「「戦うプリンセス」映画としては満足度高し。ヘラ王女のキャラデザはジャストミート!」ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「戦うプリンセス」映画としては満足度高し。ヘラ王女のキャラデザはジャストミート!
そもそも、なぜ観に行ったかというと、タダ券があったからだ。
今年の9月、ラゾーナ川崎で体験した突然の「全館停電」。あれは本当にびっくりした。
そのときに買ったチケットの払い戻し金をまだ受け取っておらず、もらったタダ券(109シネマでしか使えない)もまだ手元にあって、その使用期限が12月末日までだったのだ。
いざ川崎に着くと、映画は何本もやっている。だが、観たい映画がぜんぜんない。
コミック原作のコスプレ映画は、日米問わず最初から観ない。
CGを多用したファミリー向け映画にも、全く興味がない。
そこで、若干消去法気味にこれと決めたのが『ローハンの戦い』だった。
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たいして期待せずに観たせいか、他の皆さんがけちょんけちょんに言ってるほどはひどい映画とも思わなかったし、もともと映画版の『ロード・オブ・ザ・リング』に対して思い入れがまったくないので(原作は好きだけど)、これはこれでふつうに楽しめたという感じ。
神山監督って『精霊の守り人』とかもやっててハイファンタジーは好きそうだし、上昇志向・世界進出志向も強い人だから、この企画は渡りに船だったと思う。ハリウッド資本を背景に、これだけの人員と予算でアニメ作れることなんてそうそうないから、純粋にやりがいがあって面白い仕事だったんじゃないかな。
え、どこが良かったかって?
それはもうね、とにかく、ヘラ王女の役満ボディにしてやられました!!
……すいません、ホントくだらない感想で(笑)。
でもまあ、ひっさびさにこんなエチエチな体をしたヒロインのアニメを観た気がする。
永井豪みたいなダイナマイトボディ(まったく興味がわかない)でもなく、
日本のアニメで一般的なスレンダー系(好きだが多すぎて飽きた)でもなく、
成熟した女性の色香を漂わせながら、自然な肉付きのバランスのとれた肢体。
『攻殻機動隊』の草薙とか、『精霊の守り人』のバルサとか、神山アニメのバトルヒロインのフォルムには、ある種明快な「好み」があるよね。
ヘラの場合は、とくに後ろ姿が良い。
可憐だけど熟している。とっても良い。
こういう女戦士が、ピンチに陥ったり、屈服させられそうになったりするのは、お恥ずかしながら三度の飯より好きなので(幼いころから、志穂美悦子の李紅竜と、梶芽衣子の芸者小波と、松坂慶子の紫頭巾が僕のセックスシンボルだった)、本作にもなんの問題もなくのめりこめたという次第。
多くの方は『ロード・オブ・ザ・リング』を念頭に置いて観に行ったのかもしれないが、僕は『リボンの騎士』や『ラ・セーヌの星』や『女必殺拳』や『ドリームハンター麗夢』や『プリキュア』の延長上で観に行ったので、ぜんぜんふつうに手に汗握ってヘラ王女応援してました。ヘラちゃん~がんばれ! でもときどきやられちゃえ! みたいな(笑)。
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パンフやインタビューを見るかぎり、神山監督もいろいろと『指輪物語』とのリンクを貼ろうと苦心している様子は伝わってくる。ローハンの街の様子とか、城砦の様子とか、ちゃんとそこまで考えて作ってるんだなあ、と。
ただ全体のテイストとしては、『指輪物語』っていうよりは、北欧神話っぽい感じが強かった気がする。
実写映画で言えば、ニコラス・ウィンディング・レフンの『ヴァルハラ・ライジング』とか、ロバート・エガースの『ノースマン』とかみたいな。
王様とか思い切りグーパン肉弾戦だし、王と娘の関係性がオーディンとブリュンヒルデみたいだし。馬にこだわるところとか、王城炎上とか、なんとなく北欧神話を意識してないと、こうはならないんじゃないだろうか。
あとは、なんぼなんでも前半がちょっと退屈すぎたような。
例の沼の主Vs.巨象ムマキルのアニマル・ファイト・クラブあたりまでは、ほんと眠たくて眠たくて……。ウルフが挙兵してからは、オーソドックスな白兵戦(ムマキルが活躍するあたり、『ロード・オブ・ザ・リング』っぽい。雄叫びあげてたら弓で狙い撃ちとか、馬の脚が遅くて敗走断念とか、二人の兄の末路がダサすぎるw)や籠城戦(半年も待たずに、木製の攻城櫓なんかさっさと火矢で焼き払えばいいのに)を堪能できた。
あとは、ゾンビ王ワンパンマン無双とか(結局、低体温の王様がどういう存在だったかよくわからないし、どこまでを王様がやって、どこからがオーク一味の所業なのかもよくわからない)、立ち往生とか(なんで出てきた洞窟から戻れない設定なのか??)、花嫁衣裳バトルとか(わざわざ戦闘で薄着になる理由ってなんだよw)、全体にゆるい感じは否めないものの、目くじらを立てるほどひどいわけでもない。総じて言えば、ふつうに面白かった。
何に失敗してるかというと、やっぱりウルフのキャラ造形をミスってるんだろうな、と思う。ここまで卑小で、唯我独尊で、視野の狭い、共感不可能な復讐者に仕立てる必要があったのか。
結局、本作の作り手は「ローハン崩壊の原因は王とヘラに一定の責任がある(だから王とヘラは反乱に対して民を守るために全力で立ち向かわねばならない)」という前提を保ちつつ、一方で「王とヘラに咎はなく、あくまで相手のほうに非がある」というふうに観客を誘導したがっている。
