ミッキー17のレビュー・感想・評価
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人間の愚かさや醜さをブラックユーモアで包んだ作品
ジャンル分けをするとしたら、ブラックユーモアたっぷりのSFコメディと言ったらいいんだろうか。
見終わった後、なんと表現したら良いのか難しく、好き嫌いが別れそうな作品だなというのが率直な感想だった。
死んでは生き返らせ、文字通りの使い捨てワーカーとして働かせる究極のブラック企業の世界観は斬新。けれどそんな世界観の中に過去の歴史や現在の社会問題が見え隠れした。
清々しいほど好感度ゼロの権力振りかざし夫婦は、ヒトラーや某国のトップを思い浮かべたし、人間が人間を実験台にする姿は、ホロコーストや第二次世界大戦の捕虜への仕打ちに思えたし、クリーパーへの仕打ちは先住民を追い出した侵略者たちに思えた。
一部の雇用主が、人権無視の労働を従業員に強いて、周りも職業による差別をし、本人もその環境に麻痺して受け入れていく様子も、現代の闇と近い。
そんな人間の愚かさや醜さのオンパレードで胸焼けしそうになるけれど、シュールな演出と主役のミッキーのキャラクターのおかげで、暗くなりすぎないで見ることができた点は良かった。
あと、私の中でヴァンパイアの恋愛もので記憶が止まっているロバート・パティンソンの、ミッキー17と18の演じ分けは素晴らしかった。表情や話し方だけで瞬時にどちらなのか判別できるので、見ていて楽しい。
しかし「そのシーンいる?」と思うところが何シーンかあったり、モノローグに頼りすぎやしないかい?と思ったり、モヤモヤする部分もあった。
見終わった後に、あれは結局なんだったの?と置いてけぼりをくらった感じにもなり、不完全燃焼感が否めなかった。
原作を駆け足で描いたゆえの脚色かもしれないが、個人的には可もなく不可もなくの評価でおさまる作品だった。
翻訳(不)可能な存在者
本作をSFとして、リプリントされ増殖するであろうミッキー(ロバート・パティンソン)の闊達な姿を求めていたのなら期待外れと言っても仕方ない。
しかし『パラサイト 半地下の家族』(2019)のように、誰がみても面白い物語で社会風刺を痛烈に盛り込むことを期待するのなら、素晴らしいし、さすがポン・ジュノだなと思う。
まさに製作国アメリカの政治パロディー。宇宙船内でキャップを被って権威主義的に振る舞う為政者なんて、再び偉大な国にするといいながら、政府職員を大量に解雇し、関税を課して世界経済を混乱させるどこかの大統領や、宇宙に何かと行きたがる世界一の富豪でありながら、クソダサいコラ画像でしか笑いがとれない任期付き特別政府職員のキメラ体じゃないですか。
だが残念ながら本作で描かれるアメリカ政治/社会に対するブラックジョークをただ笑っていられる状況でもない。韓国では大統領が罷免されるし、日本でも躍動とか再生とか、性加害に向き合わない元市長の出馬とか、何かとぶっ壊したり、統一したがるカルト宗教が蔓延っていて散々だ。そして悲しいことに現実は『パラサイト』の時よりも深刻だ。それは「底」の描写からも窺える。
以下、ネタバレを含みます。
『パラサイト』では半地下と富裕層の家族のドラマを描くことにより、階級格差による経済的不均衡を描いた。だが階級は違えど、労働力の供給と受益の共依存により生存は保障されていた。故に殺人が生存を脅かす異常な出来事として描かれたのだが、本作は違う。
ミッキーは経済的不均衡によって搾取されるのは同様であるが、生存は保障されない。エクスペンダブル=使い捨てな「死ぬべき」存在者としてより過酷な扱いを受けるのだ。
それはファーストシーンの「底」からも彼の状況が分かる。
ミッキー17が落下し死にそうになる場所は、救助のロープが届かない氷雪の地下深い「底」である。彼は半地下の家族よりも底辺な位置にいる。そして死に体となった彼を廃棄する焼却炉も「底」にある。本作の「底」とは、生存が保障されない死の階層なのだ。
そんな「底」にいるミッキーは地球外で生存できず“移民”として宇宙に行こうと、さらに酷使されるのが階級上昇の不可能さと皮肉である。だが彼はエイリアンのクリーパーに殺されるのではなく、助けられる。そして底から這い上がることができる。
さらにタブーとされるミッキー17と18の同時存在も起こってしまう。ここからミッキーはどのように、底へと追いやる権力≒為政者に反逆するのかが見所であるが、注目する点は「翻訳」である。
