赦しのレビュー・感想・評価
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いじめに繋がる様々な事を考えさせられる
いじめの原因にも無数のパターンがあるにしろ、親、環境等の見直しで未然に防げる事が多々あるし、今後の学校等のいじめも何かが起きる前に対処していけたらいいなと思わせられた作品でした。
、、と同時にどうにもならない事もあるのも現実なのだとも。。。
赦し
細かい部分、否、物語の根幹を成す部分に???な所はある。観る人によっては、そこが気になって仕方がない向きもあると思う。しかし、敢えて私はそこに目を瞑りたい。
決して交わることのない、加害者と被害者の目線。そこに真正面から挑もうとした姿勢は好ましい。驚くべきは、MEGUMI演じる被害者の母の心情の揺らぎ、振幅の激しさである。それをもれなく表現する彼女の卓越した演技には目を見張った。
正直言って、加害者へは「罰」のみを与えればよいのか「更生」に重きを置くべきか、私は答えを出せずにいる。カツは一度は加害者を刺し違えようと決意した。なにが更生だ!? しかし彼にはできなかった。ここで事を成し遂げて何になるのか? やりたらやり返す。加害者と同じではないか? 短い時間、加害者の謝罪の言葉は殆ど耳に入っていなかった筈だ。
刺し違えようとした、は私の解釈の間違いかもしれない。 カツは、ただ己の怒りを噛み殺す為にガラスの破片を握りしめたのだろうか?人を殺害する心と体の痛みを実感したかったのか?
それはタイトル通り「赦し」なのである。カツは加害者を赦す事で自らの心を晴らした。いや、いくら泣いても、悔やんでも娘は還って来ない。忘れる事しかない。カツにとり加害者を赦す、赦さないなど、どうでも良い事になったのだ。
殺された女の子の父親がややお酒に溺れてる設定なんだけど、部屋の一番...
殺された女の子の父親がややお酒に溺れてる設定なんだけど、部屋の一番目立つとこにCINZANO(イタリアの養命酒みたいなお酒)のポスターをおしゃれな感じで貼ってるにの笑ってしまった、酒乱キャラがもし部屋にいいちこのポスター貼ってたらやっぱ笑いどこかなっておもっちゃうし…
あと父親の葛藤が「娘がそんなことしてしまったのか(受け入れ難い)」ではなく真っ先に「娘は絶対にそんなことするはずない」っていうある種おめでたい親心でちょっと呆れてしまい感情移入できず
重そうに見えてうすっぺらい
見ていていくつか疑問が沸いてその疑問が疑問のまま終わりました(僕の鑑賞力がないことも原因です)
①加害者はもとの裁判でなぜいじめのことを話さなかったのか、そして、7年たってなぜ話す決断をしたのか。心の動きが全く分からない。
②藤森さんが家族を失った悲しみを理解できると言っていたが藤森さんは過去に何があったのか、そして、MEGUMIさんとどういう経緯で結ばれたのか。
③いじめがあった裏付けはどうやってとったのか、加害者の供述だけで認定するはずがない。いじめについて軽く扱いすぎでは?
その他、司法考証ちゃんとしたのでしょうか。
もちろん裁判を忠実に再現すればいいというわけではありませんが、あまりにも現実からかけ離れていると大きな違和感になります。
ベテランっぽい弁護士のバッジが若手弁護士ばりにピカピカに光ってるのは明らかにヘン。
何に対しての赦し・・なのか分からない
リアルを望んだのだろうと言う事は分かる。
緊張感もありいいところもあるのだが、結局何の赦しなのかが未だもってわからない。
7年間私は耐えたので本当の事言うから赦して・・なのか?
