「「ジョーカー」は伝播し象徴となる」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ REXさんの映画レビュー(感想・評価)
「ジョーカー」は伝播し象徴となる
見終わった後に私も「ジョーカーはこんなに弱い人間なわけがない」と思ってしまった。それじゃあ劇中のリーと同類じゃん…とヴィランに強さを求めてしまう心を打ち砕かれた気がした。 現実世界にはジョーカーなんていない。それを作り出すのは、民衆の欲求なんだ、と。
徹底的にアーサーを「人間」として描くことで、現実世界で、反社会的な人間に悪のカリスマ性を求めてしまう集団心理に、監督はノーを突き付けた。
罪を憎んで人を憎まず。アーサーへ共感してもいいが、悪しき行為は賞賛されるべきではない、と。
そしてそれと共に、一人の男の真実にさえ近づけない社会の残酷さを訴えかける。他者の痛みに鈍感なのは、あなた自身もそうなのでは?と。映画の中だけ弱者に共感して、現実世界ではだれにも手を差し伸べていないのでは?と。
アーサーをアーサーとして扱い、関わってくれた人間がいないことが、同情を誘う。
弁護士も寄り添うようでいてその実、アーサーの苦しみからは目を背けているようにみえるし、裁判中はアーサーの母親も彼を愚弄していた事が赤裸々に語られる。
信奉者のリーも民衆も、ジョーカーの仮面をつけたアーサーしか求めない。というか、アーサーには興味がないのだ。
(もしかしたら裁判所爆発も、アーサーごと殺すつもりでリーが仕込んだか?)
アーサーに一番近い人間はやはり唯一、「こんなのは君らしくない」と言ってくれたゲイリーだけだったのかも。彼を知るがゆえに、本来は優しい人間が犯した狂気に、本当に恐怖したのかもしれない。
振り返ると、心象風景のミュージカルパートがじわじわと胸を抉ってくる。 第二作目は、アーサーとジョーカーの対決と言ってもいいかもしれない。
そしてアーサーからジョーカーが切り離され、象徴化していく…。
ラストは、ジョーカーが別の者に伝播する…と捉えることもできる。
または、リーが新たなジョーカーになるのかもという予感すら与える。
ホアキン版ジョーカーも、ノーラン版とはまた違う傑作。