倒されるべき敵は翻訳不可能な存在者である。それは人間ではない未知の生物であり、話が通じない存在者の場合もあれば、悪の組織など自身の正義や主義とは反し、理解ができない存在者の場合もある。
本作においては、クリーパーが敵のように思える。しかしミッキーの救出のように、彼らは人間に加害を与える存在ではないし、翻訳機の発明というテクノロジー的克服によって、言葉を通じ合うことができる。むしろ翻訳不可能な存在者であり、未知の生物たり得るのは為政者の夫妻である。
彼らには話が通じない。同じ言語を喋っているはずなのに。同じ人間であるはずなのに。ミッキーの頭を撃つかどうかで心配するのは、殺傷への良心の呵責ではなく、カーペットが血で汚れるかであり、クリーパーの身体はソースにすると言って無惨に斬る。この通じなさは、「宗教」が原因である。彼らは為政者として政治的に優位な存在である。というか為政者になることができるのは、宇宙船事業を主導する会社の経営者でもあるからだ。
本作の会社とはおそらく株式会社であるが、この組織体もよく考えると不思議に存在する。株式をもっていればいるほど偉くなり、そこに民主主義による平等はない。事業方針はあるとも、目的はただひとつ利潤の獲得である。利潤のためなら、法も犯すしなんだってする。そして利潤を獲得する手段に労働力の行使もある。だが会社の財務諸表に、労働者は資産計上されることなく、人件費として費用計上される。それなら利潤の獲得のために、人件費を使い捨てにしても構わない。そんな株式会社という組織体は資本教とも言うべき、ある種の宗教の教えに従って組織されるものであり、為政者にとって教えに背く反逆者の言葉など翻訳不可能で理解できないものなのだろう。
こういった宗教≒会社が一体となっている考えは、セリフからも確認できるし、ポン・ジュノが意図したことでもあるだろう。昨今の政治によるコミュニケーション不全は、資本教で組織される株式会社の論理の侵入とでも言いたげだ。
ミッキーは為政者の妻のソース作りという「事業」のために、クリーパーの尻尾を切り落とす労働を行おうとする。しかしその労働は、17と18が獲得競争で負けた方が死ぬというデス・ゲームであり、違法なものである。
だがミッキーはこの労働を放棄し、クリーパーとの対話と融和を試みる。そして18はその隙に為政者の男を襲撃し、自爆によって反逆を達成する。
これでミッキーは解放されて幸せなはずである。しかし為政者の打倒がテロリズムによって果たされるのは容認されることなのだろうか。それは現実でも有効な手段になってしまっているが、暴力に解決を求めるのは許されることではない。
もちろん本作がテロリズムだけを解決の道としていないのはよく分かる。為政者の部下がハラスメントを告発する描写があるし、ナーシャが組織のトップに立ち、再建する展開も準備されている。しかしそれらはテロリズムの乗り越えとするには描写が稀薄であるし、現実離れした理想のように思えてしまう。
それならテロリズムにしか、為政者≒権力を打倒する手段はないのだろうか。
いや、そんなことはない。
為政者を話の通じない未知の生物とするなら、クリーパーとは何ものだろう。
きっと私たち民衆のはずである。外見が気持ち悪い存在者を私たちであるとするのは喜ばしいことかは分からない。だが彼らはコミュニケーション可能であるし、決して暴力によって危害を加えない。抵抗の手段は「声をあげること」だ。
その声は悲鳴とも呼ぶべき、翻訳不可能なものである。だがそんな声をあげること、声をそれでも理解可能なかたちで翻訳しようとすること、それがこの散々な世界で私たちが生存するための抵抗のはずだ。
さすがポン・ジュノ監督作品!見応えのあるブラックユーモア映画の誕生です♪
ポン・ジュノ監督のアカデミー賞受賞作「パラサイト 半地下の家族」をはじめて観たときは、度肝を抜かれました。アジア圏初めての受賞作品がこの作品だったのも納得でした。この監督の描く人間はどこか愚かで、どこか小賢しく、けれどなぜか憎めない。