殺された娘の親は本当の事がわかったから赦したのか(決して殺したことを赦すわけではない)
何を浮き彫りにしたかったのかがいまいち伝わらず、もう一息の映画。
人を赦さないならば、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦さないであろう。(マタイによる福音書)
殺人を犯した夏奈を演じる松浦りょうの存在感がすごい。あの目が、この事件にかかわる悪い感情のすべてを呑み込んでしまうようだ。たしかに、なぜイジメの事実をはじめに言わなかったのか、なんで被害者加害者がサシで会えるのかという疑問はある。あるが、そのモヤっとしそうなこちらの気持ちを、あの目が吹き飛ばす。チラシを見た時は、なんて恨みがましい目つきなのだろうと思った。しかし、この後悔とも決意ともとれる強い視線のにある感情が、自分へ向けているものだと気付いた時、どうしても彼女を助けたくなった。そして、彼女が殺害に及ぶそれなりの理由があるのに、いまだ他人を責めることなく、自責の念に支配されていることに解放してあげたくなった。だけど、おそらく、もう彼女の感情というものは崩壊してしまったのではないだろうか?なぜなら彼女は、あの表情を終始変えることがなかった。もう、あの感情でしか生きられないのだ。気の毒としか言えない。
それに比べて、被害者の父親・克の真実と言ったら。戦後補償を十分受け取っていながらいまだいまだに謝罪要求ばかりしてくる隣国と同じで、なんだよお前こそ被害者ビジネスまがいのことしてんじゃんかよ、と評価一変なのだが、この克の心の葛藤こそが、この映画の眼目なのだろうと気付いた。その証拠に出演者の一番初めにでているし。この映画は娘を殺された父親の物語なのだ。「赦し」は赦されるかどうかではなくて、赦せるかどうか。チラシに、振り返る松浦りょうの画があるからと言って彼女がメインなのではなく、あの目の先には親父の克がいて、あの目と目が合っている克の視線、風景なのだ。克は裁判を通し、彼女の罪を赦すことができるかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみろ、とでも言われているわけだ。そして、自分の名誉も生きることもすべてを捨てた風貌の彼女を前にして、欲を捨てきれない自分よりも人間として数段上であることを対面でまざまざと思い知らされるのだ。
裁判後、穏やかになってしまった克の変化は、彼女や「自分」に負けたからではなくて、彼女にも娘にも元妻にもふさわしい人間でありたいと気付いたからからだと思う。そうであってほしい。
映画のタイトル「赦し」の副題が「december」なのはなぜなのかがすごく気になるのだが。
上映時間
今作を真摯に映像化するには余りにも短すぎである 勿論、90分以上の上映時間は一般的鑑賞者の集中力の限界という生理現象は理解出来る しかし哲学的内容ならば、もう少し整理しても良かったのではと・・・
プロットそのものは大変意義のあるテーマである そして各配役の性格設定の緻密さにも舌を巻く
映画はもっと自由であって良い 今作を応援する理由である
【"懲罰と更正。"法廷劇を軸に被害者の元夫婦と加害者の女性の心の揺れと変遷を描いた作品。鑑賞側に様々に事を問い掛ける作品でもある。】
- 2000年代になり、少年法の厳罰化が進んでいる。だが、少年達が犯罪を犯す理由(社会不適合、ネグレクト、虐めetc.)の改善はなかなか進んでいない。-
◆感想
・娘を殺害されてから、酒浸りの日々を送る克(尚玄)と元妻澄子(MEGUMI)の加害者である夏奈の再審が始まってからの関係性の変化。
- MEGUMIさんの見応えある演技に、瞠目する。娘を殺害された母の気持ち。-
・夏奈の弁護団の依頼により、澄子は夏奈とアクリル盤越しに話すシーン。そこで、夏奈が話した事。それは、夏奈が母親から虐待を受け、父はなく、学校でも澄子の娘達から酷い虐めを受けて居た事である。
- 澄子はそれを聞き、事実かどうかは確認せずに、場を去る。推論であるが母親の直感として理解したのではないか?-
◼️今作品を確かなるモノにしているのは、加害者の夏奈を演じた松浦りょうの哀しくも切ない表情である。この女優さんが漂わせる雰囲気は尋常ではない何かがある。
・そして、克も夏奈にアクリル盤なしに、会う事を夏奈の弁護士に依頼する。
