの人から熱狂的に支持されているのに、誰もアーサーのことを理解しようとしない。
1作目で孤独な青年が歪められ怪物になっていく様を見せておいて結局、怪物なんてもの(ジョーカー)はいなかったとアーサーに言わせている。誰もが思い描く悪人らしい悪人なんていないんだ、恵まれなかったり不条理に巻き込まれたりしたら誰もがジョーカーになり得るんだと言われているような気になった。
アーサーの最期はジョーカーが好きな女に見捨てられ、ジョーカーを信じていた囚人に殺される。アーサーはジョーカーになれなかったから殺された。最後の最後までひとりぼっちだった。
哀れな男の結末
前作同様、哀れな男が主役の物語。
物語自体は超現実であるが、舞台がゴッサムシティということもあり、
観客として、この映画はファンタジーだから、と心の何処かで甘えやら希望を抱きながら鑑賞してしまう。
でも現実って、こんなもんだよね。
ストーリー自体は目も当てられないようなひどい仕打ちが続いていくのだが、ミュージカルを駆使した演出や美しい映像のせいで、最後まで集中して見れた。
そして胸が苦しく、見終わった後も、しばらくこの映画について思いを馳せていた。
この映画は、あのジョーカーではなく、あくまでもひとりの哀れな男が主人公の話。
自分事として。アメリカの事だけではない。
解離性同一性障害の殺人が罪になるかどうかは横に置いておきましょう。専門家でも相当な慎重さと労力が要りましょうから。でも、その辺りの裁判でのやり取りも、丁寧な印象は受けました。アーサー自身が悪いのか?精神疾患がそうさせたのか?心神喪失状態だったのか?単なるお芝居や道化なのか?幼少期のトラウマが解離させたのか?等々。私が想像していたよりも、きちっと考えさせてくれる構成でした。上手い具合に、ミュージカルの挿入あるからこそ、息抜きしつつ陰惨にならず、返って集中してみることが出来た気がします。このやり場のない混沌(ジョーカーそのもの)がアメリカ社会だわ、と遠目に観たのでなく、きっと誰しもこんな矛盾を抱えているのでは?と問うていました。
「ジョーカー」は伝播し象徴となる
見終わった後に私も「ジョーカーはこんなに弱い人間なわけがない」と思ってしまった。それじゃあ劇中のリーと同類じゃん…とヴィランに強さを求めてしまう心を打ち砕かれた気がした。 現実世界にはジョーカーなんていない。それを作り出すのは、民衆の欲求なんだ、と。
徹底的にアーサーを「人間」として描くことで、現実世界で、反社会的な人間に悪のカリスマ性を求めてしまう集団心理に、監督はノーを突き付けた。
罪を憎んで人を憎まず。アーサーへ共感してもいいが、悪しき行為は賞賛されるべきではない、と。
そしてそれと共に、一人の男の真実にさえ近づけない社会の残酷さを訴えかける。他者の痛みに鈍感なのは、あなた自身もそうなのでは?と。映画の中だけ弱者に共感して、現実世界ではだれにも手を差し伸べていないのでは?と。
アーサーをアーサーとして扱い、関わってくれた人間がいないことが、同情を誘う。
弁護士も寄り添うようでいてその実、アーサーの苦しみからは目を背けているようにみえるし、裁判中はアーサーの母親も彼を愚弄していた事が赤裸々に語られる。
信奉者のリーも民衆も、ジョーカーの仮面をつけたアーサーしか求めない。というか、アーサーには興味がないのだ。
(もしかしたら裁判所爆発も、アーサーごと殺すつもりでリーが仕込んだか?)
