ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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いいも悪いも、全てをその目で見届けたい貴方にオススメ🎶
観てきました〜♪
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」
「フォリ・ア・ドゥ」=
フランス語で「2人狂い」の意味だそうです。もう略して、「ジョーカー2」ってことでいいかしらん🙄
感想は、
賛否両論分かれる内容でした。
ミュージカル映画が嫌いな人は、苦手かもしれません。私はというと、昔は嫌いだったミュージカル映画が、昨今の名作ミュージカルによってその魅力に開眼。今はミュージカル映画大好きな方の人です。
で、そんな私ですが、
おっとこれは、もしかして?
ミュージカル映画的なやつかいな?
と、気がついた時には、
既に遅し…。
想定外のパンチに肩透かしを喰らい
若干、感情のスタートラインが出遅れてしまった模様…。
う〜ん、
やりたいことは十分に分かるのだけれど、残念ながら感情が追いつきませんでした。私の有り余る想像力と妄想力をフル稼働しても、主人公たちの気持ちに寄り添うことはできませんでした。
だってね、ひと6人も殺した極悪犯になったことないし🙄
極悪犯だって人間やし、恋するのも分かるよ。分かるけどもや…
えぇ?いつ?そんなに好きなん?
って、突っ込みたくなっちゃう悪い癖でちゃった。ミュージカル映画が苦手だった頃をほんのり思い出す苦い後味となりました😅
でもでも、
見どころは沢山あったよ🤭
レディ・ガガ好きなあなたは、もうそれだけで最高よ。主演のジョーカーを演じたホアキン・フェニックスも一作目同様、物凄い演技なのよ。すごい俳優さんなのよ。私の感情さえ追いついて、ストーリーに入り込めていたら、きっと物凄いお洒落でいてなおかつ、悲哀に満ちた傑作映画になっていたに違いない。
そもそもだ、
一作目が名作すぎた問題よ。
こちら気合い入れすぎて、前日にAmazonプライムでしっかり復習済みだから、感情の期待値はもうMAXなのよ。チラッとみた不評らしきレビューには目もくれず、かなり前のめりで観に行ったのも、よくなかったのかもしれません。
とにかく、
いいも悪いも、
全てをその目で見届けたい貴方😎
レッツ、フォリ・ア・ドゥ♪
でございます。
娯楽作品としては上出来
ジョーカーのエピソードとしてはイマイチか?
てかジョーカー誕生したエピソードが余りにも多すぎて、どれが本当でどれが嘘かわからない。(全部ウソかも)
なので今さら1人の人間ドラマにされてもという印象。ジョーカーは既に虚像でもなく、特にダークナイトでのジョーカーはカリスマ性がありキャラクターとして確立していた。
また、前作のメタ要素の回収がほぼ無いので、バットマンも全部アーサーの妄想でしたとかの考察は何だったのか。
前作のテレビショーの司会者にジョーカーが言うセリフが重要。
人価値観は人それぞれ、人の死すら最高のネタだと思う人もいる。
これは事実。
アーサーの不幸物語に庶民は共感して嫌悪感を持つ。
作中では、ジョーカーは虚像で居ないってことになっているが、製作者サイドは人間にはアーサーとジョーカーの二面性があり本作品の賛否両論を通して、観客を堕落させる試みであったの思う。
これが分断を産む。大統領選も近い。
つまり監督こそがジョーカーであり、観客は皆トゥーフェイスになってしまったのである。だから堕落する前のトゥーフェイスが登場してる。
(本当の狙いは観客のお前だよお前達なんだよ❗️)
いつものジョーカーと何のブレもない。
妄想(陰謀)か現実かは置いといて、楽しもう。
所詮娯楽なんだから自分の人生も他人の人生も。
もう一人の自分は?
理解が足りないので以下のように読み取りました
大衆の代弁者でもある狂気のスターのジョーカーはアーサーがなりたい自分を写したのかそれとも別人格の自分なのか?
法で裁かれるに置いては後者の方が有利だから治療して別人格は殺してます
それでも大衆はジョーカーを求める
初めてできた彼女もジョーカーを求める
だから改めてジョーカーになろうとした
それでも法廷の最後の最後でジョーカーはいないと命乞いをした
不器用で下手くそだから両方から叩かれてそしてみんな離れてった
みたいな、的な
ガガ様がいたからミュージカル調になったのか妄想は歌うように、でミュージカル調になったのかはわからないけどこれがなければもう少し端的にまとめられたのかな?と思う
最後はあまり没頭も感情移入もできない中、尿意との戦いで散漫になりながら見てたから
個人的にはせめてジョーカーなら追い詰められた時にやってくる暴力性は出して欲しかった
あんな感じではなくジョーカーらしい切り抜け方と殺戮でもってヘイトと賞賛を溜める展開であってほしかった
とにかく冗長でモヤモヤした面白いか?と言われると面白いわけでもなく、誰かに獎めたいか?とあればそのうちテレ東の昼まで流すのを待っても遅くないぐらいのクオリティなお話
予告編のちょうどいいとこの切り抜きは大したもんだと思う
前作同様ホアキン・フェニックスのガリガリな身体作りであの背中は役者の鑑
ところでガガ様は何を目的にホアキン・フェニックスに近づいたのだろう?ただの被験者をこねくるお医者さんだったのかな?