今作品もポン・ジュノ監督のどこまでも深い人間観察力が否応なく発揮されています。楽して仕事が得たいと考えた主人公のミッキーや権力を手に入れて万人から称賛されたいと願うボス夫婦などあからさまに愚かしい人間がストレートに描かれています。その中で、一見優等生にも見えるミッキーの彼女ナーシャでさえ、ミッキーが2人になった時、2人から愛されたいという素直な己の欲望を露わにするのです。思うにこの監督の作品に登場する人物はみな己の欲望に素直なのだ。誰しもが心の奥底にしまい込んでいる密やかな欲望ーそれを叶えた人がどんな人生を送るのか観客は遠目から俯瞰して観察することができるのです。自己満足だけの権力を手に入れても愚かなラストを迎えるだけだ。何度も生き返るなんて愚の骨頂!一度きりの人生だと思うから今を大切にできるんだよ、などなど反面教師による教訓を得ることになる。
同時にこの映画には、人間社会の環境に対するエゴを批判する内容も含まれている。終盤のストーリーは風の谷のナウシカを思わせる王蟲もどきの先住民との抗争になるのだが、ここがもう少し違う終着点だったら私はもっと好きだったかもしれない。なぜなら簡単に予想ができてしまったから😅そこからのラストも結構長いです。ナーシャ、ナーシャ、ナーシャってかんじ😊なんせ137分なんで、見応えは十分です!!
毎回思うのですが、過剰な宣伝が逆に評価を悪くしてしまう映画をたまに見かけますが、この作品もそれですかね。もったいない。確かな実績のある監督作品ですから、宣伝したくなるのも分かりますが、ひとり歩きする宣伝文句に踊らされないようにしましょう。常にニュートラルな気持ちで鑑賞するのが吉でございます♪
ポン・ジュノ式格差社会 in 未来宇宙(逆襲エンタメは少なめ)
ポン・ジュノ作品なのだから、スカッと逆転劇よりも格差の描写に軸足が置かれるのは当然なのかもしれない。
とはいえ、エクスペンダブルであるミッキー17の扱われ方がシビア過ぎて、そしてそのシビアな状態が思ったより長くて、宣伝文句に踊っていた逆襲エンタメとか反撃といった言葉に触発された期待とは裏腹に、キツさが先に立ってしまった。
キツさを感じたのは、彼の設定やマーシャル夫妻の振る舞いによって寓話的に表された現代社会の病巣が、妙に生々しかったからかもしれない。
格差社会の下層にいる人間は使い捨てのリソースであるということ。物理的に使い捨てにされるというデフォルメされた設定により、その残酷さが可視化される。
上層の人間の傲慢さ。新興宗教をバックグラウンドに持つケネスの横暴ぶりには、現実の政治家を連想する人もいるだろう。だが彼は地球の議員選挙には落ちているので、この作品世界の世論は此方の現実よりはマシなのかもしれない。
俳優陣が素晴らしかった。17と18の二役を演じたロバート・パティンソンはやっぱりすごい。同一人物のコピーだがちょっと性格が違う2人を絶妙に演じ分けていて、きちんと表情が違うので胸に数字を書かれる前でも区別に困らなかった。
そして、何と言ってもトニ・コレットですよ。「陪審員2番」での悩める法曹役が記憶に新しいが、一転してこの憎たらしいささやき女将ぶり。終盤でナーシャに首4の字固めをかけられた時の表情で笑わせるかと思えば、ラストでミッキーの妄想に出てきた時には、一瞬でその場の空気をホラーに変える。最高です。
マーク・ラファロと組んでの無敵な悪役ぶりが、ミッキーの環境の残酷さを際立たせていた。
ニフルヘイムの先住生物クリーパーって、あれ……ナウシカの王蟲っぽいような……造形が似てるし、有毒な大気の中で生きていて、主人公とコミュニケーションが取れて、主人公を助けるってところも。王蟲を連想しつつ観ていたので、貞子のような目が見えた時は勝手に違和感を覚えた。まあ、気のせいということにしておく。
入植地の惑星ニフルヘイムは雪と氷に閉ざされていたが、この名称は北欧神話に登場する、九つの世界の下層にある氷の国ニフルヘイムに由来する。SF、ニフルヘイム、コピー人間ときて、80年代の岡崎つぐおの漫画を思い出したりした。
よく言えば親しみやすい、悪く言えば既視感のある設定。驚きが少なかったので没入出来ず、終始どこか客観的に観てしまい、細かいことが気になってくる自分がいた。
冒頭にも書いたように、「逆襲エンタメ」「予想を超えたミッキーの反撃」(公式サイトより)などと銘打っている割に、なかなか逆襲が始まらない。終盤の逆襲も何だか地味で、「予想を超え」てこない。もっとも、これは監督ではなくプロモーションの問題なのかもしれないが。
途中で出てきたカイ(アナマリア・バルトロメイ)の方がナーシャより命の重さを理解しているのでは?と思う瞬間があったが、結局ミッキーとはくっつかずモブキャラのようにフェードアウトしたのにはもやっとした。
