「人を赦さないならば、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦さないであろう。(マタイによる福音書)」赦し 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
人を赦さないならば、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦さないであろう。(マタイによる福音書)
殺人を犯した夏奈を演じる松浦りょうの存在感がすごい。あの目が、この事件にかかわる悪い感情のすべてを呑み込んでしまうようだ。たしかに、なぜイジメの事実をはじめに言わなかったのか、なんで被害者加害者がサシで会えるのかという疑問はある。あるが、そのモヤっとしそうなこちらの気持ちを、あの目が吹き飛ばす。チラシを見た時は、なんて恨みがましい目つきなのだろうと思った。しかし、この後悔とも決意ともとれる強い視線のにある感情が、自分へ向けているものだと気付いた時、どうしても彼女を助けたくなった。そして、彼女が殺害に及ぶそれなりの理由があるのに、いまだ他人を責めることなく、自責の念に支配されていることに解放してあげたくなった。だけど、おそらく、もう彼女の感情というものは崩壊してしまったのではないだろうか?なぜなら彼女は、あの表情を終始変えることがなかった。もう、あの感情でしか生きられないのだ。気の毒としか言えない。
それに比べて、被害者の父親・克の真実と言ったら。戦後補償を十分受け取っていながらいまだいまだに謝罪要求ばかりしてくる隣国と同じで、なんだよお前こそ被害者ビジネスまがいのことしてんじゃんかよ、と評価一変なのだが、この克の心の葛藤こそが、この映画の眼目なのだろうと気付いた。その証拠に出演者の一番初めにでているし。この映画は娘を殺された父親の物語なのだ。「赦し」は赦されるかどうかではなくて、赦せるかどうか。チラシに、振り返る松浦りょうの画があるからと言って彼女がメインなのではなく、あの目の先には親父の克がいて、あの目と目が合っている克の視線、風景なのだ。克は裁判を通し、彼女の罪を赦すことができるかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみろ、とでも言われているわけだ。そして、自分の名誉も生きることもすべてを捨てた風貌の彼女を前にして、欲を捨てきれない自分よりも人間として数段上であることを対面でまざまざと思い知らされるのだ。
裁判後、穏やかになってしまった克の変化は、彼女や「自分」に負けたからではなくて、彼女にも娘にも元妻にもふさわしい人間でありたいと気付いたからからだと思う。そうであってほしい。
映画のタイトル「赦し」の副題が「december」なのはなぜなのかがすごく気になるのだが。