ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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前作の答え合わせ
私は映画は好きだが通と言えるほどたくさんは観ていないし、誰もが知っている名作と言われる映画もそれほど観てはいない。
それでもこのジョーカーの前作、今作といい、どこかで見聞きしたような内容、既視感を覚えた。あの時のあの行動言動は実はこうでしたああでした、あの時あんなことこんなことを考えていました、とか。全てに意外性がなく、まあそうだよね、という感想しか出てこなかった。アーサーの不気味さとか神秘性とかカリスマ性とかも薄れ、二重人格さも感じさせず、ただの(日本にもいた模倣犯のような)目立ちたがりの犯罪者にしか映らなかった(しかしそれが演技なのだからたいしたもんだ)。
私にはたいした学がないので、小難しい考察は出来ませんが、映画をエンターテイメントととして考えたとき、前作で起きたことをわざわざ解説するための続編が必要だったのか、この気怠い雰囲気を保ちながら、前作の答え合わせをする必要があったのかと、この色々物議を醸した作品を見終えたときの感想でした。
世の興味は移ろい易く一時期崇め祀られた人が、次の新しいものが出た瞬間に忘れられてしまうことは珍しくない(現に日本のジョーカーの模倣犯は…)。
ただそれを二作に跨いで訴えたかったのだとしたら、あまりにも冗長で今作について言えば、エンタメ感には乏しかったと思う。
2025 24本目
ミュージカル法廷劇
本作で何が驚くかって、実はコレが本格的なミュージカルであり、ガチな法廷劇であること。しかも音楽は本当にスタンダードな名曲ばかり。
言うまでもなく、2019年の『ジョーカー(Joker)』の続編。本当は事前に前作を見直してから行こうと思っていたのだが、気力体力が足りなく……。でも、余裕がある人は(マストではないが)配信ででも観ておいた方がいいかも。
冒頭で、バックスバニーなどで知られるルーニーチューンズっぽいアニメが流れる(さすがにそこはワーナー作品)。Me and My Shadow というピエロとその影が競い合う内容。
フランス語は、1年程度勉強しただけでほとんど解さない私でも、さすがに "deux" が数字の「2」であることくらいは知っている。そして、賢明な皆さんとは違って、映画館で初めて予告編が流れるのを見たときに、何も考えずにサブタイトルの folie à deux は "part 2" をフランス語で言っているのだろう程度にしか思っていなかった。しかし、ちゃんと調べてみると、ひとりの妄想が別の人に共有される精神疾患を表す「2人狂い/感応精神病」ということだと分かった。考えてみれば、一作目の最後でもジョーカーの影響を受けて暴徒化していく人々が描かれ(貧富の差による社会の分断の象徴)、実際に日本でも感化された人物が京王線の車内で放火する事件が起きたりしていたことを思い出す。
本作を観ながら、アーサーがリーに影響を与えているのか、リーがアーサーに影響を与えているのか、はたまた彼らが群衆を感化させているのか、あるいは大衆の声が彼らを変えているのか、と答えの出ない問いが頭の中を巡っていた。
ひとりのカリスマ、あるいはインフルエンサーが何万〜何十万人もの人々を動かす一方で、一気に誰かを祭り上げたかと思うと、手のひらを返すように避難が起きたり、顔の見えない大衆の声、即ち世論が世の中を動かすこともある。そんな現代社会を動かす相互作用が象徴的に描かれているのであろう。
また、映画冒頭のアニメで描かれる自分と自分の影の如く、素顔のアーサーとピエロの仮面を被ったジョーカーのどちらが真の姿なのだろうか?そんな内省的な心の作用も描かれる一方で、どちらが本物かを周りが勝手に決めつけて崇めたり、逆に落胆したりするという身勝手な行動も同時に描かれる。
という訳で、かなり多重構造な話ではあるのだが、上映後のエスカレーターで前に立っていた女子二人組がこんなことを言っていた。「これってレディ・ガガの映画だよね」 うん、実はオレもそう思っていたけど、それを言っちゃぁ、お終めぇよ!😂
ジョーカー誕生秘話
ダークナイトのジョーカーみたいな悪のカリスマを見たかった人は知らないけど続編で異常者では無いという結果を見せるのはびっくりで全て環境がそうさせたし、リーもガッカリするくらいにアーサーはジョーカーを無理に演じれない。歌詞にもあったけどやっぱりジョーカーってどこから来たのかと思えばトランプにいるあの薄気味悪い孤独な男!そこから取って名乗ってたらしい。
