「蜜蝋のキャンドルを買いました。部屋でほんのり香る明かりを見つめながら、このレビューをしています。」ミツバチと私 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
蜜蝋のキャンドルを買いました。部屋でほんのり香る明かりを見つめながら、このレビューをしています。
長い映画の終わりには
アイトールがミツバチの巣箱をひとつひとつ、コツンコツンと叩いて回る。それは
「自分の新しい誕生をミツバチたちに告げる」という、ドキドキするシーンです。
アイトールがルシアであることを、ミツバチに打ち明けているのです。
お母さんとお兄ちゃんが森の中で「ルシアー!!!」と心の底から、ひと目など構わずに大声で叫んでくれたから、
ベッドの中のルシアは、ついに初めて形相がほどけて、柔らかい微笑みになっていたよなぁ・・
・ ・
あの「巣箱へのノック」は、
実は「葬礼のための蜜蝋を採るためのサイン」でもあったのだから、僕はもうこの子はダメなのかなと
本当に、映画館のスクリーンの前で、うつむきながら、泣きそうになりながら、
固唾をのんでいたのです。
ルシアが死なないで
本当に良かった。
・ ・
自分のジェンダーを打ち明けられない苦しみに、ひとりの子供が死を選んだので、
監督はこんなことがあってはいけないのだと強く願って、この映画を作ったのだと。
東座の合木社長の上映前の、腹の底からの挨拶でした。
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追記
長い長い追記です。
【性自認について】
「男を選ぶ」のか、
「女を選ぶ」のか。
これは無理をして誰かに合わせることはしないで、「ノンバイナリー」でいいのではないかー
僕は、もう、そう思っているのだ。
最近の通販のカスタマー登録は
[ 男性・女性・その他・回答しない ] の4項目から選べるようになっている。
ついにいい時代がやってきたものだ。
性自認と、いわゆる「おネエ」とか「女装」の関係について、僕はずっと考えているのだけれど、それが、つまり、
「どこまでが本能由来の生来のものであり」、
「どこまでが後天的で、社会から教育された作為的なものであるのか」、
という問題だ。
教育の結果なら、教育のやり直しで誤謬は撤回され得る。
しかし教育の結果でないならば、性自認は何処から湧いて現れたものなのだろうか。
お人形ごっことか、ピンクのランドセルとか。
後天的でないなら、親や社会から引き離されて一切ほかの人間との接触がなかった場合、精巣や卵巣の存在が精神にどのように作用して来るのかが、とても知りたいのです。
昨夜、仕事場でずっとお喋りをした相手はアフリカのタンザニアから来た女の子。
彼女のヘアースタイルは「丸刈り」だったのですよ。
また僕と同じ職場には、日本人で、内股で走る男の子がいる。動作のすべてが「しなって」いる。ぴょんぴょん飛び跳ねながら手の甲を腰のあたりで羽のように広げている、小柄で色白の男子学生。
人それぞれだし、国によってそれぞれだ。
この世界を見渡してみれば、
男たちが主に赤い衣装を着ける部族や、男がスカートを履いて、しゃがんでオシッコをする民族はいくらでも存在する。
英国国王も、ショーン・コネリーも、タイの僧侶たちもスカートを履く。
暮らしの手帖の花森安治もスカートだった。
日本の浴衣だって、あれはスカートに近い風情だ。
また、男どもが留守番をして、子育てと料理は男たちが担い、女たちは野に出て狩猟をするグループなんてのも、実際に有るわけで。
いつの頃から
先進国やら、西側諸国やらでは「男らしさ」とか、「女らしさ」って色付けが、「言葉遣い」や「衣装」や「髪の長さ」で、性別を示す社会の記号になってしまったのか、
僕はそこに大変興味を抱いているのだ。
我が家では
うちの“弟"が、小さいころ、「スカートを履いてみたい」と母に頼んだ。
うちには女の子がいなかったから、母はすぐにミシンを取り出して、“彼"のためにスカートを縫った。
紺地に黄色い星模様が散りばめられたミニスカートで、“弟"は嬉々として表に飛び出して行ったものだが。
うちの母の教えは
「人と違っていい」。
「人と違うほうが むしろいい」。
だった。
【フリードリヒ2世の実験】
赤ん坊に対する「後天的な刷り込み」、つまり「社会から加えられる教育」を完全に排除すると、人間は果たしてどのように育っていくのか・・
これを実験で探ろうとしたのが12世紀のヨーロッパの実証主義者、皇帝フリードリヒ2世だった。
人の心に生じる罪のさまを憂い、
原罪を負う前のエデンの園での最初の人類=アダムとイブが、誰からも教わらないのに、何語を喋っていたのかを、自らの手で確かめようとした賢帝だ。
つまり誰からも教えられずとも、最初の人類は「ヘブライ語」を発していたのかどうかを、フリードリヒ2世は2つにグループ分けした赤ん坊に対しての育児実験で、確かめようとしたわけだ。
( 結果については、ここでは論旨がずれるので各自で検索されたし) 。
【ココ=男性名詞】と、
【ルシア=女性名詞】と。
映画の主人公が求めた「自分らしさ」にはモデルがいる。また、否定したかった自分の姿にも否定する形でのモデルがいる。
男の子扱いを拒んだアイトールの場合は、求めたモデルは女性で、聖ルシアがそれだ。
ココ(スペイン語で坊や)と呼ばれたアイトールが
なぜ髪を伸ばして、シフォンのワンピースを着て、ルシアと呼ばれることを望んだのか?