生への執着が強かったハバネロタイプのミッキー18が、いつの間にかものわかりのいい人間になり、自らケネスと共に自爆するのは若干ご都合感があった。18の心境の変化をもう少し細かく描いても良かったのではという気がする。逆に、人間コピー機の発明者であるアラン・マニコバのエピソードは説明しすぎで、まるっと削ってもさしたる影響はないのでは(個人的な感想です)。
トータルでの印象としては、俳優はとてもいいがそれ以外の設定やらキャラの動きやらが何となくまとまりがなく、言いたいことが若干ピンボケしている感じだった。
ところで、作中ではミッキーの記憶をレンガに保存して彼のコピーがデータを受け継いでいたが、記憶は同期出来たとしても自我は別なのではという気がする。17と18がそれぞれの自我を持っていたことはその証左ではないだろうか。
そういう観点で考えると、回想に出てきた4年前のミッキーの自我の部分はミッキー2がプリントアウトされる前にとっくに死んでいることになる。でも、記憶さえ同期されていれば傍目には同一人格という認識になる。そこを意識すると、ラストが単純なハッピーエンドには見えなくなってくる。
自我が透明化されているから使い捨てを厭わない存在になってしまう。よく考えると背筋が寒くなる設定ではある。
韓国作品のが面白いけど
ポン・ジュノ監督はアメリカでもしばしば作品を発表しているのだけど、やっぱり韓国で作る作品の方が面白いなと思ってしまう。とはいえ、この作品がつまらないということはなく、充分に水準以上の娯楽作品に仕上がっているとは思う。
何度も死んでやり直すというアイディアは、『All You Need is Kill』に共通するけれど、あれは自分の運命を切り開くために、死んだらリセットできるその能力を活用していく。こちらは、他人がそれをやるために生体データと記憶をコピーして再現可能にしてしまうというもの。未知の惑星には人類にとって未踏の危険がいっぱいなので、人柱にさせられるのである。
なかなかにエグイアイディアなのだけど、ポンジュノらし諧謔さで重苦しく見せていない。上流階級の人々の滑稽さ、人類の傲慢さを皮肉たっぷりに描いて、自分が自分であるために必要なものは何かと問う。
身体は3Dプリントで、記憶もコピーだが、それでも自分は自分なのか、人間の範囲が拡大していく時代にふさわしい作品だった。
おなじみのジャンルでも彼が撮ればこれほど面白く輝く
生と死の弛まぬ反復。自分と全く同じ容姿を持つコピー(代用品)との対峙。そんなSFモノの定番をこれまで何度も観てきた気がするが、いざポン・ジュノ監督によるストーリーが起動すると、いささか説明の不可欠な主人公の紆余曲折が実に流麗かつ小気味よいタッチで語られていく様に驚く。さらに感激するのはパティンソンの起用法だ。従来のハリウッドでいかに彼の才能が無駄使いされてきたかがよくわかるほど、この監督はパティンソンの鈍臭いまでのフツーさを巧みに抽出し、これまでにない形で見事に輝かせている。加えてあらゆる面で『パラサイト』より大規模でありながら、常にリラックスして決してリキまない。だからこそ我々はラストの高揚に至るまでゆったりと身を委ねつつギアを上げていくことができる。このペース配分もハリウッドの教科書にはない独自の匙加減。決してポン・ジュノの最高傑作ではないが、名匠らしさが詰まった秀作なのは確かである。
傑作映画群を想起させる特徴的な物語要素と描写
ポン・ジュノ監督が「スノーピアサー」や「パラサイト 半地下の家族」などで描いてきた格差社会への風刺や底辺で生きる人々の悲哀と闘争が、最新作「ミッキー17」でも反復される。原作はアメリカ人小説家エドワード・アシュトンが2022年2月に発表した「ミッキー7」(3年ちょっとで映画化・劇場公開というスピードにも驚かされる)。
ざっくりくくるなら、ブラックユーモアの効いたSFコメディだろうか。SFやファンタジーのファンなら、過去の傑作・話題作を想起させる場面に出会うたび、にやりとさせられるだろう。本作の肝となる空想科学のアイデアである人間の身体だけでなく記憶もコピーする技術は、クローン技術をさらに発展させたものと位置付けられるが、フィリップ・K・ディック原作でタイトルもずばりの映画「クローン」や、ダンカン・ジョーンズ監督のデビュー作「月に囚われた男」などを思い出させるし、人間扱いされない“使い捨て”の存在が宇宙での過酷な仕事に従事させられる点では「ブレードランナー」も近い。