前作観たヤツら、目ぇ覚ませ
ジョーカー・シリーズ第2作。
ドルビーシネマで鑑賞(字幕)。
原作コミックは未読。
前作によって巻き起こしたムーブメントを盛り上げるどころか、逆に「ジョーカーなんていねぇんだよ」とひっくり返し、「いい加減目を覚ませ、お前ら」と訴える続編なんて未だかつて聞いたことがない。なんと斬新な続編のつくり方なのだろうと思った。評判が賛否両論になるのも分かる気がする。前作で救われたと思った人もいただろうし、それを否定されたように感じたかもしれないからだ。個人的には、このアプローチはとても面白いなと思った。現実に日本で、ジョーカーに影響されたと供述する犯人が電車内で凶行に及んだ事件が起きていたりするし、自ら火消しを行おうとした、と云うところだろうか。
それにしても救いが無い。アーサー・フレックが罪を認めたことで、「ジョーカー」と云う拠りどころを失くした弱者はもうどん底から這い上がることは出来ないとでも言うように、一気呵成に悲劇的且つ衝撃のラストへと導かれていく。
本作をつくる意味ってあったのだろうかと、ふと考えたくなってしまうほどに本当に救いが無くて、観終わった後は心にずんと重石を乗せられたような陰鬱な気分になった。
ミュージカルとは聞いていたが、結構歌のシーンが多くて驚いた。ホアキン・フェニックスの抜群の演技(笑いながら泣く演技が出来る俳優は、彼以外に考えられないだろう)に歌が加わると、さらに凄まじい訴求力がスクリーンから溢れ出して来るように感じられた。さらに、レディー・ガガの圧巻の歌唱力が、ミュージカルとしての屋台骨を強固に補強していて、このキャスティングは見事に成功していると思った。
「室井慎次」と続けて観るべし
前作でしっかり完結している作品の続きをどう描くのか?
やはり、同じ事はしたくはないだろう。ジョーカー自身をアーサーに戻す事をしている。
裁判劇で、狂気の部分に妄想のミュージカルを入れ込んでいる。面白いのが、この妄想の中で、既にジョーカーがリーの手で殺されている事だ。
そして、アーサーがジョーカーを否定する事で物語は完結する。裁判所の爆破からはエピローグの様なものに感じた。
充分面白かったが、前作の衝撃は無いのは仕方ない。
そして、前作のようなジョーカーによる現実の破壊を期待していた観客は肩透かしを喰らう。こんなジョーカーを観たい訳ではないと思う。観客の心理は、まるで裁判所を取り囲む信者の様だ。
それが、この映画の評価が悪い原因か?
この映画を観て、「逆襲のシャア」を観た公開当時の自分を思い出した。
余談だが、「室井慎次 敗れざる者」と続けて観たけど、この2本、対になってる気がする。
面白いがいくつか不満が残る
この映画が全米で大コケしたと聞きほとんど期待せずに観に行ったが意外と面白く、前編には到底及ばないがそこそこ満足ではある。
良かった点は、前作と同様にアーサーの心情を演じ切ったホアキン・フェニックスのみごとな演技や「ジョーカー」と言う偶像に対するアーサーを含めた周囲の心情がよく描かれていたところである。また、冒頭のアニメシーンもよかった。
不満だった点はミュージカルとアーサーの心情の変化の描かれ方である。ミュージカル仕立てなので元々長い上演時間の本作がより冗長に感じられる。ミュージカルシーンにはアーサーの心中と現実を区別しやすくするためでもあったがそれでもレディー・ガガのためにとってつけた感じが否めない。また一番の不満としてはアーサーがジョーカーを無理に演じ続けることをやめるまでの重要なシーンが少ししか描かれなかった事である。ゲイリーによって少し心を動かされたシーンと看守による暴行のシーンのみで本作において最重要とも呼べるポイントなので、丁寧に描いて欲っかった。
概ね面白かったがいくつか不満が残る作品だった。しかし2作ともにホアキン・フェニックスの怪演の賜物であるので彼には賛美を送りたい。
ケジメ
賛否両論別れているようですが、その理由はこの続編が「"ジョーカー"という存在を否定(断罪)する映画」だったからだと考えています。
前作が公開された後、トッド・フィリップス監督はインタビューで続編を製作する可能性について聞かれて、『考えていない。ジョーカーで語るべきストーリーが見つかればあるかもしれない』と答えていたと記憶しているのですが、それが「ジョーカーを否定する物語」だったのだと感じています。
