ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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ノーランの影に苛まれたトッド・フィリップス
ホアキン・フェニックス/アーサーの肩甲骨がみたかった?
ファーストシーンはアニメーションで、本作の概略と共にジョーカーが戯画として描かれていた。だから、実写になってホアキン・フェニックス-アーサー-ジョーカーの痩せ細り浮き出た肩甲骨と肩の不均衡さがまざまざと映し出されたのは衝撃だった。
ただ本作をみた10人中の8人、いや9人がきっとこう思っただろう。
「そんなのみたくない…」
マジで誰も期待していないし、望んでもいない彼の肩甲骨。凄いのは分かるけれど、そんなのがみたいわけじゃない。あのジョーカーが、今回はどんな狂人ぶりで死体の山/丘を築くのかそれがみたいのだ。なのにアーサーはいっこうに監獄のままだし、故に裁判劇だし、妄想以外では全く加害行為に及ばない。本作の彼はいつまでも暴力に受け身で何もできない無力の存在だ。さらにミュージカル調でもある。頭を抱えざるを得ない。
観客の期待外れは興行収入や、いまいち盛り上がっていない様からも明らかだろう。
なんでこんな物語にしたんだ???
気になって監督をしたトッド・フィリップスを調べた。すると彼が1970年生まれであることが分かった。では他に1970年生まれの映画監督が誰か調べると、一人の監督が現れる。そうクリストファー・ノーランである。
その時、私は納得した。トッド・フィリップスは本気でアカデミー賞作品賞を獲りにいったのだと。単なるDCコミックスシリーズの一作ではなく、現代の批評性を備えつつ娯楽性にも富んだ作品にしようとしたのだと。そのことはジョーカーのファンの期待に背くことになる。けれど期待通りであれば、ジョーカーという「影」を追従するだけに留まるし、それではいけないと困難な道を選択したのだろう。
さらに私がしているようにトッド・フィリップスはクリストファー・ノーランと比較をされ続けたに違いない。ノーランは『ダークナイト』でジョーカーを描いているし、『オッペンハイマー』でアカデミー賞作品賞を受賞した。ではトッド・フィリップスは?『ジョーカー』で第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているけれど、作品賞は獲れてはいない。
なんだかトッド・フィリップスはアーサーその者に思えてきた。では彼がノーランと同格となるにはどうするか。
ノーランができない心理描写を『ジョーカー』以上に深化させる。そのことは悪のカリスマであるジョーカーをアーサーという一人の人間に近づけることを意味する。ノーランができないミュージカル演出を『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』で第67回ゴールデングローブ賞作品賞(ミュージカル・コメディ部門)で受賞した彼は採用する。『雨に唄えば』や『ウエスト・サイド・ストーリー』、『ラ・ラ・ランド』、『ショーシャンクの空に』へのオマージュ/目配せもする。その選択の結果が本作の物語化に違いない。続編でアカデミー賞作品賞を獲ろうとするならば『ゴッド・ファーザーPARTⅡ』以来の快挙ではないだろうか。それほど困難な道をトッド・フィリップスはノーランと同等と認められるために、選択したのだ。そう考えると本作の物語化にも納得がいく。
ではその選択が功を奏したか。残念ながら私は全面的に肯定はできない。
ミュージカル演出においても、監獄や法廷を舞台化できたとは言える。けれど、レオス・カラックスの『アネット』をもう観てしまったからね…トイレ/排泄を舞台化したり、ミュージカルの本質を抽出してしまった『アネット』と比べたら見劣りしてしまうし、裁判劇で画変わりしないことをミュージカル調で補っているようにしか思えない。しかもミュージカルシーンは説明描写に留まるしーあえてそうしているのか?ー、典型的な感情の吐露や心理描写になってもいないのはどうかと思うーアーサーが弁護士を解雇するミュージカルシーンは見応えがあったー。
確かにジョーカーを人間に近づける描写はよかった。裁判に当たって、アーサーの担当医を登場させ、彼の殺意が精神疾患由来であることを導出しようとしている。それはジョーカーのパフォーマンスを狂人のカリスマ性から普通の人の精神疾患へと横滑りさせる描写だろう。けれどアーサーが本当に求めていることは精神疾患だと診断されることではなく、むしろジョーカーという影を纏い、その影に魅了されるリーと性愛的に結ばれることに見出すシニカルさは最高だと思う。
