「ケジメ」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ mrtks105さんの映画レビュー(感想・評価)
ケジメ
賛否両論別れているようですが、その理由はこの続編が「"ジョーカー"という存在を否定(断罪)する映画」だったからだと考えています。
前作が公開された後、トッド・フィリップス監督はインタビューで続編を製作する可能性について聞かれて、『考えていない。ジョーカーで語るべきストーリーが見つかればあるかもしれない』と答えていたと記憶しているのですが、それが「ジョーカーを否定する物語」だったのだと感じています。
「否定する」というよりむしろ「否定しなければならない」と言った方が正しいかもしれません。
富裕層と貧困層の格差やマイノリティといった現代社会の闇をバットマンの"ジョーカー"という題材で暴力的に描き、ジョーカーという存在が独り歩きして大きくなり過ぎてしまいました。日本でも"ジョーカー"を自称する男性が電車の中で粗暴行為に及ぶ事件が発生しましたよね。
そういった社会現象を引き起こした責任に対する一つの「ケジメ」として、製作者は"ジョーカー"という存在を否定する必要に迫られてしまったのではないでしょうか。
アーサー・フレックは"アーサー"と"ジョーカー"の間で揺れ続けますが、最後に彼は"ジョーカー"であることを否定し、"アーサー"であることを選びます。そして自分の罪を認めます。
その結果リーは去り、期待外れの烙印を押されたアーサーはアーカムで腹部を刺されてしまいます。
腹部を刺されたのは恐らく、アーサーが「自分の後を継ぐ子供が欲しかった」という旨の発言していたので、「真のジョーカーはオレだ」と言い出す狂人は現れるけれど、「ジョーカーを継ぐ者」は現れませんよ。
そう否定するためだったのではないかと考えています。
アーサーを刺した男性は自分の口を裂いてピエロのように赤く染めていました。
アーサーは"ジョーカー"となる可能性が非常に高い人物でしたが、その寸前で踏み留まりました。
その代わりにアーサーを刺した男性が次のジョーカー候補ということなんでしょうか。
その男性が後にバットマンと戦う「本物のジョーカー」になるのかどうかは分かりませんが。
ジョーカーを肯定する映画を求めていた観客と、ジョーカーを否定しなくてはならなかった製作者。
その差がこの作品を賛否両論にしてしまったのではないかと感じました。
トミーさん
今回『ゴッサム・シティ』という名前も出てこなかったですよね。
裁判のシーンでも"ニューヨーク州"という表現になっていたような気がします。
バットマン要素を意図的に排除して、現実世界とリンクさせている感じがしますよね。