「クソつまらないアーサーの物語」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ はにわさんの映画レビュー(感想・評価)
クソつまらないアーサーの物語
「ジョーカー」を求める人間には盛り上がりにかけるつまらない映画。
前作が心優しいアーサーという男がジョーカーになっていく熱狂を描いたものだとしたら、今作はジョーカーはアーサーでしかない現実を描いた映画。
アーサーの中にあるジョーカーの人格は彼の一部でしかなく、アーサーが自分の為に作り上げた人格でありそこに社会的問題提起などない。あくまでアーサーは自分を笑った奴らに復讐したに過ぎない。
勝手に彼を悪のカリスマとして自己投影し、自分を主人公にしてジョーカーに勝手な理想を押し付けるジョーカー信者たち。妄想が感染するとはまさにこのこと!!!!
今作を全体的につまらないと感じてしまった自分自身もその一人だと思うと悲しい気持ちに襲われる。
ジョーカーは悪のカリスマでも、アーサー自身はどこまでも孤独だということは十分に描かれていた。
リー(ハーレイ)が主人公のように見える点も、誰もアーサーを見ていないことを強調しているようで良かった。ジョーカー信者はみんな自分しか、自分の見たいものしか見ていない。そしてリーの中のジョーカーが理想のジョーカー過ぎるゆえに、リーにとって完璧なジョーカーの間だけめちゃくちゃカッコイイのが私自身もアーサーを見ていないと痛感させられて嫌になる。劇中でアーサーがリーに出会ったあと、本当の自分を求めてくれる自分を捨てない人に出会った〜的なことを歌うのが泣ける。リーはアーサーを一番求めていなかったのに。
アーサーのたった一人の理解者はゲイリーなんだと、アーサーが前作でゲイリーに言った「僕に優しかったのは君だけだ」と言う言葉のアンサーが今作の法廷で、ゲイリーからアーサーに語られた「僕を笑わなかったのは君だけだ」に込められていた。アーサーと同じ言葉を投げかけジョーカーには怯える彼がたった一人のアーサーの友達だったのではないか。
さらには本当のアーサー自身を見ていたのはリーをはじめとするジョーカー信者や私のような観客でもなく弁護士の先生や、皮肉にも看守の男なのかもしれないと看守からメイクを落とされアーサーに戻っていく様を見て感じた。
物語のクライマックスでジョーカーの信者たちが暴走していくなかでの衝撃のラストは消化不良であったが、誰もがジョーカーになれてもアーサーにはなれず、あくまでアーサーによるジョーカーの物語はこれで終わりなんだということか。ダークナイトのジョーカーを彷彿とさせる男にはフォーカスせず、どこまでもアーサーがドアップで映り続けるしらけるラストは、熱狂的なジョーカーファンへのこれはアーサーの物語だとうい戒めか。
前作ラストの熱狂につつまれ事故車からジョーカー信者たちより祭り上げられて復活を遂げる興奮のラストと、今作のアーサーという一人の男の呆気ない終わりのつまらなさは凄い対比だ。アーサーというピエロの悲劇を喜劇で終わらせないためかもと思ったり。
そう考えると前作がコメディショーという舞台に観客がいたのに今作は2人よがりな観客のいないミュージカル仕立てなのもそれを表しているよう。
それにしても自分は何者でもないと語ったリーがハーレイになり、クライマックスでは前回のアーサーと同じくノックで変貌を遂げるのはよく出来ている。
前作に熱狂した人間には今作がクソ程つまらないのが大正解であるように感じたため⭐︎5。
この物語がDCにおける正史ではないと前作で釘を打たれていた点も、ジョーカーではなくアーサーの物語に戻っていった点から大きく頷けた。
しかし個人的に前作のラストは、アーサーはジョーカーの中の一人格に過ぎないことを示唆していると思っていたので、あくまで今作は無数にいるジョーカーという悪意の中から悪のカリスマになりきれなかったアーサーという男が消されただけかもと思ったり。
何はともあれ、そう思いたい程ホアキンのジョーカーがかっこよかった。
だからこそ製作陣の想定を破り賛否よりも熱狂を生んだ前作に対するアンチテーゼとしての今作だと思うと、製作陣は何としても私達の目を覚まさせたかったんだなぁ。
期待はずれという酷評は彼らにとって何よりの賛辞かもしれない。