君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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巨匠の頭の中を覗くメタ的な面白さ
映像としても物語としても開始数分が一番引き込まれました。ファンタジーが苦手なこともあり、後半はかなり退屈してしまいました。
過去作のセルフオマージュは意図的なものだと思いますが、ストーリーのプロット的にも人が一生に創り出せる物語の数には限界があるのかな、と感じてしまいました。(えらそうにすみません)
評価するとすれば、作品のメタ的な魅力です。
・巨匠の世界観
長年日本のアニメを牽引してきた巨匠が今何を思うのか。自分の人生への回顧や死生観、これからを生きる人への想いは存分に読み取ることができました。
・言わずもがなの映像美
ストーリーに没頭できない分、作画や背景、音などのこれまでにスタジオジブリが大切に培ってきたであろう技術だけでなく、戦火のシーンなど新しい表現への挑戦に魅了されました。そういう意味では映画館で鑑賞する価値があると思います。
(どうでもいいのですが、古い家具の扉の閉まる音が実家のそれすぎてなんでもないシーンでツボってしまいました)
事前予告なしの公開スタイルについては、長年私たちを魅了してきたスタジオジブリと宮崎監督への期待値の高さは尋常なものではないので、よほど画期的な内容でない限り向かないのではないかと思います。
今後、監督が積み木を渡したのであろうエンドロールに名を連ねる皆さんが創り出す新しい世界を楽しみにしています。
自分の中の宇宙を冒険する傑作ファンタジー
自分の中の宇宙を冒険する宮崎駿集大成の傑作冒険ファンタジーです。
内容は極めてユング心理学的に感じました。少年が無意識世界に潜り込みの影やアニマとの対話を通して成長していく冒険物語です。
それら、集合的無意識世界の住人が宮崎駿の生み出すキャラクターで描かれている点がらしいなぁと感じました。
絵の中に埋め込まれだ情報量ハンパなく多いジブリ映画の傑作です。キャラクターの動きや、さまざまなメタファーにそれらが現れています。そして、主人公は明らかに宮崎駿そのものであり、彼の心の自叙伝的映画でもあるとおもいます。
まるでスルメ映画であり、見る人のアゴの強さが試されている映画ともいえます。読み解ける人ほど楽しめる作品ですが、そうでない人は消化不良になり、評価がわかれるのでしょう。
ただし作品のファンタジー要素も強いため、舐めるだけでもその片鱗を感じることはできますが、高学年の小学生以上が対象のように感じます。
主人公を自分に重ね合わせることで、さまざまなカタルシスを体験させられ、自分の人生や、この宇宙の奥深さを、教えてくれる傑作でした。
この作品は観る人の心の解釈に委ねられます。それゆえに、先入観を排除するために事前に宣伝ができなかったのでしょう。鈴木敏夫の凄さも感じる部分でした。
悪意のない心で、積み木を積み上げ、この世界のバランスを保つことを引き継いでほしい。
君たちはどう生きるか❔
これは、私たちへの遺言ですかね。
わかりやすく、消費されるコンテンツが多い中、歴史的名著のごとく、映画館で一度きりの体験として、観るべき映画です。
「弱さ」に向き合う
正直、おもしろくはなかったです。観終わってガッカリしました。
もう宮崎駿には心躍るようなエンターテインメントは作れないんだな、と。
ただ、本作がどうしてこのような作品になったのかは理解できます。
当たり前ですが、2時間の映画はテーマが多岐にわたっているので、それら全てについて語ると長大な文になってしまうので、一点だけ、自分が最も大事だと思ったところに焦点を当てて書きます。