惑星ニヴルヘイムの先住種族であるクリーパーについては、監督自身が「風の谷のナウシカ」をインスピレーションの1つに挙げている。地球外生命体とのコミュニケーションに関しては、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作「メッセージ」も思い出した。
大航海時代にヨーロッパ人がアフリカや南北アメリカで繰り広げた植民地政策(征服と収奪、先住民族の大虐殺や奴隷化)を宇宙時代に再現させたような地球人の蛮行は、「アバター」シリーズ2作でも見られた。「アバター」ではまた、ネイティリがジェイクを抱きかかえる構図がミケランジェロの彫刻「ピエタ」を再現していたが、これとよく似た構図が「ミッキー17」でも反復される。人間の業を引き受け命を落としては復活するミッキーに、イエスを重ねるキリスト教圏の観客も多いのではないか。
独裁者的リーダーがアメとムチで派遣団の人心をつかもうとするあたりは、ポール・バーホーベン監督がアメリカ的愛国主義を皮肉った「スターシップ・トゥルーパーズ」に通じる。「ミッキー17」の開拓団のリーダーであるマーシャルの優生思想は当然ヒトラーを想起させるものの、トランプの時代にも重なって見える。民主党支持者で反トランプ発言でも知られるブラッド・ピットが製作総指揮に、彼のプランBエンターテインメントが製作会社に名を連ねていることと、米国の政治情勢からの影響が少ない外国人監督が起用されたことも、けっして無関係ではないだろう。
ポン・ジュノ節が炸裂する
微妙な評価の人が多いようだったので観るのが遅れてしまった。これは...ポン・ジュノ節が炸裂する秀作じゃないか。
SFになっても、格差社会への痛烈な風刺と人間の愚かさ、欲望、理性の白々しさ、底辺で不幸を被ることの暗さや悲しみを、ユーモアを交えて描く上手さは健在。むしろ進化し磨きがかかっている。
ジャンルを横断しつつ社会を冷静に見つめる視点が、植民地を目指すハードSFの載せて描かれる、なかなか大人向けな映画だなと思う。
「バットマン」、「テネット」のロバート・パディンソンとは別人のよう。ミッキー17とミッキー18その他との芝居の違いも面白い。役者は凄いなと思ってしまう。
クローン技術と死の概念を問い直しつつも、深刻になりすぎない、コメディになりすぎないトーンになっているバランスがお見事。
人は様々な困難に出会う
面白くは観たのですが‥
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
(レビューが溜まっていたので短く)
ポン・ジュノ監督の今作の映画『ミッキー17』を結論から言うと面白く観ました。
主人公・ミッキー・バーンズ(ロバート・パティンソンさん)が、借金に追われ、何度でも蘇って命の危険に晒される底辺中の底辺の仕事に従事し続ける様は、現実社会のメタファーにもなっていて、大変共感するところはあったと思われます。
ただ、時折挿入される、主人公・ミッキー・バーンズとナーシャ(ナオミ・アッキーさん)との性的なシーンや、宇宙船の中で独裁的に振舞う政治家・ケネス・マーシャル(マーク・ラファロさん)や妻・イルファ(トニ・コレットさん)の露悪的な描写は好みでないなとは思われました。
ポン・ジュノ監督の韓国での作品は、コミカルさや誇張はあっても、自国の文化に根差したリアリティある描写から外れていない印象を持っています。
しかし一方で、今作の主人公・ミッキー・バーンズの性描写や、独裁的政治家・ケネス・マーシャルの露悪描写は、リアリティあるアメリカ文化からも遊離して、どこか上滑っている印象は持ちました。
とりわけ独裁的政治家・ケネス・マーシャルは、トランプ大統領を意識した印象は持ちましたが、であるならばこの露悪さは、トランプ大統領への批評性のリアリティを逆に奪っているように思われました。
惑星での、どこか『風の谷のナウシカ』の王蟲を想起させるクリーパーのイメージも、『ナウシカ』を超える深さがない分、今作の深みを奪っている感想は若干持ちました。
しかし、それらの弱点は感じながら、作品で描かれている最底辺の現実社会で見えなくなっている人々に光を当てようとする作品の根幹には同意共感する想いもあり、最終的には面白く今作を観ました。
ディズニーによるエンタメ支配に〃抗え〃!