ただアーサーの責任能力についての描写はどうかと思う。彼の裁判劇は殺人の事実の有無ではなく、責任能力の有無が焦点ではある。そして彼の自己弁護も虚しく、有罪になってしまう。けれどその責任能力について彼のバックグラウンドや精神疾患の判定を考慮に入れた主文が述べられることもなく、法廷が爆破されて省略される。それを映画だからと、省略するのは構わないが、ヒューマンドラマに仕立てリアリティラインを上げたのならちゃんとみせてほしいと思ってしまう。むしろこの爆破はリーと再会するために準備されたもののように思えるし、精神疾患だと診断する以上の答えを映画≒フィクションが持ち合わせていないようにも感じさせる。この物足りなさが、現実やモッブのドキュメントとしては適当ではあるが、その乗り越えとしては不十分という印象をもたらしてしまっている。
さあ、本作の描写する現実はかなり厳しい。ジョーカーの存在は否定される。存在するのは、監獄に収監され、看守に虐められ、肩甲骨を浮かび上がらせるひ弱な白人中年男性・アーサーのみ。彼に惹かれるリーも、セックスのときはアーサーにジョーカーのメイクをさせるようにアーサーその人を決してみていない。ヒロインのリーもまたカリスマ的なジョーカーの「影」を追う一人でしかない。アーサーが自由になる爆破もリーが引き起こしたわけではない。しかも彼が外の世界で彼女に会っても、見放され、再び監獄に戻ってしまう。あげくには彼は監獄の中で物語で全く焦点が当てられないモッブの男に刺し殺されて死んでしまう。華麗な脱獄劇もヒロインの駆け落ちもない。ヒロインに殺されることも許されない。ひ弱な男はダークヒーローにもなれず、誰にも救済されず死ぬしかない。この残酷な事実を誰がみたいというのだろうか。
ノーラン作品にも裁判のシーンは多いから、きっと現代のアメリカは映画≒フィクションで真面目に残酷な現実を提示しないとどうしようもない世界なのだと思う。アリ・アスターの世界線を突っ走ったら崩壊するんだ。
本作は前述のようにジョーカーファン以外にも届くようにウェルメイドなつくりになっている。ただ良くも悪くも秀作の域に留まっている。それをアカデミー賞はどのように評価するのか。少しは楽しみになってきた。
ずっとミュージカルじゃないか!
公開前から賛否が激しいのは知っていましたが、実際に観て「あーなるほど、これは意見割れるな」と納得しました。
私は名作の続編をあまり悪く思っておらず、一作目とは違った魅力があれば楽しめるタイプです。しかし、ここでは二作目の方向性が曖昧になっており、刑務所と裁判所を往復するだけに留まっていました。さらに、前作から作風が大幅に一変し、つまらないの一言では言い表せないぐらい複雑な感情を抱きました。
中でも戸惑ったのがミュージカル要素です。歌唱シーンが予想以上に多く、「ずっとミュージカルじゃないか!」と思わずツッコんでしまいました。エンタメ路線に特化している印象が強く、曲の入りも衝突すぎて本当に必要だったのか疑問に感じました。
レディー・ガガ演じるリーの立ち位置は漠然としていました。アーサーとの関係性について多少描写があるものの、2人が街に飛び出して大きな犯罪を起こさないので、これと言った見せ場が少なかったのが勿体なかったです。
それと、今作のレーティングがPG12になっているのが気になりました。本編では「f*ck」などの下品なセリフが多数出てきて、血が飛び散るほど過激な場面もありました。これならば、R15のままでよかったのではないかと思いました。
良かった点もいくつかあり、ホアキン・フェニックスの前作に劣らない演技には圧倒されました。作品考察の甲斐があり、終盤ではアーサーの行動が彼自身に返ってきたのではないかと解釈しました。
2024年公開の映画では間違いなく一番の問題作になっていました。今回は珍しく辛口になりましたが、またの機会に観て理解を深めたいと思いました。
いいも悪いも、全てをその目で見届けたい貴方にオススメ🎶
観てきました〜♪
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」
「フォリ・ア・ドゥ」=
フランス語で「2人狂い」の意味だそうです。もう略して、「ジョーカー2」ってことでいいかしらん🙄
感想は、
賛否両論分かれる内容でした。
ミュージカル映画が嫌いな人は、苦手かもしれません。私はというと、昔は嫌いだったミュージカル映画が、昨今の名作ミュージカルによってその魅力に開眼。今はミュージカル映画大好きな方の人です。
で、そんな私ですが、
おっとこれは、もしかして?