前半に眞人が自分の頭を石で殴る場面があります。おおきな傷で、出血もかなりありました。これを父親は学校の生徒による虐めだと断定しますが、眞人は転んだのだと嘘をつきます。そういう嘘をつくことで、父親に虐めがあったのだとより強固に思わせるように仕向けています。
これは、自身を「被害者」の立場に置くことで、他人への加害を正当化する行為です。同様の行いは古今東西で見られます。
最近ではロシアのウクライナ侵攻があります。あれはロシア側の主張としては、西側勢力(NATO)の拡大阻止のための自衛行為です。傍から見ればどう見ても侵略戦争ですが、ロシアの言い分としてはそうです。
また、過去にも大日本帝国は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」というスローガンを掲げて日中戦争に踏み出しました。これは、「暴れる支那を懲(こ)らしめる」という意味で、当時、排日抗日運動が盛んであった中国を侵略する口実として、アメリカ参戦後は「鬼畜米英」と並んで遣われました。
そのような国単位でなくても、ネット上における保守界隈では、「既得権益」や「公金で私腹を肥やしている」等の風説を真に受けて、在日外国人や女性、マイノリティへの差別・暴力が横行しています。
被害者ぶったやつの弱者への加虐行為。昔からありましたが、ネットが発達した昨今において、とくに増えている気がします。
なぜこのようなことが起こりうるかというと、加虐者の多くは「弱い」からです。それはどのような弱さかというと、知性のなさであったり金銭の貧しさであったり人によって様々です。
映画本編に戻ると、眞人は親の財力に恵まれ、子供ながらに聡明でもあります。そんな彼が、自分より貧しく、おそらく知性でも劣るような田舎の生徒らを陥れます。
これは母親の死や父親の再婚、戦争の激化、慣れない田舎の土地への不満等々の要因により、眞人の心が弱っていたためだと思います。そのように弱っている人は、本当の原因には立ち向かっていきません。近場で適当な弱い立場の人を痛めつけて、鬱憤を晴らすのが関の山です。
もっとも、眞人がおかれている境遇は眞人本人にはどうしようもないものでもあります。母親の死は変えられないし、戦争も止められません。
しかし、だからといって他人を陥れていいのかというとそんなことはありません。
眞人は、塔の中での冒険を経て成長し、自分がやったことがいかに卑怯な行為であったかを自覚します。ここで、題名の元となった吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と通奏低音が共鳴します。
「弱さ」と向き合い、克服した眞人は「友達」と「本当の家族」を手に入れます。
なんでこんなことを考えたかというと、映画がつまんなかったからです。本作の公開前に宮崎監督作品を全て観返し、「宮崎駿最高!」という状態で臨んだので、そのガッカリは大きかったです。単純な「おもしろさ」の点では、ワーストの「ポニョ」よりちょっとマシ程度の評価です。
ただし、冒頭で申し上げたとおり、なんで本作がこんなふうになってしまったのかは理解できます。
監督の初期作品である「ナウシカ」はエンタメ作品として上質でありながら、その裏に重厚なテーマがありました。僕が宮崎駿監督に期待するのはそのような作品です。
ただ、もうそういう作品ではダメなんだと監督自身が思ったのでしょう。
一般的な観客は、劇場から一歩でたら「あーおもしろかった。さ、このあと何食べようかな」となり、作品を深く読み込もうとはしません。作品を深く考察するのはオタクだけです。
