「説教されて反省できるほど我々観客の現実は甘いものではない」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ とびこがれさんの映画レビュー(感想・評価)
説教されて反省できるほど我々観客の現実は甘いものではない
観たのは1ヶ月も前ですが、要点だけでも書き記しておきます。
1つ目は、壮大なミスリーディングに対する感動がありました。「思ってたのと違う」とか「がっかりした」とか言ってしまえば簡単で、そのような映画もあるのですが、大抵は作り手側の力量不足や、政治的都合等で、そうなっちゃってるものだと思います。ですが今作はトッドフィリップス監督による明確な印象操作を感じました。端的に言うと、我々は2019年のジョーカーの暴動シーンよりも、もっと激しい破壊や混沌、狂気が見られると思っていました。まず副題の「フォリアドゥ」=「二人で狂気に堕ちる」その相方はレディー・ガガ。素晴らしいミュージシャンですが、音楽やファッションから、狂気的なイメージがある。そんなレディー・ガガ演じるハーレイクインと組んで更なるカオスを見せてくれるのではと思っていた。だがそうではなかった。
リーも裁判所のまわりや、刑務所でジョーカー信者になっていた連中も結局は幸せなやつらでしかない。家族も仕事もあって、アーサーほど惨めではなく、自ら手を汚す覚悟もないやつらだ。そしてそれは我々観客も同じで、映画館で1900円も払えるようなやつらが寄ってたかってアーサーもっと暴れろと期待する。ユニクロの服を着てポップコーンとか買いつつ。
だからこそアーサーはクラウンメイクを施して裁判所に現れる。心優しく弱いアーサーは、みんなの期待に応えようとする。真の友達であったゲイリーとのやり取りは、怒鳴り声で遮り終わらせようとする。泣いてしまったらみんなの期待に添えないから。
トッドフィリップスがこのような映画にした理由はいくつも考えられる。
・2019年に秩序を破壊し暴動を煽るような映画を作ったが、コンプライアンスとやらの波に飲まれ、社会的責任をとらされた。暴動を起こして革命家のカリスマになったところで、結局誰からも愛されずに信者に腹を刺されて死ぬだけだと。死刑ですらなく、同じように狂ったやつに意味もなく刺されて死ぬだけだと。わかったら底辺生活がどんなに苦しくても秩序を乱さずに暮らしてろ、というメッセージを作らざるを得なかった。さながら村上龍が『共生虫』を書いた後に『最後の家族』を書いたように社会的責任を果たした。なぜならトッドフィリップス自身も成功者で、権力側に立つものだから。
・映画館に来る観客たち、自分を底辺側だと思っている幸せ者の偽善者たちに対する説教。お前らが期待するからアーサーはクラウンメイクで演じなければいけないのだと。アーサーは誰よりも心優しい青年で、殺人だってしたくなかった。極限まで追い詰められて身を守るために人を殺めたに過ぎない。それでも殺人をしてしまったことは重すぎて、心が壊れてしまっていたが、劇中最後には、己の罪を悔いている描写もある。なのに、暴れることを期待し、「自分もジョーカーだ」という気分になっている下らないやつらが休日に顔に化粧水でも塗って映画館に来るから、だからアーサーは苦しんだのだと。
とても印象に残っているのが、私は劇場の後ろの方に座っていたのだが、はじまるギリギリに前の方の席な鮮やかな長髪金髪の女性がツカツカと入ってきて座った。その女性は、映画が終わりスタッフロールがはじまるや否や勢いよく立ち上がり出ていってしまった。見たかったものが見れなかった苛立ちは多くの人に共有されているのだと思う。
だが暴動を起こしてもいいことはない。秩序を守って暮らせというメッセージは届いたのだろうか。
2019年からの5年間。この社会に虐げられてきた者たちは、ジョーカーに救われ続けてきた。誰もがアーサーに感情移入をして、マレー銃撃シーンから暴動シーンを繰り返し観て毒気を抜き、この辛い現実をなんとか生きてきた。辛くなったらジョーカーの終盤を観ればまたがんばれた。
だがこの者たちは2024年にゴミくずのように扱われることとなった。2019年より地獄になった世界で、やっと新しいジョーカーが再び救ってくれると思って、低い給料から1900円払ったのに、あったのは長い長い説教だった。たびたび挟まるミュージカルシーンは苦痛でしかないと思う、2019年のジョーカーファンの客層には。
んー、さて。きつい現実をどうしようか。映画を観てもつまんないしな。ジョーカーが代わりに暴れてくれないなら、俺が現実でKILL THE RICHムーブメントを起こすか。そもそもフィリップスもホアキンもガガも、金持ちセレブだろ全員。社会の底辺がどれだけ辛いかわかってるふりしたセレブだろ。お前らに分かるわけがない。報いを受けろ…クソ野郎共