ミュージカル映画的なやつかいな?
と、気がついた時には、
既に遅し…。
想定外のパンチに肩透かしを喰らい
若干、感情のスタートラインが出遅れてしまった模様…。
う〜ん、
やりたいことは十分に分かるのだけれど、残念ながら感情が追いつきませんでした。私の有り余る想像力と妄想力をフル稼働しても、主人公たちの気持ちに寄り添うことはできませんでした。
だってね、ひと6人も殺した極悪犯になったことないし🙄
極悪犯だって人間やし、恋するのも分かるよ。分かるけどもや…
えぇ?いつ?そんなに好きなん?
って、突っ込みたくなっちゃう悪い癖でちゃった。ミュージカル映画が苦手だった頃をほんのり思い出す苦い後味となりました😅
でもでも、
見どころは沢山あったよ🤭
レディ・ガガ好きなあなたは、もうそれだけで最高よ。主演のジョーカーを演じたホアキン・フェニックスも一作目同様、物凄い演技なのよ。すごい俳優さんなのよ。私の感情さえ追いついて、ストーリーに入り込めていたら、きっと物凄いお洒落でいてなおかつ、悲哀に満ちた傑作映画になっていたに違いない。
そもそもだ、
一作目が名作すぎた問題よ。
こちら気合い入れすぎて、前日にAmazonプライムでしっかり復習済みだから、感情の期待値はもうMAXなのよ。チラッとみた不評らしきレビューには目もくれず、かなり前のめりで観に行ったのも、よくなかったのかもしれません。
とにかく、
いいも悪いも、
全てをその目で見届けたい貴方😎
レッツ、フォリ・ア・ドゥ♪
でございます。
「世間を騒がせてごめんなさい」・・・・・・・・・(フフフ)
日本公開を前に、フランシス・フォード・コッポラが本作の全米での興行不振について、トッド・フィリップス監督を慰めた、という報道がなされた。記事だけを観ると、ほぼ同時に公開され、巨額の製作費をかけた自身の最新作「Megalopolis」の不振と合わせての発言かと思いきや、Instagramでは続きがあり、その発言には、もう少し深い同情、共感のコメントがされていた。
オレからすれば、ちょっと笑ってみたりしたもので、「あの作品」を褒めてもらったら、そりゃまあ、コッポラもうれしはずかし、コメントは残すよね。というか、「あの作品」も巨額の製作費をもって、大コケしたわけで、ジジイも勝手に老婆心が走ったんだろうが、それにしても、このジャンルに、当時も今も信じられないくらいの巨額の製作費を充てる(ことができる)のは、全くの謎だ。
ジョーカー フォリ・ア・ドゥ
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前作「ジョーカー」でも短く語ったが、「作者ジョーカー」という関係者のスタンスは本作も変わらないことも素晴らしいし、前作はその辺がうまく機能せず、必要以上の支持を得たことへの反省からくる、落とし前の内容と、「妄想」をあえてわかりやすく「ミュージカル」で表現したことへの勇気は買う。
しかも巨額の製作費をぶち込んで、しかも「ワン・フロム・サ・ハート」に敬意を表したなんて、フィリップス監督はキャリアを棒にする覚悟だったと思うが、それ以上にワーナーは頭がどうかしたのか、と思った。
レディ・ガガの役もオレの中では、ずーっと「妄想の産物」=「アーサーの妄想内のジョーカー」という認識は変わらず、「ジョーカー」=「トッド・フィリップス」の落とし前に付き合った結果。
それはそれでいいのだけれど、「否」が多いのは、結局「ミュージカル」が「信者」に合わなかった、というのと、「信者」を裏切ることこそ、「ジョーカー」というのは「信者」もわかっているはずだが、作り手の方では、本作の製作意義において、別の理由のほうが大きくなり、単純に「面白くなかった」ということ。
前作が「タクシードライバー」、「キング・オブ・コメディ」等、70、80年代のオマージュというのは、あくまでその設定において「パクリのレベル(デ・ニーロ免罪符)」で必要だったからであり、本作では「妄想」「逃避」を「ミュージカル」という、分かりやすい舞台を使っただけで、そうである必要はない。
「ワン・フロム・サ・ハート」のトム・ウェイツにゲンナリしたオレでは、この映画のミュージカル・シーンを楽しむことはできなかった。ただ単に、どこをどうして、どう見たら製作費2億ドルになったのか、わからないが、「ミュージカル」ってカネかかるんだな、と思っただけ。
ただね、
真実はわからないし、未来もわからないんだけれど、
「世間を騒がせてごめんなさい」・・・・・・・・・(フフフ)
のようにもオレには見えたので、厄介だ。
ジョーカーではなくアーサーの物語
前作のジョーカーで、これは根っこは同じだけどダークナイトとは違う世界線のジョーカーなんだと割り切っていたので、今作はジョーカーというより「アーサー」の行く末を見に行くつもりで見た。
その結果、ストーリー展開や結末があまりにも自分の予想通り過ぎてしまって、前作のようなインパクトは正直感じることができなかった。
妄想シーンを全てミュージカルにする手法がハマる人は評価が高めになると思うけど、私はどうもその分量が多すぎると思ってしまい、歌わないホフキンの演技をもっと見せてくれー!と思ってしまった。(タイトルが妄想障害という意味のフォリアドゥなので、妄想シーンが多いのはわかるが…)
できれば、ミュージカル以外の手法で、妄想と現実の演出をしてほしかった!