だから、宮崎監督はあえてエンタメに振らないことで、なんなら構成もストーリーもめちゃくちゃにすることで、フツーの観客にも「考えさせよう」としたのではないでしょうか。「よくわかんなかった」という感想が溢れているのが、ある意味でその証左ではないでしょうか。だって、宮崎駿はやろうと思えばいくらでも「わかりやすく」「おもしろく」作れるんですから(あえて言えば、わかりやすくおもしろく、さらに考えさせようとしたのが「ポニョ」で、結果は……)
その目論見が成功しているのかどうかはわかりません。「よくわからなかった人」は、よくわからないまま次の他の作品へ行ってしまうかもしれません。ただ、過去に作ってきたようなエンタメ作品ではもうダメなんだということはわかっていたから、『君たちはどう生きるか』のような作品をつくったのではないか、と思う次第です。
で、だからといって映画『君たちはどう生きるか』が素晴らしい作品かっていうと全然そうは思わない。つまんねえです。僕の願望としてはまたナウシカみたいなファンタジー冒険活劇やってくれ、です。まあ、そういう客が鬱陶しかったのも本作が生まれた原因の一つではあるんでしょうが。
そもそも元となった吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』も好きじゃない。著述家の菅野完がTwitterで「金持ちのボンボンのセン○リ」といっていたけど、まさにそう。インテリが頭の中だけで考えた道徳の本で、僕も読んだ時は全然いいと思わなかったし、今もそう。
だからインテリ中のインテリである宮崎駿が感銘を受けるのはわかる気がする。きっと宮崎さんは幼少の頃に読んでたんだろうけど、数年前に漫画版がでて再ブーム化したときに「これでいける!」と思ったんだろうなあ。
色々文句垂れたりしましたが、観る価値は間違いなくありました。
早くパンフレットを売って欲しいです。
8/12追記
パンフレット購入しました。
お金を出してモノを買う人を馬鹿にしている内容でした。
映画もこういう姿勢で作られたのかと思うと同時にやっぱり何も考えて作ってないというふうに受け止めました。なので上記の感想を撤回し、評価を☆3→☆1に訂正します。
大勢の人が作って、大勢の人が観る映画を、個人的なものにしてはいけません。
ジブリは劇場で見たい
一体どんなラストになるんだろうとわくわく鑑賞。
私たちは人間の勝手で本当に手酷く鷄を扱っているんだから、逆があったって何も言えないよな〜と思ったり、、、
平和な世の中、人と人の繋がり、食、飛行機、船、ジブリで繰り返し感じてきた魅力を映画館でぶわーっと全身で感じ、ああ〜ほんとにもうこれが最後なのかな〜と寂しさもこみあげ、、、
ジブリ!愛!!!
お疲れ様でした。
後ろにナタを隠し持ってる赤いインコのワタクシが感想を述べさせて頂きます。
(囀ってるインコ達は一般人(観客)と解釈してます)
いろんな情報が耳に入って来る前に観てしまおうと思い観てきました。
自分史録&鈴木氏やジブリで育ったクリエイターの方々へのメッセージだったのかな?
70代のほぼ全てを捧げて作り上げたのは感嘆しましたが、考察ありきの展開に少し辟易してしまった。
先日、ジブリパークとジブリ展に行って来て、吾郎氏は「創作」では無くて「調整」の仕事に長けた人だったのだと思った所でした。
個人的には、監督はまだまだ現役でOVAシリーズ6話完結ぐらいで、泥まみれの虎を映像化して欲しいなぁと思う所です。
キムタクさん声優がとても上手になっててビックリしました。
キリコのモチーフは保田道世さんなのかな?
