ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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代弁者だったのに。
女に弱い、ただのオジサン。そんな印象しかなかった。俺を丸ごと受け止めてくれると
喜んでいたアーサー。でも、リーも私と同じように、アーサーではなくジョーカーを求めていたように思う。そんなレディガガも、どこかのインタビューで、ファンの代弁者でいる、と言っていた。そう、私も負け組中の負け組だった。理不尽な世の中で微々たる力でやってきた私としては、弱々しいアーサーが狂気の最中としても、ジョーカーとして産声を上げるあの瞬間、私は心の中で歓喜の声をあげたのだ。大袈裟ではなく。私たちの代弁者としてジョーカーに狂気の沙汰で大いに暴れて欲しかった。
映画だけでも。映画だけでも、弱い奴がヒーローになってもいいじゃないかと。
でもアーサーは、最後はアーサーでしかなかった。痩せ細った、疲れ切ったオジサン。
まるで負け組は負け組で終わっとけよといいたげに作られたこの映画。
こんな映画を作るために、頑張った監督さん、お疲れ様。
アーサーフレックの物語
前回がジョーカーの物語なら今回はアーサーフレックの物語でした。
センセーショナルな殺人、不幸な生い立ち、社会からも見放された悲劇と憎悪が産んだヒーロー
でも、本当の彼は一体だれ?
ジョーカーなの?アーサーなの?
母親に求められる自分を演じていたようにリーに求められる自分を演じる世間に求められる自分を演じる
リーや世間はただのアーサーを愛してくれるの?
正直2時間何を見させられてるのかなと思う時間がほとんどでした。
私達はいつの間にかリーのようにジョーカーという虚像を膨らませて勝手に期待していただけに過ぎない。
カウンターカルチャーとしてのミュージカル
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」、とても良かった。傑作。アイデンティティーの確立に失敗した「ハウルの動く城」みたいな話だった。よく出来ていた。
想像以上に誠実な作りでびっくりした。ジョーカーによる表面的な破壊はあまり見られない作品だろう。だがジョーカーは破壊している。何を?常識、それにまつわる社会や世界を。それも示唆による破壊である。つまりこの映画はジョーカー(=アーサー)の話を聞く作品である。
「ダークナイト」や「ジョーカー(1)」よりも僕は好きな作品である。この作品に〝ジョーカー〟を求める事はアーサー自身のアイデンティティーを認めない事に繋がる。アーサー=ジョーカーの話を聞きたい人には満点の映画である。
欲を言えば、アーサーにもう少し分が有っても良いと思う。そんなに神様は理不尽なものなのだろうか…。そういう点では一作目でのシナリオ構造上の問題が二作目で露呈しているとも言える。それに対して二作目はより誠実に(過度に真面目に)なったと思われる。僕は誠意のある映画が好きなので評価する。
「誰の中にもジョーカーがいる」というよりも、「誰の中にもアーサーがいる」と思った方が良いと感じる。
レディー・ガガさんが過度にハーレクインを演じていないところも演出として正解だったと思う。ハーレクインという存在にガガさん自身の近い部分を寄せていった印象。
ミュージカルもよかった。カウンターカルチャーとしてのミュージカルとしてよく出来ていた。
比率として、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」度:3
「ショーシャンクの空に」度:1
「カッコーの巣の上で」度:1
「カラマーゾフの兄弟」度:1
「新約聖書」度:3
「マクロス」度:1
アメリカンニューシネマで始まり、アメリカンニューシネマで終えたような作品だった。
(そういう意味では)至極真っ当な作品だったと思う。
今作には隠れたテーマとして紛争、戦争の事も入っていると感じた。
1人の人間の心の平安の無さが、世界にどれだけの不安定を齎すのかというメッセージを想う。