ただ、監督の意図は伝わったし、結局ジョーカーのような犯罪者を英雄視して、ヒーローのように崇める世間は異常なので、そこに対して冷や水ぶっかける感じは良いと思った。
それにしてもアーサーの人生ってなんだったんだろう。
唯一アーサーとして見てくれていたゲイリーと友情を築いていれば、アーサーの人生は変わったのかな…
ありのままの自分を受け入れて愛してほしい男が、皮肉にも世間から祭り上げられたジョーカーという仮面に踊らされる姿は、あまりにも苦しく悲しかった。
いろんな意味で目を覚まさせられる一作
本作を観ながら二つの両極端な感情に引き裂かれた。ひとつは抑圧された個の暴走を前作であれほど鬼気迫る熱量で描きながら、続編では「嘘だろ!?」と思うほどのローテンションに終始し、カタルシスを放棄していることへの落胆。そしてもうひとつは、心のどこかでこの展開を「あるべき形」として受け入れている自分への驚きだ。何もかもが恐るべきスピードで移り変わる現代を見渡せば、これが写し鏡であることに気づく。世間によって虚像へと祭り上げられた男は、いつしかたどるべき道を辿るのだ。社会でも政治でもエンタメ界でも、こんなことは日常茶飯事。夢は醒めなければならない。彼を救うヒーローも現れない。なるほどそれはよく分かったし、切ない愛をミュージカル調に紡ぐ感情描写も二作目独自の趣向として見応えはある。が、魔法の効果は限定的だ。これは作り手たちが生み出した「ジョーカー」という現象に対し自らけじめを付けた一作のように思える。
大いなる勘違いをしてしまった“自分”を映し出す鏡
“フォリ・ア・ドゥ”とは“ふたり狂い”を意味する言葉。狂信者が共鳴し合い、更に狂うという意味らしい。
だけど、ジョーカーことアーサーも、彼にある想いを秘めて近寄る女性ハーリーンも、微塵も狂ってはおらず、地に足を着けて生きている。
つまり、これは荒唐無稽なヒーロー映画ではなく、殴られれば痛いし、食事の量が減れば痩せ細るし、空想の世界で大好きな映画のことを思い出せば、一瞬ではあるが、どうしようもない世界から解放される。その術を知ってしまった“フォリ”を描く作品なのだ。
作家の同時代性という意味で、IMAX撮影には素晴らしい進化がある。
定説とされる景観を美しく描写することに執心せずに、切実な顔に寄ることで表現できる画面には、IMAXだから伝えられる映像の力が宿る。そのことを圧迫する映像で教えてくれた作品がクリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』であり、この映画である。意識的な作家はIMAXに潜在する表現力に気づいている。だからこそ、躊躇せずにクローズアップする。画角が伝える力を信じたその映像が訴えかけることを決して観逃してほしくない。
この映画には、生理的な痛みがある。言い換えれば、それは当たり前の痛みだ。
フランチャイズの呪縛を解いた時、アーサーという、孤独で、どうしようもない男の等身大の姿が露わになる。殴られたり、蹴られたり、裏切られたり、信用できなかったり。期待なんかしていない。でも、、、
心せよ。この映画は大いなる勘違いをしてしまった“自分”を映し出す鏡なのだから…。
体力MAXで行くべき
私には合わなかった。
1は何度も見たし、曲も好き(That's life 好きだからレディーガガ版が聞けたのは嬉しかった)だけど、ずっと歌ってなかった?シナリオも1見てる前提だし。
妄想と現実を行き来してるのはある意味ジョーカーらしいとは思ったけど、あまり繰り返し過ぎると疑心暗鬼になってきて、現実すらも疑ってしまうからちょっと多すぎでは?と。
二度は見たくないな。初めの方は少し眠ってしまった。だから体力MAXで行くべき映画です。
ハッピーエンド
10/11@Tジョイエミテラス所沢、10/14@MOVIX昭島(10/4ジョーカー@丸の内ピカデリー)