あと何故かビスタサイズにガッカリしてしまった。(ジブリ作品は全てビスタなのに)
音は普通の劇場で鑑賞なので普通でした。
幼い頃から、アタリマエに宮崎駿監督の作品を観て、生きてきて。
私を含めた多くの方が、自分を形成する上での視点や思考に
宮崎監督の作品のイメージや信念が影響され、生きていると思います。
君たちはどう生きるか。を観た感想は宮崎監督への
「ありがとうございました。お世話になりました。」そういった気持ちでした。
ぜひ、多くの方に映画館で観ていただきたいです。
【以下、個人の感想】
子供向けの作品をずっと手掛けられてきて、飛行シーンと空想活劇が得意な
宮崎監督が今、誰に向けて創ったのか。
「君たち」をこども達に向け、メッセージ性の高い映画を創ると考えていた、
私にとって今作の創造点には驚かされました。
歳をとられ昔のようなワクワクするレイアウトや作画は減り、
映画のテンポ、構成もどうしても老いや才能の枯渇が感じられ
過去と比べたときのそうした変化は、私にとって、良いものと受け止められず
躍動感・リズムがない宮崎さんの作品は、劣化と思い、複雑な心境で
今作を含めた最近の映画を観ておりました。
それでも、現在のご自身を高い位置から俯瞰され、自分の現在地を
作品の魅力に変え、過去の作品をオマージュした世界で
ご自身の半生を強烈なメッセージで「魔法」にしてしまう。
そうした宮崎監督のイメージには感じたことがない、驚きと新しいワクワクを
この作品でもらいました。
・眞人が石で頭をぶつシーン
・御屋形様の様相と口にしたセリフ
・インコたちの暴動
さいご
塔が崩壊し、鳥が世界へ飛んでいくシーン。
先頭を走ってきた宮崎監督の「ひとつのイメージ」が伝わり、
感謝と少しの寂しさを覚えました。
また宮崎駿作品を映画館で会えるように、楽しみに、楽しみに
言葉にすることで、また会えることをイメージしています。
宮崎監督は最高のエンターテイナー。
本当に多くの素晴らしい作品を創っていただき
ありがとうございました。
エンディングからが物語の始まり
「君たちはどう生きるか」のコペルと同じ年代の眞人を主人公に、宮崎駿のメッセージが伝わる。
戦時中の資産家と庶民とか都会と田舎の格差や、亡くなった奥さんの後添えに妹と一緒になる事が当時は普通にあったのだ、など今の若い人には多少わかりにくい点があるかもしれない。
しかしながら「今頃軍は大慌てだよ」と語る父は軍需産業で肥え太り、学校へ寄付し得意気なことなど、主人公・眞人の心情やこの時代の状況が早い段階で画面から伝わるのは流石。
母が遺した古い本「君たちはどう生きるか」を読み進み涙する眞人を抱きしめたい気持ちになりながらテンポよく話は進む。
後半、存分に宮崎ワールドのイマジネーションが広がる。
塔に続く道や森はもののけの、異世界は風の谷のようでもあり迷宮は千尋っぽく、死の国の海に浮かぶ船団は紅の豚を思わせるし、火はカルシファ、木の骨組みを壊す大佐はカリオストロの時計塔(^^)数々の作品をオマージュしながらキャラクターが躍動。その中で、様々なことを吸収していく眞人の成長。
命が生まれる、命を頂く、メタファーが描かれるこの世界とあちらの世界。。。
ラスト。私は全てはエンディングの後に始まるのだ、と受け止めた。
眞人は母の遺した「君たちはどう生きるか」を支えに成長するだろう。戦争で利益を上げた父やその価値観とどう向き合って行くか、noblesse obligeを彼なりに消化して平和な未来を生きる友が持てるだろうか、と想像が膨らむ。
そうして、さて私はどう生きようか、どう歩けばこの世界が誰もが生きやすい世になるだろうか、と宮崎駿から宿題をもらった気分だ。全体に語り過ぎないところがすごく雄弁。たくさんの人に伝わるといいなあ。
(ストーリーまとめ追記)わからないけど楽しい
みなさんのレビューみて評価の低さにびっくり
一度観ただけじゃわからないのって
私の中では普通だし
考察YouTubeを観たりもう一度鑑賞して
楽しみたいと思える作品でした。
ただ、どんぐり共和国で今後人気出そうなキャラは
あんまりいないかなぁ?
青鷺は可愛くないしね
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ここから追記
2回目鑑賞後 自分なりのストーリーまとめ
難しい考察はナシの簡単なストーリーです
(2回みただけですのでミスには寛大でお願いします)
主人公 眞人は空襲により、入院中の母を亡くす
死体はみつからず、、
一年後、父と疎開するが疎開先には
新しい母 ナツコ
ナツコは、眞人の母の妹であり地方の裕福な家庭のお嬢様
お腹には新しい命が宿っている
疎開先のお屋敷には沢山の老婆やがいて
眞人の父のお土産の食料に喜ぶものの、眞人にはあまり
関心を示さず
父は、財力で周りに圧力をかけるタイプの人間で
眞人は新しい学校でも、都会から来た金持ちとして反感をかい、喧嘩をふっかけられる
喧嘩の帰り道にマヒトは自分の頭に自分で石で打ち付け
大怪我をさせる(学校に行きたくないから?)