「否定する」というよりむしろ「否定しなければならない」と言った方が正しいかもしれません。
富裕層と貧困層の格差やマイノリティといった現代社会の闇をバットマンの"ジョーカー"という題材で暴力的に描き、ジョーカーという存在が独り歩きして大きくなり過ぎてしまいました。また、日本でも"ジョーカー"を自称する男性が電車の中で粗暴行為に及ぶ事件が発生しました。そういった世間を騒がせてしまった責任に対する一つの「ケジメ」として、製作者は"ジョーカー"という存在を否定する必要に迫られてしまったのではないでしょうか。
アーサー・フレックは"アーサー"と"ジョーカー"の間で揺れ続けますが、最後に彼は"ジョーカー"であることを否定し、"アーサー"であることを選びます。そして自分の罪を認めます。
その結果リーは去り、期待外れの烙印を押されたアーサーはアーカムで腹部を刺されてしまいます。
腹部を刺されたのは恐らく、アーサーが「自分の後を継ぐ子供が欲しかった」という旨の発言していたので、「真のジョーカーはオレだ」と言い出す狂人は現れるけれど、「ジョーカーを継ぐ者」は現れませんよ。
そう否定するためだったのではないかと考えています。
アーサーを刺した男性は自分の口を裂いてピエロのように赤く染めていました。
アーサーは"ジョーカー"となる可能性が非常に高い人物でしたが、その寸前で踏み留まりました。
その代わりにアーサーを刺した男性が次のジョーカー候補ということなんでしょうか。
その男性が後にバットマンと戦う「本物のジョーカー」になるのかどうかは分かりませんが。
ジョーカーを肯定する映画を求めていた観客と、ジョーカーを否定しなくてはならなかった製作者。
その差がこの作品を賛否両論にしてしまったのではないかと感じました。
この作品の世の中の反応も含めての今作だと感じる
今作の評価があまり良くないということも含め、映画の枠を超えた作品が今回のジョーカーだと感じた。
前作の暴力的、破壊的な行動も含めてジョーカーという存在を楽しんでいた人(私もそうだが)からすると少し物足りなさを感じてしまうのではと思った。
それは劇中ハーレイクイーンがアーサーに愛想を尽かすこととかなりリンクしていると感じた。
期待に添えないと途端に手のひらを返す世の中。正義から外れた人を必要以上に叩く現実社会の風潮に対してのメッセージでもあると受け取った。
ジョーカーはひとりじゃない
本国で社会現象化するほど大ヒットした前作の人気を受けて製作された続編。
高い評価を受けた前作だが、個人的にはいくつもの不満が。なので、まずはそちらから。
一つ目は「このタイミングでこれ作ってる場合?」という不満。
2000年前後に日本でも放送され、評価が高かったアニメシリーズの人気を受けて企画が持ち上がった実写版『ジャスティス・リーグ』。
監督の降板などの混乱で大幅に立ち遅れるうちにマーベルに先を越され、『アベンジャー』シリーズから大きく水をあけられる羽目に。
『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)を経て『ジャスティス・リーグ』が公開されたのが2017年。結局、シリーズ化は頓挫。
その翌々年に、過去のどのDC作品とも関連しない前作が公開されて、「今やることか?」と思ったのは自分だけ?!
もう一つは設定上の不満。
狂人でありながら化学工学の知識に長け、武器や毒物をみずから開発するほどの天才でもある原作コミックのジョーカーの基本設定と、アーサー・フレックのキャラクターに乖離が有り過ぎ。
一方、どの関連映像からも独立しているとしながらも、ウェイン家の関係者は登場するが、ブルースの見た目年齢は10歳前後。
40手前の年齢設定のアーサーとの歳の差は、バットマンに成長したブルースとの対決が描かれないと分かっていても違和感が残る。
それら前作からの不満に加え、本作にもあらたな不満が。
独自の世界観で他のDC作品と無関係という同じ設定の下、前作の2年後が描かれる本作品。
当然、前作のブルース君はまだ少年。バットマンの登場は有り得ない。
なのに、ハービー・デントやハーレイ・クインといった原作シリーズのキャラクターをあらたに投入。一体、何がしたいの?