賛否両論の作品だから配信を待つために期間を置いたのではなくて期間が過ぎただけだから安く済む500円で見た。最後のシーンで、アーサーを刺した若い囚人は『ジョーカーは思ったより大したことないんだな』と観客視点で言っていて、感情を押し殺して生きている孤独な男の憧れる(像)がジョーカーと言う社会現象だと気づかせてくれた。犯罪を犯してしまう人もどこかそういうのがあるらしい。
単体としては決して悪くはないのだが…
全てが不快
感想
まずこの映画を見るにあたって、殆ど全ての人が1を見ているでしょう。
ジョーカー1があれほどに評価を受けた理由として、過去の作品を意識、模倣するなど、建物で言えば建材や構造への細かな配慮が優れていた点。そしてDCの有名悪役を通して描く人間、社会の難しさを描いた点が挙げられます。
最近では鬼滅の刃に代表されるように、悪役にも過去があり、成り立ちがあり、心理学的素因や家庭環境に起因する歪みなどが受け手にはっきりと表される事が多くなりました。
悪役の背景を描出することで、悪役の深みを感じ同情を誘う事で物語への没入を強めることが可能となります。
ジョーカー1でも悪役をメインに配置しその背景を描く事で、どうしてこの姿になったか、その過程においては自分自身と何ら変わりない状況におかれていたのではないかと想起させました。これにより同一視した視聴者が行動に出る意思を抱くほど影響力が高い作品となりました。
ではジョーカー2はどうか。ジョーカー1との明確な違いは何か。視点にあると考えます。
ジョーカー1はアーサーに共感した大多数とそれ以外の少数がいました。
ジョーカー2ではアーサー視点、社会視点、視聴者視点、自己中心視点の4つに分類されるます。
社会視点は、事情はわかるけど許されることではないかなと感じた視点です。
視聴者視点は、ミュージカルが良かった、悪かったといった独特の表現技法への感受性や耐性を重視した視点です。
そして自己中心視点は、むしろこれが良いという所謂逆張りの視点です。
アーサーの立場になればこの映画は酷評でしょうが、それよりも賛美している側は大体が後者3種に属しています。そして何よりもこの3つの視点がジョーカー1の時点では、ほとんどがアーサー視点に立っていたということが重要です。
ジョーカーと呼ばれる存在がひたすら叩かれる映画を、ジョーカー可哀想、わかると同情していた視聴者が賛美している構造になっています。監督はこの構造がジョーカーぽいと言いたいんでしょうか。
今作はアーサーの攻撃的な限界よりも自棄的な限界をクローズアップしています。
とにかく弱い。とにかく弱者。ここで間違ってはいけません。とにかく悪者ではないのです。監督がアーサーは皆の知ってるジョーカーじゃないよ。だから辻褄が合うよねと言わんばかりのエンディング。アーサーがジョーカーとしてより暴力的に、よりカリスマ的に振る舞う様子を見たかったという気持ちももちろんあります。それにしてもあれほどまでに弱者が痛めつけられている様子を見せつけられ、次作ではより救いがない。とてつもない暴力描写があるわけでもなく、大人から子供まで誰もが知るキャラを使う事でまるでポップ寄りの作品であるかのような面構え。
そこら辺にある拷問映画の方がまだ大事な何かがある。この映画を作る意味とは何なのかが全く伝わってこない。映画における一発屋という表現が全くに当てはまる。
前作の視点による感情表現の示し方や独特とも思わせたライティングや、ある意味一本道なストーリー構成は、キャッチーと十二分に言える要素でした。しかし今作はただの二番煎じ、学校で学んできましたという様な監督の技術発表会でしかありません。
この映画を褒める人に問いたい。本当に面白かったですか。また見たいと思いましたか。この映画を褒める自分を好きなだけではありませんか。
でもここは良かったよねと思われる方もいらっしゃると思われますが、そんな犯罪者が更生したから偉いみたいな評価方法は他の映画を否定することになりませんか。
死ぬほど映画を見た上でむしろこういう映画が良いんだという様な超有名監督の考えも分かりますが、それは限りなく特別なケースであり、そこと同一視するほど自惚れた視聴者に喜んでもらったところで何年後には記憶の深くに消えて無くなるのが落ちです。
とにかく監督の思うジョーカーぽさ、ジョーカーぽい要素を映画っぽく詰め込んだぽい映画です。不快。
狂気
ジョーカーの本質を明確にした作品
前作は、結構好きな作品。
チャップリンの名作「街の灯」の裏返しにも思えて。それが良かった。
ドタ靴だし。ただ単に、優しさからなのに、相手は全然気づかない。
「街の灯」はラストに気づいてくれてハッピーエンドだったけど、ジョーカーは、勝手に民衆のヒーローに祭り上げられる。
で、賛否両論の続編のこの作品。
お金をかけただけあって(300億円!)、映像、演出は、ハイレベル。
レディー・ガガの存在も魅力的。
でも、前作のようなカタルシスはなく、ちょっとアレ?って感じ。
結果的には、ジョーカーの本質を明確にした作品だと思う。