怪我を知った父は、さらに財力や力によって学校に圧力をかける。老婆やや、ナツコは献身的に眞人を看病するも
眞人は孤独感に苛まされ誰にも心をひらけない
新しい家で頻繁に姿を見せていた青鷺が
いつからか、眞人の夢の中の出来事
空襲の中、母を呼び叫ぶシーンを真似するようになる
眞人の夢や意識が青鷺とリンクし、
母に会いたいなら付いてくるように誘惑される
つわりの中、森へ消えるナツコを目撃し
一旦は見送るも
部屋で母が自分に贈ってくれた
『君たちはどう生きるか』をみつけ、読み耽る中
帰らないナツコが心配になり探しにいく
そっけなくあたっていたナツコに対して
ここで初めて『心配』の感情が湧いてくる
ついてきたキリコ老婆ゃと一緒に屋敷に入り
青鷺と再会し、
謎の主(大叔父)が青鷺に、ナツコのもとへ眞人を案内するようにと言い渡し
地下の世界に沈んでいくとそこには
若く逞しいキリコさんが。
キリコはこの世のものではない者たちが沢山いる世界で
魚を捕り、捌き
亡霊のような人たちと、ワラワラという命の源のような妖精?に食べ物を与えてる
ワラワラが熟し、空に上がり新しい命に生まれ変わろうとする時にペリカンがワラワラを食べようとし、
火を操るヒミ様に焼き殺される
ペリカンは死に際に、
この海には食料がない、ワラワラを食べなければ生きのこれない、しかしそのせいで焼き殺される
と話す 食物連鎖のバランスが崩れてきている示唆
キリコと別れ青鷺とナツコを探す
そこでヒミと再会し、自分の母だと気づく
産屋にいるナツコと再会するが
そこで初めて帰れ!とナツコに拒否され
『ナツコかあさん!』と叫ぶ眞人
眞人に母さんと呼ばれて正気を取り戻すナツコだが
力つきて、眞人もヒミも倒れる
目を覚ました眞人は大叔父と会い
この世界の危ういバランスが今にも崩れそうだと知らされる。この世界を保つ後継者になって欲しいと言われ
自分も、ナツコのお腹の子もそのためにこの世界に呼ばれた事に気づく
しかし、眞人には
世界のバランスより、目の前の大切な人の命を守る事が先決であると言い、
ナツコとヒミを助けに戻る
世界を自分のものにしたいインコ大王に阻止されながらも
ヒミと再会し、再び大叔父の元へ
大叔父は3日に一度積み木を積み上げ自分なりの良きバランスで争いのない世界を作り上げろと眞人に言うが
眞人は拒否
それを聞いていたインコ大王が積み木ごと破壊し
世界が崩れ落ちていく。
青鷺の力を借りながら
元の世界のドアへと辿り着き
ナツコとも再会し、それぞれにもとの世界へと戻る
ヒミは、自分が火災で死ぬと知りながらも
火って素敵、あなたを産む
と言い残し。。。
元の世界に戻りインコの世界のものは普通のインコへ
塔は崩れ落ち ペリカンはこの世に放たれる
この世ではインコはフンをするので皆
糞まみれになりながらも笑顔で再会を喜び合う
そう、この世は汚いことも沢山あるが
だからこそ美しいのだ
数年後、戦争は終わりこの街を去る
汚くも、美しく
残酷であり、尊いこの世界を眞人は生きる
それが世界のバランスなのかもしれない
眞人の中にも自分で怪我をしながら言わない狡さと
命懸けで義母とお腹の子を助けに行く正義があったように
善と悪
美しいだけの世界などないのだ
それでも平和を願い、幸せを願い生きる事を
忘れてはいけない
君たちはどう生きるか
との問いに戻る
以上
レビューというよりは
自分のためのストーリーのまとめでした
『わからない』という意見が先行してしまっている事がとても残念に思います
私もわかってないところ沢山あるけど