本作は世界的に酷評されたことで有名である。私はジョーカー1が公開された当時、主人公(アーサー)にひどく感情移入してしまい、珍しく劇場で2回観賞したことを覚えている。今回も本作公開に合わせて、予習のために丸の内ピカデリーで1回、DVDをレンタルして自宅で1回観賞した。
率直な感想としては、予想とは反対方向へ進んでしまったが、完成度が非常に高いなという印象である。
5名の殺人を犯したアーサーは留置場で生活していた。同施設内で生活していたリーから言い寄られる形で恋に落ちていく。その中で裁判は進んでいき、アーサーとリーの関係も揺れ動いていく。
前作では、アーサーの日々の暮らしから、ジョーカーに変貌するまでを描いた。1人の心優しい青年が殺人を犯すまでの過程をこれ以上なくリアルに描いていた。観客はアーサーの境遇に同情するし、殺人に関しても、悪者というよりむしろよく敵に立ち向かってくれたというような気持ちにさせられる。アメコミではダークヒーローであるが、前作では正義のヒーローとして描かれていた。
ところが、本作ではジョーカーの存在を否定するようなつくりになっている。アーサーは、前作での下克上的な行いにより、一部の人々のヒーローとなった。本作では一部の人々の代表がリーにあたる。彼女はアーサーではなく、ジョーカーを愛する女性である。性行為の際に、メイクを強要するのは象徴的なシーンである。アーサーはリーに嫌われないよう、ジョーカーであり続ける必要があった。
本作は前作と大きく方向転換した。アーサーは過去の過ちを冷静に受け止め、更正したいと思う反面、大衆からはジョーカーとしての振る舞いが求められる。最終的にアーサーは、ジョーカーの存在を否定し、元のアーサーとして生きることを選択する。しかし、これは世の中では受け入れられず、社会的に見捨てられる結果となった。
公判でゲイリーと話すシーン。アーサーはここではじめて本当の被害者の存在に気付かされる。本当の自分を友達と言ってくれた人物に背き、ジョーカーとして振る舞うことを受け入れた。この後に最後の公判があるが、アーサーの目にカメラがアップしていくシーンがある。このシーンの前まで、最後どちらに転ぶのか私は分からなかった。しかし、目線はどこか自信がないのを見て、理解できた。
映画の中の群衆も、この映画の観客もジョーカーを観たくてきた。しかし、アーサーが選択したのは、元の優しい青年として生きていくことだった。映画としての世界的な評価も、映画内での群衆からの評価もまったく同じものとなった。監督は、当然これを見据えて作ったのだろう。
歌唱シーンが多く、ストーリーの進行を若干邪魔してしまっている感があるが、アーサーとリーの心情を表すのに効果的である面もある。
全体として、前作から完成度はまったく落ちていない。各シーンのセリフや登場人物の細かな仕草など、複数回観ないとその意味に気が付かないようなカットが多い。
大衆が望んだジョーカーの続編にはならなかったが、アーサーが元の自分に立ち返る、前作から始まって、本作で1周回って元の位置に戻ってくる。物語の構成として、まさに王道である。
説教されて反省できるほど我々観客の現実は甘いものではない
観たのは1ヶ月も前ですが、要点だけでも書き記しておきます。
1つ目は、壮大なミスリーディングに対する感動がありました。「思ってたのと違う」とか「がっかりした」とか言ってしまえば簡単で、そのような映画もあるのですが、大抵は作り手側の力量不足や、政治的都合等で、そうなっちゃってるものだと思います。ですが今作はトッドフィリップス監督による明確な印象操作を感じました。端的に言うと、我々は2019年のジョーカーの暴動シーンよりも、もっと激しい破壊や混沌、狂気が見られると思っていました。まず副題の「フォリアドゥ」=「二人で狂気に堕ちる」その相方はレディー・ガガ。素晴らしいミュージシャンですが、音楽やファッションから、狂気的なイメージがある。そんなレディー・ガガ演じるハーレイクインと組んで更なるカオスを見せてくれるのではと思っていた。だがそうではなかった。