アーサーはジョーカーではなく、ジョーカーは、大衆に作られた虚像だったことを冷徹に描いてみせた点で優れた映画だったと思う。
作り手の誠実さが伝わる素晴らしい映画だったと思う。
もう一度見直したい。
バットマンなき現実の世界
ラジー賞にノミネートされたらしく、どんなものか観てみた。が、実は名作だった。
ご存じ人気悪役ジョーカーを描いた作品で、前作は世界的に大ヒットだった。その2作目と言う事で期待値の大きさと、皆さんの期待にそぐわない内容が不評の理由かな。
しかし、この作品はジョーカーを描きながらもバットマンが登場しなかった前作の続きなのだ。つまりは現実世界に近い世界を描いている。
前作では精神疾患を抱え、親からの精神的な虐待に耐えながら貧しい日々を生きる若者の残酷な現実と、その中で抱え込んだ妄想、そこからついに犯罪者になってしまった流れを見事に描いていた。
同じように夢を持てない現実の日々を生きる町の人の一部から、彼が「ジョーカー」としてシンボル化されるまでの悲劇の物語が前作だ。
今作はその後を描いたもので、ミュージカル仕立てとなっているのだが、視聴するまではこのミュージカル部分が不安だった。
レディ・ガガがハーレクイン役と言う事で(歳行き過ぎなのでは?)という不安だった。(私の頭の中にハーレクイン像としてマーゴット・ロビーの素晴らしいハーレクインがあったから)
ところが、この作品ではガガでなければならないとさえ言える。なぜなら、このミュージカル部分こそ、この作品の本筋を描いているからだ。
しかもその演出が(監督が天才なのでは?)と思わざるを得ない。
「聖者の行進」の曲で作品内の登場人物たちの気分が高揚する場面ほど、画面のこちらで見ている視聴者は悲しくなるという、巧妙すぎる作りだ。
リー(ハーレクイン)がピアノを弾き歌うシーンでは、まさにジョーカーの扮装をしたアーサー青年が「踊って」いる。ハーレクインに操られ上手いこと踊らされているかのようなシーンだが、その前に担当弁護士から彼女の本当の姿を聞かされていたアーサーは「わかっていて踊っていた」演出だ。この青年の本来持つ純粋さや悲しさがポップな音楽で表現されている皮肉。
アーサーは本人が言うとおりで「馬鹿じゃない」。
だが、強くないし、何かを逆手に取るほど賢くもない。悪人になるには優しすぎるし、善人として生きるには精神的に痛めつけられすぎてその精神が弱り過ぎていた。そのあたりも裁判のシーンでうまく表されている。
世間でいうところの毒親に近い母親に育てれたために、「他者を笑顔にすること」が彼の人生の縛りになっている。「他者を笑顔にすること」そのものは良いことで彼を救いもするが、ある種、アーサーにとっての呪いでもある。
結局いつも「誰か」の期待にそう行動をやっているに過ぎない。その「誰か」はアーサーの周りの人間でアーサーが「優しく接してほしい誰か」だ。
他人の笑顔を無意識に期待しているアーサーの優しさや弱さ、悲しさが観ていてつらい。
こんな悲劇が彼だけではないから、この町では彼はシンボルとして祭り上げられたのだろうと言う事は想像の領域である。この作品にバットマンは登場しない。
しかし、アーサーが感じているほど世間は実は冷酷ではないことは随所に描かれていて、それが観ている視聴者をより悲しくさせる。
この物語は最初から最後までアーサーという青年の悲劇であり喜劇だ。ある意味ホラーでさえある。
この哀れな主人公が救われるのは最後のシーンだろう。
ネタバレになるので詳細は省くが、「報い」という言葉はこの作品の結末としてはおさまりが良いと感じた。
主演のホアキンも天才だ。
監督の表現したいものをここまで表現できるなんて、どんな精神を持ってるんだと考え(なるほどホアキンじゃなきゃこの役は無理だな)と納得。
と、上げていけばきりがない。
私の結論としては、「バットマンがいないDCコミックの世界は厳しい現実だけがそこにある」だ。
そのあたりの表現も挙げればきりがないほど見事なのだが、あまり長すぎるのもあれなのでこのあたりで終わろう。
この内容でラジー賞候補というのはあんまりなのでは、と思うが、今年のアカデミー賞があの状態だからね。
良かった。
賛否両論があるの分かる…
いいか悪いかで言えば良かった。しかし、ジョーカーではない。ジョーカーなどいない、ならジョーカーでやる必要あるか?そのタイトルを使った作者の自慰行為に思えた。
第一作目が当たったから二作目は好きなことをやろうというのはいいけれど、やはり欲張りというか詰め込みすぎというか。配分がもう少し違かったら名作だったように思う。
ハーレークイーンがラスト妊娠してたけど、自分の子供が本当のジョーカーになるような匂わせもあった気がする。
そんなに悪くはなかったけど2回目は見ようと思わないかも…。
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