余談を書けば、「ジョーカー2」はつまり「1」と「2」で綴られた〝ジョーカー〟の話で無くても良いという事だと思う。つまりは、ホアキン・フェニックス版〝ジョーカー〟の話であって、〝ジョーカー〟という存在は、街や世界で認められなかったアイデンティティーの集積値の存在なのだと思う。
冒頭のアニメーションも分かりやすく表現されていた。(影を無くした)ピーターパン症候群であり、アダルトチルドレンの問題から暴走した影によって自身が翻弄されている(されていた)表現であり、この問題はアーシュラ・K・ル=グィンの「ゲド戦記」などに見られる〝自己確立〟の課題と重なります。
余談の余談になるものの「ハウルの動く城」で宮崎駿さんがやりたかったのは男女の恋愛を介しての「ゲド戦記」だったのだと思う。ハウルは大きな魔力を手に入れる為に心臓と自己を二分させながら行先の見えない戦いをしています。ソフィーという存在がハウルの自己認識の根源を見つけることで癒します。
(おそらく)宮崎駿さんの中には〝一人の人間の中の呪解がもたらす世界の平和〟という考えがあります。
それは僕も最もな考えだと思います。
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」に於いては、一人の人間の呪解は…、という形です。
これは東洋的思想かもしれませんが、「ハウルの動く城」を超えた作品では無かったのは、監督に力量が無かった為では無いと思います。宮崎駿さんが異次元に行っているだけだと思います。
寄り添うように誠実に作られていました。
あとあのキスは何だったのかという事ですね。あれは自己統一性が保てないまま愛を持って生きようとしたアーサーの影の暴走ですね。人との境界が分からないまま愛を大事にしようとしたアーサーの影による行動です。
それは序盤のオープニングアニメでも描かれていますね。
終盤の階段を登るシーンはゴルゴダの丘なのでしょう。
贖罪の物語でしたね。
ハーレクインについて。彼女がアーサー、ジョーカーに求めたのは彼の持つエンターテイメントです。なのでアーサー自身がジョーカーをやめる、ピエロをやめるという事に絶望した訳です。アーサーはエンターテイメントよりも自己のアイデンティティーを優先しました。(それ自体は)正しい判断でした。
これは編集による為なのか、元々の脚本や撮影が多かった為なのか分からないのですが、ハーレクインは逆にアーサーのどこに可能性を感じていたのでしょうか。生き延びる可能性です。あのまま影の暴走を願っていたのでしょうか。それにはアーサーは強過ぎました。
リー、つまりハーレクインがアーサーにジョーカーのメイクをするシーンでは映画「ブレイブハート」のような革命戦士を思わせます。彼女が望んでいたのはジョーカーが世界に伝染することだったのでしょう。しかしアーサーはそれを拒みました。傷ついた幾人ものジョーカーを生み出す事はしませんでした。
この物語ははっきり言って悲劇です。
終わり(結末)には悲しみがあります。
しかし何故悲しみがあるのかの理由は、アーサーが二作目において英雄的決断(と言ってもいい)をしているからです。それは罪を認め、自己のアイデンティティーに向き合う事を選んだからなのです。物語の中の唯一の希望です。
ジョーカーが助かる方法がひとつだけありました。それは「アイドル」になることです。無責任の象徴であるピエロに対して責任的象徴として人を楽しませる存在、それは「アイドル」です。仮にジョーカーの逆転劇、生存戦略として可能性があった方法としては自分自身のアイドル化です。そこにはアイデンティティーの回復に伴った形で支援を募る状態でありつつ、自身だけに収まらない世の理不尽を利他の精神で訴えながら愛される戦略です。
ただひとつの方法です。
僕はその可能性が作品内に残されていたことを示唆します。
ジョーカー史上1番彼の人間性にフォーカスされた作品だったと思う。
抑圧と拒絶によって生まれた虚像と本来の自我との狭間でアイデンティティを模索するアーサー。ようやく本当の自分を見つけた彼だったけど、暴走した虚像によって全てを否定される…
なんて無常な物語なんだと感じた😢
この作品はマジで見る人によって解釈も好みも分かれる作品だったと思うけど、個人的にはすごく楽しめた!
特に面白く興味深いと思えたのは最後の部分で、あれによって"ジョーカー"に対する解像度が広がったw
〝ジョーカー〟は何処へ?