リーも裁判所のまわりや、刑務所でジョーカー信者になっていた連中も結局は幸せなやつらでしかない。家族も仕事もあって、アーサーほど惨めではなく、自ら手を汚す覚悟もないやつらだ。そしてそれは我々観客も同じで、映画館で1900円も払えるようなやつらが寄ってたかってアーサーもっと暴れろと期待する。ユニクロの服を着てポップコーンとか買いつつ。
だからこそアーサーはクラウンメイクを施して裁判所に現れる。心優しく弱いアーサーは、みんなの期待に応えようとする。真の友達であったゲイリーとのやり取りは、怒鳴り声で遮り終わらせようとする。泣いてしまったらみんなの期待に添えないから。
トッドフィリップスがこのような映画にした理由はいくつも考えられる。
・2019年に秩序を破壊し暴動を煽るような映画を作ったが、コンプライアンスとやらの波に飲まれ、社会的責任をとらされた。暴動を起こして革命家のカリスマになったところで、結局誰からも愛されずに信者に腹を刺されて死ぬだけだと。死刑ですらなく、同じように狂ったやつに意味もなく刺されて死ぬだけだと。わかったら底辺生活がどんなに苦しくても秩序を乱さずに暮らしてろ、というメッセージを作らざるを得なかった。さながら村上龍が『共生虫』を書いた後に『最後の家族』を書いたように社会的責任を果たした。なぜならトッドフィリップス自身も成功者で、権力側に立つものだから。
・映画館に来る観客たち、自分を底辺側だと思っている幸せ者の偽善者たちに対する説教。お前らが期待するからアーサーはクラウンメイクで演じなければいけないのだと。アーサーは誰よりも心優しい青年で、殺人だってしたくなかった。極限まで追い詰められて身を守るために人を殺めたに過ぎない。それでも殺人をしてしまったことは重すぎて、心が壊れてしまっていたが、劇中最後には、己の罪を悔いている描写もある。なのに、暴れることを期待し、「自分もジョーカーだ」という気分になっている下らないやつらが休日に顔に化粧水でも塗って映画館に来るから、だからアーサーは苦しんだのだと。
とても印象に残っているのが、私は劇場の後ろの方に座っていたのだが、はじまるギリギリに前の方の席な鮮やかな長髪金髪の女性がツカツカと入ってきて座った。その女性は、映画が終わりスタッフロールがはじまるや否や勢いよく立ち上がり出ていってしまった。見たかったものが見れなかった苛立ちは多くの人に共有されているのだと思う。
だが暴動を起こしてもいいことはない。秩序を守って暮らせというメッセージは届いたのだろうか。
2019年からの5年間。この社会に虐げられてきた者たちは、ジョーカーに救われ続けてきた。誰もがアーサーに感情移入をして、マレー銃撃シーンから暴動シーンを繰り返し観て毒気を抜き、この辛い現実をなんとか生きてきた。辛くなったらジョーカーの終盤を観ればまたがんばれた。
だがこの者たちは2024年にゴミくずのように扱われることとなった。2019年より地獄になった世界で、やっと新しいジョーカーが再び救ってくれると思って、低い給料から1900円払ったのに、あったのは長い長い説教だった。たびたび挟まるミュージカルシーンは苦痛でしかないと思う、2019年のジョーカーファンの客層には。
んー、さて。きつい現実をどうしようか。映画を観てもつまんないしな。ジョーカーが代わりに暴れてくれないなら、俺が現実でKILL THE RICHムーブメントを起こすか。そもそもフィリップスもホアキンもガガも、金持ちセレブだろ全員。社会の底辺がどれだけ辛いかわかってるふりしたセレブだろ。お前らに分かるわけがない。報いを受けろ…クソ野郎共
前作と別物として観るべし
2人狂いに完全に置いてけぼりを食らってしまった。ガガの歌唱と演技、ホアキンの完璧な役作り(冒頭の骨の浮き出た身体は直視できなかった)は素晴らしかった。が、終始夢と現実の狭間にいるような状態だったのと、看守の仕打ちが酷すぎて見るに堪えなかったのとでストーリーが咀嚼できなかった。前作とは別物。
ミュージカルときたか。。。
今作の大半はミュージカルだった。