今までの宮崎駿作品だってわからないところ沢山あったのにこの作品ばかり指摘されることに疑問
わかるより、感じろ。です。
それなりに楽しかった
ネタバレ含むけどいいすかね?ストーリー難解。宵の国?と現世、時空を超えた場所に繋がる洋館。取敢えずアオサギは名前の通り詐欺か!って言うビジュアルでした(笑)もうね、色んなジブリ作品がオマージュされてる様な映像・キャラクター・シーンのオンパレード。シン・ジブリって誰か言ってたけど、言い得て妙だと思います。ロリコン出てこない宮崎駿作品?と思ったけどちゃっかり出てきます。でも子供向けじゃないなぁ。全然子供喜ばないと思う。あ、そうだ。ジブリ作品オマージュだけどルパンVS人造人間とかのオマージュも存分にあります。映像もいつものジブリとは違うテイスト沢山入ってて、一瞬宮崎作品である事を忘れますね。物語の始まりが戦時中である必要がどこにあったんだろう?とか、時系列がちょいと複雑でしっかり整理していかないと無理がある。米津氏の歌は確かに素晴らしいが、逆に庵野氏の匂いがプンプンしてくる。キムタクの声、ダメ。大竹しのぶ氏達の声は素晴らしいので余計に残念。ここまで読んでくれた人は評価が両極端な事が分かってくれると思います。ジブリ全部見てる人はこのシーンは●●のオマージュだ!このキャラクターは荒地の魔女と湯婆場だ!見たいな感じで2時間楽しんで下さい笑
いつかこの映画を振り返りえる事があるのかな
宮崎さんが引退を撤回して長編に挑むと聞いた時には、不安しかありませんでした。ジブリは解散状態だし、監督もお齢だし、しかも原作が「君たちはどう生きるのか」(当時は原作と聞いていた)とは余りに売れ筋を外した路線。本当に完成するのか、完成したとして、説教くさい映画を、鈴木さんお得意の宣伝ガンガンでヒットさせて、がっかりさせられる人を大勢生むのではないか。そんな不安でした。
ですから一切宣伝をしないというのは驚きでした。恐らく監督の、事前情報なしで映画を見てそれぞれに考えて欲しい、という意図だと思います。鈴木さんは本当は宣伝したかったかも知れませんが、映画の脚本で「色々あったけど、あんたは俺の友達だよ」なんて言われたら、好きにさせちゃろうと思ったのかも知れませんね。
今も書いたように、あのキャラは誰、このものは何を意味していると想像するのも楽しみ方の一つと思います。しかしそういう分析的な見方では無く、イギリス児童文学的な不思議な世界観と成長物語に浸るというのも良いかも知れません。
事前の不安は半分当たりで半分外れでした。全体としては、最高とは言い難い出来ながら、所々にはっとするシーン(冒頭とか)があり、あの年での映画の作り方として、工夫した結果だと思います。
「君たちはどう生きるのか」。宮崎さんが子供のころに読んで感銘を受けた本なのでしょう。監督の「俺はかつてそう問われ、こう生きてきたぞ」とでも言いたいようなストーリー、(リトルニモ含めた)セルフオマージュのオンパレードでした。年を取ってから、かつて「君たちはどう生きるのか」と問われたことを思い返して欲しい。そんなメッセージと受け取りました。
最後ですが、うちの奥さんは鳥恐怖症なので、ちょっとお勧め出来ないなと思いました。(何を考えているのか分からない目が怖いんだって。この映画を見て納得。)
賛否両論
主人と、小学生の娘二人と観ました。
下の娘には退屈な二時間であった様です。(誰が観ても分かりやすい映画を好む主人も同じく。)
くすりと笑える&ワクワクする要素もあまり無いですし、説明が皆無なので小さい子供や低学年には不向きでしょうか…。