〝我々含め、皆がジョーカーの存在を期待する。〟
という仕組みがこの作品の本質だと思う。
悪のカリスマたるジョーカーはとても好きなキャラなので、また彼に劇場で会えることに胸を膨らませて映画館へ向かった。
しかし、前作で誕生した〝ジョーカー〟はこの作品では登場しない。
作中の世界で放送されているというドラマやアーサーの頭の中の妄想に、〝彼の〟片鱗は感じるものの、何かがずっと物足りない。
そうして迎える、アーサーという一人の人間の呆気ない最期。
ああ、アーサーはジョーカーではなかったんだ。
我々はアーサーに、自分の中のジョーカーを投影していただけだったんだ。
リーがジョーカーに恋をしたように、前作でジョーカーに恋をした私のような人間には、酷く期待外れな映画に映るだろう。
しかし、それこそがトッド・フィリップス監督の狙いだとしたら。
「普段、平穏に、当然のように、社会的な生活をしているあなた達も、ジョーカーの誕生、その存在に期待していたんだろう?残念、アーサーは違いました!」
「一杯食わされた、アッパレ!」
私はそう言わざるを得ない。
言いたいことはわかるが……
観客と映画に出てくる「JOKER」に期待する大衆を重ね合わせていることは理解できる。前作の暴力的で華美なJOKERの世界への転身から、アーサーに戻ってくる姿を描写したかったのだろうと感じた。
が、あまりにも盛り上がり所がない。前作にあったアーサーの陰鬱さ、危うさや色気のような部分がとことん削がれており、そこに何か新しい魅力が追加されることは無かった。ひとりのつまらなく悲しい男を描くにしてももう少しやりようがあったのではないだろうか。
シチュエーションがほぼ刑務所と裁判所、あと妄想のステージだけなのも単調さを助長している。前作の昼、路地裏、夜と街灯、シャワー、電車のホーム、のように様々な自然光と人工灯に照らされてクルクル変わる印象的だった雰囲気が、ほとんど屋内の光で完結しており全体的に霧がかっていた。映像作品としても前作と比較してイマイチ。ただ、序盤の煙を吐き出しオレンジに変わるシーンだけは前作を感じられて高揚した。ちなみに予告されていたハーレイとの階段ダンスはない。
期待に応えられないようなつまらない人間には誰も見向きをしない悲しさ。言いたいことはそんな感じだと思うが、まあ、その通りでつまらない。特に見てよかったなとは感じない作品。
鑑賞した人の多くが思うのはゲイリーに幸せになって欲しい、ただそれだけだと思う。
ラ・ラ・ランドとダンサー・イン・ザ・ダークの愛の讃歌
個人評価:4.0
レディー・ガガをキャスティングした理由。なるほどそういう事か。
ダークサイドの中の愛の讃歌。追い詰められ時に始まる音楽。まさに悲しみの淵のビョークを連想させ、2人のダンスはラ・ラ・ランドが頭をよぎる。本作ジョーカーに期待した演出ではないが、見応えのあるショーである。
前作からこの物語はDCコミックのジョーカーではなく、アーサーというコメディアンを目指す1人の純粋な男を描いていると感じ、そのスタンスは今回も変わらず、アーサーの個人的な物語として見る事が出来た。
ホアキンの演技も今回も素晴らしく、5年の時を経てもアーサーそのものであった。
それにしても2人の関係は未完なので、これは続編あるな。
JOKERは名前だけ?
何故にあんな作り?
映画の中の挿入歌ならどんな映画でも、場面を盛り上げたり感情移入させるので入ってるから解るが、ミュージカル映画でも目指したのか?
さっぱり映画の内容が入ってかなかった。
前作からの続編だから期待してたのに、悪い方で期待を裏切られた感じがして、すっごい不満だけが残ってる。
JOKERとしての物語ではなく、JOKERになろうとしたアーサーの物語ってだけなのかな〜。
最後の終わりを見るに、おそらくはJOKERになれなかった男の末路って所かな。
この映画の続編はもう作られないだろう。
ミュージカル?違うって言っても30曲以上の曲が…
エンディングのロールで挿入曲を数えてみたら、30曲以上の曲が。しかも、ホアキン・フェニックスにレディー・ガガが結構な曲を歌っていた。
レディー・ガガがキャストに見た時、音楽映画にするのか?と思っていたけど、そのとおりになっていた。
前作と映画の種類が変わったなって感じでした。それはそれで、悪くはなかった。けど、裁判にかけられたり、弁護人解雇して自分で弁護したりと、そんなことより逃げて悪の所業をしてもらった方が楽しめたかなって感じでした。
レディー・ガガが良かったので、もっと二人で外の世界で楽しんで欲しかった。
追記、予告か何かで公開前に見たジョーカーとリーが階段で二人で踊る場面は本編にはなかった(はず、見落としてないはず)のはガッカリというか重要なシーンとして使って欲しかった。何かそんなことが観る者の期待を裏切っていったのかな。
曲は昔聞いたことがある名曲を二人が歌うので、懐かしくて良かったけど、若い観客はどう感じたのだろうか?
前作よりは好き嫌いは出る映画。(よっぽど裏切られた内容だったのか終わる10分前くらいに前の方にいた背の高い男性が立ち上がり、かがむ様な後ろの観客を気にする仕草もせずにトイレに行き、帰ってきたらエンドロールが始まったらすぐ連れと3人でやはり後ろは無視で出ていった客がその最たる例だった。)
賛否両論(否が大分優勢ですが)ある映画ですが、鑑賞後グランドシネマ...