前作のテイストが好きだったので、前の雰囲気のままに描いて欲しかった。
リーはきっと歌や言葉やその美貌で魅了してアーサーを再びジョーカーにしようとしていたのだと思う。その空想の世界とミュージカルはなんとなくマッチしていたのかもしれない。
アーサーを追いかけるカットから始まる。
その背中は、奇妙で歪で恐ろしい。
ホアキン・フェニックスという役者は本当に凄まじい人だと思う。この役をやるために肉体も精神もどれだけのものを追い込んだのだろう。本当に辛く苦しいものがあるのではないかと思う。そのくらい凄い肉体と演技だった。
ジョークも言えなくなりただひたすら同じ毎日を過ごすアーサー。本当にジョーカーだったのかと思うほどに気力がなくなってしまう。
ある日、リーと出会う。
リーは夢みがちな空想好きの女の子で、すぐ歌っちゃうし、すぐ嘘をつくし、、、。
アーサーを魅了してその世界に引き込み、再びジョーカーを呼び起こさせる。
人と人との間に愛は生まれ怒りは生まれ失望が生まれ、狂っていく。誰が悪いとかじゃなくて、人と人との重なり合いの中で狂気って生まれるのかなと思った。
ラストカットのアーサーの腹を刺した男性はずっとぶつぶつ言ってて、口を切ってたように見えたけど、見間違いかなぁ。俺が本当のジョーカーだと新たなジョーカーが生まれ、悪は次から次へと生まれ無くならない。ゴッサムシティに平和は訪れるのか。
映画ファンのために作成した映画ではなかったようだ。
この映画の正体が解ったのでレビューしたい。
ジョーカー1のテーマはごく単純で「何も持たない奴隷が金持ちや権力者に対抗する術は暴力しかない」とするものだった。
しかし世界中でヒットしたこのジョーカー1は、金持ちや権力者たちの多大なる不興を買ったことは間違いないだろう。
Showbiz業界なんて所詮は金持ちや権力者の後ろ盾がないとやっていけない業界である。
映画製作会社は彼らの冷たい反応に完全にビビってしまったのだと思われる。
そこでジョーカー2では、アーサーは女に見捨てられ、看守たちにレイプされ反抗心もなくなり、仲間であった別の弱者に殺されるという、金持ちや権力者好みのストーリとした。
ジョーカー2のテーマは「弱者は何をやっても無駄で金持ちや権力者には決して勝てない」である。
ミュージカル風に粉飾された映像には映画製作者の姑息さを感じないではいられない。
莫大な製作費を使ってでも彼らの機嫌を取り戻したかったのであろう。
また前回のヒットを利用してある程度は回収できると計算し、発生する損失もそれで彼らの機嫌を取り戻せるなら許容できると考えたのであろう。
世界中の映画ファンを裏切ってでも金持ちや権力者に媚びを売るアメリカのShowbiz業界の姿にリアルジョーカーを待望する気持ちが自然と沸き起こった。
映画ファンのために作成した映画ではなかったようだ。
熱烈バットマンシリーズファンの感想
はい。よく私のやんちゃレビューを覗きに来て頂きました。ありがとうございます。
この映画って、メッチャ毀誉褒貶が激しい。高低差ありすぎで耳キーンってなるわ!
暫し個人語りなんですが、この映画ってバットマンシリーズのスピンオフ。私はバットマンは全部観てる。スピンオフも全部観てる。マイケルキートン版から。
私の血の半分はバットマンで出来ているんです。冗談ぬきで本籍地をゴッサムシティを移そうと思っていましかからね。
ツッコミその1 とっとと行けよ‼️
ツッコミその2 お前は獄門島に行けよ‼️
まずこれって、ジョーカーの話しじゃねえ。アーサーの話しじゃねぇの。そう思っちゃったんですよ。
なんかね、拘置所と裁判所の無限ループが続きます。何回も何回も。
ツッコミその1 スシローか‼️
ツッコミその2赤坂五丁目のミニマラソンか‼️
拘置所では看守から迫害を受けてます。まあそりゃあそうだ。ジョーカーだもん。でも憧れる若者もいます。
裁判所では弁護士を排除して自分で弁護します。ところがなんと、タバコを吸いながら!ありえへん。今時ですよ!