一方で前作とは異なり、ミュージカルの要素が採用された本作品。
監獄内で上映されているのはMGMのミュージカル『バンドワゴン』。
レディー・ガガ演じるリーがたびたび口ずさむ『ザッツ・エンターテインメント』は同作のオリジナルナンバーで、のちに同名のアンソロジー映画が大ヒットし、日本でエンターテインメントという言葉が広く認知されるきっかけに。
ほかにも多くの有名曲が劇中で使用されるが、冒頭の古いカートゥーンショー風のアニメーションの中で、かなり暴力的なシーンのBGMとしてバート・バカラックの楽曲が使用されている。
自分も大好きなアーティストだが、バカラックは昨年他界したばかりの現代アメリカが誇る歴史的偉人(バッハ、ビートルズと併せて3Bと称されていたことも)。誰か止める人間はいなかったのだろうか。
そもそも、「何ゆえミュージカル仕立て?」との疑問は残るし、冒頭のアニメシーンも不要だったと自分は思う。
本来は善人ながら、精神疾患の影響と強い疎外感から自我が崩壊するアーサーが罪を重ねるうち、意図せずアンチヒーローに祭りあげられる過程が描かれた前作。
続編の本作では、獄中生活や法廷闘争を経たアーサーがさらに脱皮を重ねてあらたなジョーカーの完成形が見られるかが焦点…のはずが、作品は想像のつかない衝撃の結末に。
このラストシーンはは次なる続編の拒絶であるとともに、アーサーは実はジョーカーになれなかったという元も子もない宣告をも意味する。
作品の副題「フォリ・ア・ドゥ」は、解説によればフランス語で「二人狂い」という意味なんだそう。
そのうちの一人は多分リー(ハーレイ・クイン)。
でも、アーサーが本当のジョーカーではないとすると、もう一人は?
これまでも複数の俳優が演じてきたジョーカー。本作でも多数のジョーカー・ワナビーが登場する。
ロビンがそうであったように、ジョーカーも一人でなくてよいのではと思う。
アーサーと最後に対峙する囚人は自分のジョークを披露する以外、それまでの作中、目立った登場シーンもなければ、特別な演出も施されてはいない。
でも、もし彼にジョーカーの交代劇を予感させるだけの個性が与えられていれば、あらたな続編への暗示となっただろうし、アーサーとブルースとの年齢差や、ハービー・デントらの投入に感じる矛盾も解決できたのにと考えると、さらに残念。
作品全体の印象を簡潔に述べると、J・フェニックスやガガらの演技に甘えすぎ。
前作からの時間もかかり過ぎたし、フットワークが悪いのでは?!
映画が大衆文化である以上、社会的メッセージを込めておけばいいってものでもない。
ザッツ・エンターテインメント。
ごめんなさい。
刑務所と裁判所のシーンが行ったり来たりで見どころが…正直無かった。
ミュージカルぽい映画は嫌いじゃないはずなのに、ハッピー感ないので何で歌ってるんだろう…となりました。
もうジョーカー逃げ切るのには裁判所破壊されるしかないだろう、と思ったら破壊された…けど逃げきれなかった。
ワンが良かっただけに消化不良感が半端じゃない。
「何者でもない自分」を生き続けられるか
ハリウッドのリソースでミニシアター映画のような物語をしたから、大衆の支持は得られないだろう。
ただ、人生を描いた感情を揺さぶる良い作品だったと私は思う。
前作の最後で一躍ヒーロー(時の人)になったジョーカー。
何者でもない人生に苦しみ、唯一の救いの手も閉ざされ、孤独に追い詰められた末の飛翔だった。
今作では、時の人になったことで周囲に人は増えるものの、求められるのは偶像としてのジョーカーである。本当の自分に寄り添ってくれる者は居らず、アーサーの孤独は続き救いはなかった。
リーとの関係は、彼の逃避と孤独を増強したのではないか。歌が切なさを感じさせる。
「何者でもない自分」を生き続けることは難しく、SNS時代には余計だろう。だからこそ1作目は共感を呼んでヒットしたのだと思う。
今作は「何者でもない自分を生きる“現実”」を観客に叩きつけるものだった。ウケはしないかもしれないが、これこそ映画だと私は思う。
DCファンとしては、これほどに深い孤独を持つジョーカーを、決して殺すことなく追い続ける者(バットマン)がいたとしたら、2人は躍り続けるだろうなと思った。
喜劇の終焉
1作目の社会の居場所がなく狂気に満ちたジョーカーとしてのキャラクターが確立していたので、2作目は消化不良でした。
個人的にミュージカル要素は嫌いではありませんが、取り入れ方が中途半端かなと思いました。
ミュージカル映画的な方向にするのであれば、
ジョーカーの妄想で実現したい世界・ハーレークイーンとの現実逃避などの場面があれば良いかもしれませんね。
誰でもジョーカーになり得る世界というような終わり方でしたが、あれだけ警備が厳しい環境の囚人がなぜ凶器を調達するのも難しいと思いました。
エンドロール後もなにもない腑に落ちない終わり方でした。
誰もが「アーサー」として人生を知る
前作は現実に虐げられた男がいかにして
「ジョーカー」となったのかを描いた。
本作はそれを前振りに今度は反対に
世間から注目を浴び、神格化された男がいかにして
「アーサー」となったのかを描く。
前作の関心事がどこからどこまでが現実で
どこからどこまで妄想だったのかに余白を残す作りだったのに対して、
本作はその種明かし、そしてより人間ドラマとして完成された作りとなっている。
名物司会者を生放送中に銃殺するという前代未聞の事件から2年後。
閉鎖病棟と法廷を舞台にアーサーは恋をし、
また「ジョーカー」というペルソナをかぶり始める。
もちろん、劇中に挟まれる妄想やバカ笑いなども健在。
ただ、前作とは異なり、本作は
現実と虚構が明確に区分けされている。
これは掃きだめとは言え閉鎖病棟での治療により、
アーサーの精神状態が前作よりも安定したことの表れだろうか?