「ミッキー」と聞いて誰を思い浮かべる?
ミッキー・カーチス?
ミッキー・ローク?
ミッキー・ゴールドミル?
世界中、誰に聞いてもミッキーマウスだよね。
冒頭、切断された手首が宇宙を彷徨うシーン、
あれ、ミッキーマウスの手そのもの。
ミッキーが「使い捨てクローン」として何度もコピー(生産)されるのは、ディズニーがエンタメ業界を支配し、そこから生まれる「ディズニー的」な型にはまった映画やキャラクターの量産体制へのメタファー。
(量産型)ザクとは違うのだよ!
ザクとは!
というポンジュノ監督の声が聞こえてきそうな、
ブラック・シニカルSFコメディ。
格差社会を描いてるのは誰でも分かる。
問題はどこにあるのか?
深刻な社会問題や不快な現実を避けるディズニー的(善悪二元論/個より家族やコミュニティ重視/再生と贖罪/奇跡と祝福など〃某宗教的価値観〃が物語の根幹をなし多様性は表面的)な作品が蔓延することは、社会に深刻な影響を及ぼすという問題提起があると思う。
宗教は貧困や弱者に寄り添うものであったけど、歴史を振り返ってみても、また現在も、権力と結びついて格差を肯定している。特に某宗教は、貧しい者は幸いだと言い、この世で抗う気持ちを削ぎ、天国での救済を説く。
天国を夢の国と読み替えたらいい。
GANTZ、ナウシカなど……特に駿さんの影響を強く感じた。駿さんは「楽しませるのだけがエンタメではない」という考えがあり「答え」より「問い」を重視する、ディズニー的な価値観に抗う人。物語の構造的に、ポンジュノ監督と近しいものを感じる。
めっちゃ好き!
支配と服従という関係、力による支配しか理解出来ない人たちは、他者の自由を侵略してはならないという当たり前の倫理観も無ければ、そうした議論をする能力も無い。ファシズムは宗教団体と一緒になって最終的に人々を不幸にする。
そうした普遍的なことをまっすぐ伝えるセリフと、エッジの効いた演出がすごい。生ぬるいところがまるで無かった。
ラスト。「18ならどうする?」隠れた自分の本心の存在に気づいたミッキー。そして、これまで母に対する罪悪感の象徴だった赤いボタンは、マシーンを破壊する赤いボタンに上書きされる。個人の小さな変化は私たちの大きな希望だ。
もう一つの大きなテーマは包括的な愛。ナーシャはミッキーが生まれ変わるたびに、全てのミッキーを力強く抱きしめる。
カイが「17は私に譲って」と言ったとき、ざけんな!両方私のもんだ!と怒鳴った。
うんうん。私にも感じの良い時の自分と、ネガティブモンスターになった自分がいるけど、そんな私を「両方オレのもんだ!」って怒鳴っほしいわ、脳内彼氏に。だって全部自分だもんね。
うっとりするようなラブストーリーでした。
SF仕立てのブラック・コメディでありながらも「人間らしさ」とは何な...