- あの面着設定は有り得ないが、鑑賞続行。夏奈は克に彼の娘から受けて居た仕打ちを聞き、克は、袖口に隠して居たガラス片を握り締め、場を去る。-
<裁判官(真矢ミキ)が下した判決。懲役一年、執行猶予三年。愛した娘が虐めの主犯格だった事実を受け入れ、ガラス片を海に流す克の姿。そして、二人は十字架の様な形の道を少し離れて歩くのである。
あの判決は、夏奈だけでなく、克と澄子の人生の再出発をも意味しているのではないかな、と思った作品である。今作品は、重くて深くて哀しい映画ではあるが、観る側に様々な事を問いかけて来る作品でもある。>
脱・代理戦争
テレビのニュースやいわゆる「法廷モノ」なんかを見ていると、日本の法廷というのは本当に代理戦争としての側面が強いなあと感じる。当事者たちが互いの偽らざる言い分をぶつけ合っているというよりは、彼らをスポンサーに、検察官と弁護士というゲームプレイヤーが試合を行う、といった趣だ。
もちろんここには功罪があると思う。法廷というゲームに知悉していない者が出しゃばって自滅するよりは、全ての戦略をプロに一任したほうが「勝率」は確実に上がる。ただ一方で、当事者たちの人生を大きく変えうる可能性のある場において、「勝つ」ことだけが本当に重要なことなのか。あるいは不明瞭な物事の正邪を確定する場で、検察官や弁護士の指示通りに嘘や方便を弄することに何の後ろめたさも感じないのか。
かといって法廷で偽らざる本音を吐露した者の末路は悲惨だ。たとえば濱口竜介『ハッピーアワー』で離婚裁判に臨んでいた妻は、「どう言えばいいかわからない」という繊細微妙な心境をそのまま口にしてまったことで明らかに不利な状況に追い込まれた。一方、冷静沈着かつ合目的的に裁判をこなした夫はといえば、独りよがりで暴力的な本性の持ち主だった。
さて、代理戦争と化してしまった法廷というゲーム空間において、当事者たちが真の意味で主体性を取り戻す方法はあるのだろうか?
本作における「証人を降りる」という行為は、一つの可能性なのではないかと思った。それは当事たちに許された数少ない主体的選択だ。
澄子は今の夫・直樹と前の夫・克との間を曖昧に揺れ動く中で、人間というものがそれほど強い生き物ではないことをフィジカルに実感していく。ゆえに彼女は夏奈が犯した罪に対して憎悪以外の感情で向き合うことができたし、自分の娘が実は夏奈を苛めていたという夏奈の証言も信じることができた。そして澄子は証人を降りる。弁護士や克の戦略に従って実感の伴わない勝利を得るよりは、「何が正しいのかわからない」という自分の嘘偽りない本心を優先する。
克は証人を降りた澄子に対して「お前は相手側の弁護士の策略に踊らされてるだけだ」と非難を浴びせるが、法廷の「0か100か」な二元論的力学に染まりきり、憎悪以外の動機を見失ってしまった克のほうがよほど踊らされているといえる。彼が自室で生前の娘との動画を見直して涙ぐむシーンなどは、失われてしまったものへの愛惜というよりはむしろ自身の憎悪を再燃させるための自傷行為のように思えた。
しかし最後には彼もまた憎悪を振り切る。憎悪と赦しの間をギリギリまで彷徨し続けた果てに、ほとんど無理やり赦しの側へと飛び込んだ。そのためいくぶんか血の代償を支払う羽目にはなったが、面会を終え、証人を降りた克の表情はどことなく晴れがましかった。
執行猶予付きの実刑判決が下った後、克は覗き窓から刑務所に連れ戻される夏奈の様子を伺う。ふと克のほうを振り返った夏奈が浮かべていたのは、喜怒哀楽のどれからも隔絶された曖昧模糊な表情だった。
人の気持ちを二元論で推し量ることはできない。それでも何らかの決断を下さなければいけないのが法廷という場だ。そうした不条理と相対せねばならなくなったとき、重要なのは自分自身を見失わないことだ。検察官や弁護士たちの掲げる「戦略」から適度に身を置き、他ならぬ自分自身の立ち位置をそこに策定すること。
それさえできれば、どうであれ齎された結果を受け入れることが出来るんじゃないかと思ってしまうのは、さすがに性善説が過ぎるだろうか?
たとえばあの聡明な女性裁判長が見るからに悪辣で不誠実な冷血漢だったとして、澄子と克は本当に証人を降りていたのだろうか?とか。
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