そこで、敵方のフレカは「自分で喧嘩を吹っかけておいてワンパンで負ける間抜け領主」とされ、息子のウルフは「逆恨みのうえ、判断を間違い続ける利己的で愚かなリーダー」とされる。王とヘラを善玉に仕立てるために、過剰なまでに「バカ」に貶められているのだ。
本来なら、せっかくああいう幼少時のエピソードを用意したのなら、二人が憎しみ合いながらも愛し合う、あるいはお互い敵対しながらも相手への執着を断ちがたい、そういった物語のほうが絶対盛り上がったと思うんだけど、たぶん脚本家のフィリッパ・ボウエンは、オーソドックスな『ロミジュリ』や『嵐が丘』のような話にはしたくなかったんだろうね。
そのおおもとにはフェミニズム的な意図があって、「愚かな父権性」に対する「女性性の勝利」を描きたかった彼女にとって、色恋沙汰はこの物語に余計な要素だったのではないか。
暴力での決着を求めたフレカとヘルムは身を滅ぼし、
無謀な戦闘に参加したハレスとハラも命を落とし、
王権の簒奪にこだわりすぎたウルフも最後は討たれる。
いずれも「武力」と「権力」を求めるオスの本能に「呑まれた」のだ。
一方で王位にこだわらず、民のことだけを考えて、体面や王権よりも実益を重視して戦ったヘラは、老婆とオルウィン(盾の乙女) の助力のもと、ついに勝利を収める。
ヘラがウルフを倒す際に、あえて「剣」ではなく「盾」で倒すのは、盾の乙女の伝統を引きつぐとともに、「専守防衛」の思想が暗示されているのではないか。
彼女が血統の継承とか王権の奪取にこだわりがないのは、権威の象徴である鎧兜をわざわざ大鷲に持たせてフレアラフに渡したことからもわかる。結局、彼女は支配者の地位にいることよりも「自由でいること」を最終的に選ぶわけだが、このへんにもフィリッパのフェミニズム的なこだわりが感じられる。
この脚本家のフェミ的視点(=近年のハリウッドらしいポリコレ)に対して、神山監督は、わざわざヘラとウルフの幼少時代の交流シーンを増補したり、わざわざ発案して最後でヘラに花嫁の恰好をさせてみたり、よく言えば、より日本人に受け入れられやすいようにフェミ色を薄めて、二人の内的関係を強調するほうに寄せようとしている。ただ、悪く言えば、そのせいで脚本家と監督の求める「女性像」にブレが生じて、話の本筋をとらえがたいものにさせる原因をつくっているのではないか。
父権性の絶対的象徴としてのヘルム王の扱いについても、「フィリッパの脚本上では」もう少しこの王様は「間抜けな」存在として描かれていたのではないかと想像する。それを「監督が」ラオウや雷神トールのような恰好良さに寄せ、娘のヘラとの情愛の要素も増量した。結果として、そこにも微妙な「焦点のズレ」が生じている気がする。
要するに、ハリウッド的なポリコレ性の強いアメリカ人の書いた脚本を、監督がジャパニメーション的な「仇同士の慕情・父娘の情愛・王の英雄性」といったテイストへと引き寄せる過程で、ある種の齟齬が生まれたのではないか、というのが僕の推測だ。
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●小芝風花は、声優初挑戦というわりには、とても上手にこなしていたと思う。その他、脇の声優陣も文句なし。とくに、ウルフ役の津田健次郎とターグ将軍役の山寺宏一の安定感は抜群。二人ともほんとに浮かばれない役だったけど……(笑)。ちなみに、字幕か吹き替えかだと、今回は吹き替え一択でした。
●籠城戦で、ひと冬のあいだ寒さと飢えに苦しめられたといいつつ、みんななぜか元気そうという批判については、僕も同意見。とくに小姓のリーフが最後までころころと肥っているのには違和感があった。こいつの粗忽者設定はなにかを壊して大変なことになる伏線かと思ってたけど、結局何にもなかったな。
●ちゃんとつくってあるわりになんとなく物足りない理由として、この手の映画をにぎやかす存在としての「小悪党」と「マスコットキャラ」の不在も挙げられるのではないか。
そもそも『ロード・オブ・ザ・リング』の面白さなんて、ほとんどゴクリ(ゴラム)で出来ているようなもんなのに。あと、あれは主人公自体がマスコットキャラなのに(笑)。
これが美男美女と巨漢のマッチョしか出てこないとなると、こんだけ平板な印象になるんだなあ、と。
●上記と関連していえば、近年のハリウッド映画としてはきわめて珍しいことに、ほぼ白人しか出てこない。アメリカ人が脚本書いてるのに、これはまあまあ不思議。なぜならそもそも『ロード・オブ・ザ・リング』という作品では、多種族の登場が人種間にある分断の「置き換え」として機能しているから。それなのに、わざわざエルフやホビットやドワーフを「出さない」というのは、相応の理由があってのことだと思うんだが。
●これって、アメリカやヨーロッパではどういう公開のされ方してるんだろうね。ハリウッド資本のジャパニメーションって、意外に珍しいというか、これまでにないような試みだとは思うんだが、海外の人にとってこのハイブリッドがどう受け止められるかは、意外と今後の試金石になるような気がする。個人的にディズニー的なキャラデザは全く受け付けられない人間なので、僕としてはありがたい話なんだけど。
ちなみに、休日の夜の回で、川崎の劇場は僕を含めて総勢3人での視聴でした(笑)。うーん、心配! なんか日本じゃ爆死しそうなんだよな……(笑)
坂口博信の『ファイナルファンタジー』映画版みたいな悲劇的結果に終わりませんように。