虚構は一流のエンターテナーであるレディー・ガガにより、一層華やかに、
現実は一流のアクターであるホアキン・フェニックスにより、一層痛々しく、
描かれた。
虚構はずっと見ていたくなるが、現実は目をそむけたくなるばかり。
虚構は持ち上げ、現実はたたきつけてくる。
劇中主題歌の歌詞のように。
ドット・フィリップス監督は「ジョーカー」の根っこを描きたかったのではなく、
「アーサー」というキャラクターを描くために「ジョーカー」を使った。
結局は「ジョーカー」というキャラクターが放つ呪いともいえるものに耐え切れなくなった
男は「アーサー」に戻ることになる。
その姿から「ああそもそも生きるってこういう事だ。人間だって他の生き物と変わらない。
力が弱ければ踏みつぶされるし、頭が悪ければ飢え、擬態を辞めれば、それにだまされていたやつらに食われる」
前作の方が浮遊するような面白さはあったが、本作はまた別の「引力」を感じるような
趣深さがあった。
そんな煙草の量がより一層増えた今宵。来月の健康診断が楽しみだ。
アーサー
上手い幕引きだなと思う。
オリジナルが死ぬ事で、以降、ゴッサムシティを混乱に陥れバットマンと敵対する「ジョーカー」を模倣犯として切り離せる。
ジョーカーの信者が、あのメイクとあの衣装を身につけて「ジョーカー」を名乗ればいい。
ジョーカーを産んだのはアーサーでも、その後のジョーカーはアーサーでは無いわけだ。
アメコミを知らないから、作中に語られるエピソードは原作にあるものの解釈を飛躍させたものなのかと思って見ていたのだけど、どうにも違和感が拭いきれない。あまりにも狭い主観のような世界観で物語が進んでいく。
1番の違和感は「歌」だ。
コレをどう理解するべきなのか…。
外の世界観はほぼ漏れ聞こえてくるような状態で、熱狂だけが伝わってくる。
時折、挟まれるジョーカーとしての怒り…アレを具現化して第1作がジョーカーのカリスマ性を生み、大衆が感化されていくのだろう。アーサーである時にでも彼を発端に周囲が狂乱していくようなシーンもあって、ジョーカーとしての立ち位置が分かり易いなとも思った。
だが…
「歌」がなぁ…。
それまでのアーサーの人生には無かった感性が「歌」なんだろか?「歌」自体にも含まれるモノはありはするが…アーサーにとっては異質にしか思えない。
彼はずっと周囲に翻弄されてた。
リーには特に。
利用されようとしていたのか、騙されていたのか、恋愛を知らないアーサーが愛に絡め取られていく。
でもさ…アーサーには妄想癖って設定があって、コレがどこで発揮されてたのかと思うと、リーとの時間自体が嘘くさく思えてもくる。
つまりは歌が絡んでくるシーンは、全て彼の妄想とか。とても厄介な構成になってしまう。
そんな事は無いのかもだけど、どうにも作品としても整合性があるような無いようなで、始末が悪い。
どれがホントでどれか嘘なのか?
ジョーカーってキャラの本質を問うてるようにも思うけれど、作品としてはホアキンの芝居も相まって高尚すぎてタチが悪い。
ホアキンは流石であった。
ホントに。
ジョーカーであるアーサーも
アーサーであるジョーカーも
しっかり背負ってた。
冒頭、収監され痩せこけたアーサーからは、ジョーカーの片鱗なんか微塵も感じない。
が、その佇まいが異様で、居るだけで異様だ。
無気力な瞳、生気のない体つき…ジョーカーの燃えカスみたいだった。このアーサーを作り上げた時点で、本作におけるホアキンの仕事の8割は終わったんじゃないかと思える。
そして、あの笑い方…あんな声量で笑うのに、なんとも寂しくてやるせなくて、ホントによくぞアレに辿り着いたと賞賛の雨霰である。
アーサーの最期なんかは、息を呑む。
ボロ雑巾みたいに朽ちていく。
俺の中でホアキンと言えば、必ず出てくるカットになった。
ガガは…なんなんだろなぁ。
あんま彼女である事に必然性は見出せなかった。
ホアキンのジョーカーは、これで見納めだろう。
めでたくバットマンシリーズへの橋渡しも無事に終え、「ジョーカー」の名前と存在だけが1人歩きしていく。
狂人の如きジョーカーはアーサーではなく、突如笑い出す奇病も持ち合わせてはいない。
冒頭のアニメにはたまげたけれど、思い返してみるとアレはプロットみたいなもんだったのだな。
ジョーカーってタイトルで、アーサーを克明に描いた作品だったのだな。
ミュージカル&法廷劇(?)