アーサーに一番近い人間はやはり唯一、「こんなのは君らしくない」と言ってくれたゲイリーだけだったのかも。彼を知るがゆえに、本来は優しい人間が犯した狂気に、本当に恐怖したのかもしれない。
振り返ると、心象風景のミュージカルパートがじわじわと胸を抉ってくる。 第二作目は、アーサーとジョーカーの対決と言ってもいいかもしれない。
そしてアーサーからジョーカーが切り離され、象徴化していく…。
ラストは、ジョーカーが別の者に伝播する…と捉えることもできる。
または、リーが新たなジョーカーになるのかもという予感すら与える。
ホアキン版ジョーカーも、ノーラン版とはまた違う傑作。
本作に絶望した貴方、実は監督の思い通りかも
本作に絶望した貴方、実は監督の思い通りかも
本国での公開以降の酷評は勿論知っていて、それでも国内で公開されたら意外と評価高いんじゃないか説という甘い期待も裏切られてから一ヶ月、流石に中々手が出ず進撃の巨人が満員で見れなかったので代替候補として観てきました(笑)
いやあ~まさかまさか、良い意味での裏切りも何も無くそのままクソが出てくるとは・・・・・(呆れ)五年前に感動したあのジョーカーは見る影も有りませんでした。
内容は正真正銘の続編。妄想説などの議論を呼んだ前作ラストもあっさり現実だったという事が分かったのも束の間、刑務所に居るアーサーから始まります。序盤は流石ハリウッドの一線級という映像クオリティで「やっぱり面白いんじゃないか?」という期待を抱かせますが、レディー・ガガが出てきた当たりから不穏(不安)な感じになっていき・・・・。
そもそもレディー・ガガに惚れる理由が薄すぎて、これはアーサーが童貞疑惑もあるほどの非モテだったとしても、それ以上に他人に対して疑り深く拒絶心の強いアーサーがいつ惚れたのかも分からないほどあんなあっさり入れ込んでしまうのは強烈な違和感を感じざる得ない。
むしろジョーカーというキャラクター上、アーサーの方が裏切るじゃないけど最後はハーレイの脳天ぶち抜いてカメラの前でイエーイやって三作目に続く。。。とかの方がよっぽどらしかったと思う。
それがアーサーは終始入れ込んで明らかに彼女から求められるジョーカーを演じちゃってる格下な雰囲気で、もうそういうところも含めて前作で感動したあのジョーカーはどこへやら・・・という感じで。
それ以前にまずストーリーがシンプルにつまらない。前作の日常から非日常へ駆け上がっていくカタルシスであるだとか、その興奮なんかは微塵も継承されておらず、刑務所と裁判所を行き来する低予算も感じさせる絵の変化の無さとそれに呼応したつまらなさで眠ってしまいそうになる。
前作を遥かに凌ぐ予算は一体どこに割かれたと言うのか?ほぼレディー・ガガに吸われたんじゃなかろうか(笑)
既に多方面で言われていたミュージカル要素も意外とミュージカル映画ではないのでフルで歌い切るというボリュームが続くわけではなく、そこは前情報もあってか案外苦にならずに見れた。ただその殆どが妄想であるという点や、何よりハーレイにベタ惚れする理由が謎すぎて終始白けた雰囲気で見せられるのが非常に残念。
そもそも上でも語ったようにジョーカーとハーレイという関係性なのだから、もっと狂気的な愛みたいな感じでジョーカーとの主従関係みたいなのであればもっと面白かったと思うのだが、シンプルに今までモテなかったであろう中年男の青春と片や痛々しい女オタクという感じの構図でこれまたキツイのだ(笑)
ラストも風の噂では聞いていたが突然の展開で取ってつけたように、もうジョーカーは作りませんよ!!と言わんばかりのクソエンドで最後の最後までクソを塗りたくったクソだった。案外良かったという事も無い、正真正銘のクソ映画でした。
道中で良かったシーンや印象に残ったシーンも皆無です。まさかここまで酷評しなきゃならない自分も辛いです。。。。。
何より嫌だったのは、「ほら、これが見たかったんだろ?」と言わんばかりの前作オマージュや申し訳程度のアーサーの病気笑い描写。ほらほら、ホアキンのジョーカーだぞ!と言われているかのようにわざとらしく出てくる前作を彷彿とさせる感じが、安売りされているようで悪い同人作品でも観ているかのような気分にも錯覚させられました。
しかしここで面白い考察が、これすらも全て監督の手のひらの上で、そもそもこの作品に絶望することが監督の狙い通りだという説だ(震え声)
ジョーカーという祭り上げられた一人の男。そんな彼をまた神格化していた一人の実は普通の女性だったハーレイ。そして彼に失望して、絶望して振ってしまうハーレイ。そしてまた別の男はアーサーに怒りを覚え、殺◯。
そのラストも何の捻りも逆転も無く、本当ただ淡々と◯されてしまう。そうして空虚なミュージカルを見せられて特にカッコいいとも思えるシーンも無く最後の最後もあっさりと終わってしまう。
