「制作者が混乱した映画だったのではと」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
制作者が混乱した映画だったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はずっとこの映画を観ていて、一体何を描きたいのか良く分からない作品になっていると、1観客としては思われていました。
するとようやく映画の終盤辺りで、以下の事が描かれていると分かって来ます。
A.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、多重人格者の精神病者として認定されれば、死刑の有罪を免れられる
B.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、精神病者でなく、全く一貫性ある正常なカリスマとしてのジョーカーそのものの犯行であったと認定されれば、死刑の有罪にはなるが、カリスマのジョーカーとして殉教者になれる
つまり、今作は映画『ジョーカー』で主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)が犯した5人の殺人事件(実際は母親を入れて6人の殺人事件)を、裁判で裁く物語だったことがようやく映画の最終盤で分かるのです。
ところが、この映画のトッド・フィリップス監督や制作者が混乱していると私的感じられたのは、この映画を、Aの主人公・アーサーは分裂病者の無罪とも、Bのアーサーは死刑の有罪だがジョーカーとして殉教者になるとも、描かなかったところにあると思われました。
つまり、
C.主人公・アーサー・フレックは、精神分裂病者でもなく、ジョーカーというカリスマでもなく、単なる6人の殺人者として死刑になるという結末
(実際は違う最期でしたが‥)
にトッド・フィリップス監督や制作者がしたのです。
なぜこれで監督や制作者が混乱していると私的感じたかというと、以下が理由になります。
メリーアン弁護士(キャサリン・キーナーさん)は、Aの主人公・アーサー・フレックが精神分裂病の精神病者だとしてアーサーの無罪を勝ち取ろうとしています。
しかし、メリーアン弁護士が、アーサー自身のBのカリスマ性(ジョーカーの存在性)を、Aのアーサーが精神分裂病との主張により失わせようとしていると、主人公・アーサーは逆に激怒して、遂にメリーアン弁護士を解任してしまいます。
そして主人公・アーサー・フレックは、ジョーカーとして本人訴訟の法廷に立ち、いかに自身がカリスマとして存在しているかを法廷でアピールします。
当然この振る舞いは、Bのカリスマ性=ジョーカーの実在性の証明の証言であり、アーサー=ジョーカーの精神は一貫している(精神病ではない)つまり有罪の死刑になる主張であり、しかし主人公・アーサーはジョーカーとして殉教者になる、という主張でした。
ところがこの時の主人公・アーサーのジョーカーとしての法廷証言には、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソンさん)らを侮蔑する内容が含まれており、主人公・アーサーが刑務所に戻ると法廷のTV中継を見ていた看守のジャッキーらに激しく暴行され、挙句はアーサーに影響されて大声で歌い出した若い囚人(コナー・ストーリーさん)が煽りで看守のジャッキーに殺害されてしまいます。
そしてこの時の経験により、主人公・アーサー・フレックは、次の法廷でジョーカーの存在性を前回の主張をひるがえして否定します。
その証言によって、(Aの精神病による無罪でもなく、Bのジョーカーとしての殉教者としての死刑有罪でもなく)アーサーはCの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪になるのです。
ところが、1観客の私には、例え看守のジャッキーらの激しい暴行を受けたとしても、この時、若い囚人が煽りで殺害されてしまったとしても、主人公・アーサー・フレックが最後の法廷証言で心変わりをし前回までの主張をひるがえして、これまでの幼児虐待の経験などから生まれたジョーカーの存在を自ら否定するには、残念ながら根拠が薄すぎるように感じました。
(例えば、主人公・アーサーはこの時、若い囚人が看守のジャッキーに殺害された声を聴いたと、TV中継ある法廷で証言し、再び社会批判を繰り広げるカリスマのジョーカーとして振舞うことも可能だったはずです。)
すると、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、社会現象にもなったジョーカーの存在を、Aの多重人格者の精神病による無罪での生き延ばせも、Bの殉教者のカリスマとしてのジョーカーの死(死刑)も、外野の影響によって選択できなかった混乱がこの映画にあったのではと思われたのです。
つまり、Cの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪の主人公・アーサー・フレックの選択は、映画(の登場人物)の内在的な自然な方向性から出た選択ではなく、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、現実の映画の外野の圧力に屈して歪んで選んだ選択と感じられたのです。
もちろん、リー(レディー・ガガさん)の存在は、ジョーカーのカリスマ性の肯定の象徴であり、しかしそれをずっと主人公・アーサーとのミュージカルシーンなどで描き続けるのは、残念ながら個人的には映画にとっての時間稼ぎであり、今作の本質は最終盤の裁判の場面からでしかなかったと思われました。
仮に今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』への批判や不評があるとしたら、映画の内在性が指し示した自然な方向性を、(ジョーカーの存在を肯定するにしろ否定するにしろ)現実社会の映画の外野の圧力によって歪ませてしまった、監督や制作者による映画そのものの自らの内在性の否定から、批判や不評が来ていると思われました。
また今作をわざわざ制作する必要もなかったのではとも思われました。
ただ、アーサー・フレック/ジョーカー役のホアキン・フェニックスさんの演技は相変わらず素晴らしく、リー役のレディー・ガガさんの演技や特に歌のシーンは圧巻ではあったので、今回の点数に僭越ながらなりました。