私にとっては「バットマン」のジャック・ニコルソンのジョーカーが「ジョーカー」なので、どうにもピンとこなかった。
題名が「アーサー」だったら、印象は全く違ったかも。
ジョーカー コレ・ハ・ドゥ なの?
中途半端な★3.8
配給会社の煽り文句で、もう少しだけ作品の方角を示してもよかったのではないか。私は公開からしばらくしての鑑賞だったため、当サイトや米国サイトのレビューをチェックしておりガッカリ度ダメージは相当に少なく済んだ。
然るべく、エンタメは常に賛否両論あるもの。とはいえ否定的な評価は受けたいものではないだろう。ならば何故バットマンファンを直球で期待させてしまうような予告に留めたのかとおもう。興行収入へのアプローチとは理解するのだが「衝撃の結末」という訴求はアラートとしては遠回りすぎやしないか。
本作の物語のスジはこうだろう。前作は言ってみれば「ジョーカー0(ゼロ)」で、今作が「ジョーカー0.5」。以上は『アーサー編・ゴッサム犯罪の夜明け』だ。次は無いかもしれないが、あるとしたら「ジョーカー1」(スターウォーズのローグワンの位置)それから「BMビギンズ」「ダークナイト」「DKライジング」ってことですよねえ。思いっきり推測ぐるみはご容赦いただきたい。そんなスジを知らなかったもので、観る前は今作てっきり「ジョーカービギンズ」とばかり思ってしまった。
私も含めてノーラン's バットマンが「至上」と思っているヒトは多いわけだから、今回のがジョーカー0.5だよと判ってさえいれば、大ラスの出来事は非常に衝撃的なものになっただろうし、ヒース・ジョーカーの『何でこんな男が世にでてきたのか』という遥かな疑問への、かなり腹落ち感のあるアンサー作品になり得たはずだと思うのだが。
そんな個人的かつ身勝手な妄想で本作を捉えてみれば、重要なゴッサム史ムービーとして受け止めることができた。デートムービーではなく、激コアなやつ。
文字通り判定をブチ破った大爆破。あーキタキタこれがゴッサムシティのカオス!始まっちまった。ゴッサムのカオスそのものはアーサー、君とアーカム精神病院から生まれたのだと。急げブルース!ああ、そういえばまだ修行中だよな(泣)とね。
まあ…それにしてもだ。せっかくのヒリヒリした恐怖感を、妄想とはいえ甘い歌で中和してしまうことの繰り返しにより全編を冗長なものにしてしまった。アーサーの二面性の表現方法は他にもあったはずだ。カガ起用の副作用はいかにも残念。
気分悪いが見応えがある
社会的弱者がいたぶられる映画なのでストレートに気分悪いです、感情移入しやすく演技が素晴らしいがため胸くそ感も増し増しです。
どんな気分かというと、2時間ずっと辱めを受け、ジョーカーは本当は惨めで弱くて知能が低く童貞で社会に嘲笑される道化、憐れなピエロ、最後には期待を裏切ってしまい、自らも裏切られ、社会に殺される、まさにピエロの中のピエロで、それは理不尽すぎる今の社会を生きる自分たちに向かって、まさにオマエのの物語だよと言われた気分です。
私は見栄を張る人間なので、良い車に乗り、金持ちそうにして、幸せそうに生きる人間ですが、それがメッキを剥がされ続けることに共感し苦しみを感じましたが、またそれとは別に癒やしでもありました、ああこれは本物のピエロを見ているのだという気持ちで、そういう意味ではすんごく鮮烈に記憶に刻まれる映画。現代のみせもの小屋なのかもしれまへん。
しかし、しかし、こういう映画を求めてはなかったので精神的なダメージがあるので、万人には決してオススメなどできません。
幻の「初代ジョーカー」の男のストーリーとも受け取れます
この作品にガッカリした人々の気持ちも分からなくはありません。美しく色気たっぷりの赤いスーツのジョーカーが完全ヴィランとして楽しそうに踊りながらも、一方で暴力や殺戮に走り街を混乱に陥れる内容だと期待した人も多いと思います。確かに私もそういう世界線を見てみたかった思いもあります(アーサーの妄想の中でチラッと「そういう世界線」も一応描かれてはいますし、タップを踊るジョーカーは格好良いです)。しかし、この作品はかえってそういう路線に行かないことがむしろ良かったのかな?とも感じます。反発が来ることを怖れずこの内容にした監督や俳優、スタッフらに敬意を表します。米国では酷評とのことですが、アメコミや原作バットマンにそこまで深い思い入れがない日本人の方がこの「情緒・わびさび」のある人間ドラマを理解できるような気がします。
映画の最後で確かにアーサーは亡くなりました。しかし「ジョーカー」という概念はほかの人物の体を借りて、永遠に生き続けることとなりました。アーサーを匿おうとしたジョーカーコスプレ兄さんや、アーサーを最後あんな目に遭わせたサイコ男など、アーサーが「ジョーカーとして生きるのを止める」と決意しても、別のジョーカーが生まれる土壌は既に出来てしまっている。ある意味アーサーは、「完全な悪にはなり切れなかったが、確実に初代ジョーカーだった」と言えるのではないでしょうか。もしかしたら二代目になるのはサイコ男やコスプレ兄さんかもしれない。そして二代目ジョーカーが、大人になったブルースウェインと対峙することになるのかもしれない。そうすればバットマンの本来の世界とも繋がる。