「聖ルシア」が仮に、スペインではなくてタンザニア育ちの聖人ならば、アイトールは女の子らしくなるためには丸刈りに憧れるのだろうか・・
女の子のようになりたいって、どういうことだろう。
「女の子風の格好」と、(アイトールのおじいちゃんが言うところの)自分で信じて信仰する「心の中の性自認」は一致しなければならないものなのだろうか。
女の子になりたいって何なの?
劇中、本人の苦悩や、家族の戸惑いをスクリーンに観ながら
僕の興味津々は、さらにつのった。
僕の母の教えは
「人と違っていい」。
「人と違うほうが むしろいい」。
だったけれど、はたと気付いたのだ
他人と似ていても、他人とおんなじでも構わないんだよなぁ。
違うかい?
きみ。
最近、車椅子ユーザーの方が映画館での出来事をポストしたことをきっかけに、ものすごいバッシングを受けましたが、「叩いている人々は、自分が車椅子ユーザーになる人生を全く想像できないんだな…」と、背筋が寒くなる思いでした。
人類が(あえてデカい主語を使いますが)、人権という概念を発明したのは、そうした想像力を持って、自分がハンディを持つ事態になってもスポイルされない安心の担保や、結果的に多様性を保存した方が、種としてはバラエティに富んで強くなるという近代の学びからではないかと思うのですが、バッシングしている方たちは、どうも考えが違うようです。
一見、異物の排除は、本能的に抗えないもののようにも思えますが、何を異物と考えるかは、多分に社会や文化的なものに影響されると思います。それを無自覚に肯定してしまうのは、自分の不勉強による拙速さと視野の狭さをさらけ出していると思うのですが、そういった無知も声高に主張すれば、自分が異物だと思うものを排除しないことを「思いやり」や「優しさ」ととらえて「それは、こっちが我慢してやってるから成り立ってるんだからね!」と考えているような人には、ウケがいいのでしょう。
人権を「思いやり」や「優しさ」と結びつけて語ることは、ちょっと罪深いと思っています。そうではなく、人権は、人類が発明し続けてきた知恵として学んでいくことが大事だと思うのです。
自分のレビューで引用した「うちのクラスには女性器を持った男子がいるよ」という発言が自然に出ることのすごさは、ちゃんと人権が知恵として自然に学べる環境になっている彼女の学校のすごさで、そうしたことが描かれているところに希望が見えます。
自分自身も、学びを捨てて獣化する方向に戻ることなく、誰もが少しずつでもより安心して生きられる方向に向かって、少しずつでも進みたいと思っています。
きりんさんの書かれていることから少し(だいぶ?)外れてしまっているかもしれないのですが、つい最近の出来事と絡めて、思ったことを長々と書いてしまいました。すみません。
きりんさんのレビューはいつも読み応えがあって、自分をブラッシュアップさせてくれます。これからも是非共感作でお付き合いください。よろしくお願いします。
sow_miyaさん
あんちゃんさん
〉偏見は、生活していると自然に形作られてしまう部分があるが、逆に、人権感覚は、何もせずには絶対身にはつかない。
(sow_miyaさんの言葉)
〉ひとりの人間の中でも、性自認や性的指向は移り変っていきます
(あんちゃんさんの言葉)
お二人、
コメントありがとうございました。
レビューを読ませていただき、さらにいろいろなことを考えさせていただきました。
あくまでも我々が「万物の霊長」としてのプライドから、“異物"や“突然変異"の存在を、種の存続の安定的持続のための絶対至上命令として、またDNAの要請として、排斥をしたくなってしまう本能の衝動に“不自然に抗う"のか、
(=これ、僕が今までずっと自分の生き方のポリシーとして守ってきたスタンスです)
あるいはその逆に、
我々も自然界の一部なのだから、自分の内に生じる偏見=攻撃本能には、自然にそのままに身を任せるべきなのか、
(=最近僕が気付いた新しい視点)。
そこなのです。
僕は動物生態学もかじったのです。
アルビノの白いカラスを、それ以外の多数の黒いカラスたちは寄ってたかって襲って殺してしまいますし、
魚たちも弱い個体を突ついて死なせてしまいます。
そこには善とか悪とか、愛とか可哀想とか 無いんです。無論道徳も。
彼らにとっては、異物を絶やすことは、種の保全のための素朴なプログラムなのですから。
本当に、人間ってなんなんでしょう。
どう生きることが正しいことなんでしょう。
たくさんのこと、考えさせられた映画でした。
コメントありがとうございました。
共感ありがとうございます。きりんさんのご指摘通りジェンダー認識はその社会、文化のあり方によって左右されると思います。万国統一のトランスジェンダーの具現化というものはないのです。それと同じく一人の人間の中でも性自認や性的指向は移り変わっていきます。この映画でも、主人公はまだ幼いので同性愛者なのか異性愛者なのか、はたまたそのどちらでもないのか、性的指向ははっきりしません。ひょっとすれば女性名で呼ばれることだけで本人のwell-beingは完成してしまうということだってありえます。そういう含みも持たせて多様性ということを考えさせる作品なのでしょうね。
共感ありがとうございました。
きりんさんのレビューは、いつも考えさせられます。
性自認と性的指向の問題と、その文化での表象的なものの影響について、なるほどと思いました。
あと、違いの話、さすが、きりんさんのお母様だと思って拝読しました。
私は、「違わなければいけないわけじゃないけれど、違うのっておもしろいね」というスタンスを大切にしたいと思ってます。