SF仕立てのブラック・コメディでありながらも「人間らしさ」とは何なのかを真っ向から描いている作品でした。
「人間」を描くにあたり、アメリカ人とは違う監督の持ち味も存分に発揮されており、卑劣な友人、自己中な統治者、美食のために他を顧みないファースト・レディ、すぐ感情的になる彼女など、アメリカ映画では中々お目にかかれない魅力的な人々がしっかりと描かれておりました。
そんな中にあって1番目を引いたのが主役であるミッキーを演じたパディンソン。
イケメン枠の役者であるはずの彼が、白目を剥いたり、ゲロを吐いたりとメチャクチャな扱いを受けてます。
パディンソンはイケメンである事を忘れてしまったかのような姿を連発して、観客にもすぐにそれと分かる程の「情けない人物」をきちんと表現しておりました。
同時に彼は「気の荒い人物」も演じており表情の違いだけでそれと分かる演技を披露していました。
凄い方ですね。
ただSF映画としてはやり尽くされた感じが否めなかったのも正直なところ。
芋虫のような異生物が可愛らしく見えてくるのも宮崎アニメで味わい尽くしてますもんね。
個人的にはSFに仕立てた必然性とオリジナリティが欲しいと感じました。
リプリント装置に対する結末に異議有り!
映画のラストの方で、宇宙船の乗組員全員の一致により、リプリント装置は破壊される。
それには理由があって、事故により、この宇宙移動計画遂行者のオーナーが死んでしまい、厄介な奴が居なくなって、みんな清々したと思っていたのに、リプリント装置で蘇ってしまったから、こんな奴を蘇らせる装置は破壊しちゃえーってノリでそうなったんだよね。
初めから、このリプリント装置の存在について、作者はとても否定的なんだなぁ。
しかし、地球外の宇宙に飛び出すなら、この様なリプリント装置やクローンマシンは必然なのです。目的地や宇宙船内での生活は、未知の要素が膨大で、人間が順応できるかは未確定で、ましてや懐妊し、体内で成長させ、無事に生み出す事ができるなんて事が地球に居る時の様に当たり前できると考えているとしたら、それは、甘いんだなぁー
地球を飛び出す前に、既にクローンを数体作り、凍結して宇宙船に装備して置くぐらいでないとね。
まあ、この地球の人類は、遠い宇宙に飛び出す前に、月面で色々調査、研究するだろうから、クローンの必要性も大いに学ぶだろう。
こんなリプリント装置が発明されたら、きっと破壊はしないと思うよ。
底辺の先の未来
主人公が陥る底辺の先の未来。
その死を受け入れつつ転生する人生により人間がもつ澱んだ欲望が削ぎ落とされる点は周りの欲望だらけの人間との振れ幅があり笑える。
また進んだ先で出逢う未知の惑星の生物も、何処となくモフモフ感が感じられ愛らしい。
ただアクション要素は物足りなさを感じた。
この監督は人間たちの陰湿な欲望を描き、それを上手くコメディへと昇華させる手腕は素晴らしい。
金太郎飴ではない
◉前世も現世もない
宇宙の果て、希望は幻で絶望は現実だが、希望を現実っぽく重たく見せてくれるマーシャルとイルファの宗教家のカップルが話の一方を仕切る。マーシャルが次第に悲壮な雰囲気さえ醸し出していくのが愉しく、お構いなしで創作ソースに熱中する妻の異常ぶりからも、目が離せない。
もう一方は借金取りから逃れるために複写人生を送る青年。マルティプルは汎用性の高い危険な技術として禁じられたが、エクスペンダブルと言う隙間産業的な手法を限定的に認めさせる。ミッキーはそのコピー人間のエースになって、必死に前世を振り切り、現世を死をもって全うする訳だ。
◉見た目ではない
三つ目の仕切りは、もちろんクリーピー。最初のシーンでは人に襲いかかるが、やがて不気味な生き物が、生命の尊厳を象徴する愛の存在だと理解される。しかし吊るされた子どもは、ナウシカでない物語ならば惨殺されることもあろうかと、ハラハラした。
物語の中でクリーピーがエイリアンではなく、優しく柔らかな生き物であることが分かったこと、血を流しゲロを吐くミッキーの苦悩を感じる恋人や仲間が現れたことで、まず上にのし掛かろうとするものを取り除かねば! と皆が気持ちを一つに出来た。
◉生きてはいない