日頃ほとんど映画を見ない私が、ホアキン主演のジョーカー映画2本だけはチケットを買って見に行きたいと思ったほどの魅力ある作品でした。批判の多いミュージカル部分も、色彩のないアーカムの生活にカラフルな色を添えていて、衣装を変えて新たな魅力をふりまくジョーカーが見られて良かったです。こういう人が現れたらそりゃ人々は熱狂するよなあ…と思わせる説得力があります。
前評判が良くないという理由だけで「見るの止めた」と決めるのはもったいないような気がします。
間違いなく映画館で観るべき傑作、ネット評のせいで観ないのは損
アーサー・フレックという一人の男を人間に戻そうとする人々と怪物に成らせようとする人々が綱引きする映画。中心にいるアーサーを引き裂いて醜いミンチにするまで終わらない綱引き。
怪物にならなければ愛して貰えない。でも例え怪物になったとしても、愛されている「それ」は自分ではなかった。
前作が「弱者は暴力によってしか世界と繋がれない」事を描いた作品だったとしたら、今作は「弱者は暴力に頼ってすら、結局は世界に居場所を見付ける事ができなかった」っていう更に更に救いようのない現実を突き付ける作品だった。それはもうミュージカルにでもしないと辛くて観ていられないくらいに。
アーサーを離れて、ジョーカーという影だけが激しく踊りだして、やがてアーサーそのものを必要としなくなっていく。そして影は次の誰かを飲み込んで、ジョーカーという幻想だけが引き継がれていく。
冒頭のアニメで映画の全体を全部説明してくれてるんだけど、それがホアキン・フェニックスとレディー・ガガの名演で繰り広げられると胸をえぐられてどうしようもなかった。
アーサー本人を、一人の人間として、たった一人だけ見ていてくれた存在は、同じく最も弱い境遇にあった小人症の彼だけだった。
(多分最後に面会に来たのも彼だったんじゃないかと思う。)
ジョーカーフォロワーと見せかけたガガ様が、実は最も強烈にアーサーを奈落に引きずり込もうとしている楽園の蛇の役割で、その声音と目線があまりにも蠱惑的でたまらなかった。
二人で踊っているんじゃなく、ガガ様に呪いをかけられて、死ぬまで踊り続けることを強いられているだけのアーサー。
ラスト手前、愛した人に殺してすら貰えない、アーサーの悲哀が極まってた。
アーサーの狂気が人々に伝播していくんじゃなく、アーサーの虚像に狂った人々の妄想が、アーサーを死ぬまで苦しめる。そう意味でのフォリ・ア・ドゥだった。
前作があまりにも成功してしまったために、世界にまかれてしまった「弱者がこの世界を抜け出せる唯一の道は暴力なんだ」という幻想、呪い。
それを解くための今作で、無事にアーサーは人間に戻って、それでよかったはずで、なのに…という所で映画は終わる。
世界に必要なのは愛なんだとどれだけ繰り返し歌っても、それは決して世界に響くことなく、暴力という希望だけが更に更に伝染していく。
これまで描かれてきたどんな「悪」よりも怖い。そう感じたのは自分だけなんだろうか。怖い怖い映画だった。
制作者が混乱した映画だったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はずっとこの映画を観ていて、一体何を描きたいのか良く分からない作品になっていると、1観客としては思われていました。
するとようやく映画の終盤辺りで、以下の事が描かれていると分かって来ます。
A.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、多重人格者の精神病者として認定されれば、死刑の有罪を免れられる
B.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、精神病者でなく、全く一貫性ある正常なカリスマとしてのジョーカーそのものの犯行であったと認定されれば、死刑の有罪にはなるが、カリスマのジョーカーとして殉教者になれる
つまり、今作は映画『ジョーカー』で主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)が犯した5人の殺人事件(実際は母親を入れて6人の殺人事件)を、裁判で裁く物語だったことがようやく映画の最終盤で分かるのです。
ところが、この映画のトッド・フィリップス監督や制作者が混乱していると私的感じられたのは、この映画を、Aの主人公・アーサーは分裂病者の無罪とも、Bのアーサーは死刑の有罪だがジョーカーとして殉教者になるとも、描かなかったところにあると思われました。
つまり、
