「ハッピーエンド」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ セッキーかもめさんの映画レビュー(感想・評価)
ハッピーエンド
10/11@Tジョイエミテラス所沢、10/14@MOVIX昭島(10/4ジョーカー@丸の内ピカデリー)
本作は世界的に酷評されたことで有名である。私はジョーカー1が公開された当時、主人公(アーサー)にひどく感情移入してしまい、珍しく劇場で2回観賞したことを覚えている。今回も本作公開に合わせて、予習のために丸の内ピカデリーで1回、DVDをレンタルして自宅で1回観賞した。
率直な感想としては、予想とは反対方向へ進んでしまったが、完成度が非常に高いなという印象である。
5名の殺人を犯したアーサーは留置場で生活していた。同施設内で生活していたリーから言い寄られる形で恋に落ちていく。その中で裁判は進んでいき、アーサーとリーの関係も揺れ動いていく。
前作では、アーサーの日々の暮らしから、ジョーカーに変貌するまでを描いた。1人の心優しい青年が殺人を犯すまでの過程をこれ以上なくリアルに描いていた。観客はアーサーの境遇に同情するし、殺人に関しても、悪者というよりむしろよく敵に立ち向かってくれたというような気持ちにさせられる。アメコミではダークヒーローであるが、前作では正義のヒーローとして描かれていた。
ところが、本作ではジョーカーの存在を否定するようなつくりになっている。アーサーは、前作での下克上的な行いにより、一部の人々のヒーローとなった。本作では一部の人々の代表がリーにあたる。彼女はアーサーではなく、ジョーカーを愛する女性である。性行為の際に、メイクを強要するのは象徴的なシーンである。アーサーはリーに嫌われないよう、ジョーカーであり続ける必要があった。
本作は前作と大きく方向転換した。アーサーは過去の過ちを冷静に受け止め、更正したいと思う反面、大衆からはジョーカーとしての振る舞いが求められる。最終的にアーサーは、ジョーカーの存在を否定し、元のアーサーとして生きることを選択する。しかし、これは世の中では受け入れられず、社会的に見捨てられる結果となった。
公判でゲイリーと話すシーン。アーサーはここではじめて本当の被害者の存在に気付かされる。本当の自分を友達と言ってくれた人物に背き、ジョーカーとして振る舞うことを受け入れた。この後に最後の公判があるが、アーサーの目にカメラがアップしていくシーンがある。このシーンの前まで、最後どちらに転ぶのか私は分からなかった。しかし、目線はどこか自信がないのを見て、理解できた。
映画の中の群衆も、この映画の観客もジョーカーを観たくてきた。しかし、アーサーが選択したのは、元の優しい青年として生きていくことだった。映画としての世界的な評価も、映画内での群衆からの評価もまったく同じものとなった。監督は、当然これを見据えて作ったのだろう。
歌唱シーンが多く、ストーリーの進行を若干邪魔してしまっている感があるが、アーサーとリーの心情を表すのに効果的である面もある。
全体として、前作から完成度はまったく落ちていない。各シーンのセリフや登場人物の細かな仕草など、複数回観ないとその意味に気が付かないようなカットが多い。
大衆が望んだジョーカーの続編にはならなかったが、アーサーが元の自分に立ち返る、前作から始まって、本作で1周回って元の位置に戻ってくる。物語の構成として、まさに王道である。