「女が強すぎ。マッドマックス感が消えるほどに強すぎて興ざめした」マッドマックス フュリオサ Donguriさんの映画レビュー(感想・評価)
女が強すぎ。マッドマックス感が消えるほどに強すぎて興ざめした
冒頭から女が強すぎ。一撃で男どもを倒せるようなスーパーウーマンなのだ。
ヒャッハーと叫ぶ男たちが、それを叫んでもいないうちに次々に倒されていくのだ。これではマッドマックス感がない。
マッドマックスと言えば、敵の男どもが強くて、マックスでも勝てなさそうなアウェー感が観客のドキドキハラハラを誘うはずなのだが、それが1ミリもなかった。
敵の男たちにさらわれた少女を、ほとんど筋肉のない細い身体の母親がたったひとりで男どものアジトに乗り込んでいって、少女の救出にあっさりと成功してしまうのだ。緊迫感とかは一切ない。もう笑ってしまうくらいか細い母親は強いのだ。
それなのに娘を連れて逃げる途中の母親は、敵が追跡してくるのを知ると、なぜか娘に最後のお別れをして、なぜかなぜか、そのときだけ弱い女を短い時間だけは演じて、あっさりと娘の見てる前で処刑されてしまうのだ。これは物語の都合上、娘にトラウマを植え付けるために処刑されなくてはいけなかったのだろう。だから母親はその短い時間だけ弱くなる必要があったのだ。
もうこの時点で、僕はあくびが出てしまった。
つまらないのだ。
なんでアメリカでは大ゴケで客が入らないのか、その理由がわかってしまった。
ポリコレであり、フェミニズムのためだろう。
主人公の女の子はフェミニズム的に強い女の部分と長所は描いてもいいが、欠点とかは描いてはいけない。弱い部分とかは物語の都合上で必要ならば描いてもいいが、できるだけ短く、できるだけカッコ悪くならないよう描かないといけない。そんな規制があるかのようだ。
ゆえに主人公は人間として描かれていない。何を考えて、どんな失敗をして悔やみ、挫折して……などのマイナス面がないから、人としての成長がない。いや、もう成長していて最初から完成してしまっているのだ。
だからラスボスとの対戦後、ラスボスひとりがベラベラと勝手に哲学的なことを喋り続けて、主人公の彼女は黙って聞いているだけだったのだ。つまり自分がないのだ。中身がないのだ。だから反論も同意もできない。
彼女の人生はピンチになっても、運が良かったり、男が助けてくれたりする。だけど露骨に男が助けたという印象を持たれないよう、わざとそう見えない変な演出をしてくる。このため、回りくどくてつまらなさが増す。そんな感じで実は過保護に育てられた主人公は中身がなく、ただ強く、カッコいいだけに育つのだ。
そんな主人公に感情移入も共感も出来ていないから、いつものマッドマックスらしいアクションシーンになっても、緊迫感が薄い。なぜかのめり込めない。いつもなら面白いはずなのに、なぜか盛り上がれない。キャラが弱いからだ。そのキャラがピンチになっても、どうせ助かるんだろと、興ざめしてしまった自分がいる。
キャラの視点に同調して、その緊迫感を楽しめず、退屈で寝てしまったのだ。
マッドマックスの良さを台無しにしてしまった、ポリコレやフェミニズム……今ではゲームの業界でも検閲があり、ポリコレや性的な描写があるとやり直しを命令され、発売延期になるらしい。特にSONYが厳しく、最近は任天堂が緩いらしい。
それらゲーム業界と同じように、ハリウッド映画も検閲の対象となり、マッドマックスなんて暴力のカタマリみたいな映画だから映画会社の首脳陣が検閲で公開延期を余儀なくされるのを恐れ、そうならないようにと自主規制で脚本の段階からいろいろ削っていったとするならば、この主人公がスカスカのキャラクターとして出てくるのも納得できてしまう。しかし、そのつまらないものを見せられる被害というかツケを被るのは観客だ。だから観客はもう信用せず、クチコミでこれがフェミニスト映画だと知ったとたん、映画館に行くのを次々にやめてしまったのかもしれない。憶測だけどね。
最後に面白かったのはラストシーン。前作「怒りのデスロード」につながるラストなんだけど、ここがワクワクする。さあ、ここから「怒りのデスロード」が始まりますよ~って感じで、すごく盛り上がってくるのだ。そんな盛り上がりを見せた中でのエンディング・クレジットのスタート。
やがて観てるうちに、キャストやスタッフの名前が涙で滲んでくる。
そうか……「怒りのデスロード」が作られた約10年前は、まだいい時代だったんだなぁ~と思い出す。
そんな、切なくて哀しくなる映画でした(笑)