ポスターにズラリと並んだミッキーたち。どれもこれも全く同じ顔したダメ野郎。身勝手優先の人類にすれば、どこをとっても、便利な金太郎飴の一個に過ぎない。飴も観念しているのだ。
しかしミッキーの往生際を悪くさせるナーシャが現れる。ナーシャは彼を真底愛して、体位の工夫までしてくれる、夢のようなパートナーだ。彼女が現れたことで、ミッキーは唯の血塗れの形而下野郎から、(ミッキー18と共に)色々なテーゼに揉みくちゃにされつつ形而上男になって、話は長引くことになる。
未知との遭遇
借金取りから逃げるため、宇宙へ逃亡した男(ミッキー)の物語。宇宙船は火星への移住を目論んで進む。その中での実験にミッキーは使われる。そして、死亡してしまった場合は、身体を複製され、記憶はその身体へ転送される。何度も危険な実験をして、何度も死ぬミッキー。火星では、クリーチャーが平和に暮らしていたが、人間はこのクリーチャーを退治しようとする。人間対クリーチャーの対決はどうなるのか…。
セリフが最小限になっていて、字幕を追うのに疲れなくて良い。ストーリーもシンプルなため頭を使わずに観ていられる。
ポンジュノ作品は、パラサイトやグエムルを鑑賞したが、近いものを感じる。生々しい人間の生活と独特なクリーチャーの描写など。
物語序盤の人体複製や宇宙船内の先進的な雰囲気から、火星での原始的な虫のようなクリーチャーの登場まで時間的な振れ幅を大きく感じる。
結果的には、進み過ぎた科学技術が古代からの生物に悪影響を与えて、それらから反逆を食らって、反省して元に戻るパターンで終了する。
設定としては複製され続ける男という点で奇抜であったが、ストーリーとしては、よくあるパターンに落ち着いてしまったなという印象。バッドエンドを期待したわけではないが、後半にもう一捻りが欲しかった。
本作は、パラサイトのような最後まで何が起こるかわからない人間味あふれるホラーではなく、未知の生物と対決するアクション映画の要素が強くなっている。
イマイチハマらなかった
ポン・ジュノ監督ってことで期待しすぎたW
それでいいんか、とは思う
「TENET」でロバート・パティンソン氏を知り、過去も含め出演作を観てきましたが、やっぱりすごい!
17と18は全く同じ容姿なのに、見分けるのが全然苦じゃないくらい顔が違う。
生い立ちから考えると、17のようなちょっと気弱で、人生に疲れてて、常に周りの顔色を窺っているような性格が基本のミッキーだと思うけど、18のハバネロミッキーはどういう変異だったんだろうか。
ちょっとうざい個体もいたようなので、せっかく複製(リプリント)という設定があるならそういうとこも観たかったな。
18は最後自爆しますが、「TENET」のニールといい、こういう役が似合う!
もう少し18の心境の変化を描いてほしかったところでもあるけど、これ以上長くなったら逆に無理かもしれないなと思いました。
最終的には教祖たる夫婦をやっつけて、リプリントは禁止され、先住民とも仲良くなってハッピーエンド!なわけですが、個人的にはそれでいいんか?っていう。
というのも、教祖様に従っていたとはいえひたすらリプリントを繰り返して、ミッキーを酷使していたわけですが、そのへんの科学者や職員たちには何もなく。
「何分後に皮膚が焼け爛れ、
何分後に失明し、何分後に死ぬのか知りたい」
ミッキーの手がちぎれても、笑いながら「おいおい見たか?」なんて話してるシーンもあったけど、これも相当、気持ち悪い。
誰もが「死ぬってどういう感じ?」とミッキーに聞く。
それが気になるのは分かる。
でも自分ではやらない。だって怖いから。
それが何故、ミッキーに当てはまらないと思うのか。
リプリント装置をミッキーに爆破させて、よかったね、なんて周りが笑っている気持ち悪さ。
それを使ってミッキーを量産していた人たちが何を言ってるんだ。
少なくとも劇中では何の葛藤もしてなかったくせに。
気になるならリプリントされてみたら、と言わないミッキーは優しいですね。
どうせ悪がやっつけられるなら、船員ともども船自体の爆破くらいまでやってほしかったな〜なんて思う自分もいますが、ミッキーの性格からしてもそれはしなさそうなので、これはこれで良かったのかも。
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