ツッコミその1 昭和のブロマイドか‼️
ツッコミその2 お前は市川崑か‼️
いやね妄想なんでしょうね。前作はリアルと妄想の際を楽しむ映画でしたが、本作は妄想前提です。
ツッコミその1 お前はカイザーソゼか‼️
ツッコミその2 お前はウソップか‼️
それでね、アーサーがカリスマじゃねえのよ。これがまた。リンダカラー♾️のDENの方がよっぽどカリスマだわ。今作は人殺してないしね。頭が悪い人には慕われています。なんなら獄中から指示して、そいつらが人を殺せよ。
組織の名前は、死ね死ね団!
ツッコミその1 不適切にもほどがある‼️
ツッコミその2 昭和生まれしかわかんねえわ‼️
あとね、タイトルが覚えられん。ジョーカー フォリ・ア・ドゥとか言いづらいし覚えられんのよ。
フランス語らしいけど知らんよ。フランス語って役にたたねえな!エスペラント語ならペラペラなんだけどね。
ツッコミその1 絶対嘘だろ‼️
ツッコミその2 エスペラント語なんて、最高に役にたたねえわ‼️
それから興行収入が激ヤバ!北米の1週目は3700万ドル、しかし2週目はそこから81%ダウン。しかも負けた相手が、あのゲロ映画だぜ!全米が嘔吐したって言う。
損益分岐点が世界で3億5000万ドル。色々金かかってるからね。
絶対って言葉は言っちゃいけない。でも無理。絶対。しかも出演者もボロクソに言ってる。沈みゆく船から逃げ出すネズミか!タイミングはえーだろ!
責任者は監督、脚本、制作の、トッド・フィリップス。次のメガホンはあるのか?
関係者はそのメガホンを取り上げてトッドの頭をポカリ。
全部、お前のせいだよ‼️
とにかくね、瀬戸際のトッドちゃんだわ!
いやね主演のホアキン・フェニックスだってやばい。加担したんだからね。大丈夫かホアキン?次はあるのかホアキン?
ツッコミその1 フェニックスだから大丈夫なの。
ツッコミその2 愛があるから大丈夫なの。
おいおい、瀬戸の花嫁か‼️
ガガ様だってやばい。瀬戸際の花嫁か‼️
さて、私の感想は…残念ではあるが、例えば金返せとか時間を返せとか…そうは思わない。それはオーバーキルでしょ。お暇なら来てよね…くらい。
例えばだよ、私はカードゲームを考えたんですよ。
トランプ【53】枚を使います。それを参加者に配るんです。順番に隣の人から1枚抜いて、同じ数字だったらペアで場に出します。
それを繰り返すわけです。しかし絶対にペアにならないカードが有ります。それを持っていた人の負け。そのカードは…
JOKER‼️‼️
ツッコミその1 それって、ババ抜き‼️
ツッコミその2 長々と無駄話‼️
ふざけてごめんなさい。長くてごめんなさい。お付き合い頂きありがとうございました。
これは酷い
前作ジョーカーは人々を喚起させて行動させる凄い力を持った作品だった。惨めな人生にクヨクヨしてないで、みんなで立ち上がって金持ちや政治家やぶっ殺しに行こう!というもので、格差社会においてジョーカーを題材としてとんでもない作品を作った。監督はその結果として世界中でこの映画に感化された人々が殺人事件を起こしたことにビビって、本作であれは妄想でした。ジョーカーも悪のヒーローにはなれませんでした。それで虚しく死にました。って……前作をも亡きものにするかのような手のひらがえしで観客はガッカリした。映画は悪徳でもいい。歴史的に繰り返されてきた表現の自由に乗り切れなかった監督の日和によって、ジョーカーという映画は永遠の名作とはならず一過性の流行のような映画のレベルの地に落ちた。
1作目が素晴らしかっただけに
1作目が完璧に素晴らしかっただけに
2作目は残念でした。
映画館に行って寝る事はほとんど無いのですが
5回ぐらい寝落ちしてしまうぐらい
面白くありませんでした。
前半の15分だけが面白くて
後は……
煙が眼に染みる
どうしても「ダークナイト」の印象が強烈すぎて観る側としては、あれ以上のものを期待するのは無理もないこと。その為「なぜ殺人鬼と化したか?」という前作には退屈感を感じてしまいましたが、今回は あの「ジョーカー」にミュージカルを融合させるという アイディアに感服。 煙草を吸って煙を吐くシーンが今の時代では新鮮で印象的。次作の主人公は レディガガ?
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