『『これこそが実は全て完成されている、メタ的に観客すらもジョーカーに対して失望させる完璧な2作目だった説・・・・・!!!!』』
いやあ~案外あるんじゃないかとw
それに本作、これが一作目ですげえダークでリアル路線のジョーカーって脳内変換すると案外見れたりします(笑)。飽く迄も前作が神すぎた。
前作が面白すぎて、アーサーがカッコよすぎて、ジョーカーという作品を神格化したまさにリアルな観客すらも作中のハーレイ達のように失望させて期待すらも打ち砕いて最後は最悪な気分で劇場を後にさせる。そこにはもうアーサー(ホアキンジョーカー)に対する期待も何も残っていない。
どこか予定調和なシーンが続き、最後の爆発すらも妙に説得力が無く突然舞台が変化するような奇妙な感覚。それら全てが悪いミュージカルでも見せられているような感覚をあえて観客にも体感させていた。アーサーの笑ってしまうような人生を疑似体験させていた。
そんな巧妙な計算が実は仕掛けられていた・・・・・そんな稀代の名作だったとして、数十年後には評価される時がくるかもしれません。
w
そら平均評価3.3くらいになるわなって内容でした。
面白かったです。
ただ、ミュージカル映画くらい歌うし、主演の1人がレディ・ガガなので、あーーそのためのレディ・ガガね。ジョーカーの続編でそれやるんだ。って思いました。
いわゆる賛否両論ってやつですね。
観ながら、ワンピースREDを思い出しました。
あの作品は、歌わせることに重きを起きすぎてストーリーがゴミだったので、ちょっとビクビクながら、今作を観ました。
出会いが、"歌っている彼女"だったので彼女との関係の深さに応じて、音楽の種類が変わっていくのは面白かったですが、まあ多いですよね。
ハーレイがもともとアーティストで、それで歌うなら分かるんですが、別にそんなことないので、どうしても"レディ・ガガ"過ぎるんですよね…
だから、ジョーカーの新作をレディ・ガガの実力お披露目会に消費されてしまったっていう感覚があり、複雑です。
もちろん、歌唱が多かったことには意味があると思うのですが、誰しも繊細に裏を読んで、映画を視聴する訳では無いので…
最高の続編
フォリ・ア・ドゥ=フランス語で「2人狂い」、「伝播する」、「感染する」といった意味があるそうだが、まさにアーサーと言う1人の男が生みだしたジョーカーという世の不満の代弁者たる虚像が同調する人々に伝播し、感染していく物語であった。その結果、リーのような人間達を生み出し、やがて虚像はジョーカーという名の虚が剥がれ落ち、アーサーという名の実に戻る。しかし、一度拡がったジョーカーという名の病は本人の意思とは関係なく拡大感染しつづけ、新たに生まれた純粋悪のジョーカーにオリジナルであったはずの虚像は実像と共に刺殺される。つまりこれは、悪の象徴となるジョーカーを生み出すキッカケとなったジョーカーでありアーサーの物語なのだ。
ラストの自ら口を裂く音と共に次なるジョーカーの誕生を感じさせるシーンにフォリ・ア・ドゥのタイトルの真意を見たような気がします。
期待外れと言うには心動かされすぎる20年後の名作
余り評判良くないけど
フツーに楽しめたけどな
でも、評判良くないのはわかる
たぶん面白くないと言っている人の半分ぐらいは
ミュージカルだから。
なんで歌ってるのか意味分からないと言う意見の人は楽しめないと思う。
あとは、前作のような弱者救済というか強者をやり込めて社会をひっくり返すような爽快感が本作には全くない。主人公アーサーのダメなところばかり目立つ
でも、駄作っていうには
心動かされる。動かされすぎる。
ミュージカルパートはアーサーとリーの心理描写を本当にうまく表現できている。
普通はそのミュージカル作品のために作られた歌を作中に使う事が多いと思うが、本作ではほとんど誰もがどこかで聞いたことのあるスタンダードな曲でちゃんと表現できてるのはすごい。
前作の暴力シーンの代わりに今回はミュージカルシーンが主人公の見せ場。
ラブロマンスなのか妄想の世界なのかわからないけど歌ってる時はアーサーが主人公。
ミュージカルパートがアーサーの高ぶる心を表現しているのなら前作のこともあるし、もしかしたら、レディオガガ演ずるリーも。。。なんて思うとまた違った意味でミュージカルシーンが見られる。
基本、鬱展開、ミュージカルパートがないと本当に彼の境遇がひどすぎてみてられないと思う。
気になるのが、これってちゃんとバットマンの世界に繋がるなかな?ってところ
なんか評判悪いし本国の興行成績も悪いみたいなので実現しなさそうだけど
もし、パート3が作られるのなら必ず観に行くと思う。
オレ、アーサーと一緒に夢を見てたんだ
確かに冒頭からちょっとやな予感はしてたんだ。でもさ、周りは自分をクズか病人扱いしかしない中でさ、あんな風に自分を認めてくれる人がいたらさ、そりゃ夢見ちゃうじゃない!?
