「巨匠イオセリアーニのデビュー短編。飲んだくれ亭主と洗濯女が美術館で目にしたものとは?」水彩画 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
巨匠イオセリアーニのデビュー短編。飲んだくれ亭主と洗濯女が美術館で目にしたものとは?
イオセリアーニ映画祭で、『四月』とセットで上映。
彼が映画学院時代に撮った、デビュー短編らしい。
へそくりをネコババして逃げだした飲んだくれの亭主を、洗濯女の妻が追いかけて入り込んだ先は私設の美術館。ガイドツアーに紛れ込んで移動する二人が目にした意外な絵画とは?
奥さんのゾンビまがいのメイク(ちょっとイコン画にも見える)やふたりの展開する無表情のドタバタは、イオセリアーニが高く評価するバスター・キートンの無声映画を思わせるところがある。
画面奥(もしくは手前)に走る夫、いつの間にか待ち伏せている奥さんと、動線が「縦」なのが面白い。斜めの分割線と画面の奥行きを利用した巧みな構図取りと、流麗な視線誘導が良く利いていて、とても学生の作品とは思えない。
OPの二重唱も、おそらく『田園詩』同様、映画の内容とリンクしているのだろう。
美術館で夫が思わず引き込まれるロダンの『考える人』の複製彫刻や、ミケランジェロの『最後の審判』の地獄墜ちの男の部分複製画は、いずれも頬に手を当てた苦悩する精神を表わした像で、美術史上は「メランコリー(憂鬱質)」として知られる図像の類型に属する(最も著名なのはデューラーの版画『メランコリア』か。ちなみにこのポーズは冒頭で亭主がとっているポーズとも呼応している)。
口をダッチワイフのようにあけたキリストやシーシュポス、プロメテウスとおぼしき人物のパロディ画も、「メランコリー」図像の延長上に位置する、精神的・肉体的な苦しみと永劫の贖罪を描いた作品だ。さらには、頬に手を当てた「メランコリー」を宿す肖像画が次々と夫の前に現れる。
憂鬱に囚われ酒へと逃避する毎日を送る亭主は、絵画作品の放つメランコリーと激しく呼応し、いつしかアートの世界へと引き込まれていくのだ。
美術館の中での、キュレーター・ガイド率いる鑑賞者の一団と労働者夫婦の引き起こす「ミスマッチ」は、単純にモンティ・パイソン的なスケッチとして面白いのはたしかだが、その意味性をさまざまなフェイズに分けてきちんと考えたほうがいいのかもしれない。
一見すると、芸術やアカデミズムの側が小馬鹿にされ、戯画化されているようにも見えるのだが、最終的にこの夫婦者に思わぬ光明をもたらすのもまた、アートの力だということを忘れてはならない。
ソビエト連邦の強権支配ということを考えれば、むしろイオセリアーニのシンパシーは「芸術」のサイドにあるとも考えられる。国によって「労働者」階級に「固定」され、憂鬱質に犯されていた不幸な夫婦が、アートの力で「モノの見かた」の変革を経験し、幸せを手に入れるまでを描いた物語ととらえれば、本作の勝利者はむしろ「芸術の女神」だともいえる。
一方で、差し棒で作品を声高に解説し、価値観を押し付けてくるキュレーターこそが共産主義の恐るべき手先であり、理想と幸福を騙る偽りの言質で労働者夫婦の「洗脳」をはかって、それを夫婦が受け入れてしまう、げに恐ろしき物語だととらえることもまた可能だろう。
その場合、ラストで描かれる幸福は、共産党が労働者に呈示する偽りのヴィジョンであり、主人公たちは知らないあいだに、物の見事に「体制に飲み込まれてしまった」と解するべきかもしれない。
あるいは、芸術作品をもてはやす連中のスノビズムとうさん臭さ、簡単に「説得力ある解説」になびいてしまう夫婦者の愚かさの双方は、イオセリアーニ一流の「含羞」と「韜晦」の現われであり、ここには「映画芸術を通じて観客を幸せに騙す」こと――自分が映画を通じてやろうとしていることへの「自負」と「後ろめたさ」が表れているのかも。
ちなみに、二人目に登場するキュレーター・ガイドの男こそが、イオセリアーニ本人である。
なんにせよ若きイオセリアーニは、美術館というアカデミズムの牙城に貧乏で殺気立った労働者夫婦を放り込むことで思いがけない異化効果を産み、さらには思いがけない(あまり誰にも予測できなそうな)ラストへと映画を導いてみせたのだった。