C.主人公・アーサー・フレックは、精神分裂病者でもなく、ジョーカーというカリスマでもなく、単なる6人の殺人者として死刑になるという結末
(実際は違う最期でしたが‥)
にトッド・フィリップス監督や制作者がしたのです。
なぜこれで監督や制作者が混乱していると私的感じたかというと、以下が理由になります。
メリーアン弁護士(キャサリン・キーナーさん)は、Aの主人公・アーサー・フレックが精神分裂病の精神病者だとしてアーサーの無罪を勝ち取ろうとしています。
しかし、メリーアン弁護士が、アーサー自身のBのカリスマ性(ジョーカーの存在性)を、Aのアーサーが精神分裂病との主張により失わせようとしていると、主人公・アーサーは逆に激怒して、遂にメリーアン弁護士を解任してしまいます。
そして主人公・アーサー・フレックは、ジョーカーとして本人訴訟の法廷に立ち、いかに自身がカリスマとして存在しているかを法廷でアピールします。
当然この振る舞いは、Bのカリスマ性=ジョーカーの実在性の証明の証言であり、アーサー=ジョーカーの精神は一貫している(精神病ではない)つまり有罪の死刑になる主張であり、しかし主人公・アーサーはジョーカーとして殉教者になる、という主張でした。
ところがこの時の主人公・アーサーのジョーカーとしての法廷証言には、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソンさん)らを侮蔑する内容が含まれており、主人公・アーサーが刑務所に戻ると法廷のTV中継を見ていた看守のジャッキーらに激しく暴行され、挙句はアーサーに影響されて大声で歌い出した若い囚人(コナー・ストーリーさん)が煽りで看守のジャッキーに殺害されてしまいます。
そしてこの時の経験により、主人公・アーサー・フレックは、次の法廷でジョーカーの存在性を前回の主張をひるがえして否定します。
その証言によって、(Aの精神病による無罪でもなく、Bのジョーカーとしての殉教者としての死刑有罪でもなく)アーサーはCの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪になるのです。
ところが、1観客の私には、例え看守のジャッキーらの激しい暴行を受けたとしても、この時、若い囚人が煽りで殺害されてしまったとしても、主人公・アーサー・フレックが最後の法廷証言で心変わりをし前回までの主張をひるがえして、これまでの幼児虐待の経験などから生まれたジョーカーの存在を自ら否定するには、残念ながら根拠が薄すぎるように感じました。
(例えば、主人公・アーサーはこの時、若い囚人が看守のジャッキーに殺害された声を聴いたと、TV中継ある法廷で証言し、再び社会批判を繰り広げるカリスマのジョーカーとして振舞うことも可能だったはずです。)
すると、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、社会現象にもなったジョーカーの存在を、Aの多重人格者の精神病による無罪での生き延ばせも、Bの殉教者のカリスマとしてのジョーカーの死(死刑)も、外野の影響によって選択できなかった混乱がこの映画にあったのではと思われたのです。
つまり、Cの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪の主人公・アーサー・フレックの選択は、映画(の登場人物)の内在的な自然な方向性から出た選択ではなく、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、現実の映画の外野の圧力に屈して歪んで選んだ選択と感じられたのです。
もちろん、リー(レディー・ガガさん)の存在は、ジョーカーのカリスマ性の肯定の象徴であり、しかしそれをずっと主人公・アーサーとのミュージカルシーンなどで描き続けるのは、残念ながら個人的には映画にとっての時間稼ぎであり、今作の本質は最終盤の裁判の場面からでしかなかったと思われました。
仮に今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』への批判や不評があるとしたら、映画の内在性が指し示した自然な方向性を、(ジョーカーの存在を肯定するにしろ否定するにしろ)現実社会の映画の外野の圧力によって歪ませてしまった、監督や制作者による映画そのものの自らの内在性の否定から、批判や不評が来ていると思われました。
また今作をわざわざ制作する必要もなかったのではとも思われました。
ただ、アーサー・フレック/ジョーカー役のホアキン・フェニックスさんの演技は相変わらず素晴らしく、リー役のレディー・ガガさんの演技や特に歌のシーンは圧巻ではあったので、今回の点数に僭越ながらなりました。
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