賛否両論(否が大分優勢ですが)ある映画ですが、鑑賞後グランドシネマサンシャイン池袋の長いエレベーターを下ってる時、後ろにいたカップルが「ミュージカルシーンは良かったけど他は全然ダメだった」とオレと真逆の感想話してたのでやっぱ意見が割れるなあと実感しました。
話が破綻してるとかではないので、ジョーカー続編に何を望んでいたかによって評価は変わると思いますが、前作と対をなしてしっかり環を閉じてて良いなと思いました。
切ないフォリア2の作品
オンとオフの演技が見事で、引き込まれました。
歌も上手い!
予告で観た場面がとても衝撃的だったので、楽しみにしていたのですが、不意に寝落ちしてしまい、大階段の爆破シーンを見過ごしたのが残念でした。
リベンジすべきか…悩んでます
魔法がとけて、本当の自分に戻るやすらぎ。
「ジョーカー」の衝撃は、すごかった。
アーサーの現実と妄想の区別がつかず、その衝動性で次に何が起こるのか分からなくて、ただただ怖かった。
内容が頭に入っている2回目、今年の3回目の鑑賞でも、何回か体がぴょんと跳ねた。
そんなことは夜中にテレビを観れなくなった貞子に出会って以来だ。
今回の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーの仮面を脱いだアーサーの物語。
社会のルールに適応できなくて排除される異物の悲哀に、やるせなさを感じた。
同時に、私は彼と友だちにも、隣人にも、顧問弁護士にもなれないと思った。
今作も、私のダークサイドを根底から揺さぶるという意味で、観た甲斐があった。
母から愛をもらえず、恋をして、ただ一人の人を求め、けれどその人が欲したのはアーサーではなくジョーカーで、振られてしまう。
ジョーカーとして崇拝されるのではなく、アーサーとして愛される経験を持って欲しかった。
「ジョーカー」と同じく、今作もラストのシーンが尾を引く。
最期に、彼は何を想い、何を見ているのだろうか。
魂にひりひりと悲哀を感じさせる音楽は、相変わらずよかったし、全く楽しくなさそうなアーサーの笑顔にも笑い声にも、しびれた。
見納めなのだと思うと、寂しいけれど、これ以上アーサーがしんどい目に遭わなくてよかったとも思う。
「ジョーカー」・「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、発火装置な気がする。
本当は、そこここで既に小さな火が燃え始めていて、大きな炎に繋がっていくかもしれない。
怖いと同時にワクワクしている私は、自分の中のジョーカーとうまく付き合っていきたい。
何やっとんねん
2024年劇場鑑賞259本目。
バットマンに出会う前のジョーカーを描く作品第二弾・・・だよな?
もうこれはマルチバースとして処理するしかないですね。ネタバレになるので詳細は書きませんが。
変なミュージカルになってて歌のシーンがインド映画より多いです。
歌ってガガ様とイチャイチャしてそれが妄想で・・・が延々続くのでこんなんに二時間半もいらないです。
心が元気な時に
心が元気な時に見たほうがいい、ととある芸人さんが言っていたので、体調整えてIMAXで鑑賞。
1作目は私にとってその年のthe best of movie だったので期待しすぎたかもしれない…
世界線が複雑になっていて、アーサーとジョーカーとリーの気持ちや立ち位置が交錯していて、見ていて時々混乱しました。
見応えもあるし、長丁場も飽きることなく見れましたが、肝心の話のつながりがやや浅い感じ…
リーのキャラクラーも曖昧な気もする。
最後、アーサーはああ言う結末になってしまったけど、もしかしたらあれはあれで良かったのかもしれない。死刑をただ待つよりも本望というか。
文章に残すのがとても難しい感情ですが、ホアキン・フェニックスの憑依型演技は見る価値あり。
深いのです。
情報を見ればミュージカルが取り入れられるとか前作とは異なったアプローチとかわかったのになんで見に行くんだろ?過激なシーンを期待したら裏切れるのに。リーと一緒に見たザァツエンターテイメントに影響され愛を育む二人の妄想がミュージカルになるのは道理。アーサーとして刑に服すことを選びリーが去りデントの追求に下るが爆破でデントがトゥフェイスになりラストでは新しいジョーカーの誕生が見られる。なんと深いのだろう。
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