挙句母親の本音まで言う必要ある!?すみませんデリカシーを売ってください!!
澱が膿になって爆発して、よーしここから全員皆殺しだ!!ついでにカノジョとキャッキャウフフしちゃうぜ!
と思ってたから落差がすごい。この気持ちどうすればいいの…
JOKERにオリジナルはいない
アーサーは狂人を演じていただけだった。自分の器以上に大きくなったJOKERはアーサーの手を離れ、オリジナル無き模倣へと変わる。
最後のシーンでアーサーの腹をめった刺しにした青年はおそらく新たなJOKERになるだろう。
そして、裁判所の爆発で逃げ出したというカリスマ絶大のエピソードに酔いしれるゴッサムシティの人間はJOKERへと変貌する。
壮絶まさしくオリジナル無き模倣であり、アーサーは生け贄となったのだ。
というよくわからん感想になりました。
そもそもあんなに知能の低いアーサーが、我々の知る頭脳明晰なJOKERになりえるはずがない。(笑)
この映画のJOKERとダークナイトのJOKERは別の人間です。
②ミュージカル的法廷劇を観よ!
前作が1999年に僕が劇場で観た映画37本(卒業アルバム的SNS 2020年2月4日記載)中、1番良かったので、本作はとうぜん観ました。
この作品は、前作を観ていないと、内容が繋がらないので、この映画を観る前に、前作を観ておく必要があります。
薬物を使ってドーピング演技をしていたので、ヒース・レジャー氏演じたジョーカー「ダークナイト(2008年)」は、僕にとっては、語る価値はナシ
本作のぶっ飛んだ脚本は、映画「タクシードライバー(1976)」に近くもあり、「時計じかけのオレンジ(1962年)ぽくもあるが
これで、色彩感覚が飛んでいたら、完全にジャンキー"サイケ映画"と決めつけねばならないが、
本作はギリギリなところで、ミュージカルの域に踏み込むことで、その世界に足を踏み入れずに済んだ気がします。
本作は、アメリカンヒーロー映画でなく、バットマンシリーズのスピンオフ作品でもなく
完全に、オリジナルな世界感を持った作品なので、アメリカンヒーロの世界観を、本作に期待した鑑賞者からは、
大苦評が来ることは、容易に予想できる。
人の好みは、好きずき
僕は、アメリカンヒーローものが、嫌いに近く、本作の様な世界感が非常に好きです。
本作のジョーカーは"トランプのJ"ではなく、"バットマンの好敵手"でもなく、単に詰まらない"ジョークを発する人間"だということ
本作は、アーサーと言う いかれたオジサンの人格@害(多重@格)の中での物語、
おそらくレディ・ガガさん演じるはリーは、初登場のシーン以外は、すべてアーサーの妄想の中での出来事だと推論できる。
それでも、リーは、ジョーカーの相棒ではなく、単なるジャンキーのファンであった。その部分が、妄想を否定するような点ではあるが、彼の人生はいままで こうして裏切られ続けてきたのだから、
妄想の世界でも、落胆するような展開に、自分の無意識が導くような気がする。
まして、女性とは、まるで触れ合た事も付き合った事もない 童@ゆえ、弁護士にキスしたのも、もちろん妄想での行い。
ホアキン・フェニックスさん と レディー・ガガさん 両俳優の歌唱力は、実に素晴らしい。サウンドトラックが欲しいくらいだ。
撮影のライティングも構造も、実に考え込まれており 作品の芸術性が高い事を物語っています。
この映画を観たら、もう1度 本作ではなく、1作目「ジョーカー」を観て、これまでの経緯を おさらいしてみるとよいでしょう。
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