一方、上の娘は、何度も涙を流していていました。
「途中、吉野源三郎さんの原作とは、全く違うな…と思ったら、観終わった後、初めて吉野源三郎さんの君たちはどう生きるかを読み終わった時と感じたことが一緒だったからビックリした。
(娘は吉野源三郎さんの君たちはどう生きるかの大ファンで、去年、読書感想文も同作にして、この一年で何十回も読み返している経緯があります)
色々な思いで胸が苦しくて切ない…」
と。
間も無く思春期を迎える娘には心揺さぶられ、感じるものがあった様です。
この映画の感想を敢えて一言でまとめるなら、
「私は正直に自分軸で生きたい」
だそうです。
そして私の感想ですが…
多くは語りませんが、映画を観てこんなに泣いたのは、何年振りだろう。
映画としては、少し荒い部分が要所要所でありました。ですが、宮崎監督、最後の作品だとしたら、
個人的には、風立ちぬより相応しいと思えた作品でした。
(風立ちぬも素晴らしかったですが。)
またすぐ観たいです。
なぜパロディまみれだったのか
わざとである。
「どっかで見たキャラ」「どっかで見た演出」「どっかで見たアングル」が大量に散りばめられており、「ジブリあるある」を自分でやってるような映画である。
最初は「ネタが尽きたか。自分の過去作品からアイデア拾ってくるとは」と思うかもしれないが、もしこのセルフパロディ要素が全て「わざと」だとすると妙に辻褄が合う。
おそらくハヤオは「ジブリあるある」をこの映画で意図的にやっている。
その中を旅させることでこの世界(ジブリ)は厳しい現実から一時的に逃れるための虚構であったと、ある種の自己否定をしている。
ただそれだけではなく、ジブリを見て育った我々や影響を受けた次の世代のアニメ監督などの「確かな存在」に対して石(意思)を託し、「現実と向き合い自らの意思で考えよ」「次に目を向けよ」と背中を押しているのだ。
つまりこれは「ジブリを見てきた君たちはどう生きるか」が本当のタイトルだったというわけである。
「やがて忘れるだろう。じゃあな、トモダチ」
エンドクレジットの「助監督 片山一良」の文字を見て・・・
【以下、制作体制に関する公式の発表がされていない状態での憶測であることを自覚しつつ、あえて断言する】
エンドクレジットの「助監督 片山一良」の文字を見て、映画監督・宮崎駿が死んだことを確信し涙することのみが、真に宮崎駿を愛した者のとるべき唯一の振舞いである。
「君たちはどう生きるか」と題された2時間余分のアニメ映画を監督したのは、宮崎駿ではない。
実質的な監督は、助監督とクレジットされた片山一良さんである。
このアニメ映画には、宮崎駿が手をかけた痕跡が殆どない。
宮崎さんは、レイアウトをチェックしていない。
芝居の内容もチェックしていない。
色彩の設計も投げている。
撮影処理やカットのタイミングの指示も出していない。
アニメの演出家の第一の仕事である、作打ち、色打ち、撮打ち、恐らくは美打ちも、自ら行っていないということである。
部分的には絵コンテすらも人に任せている可能性がある。
宮崎さんが確実に手を下した領域は、大方の絵コンテとイメージボード、絵作りが終了した後のポストプロダクション(アフレコ、音楽、音響)である。
宮崎駿の過去作の制作体制はもちろん、一般的なアニメ制作と比較しても、このような関わり方をした人間を演出=監督とクレジットすることは、一種の詐称である。
このような体制になった経緯、及び現在の宮崎駿の状態については、いくつかの可能性が予測される。
1度目の鑑賞中、宮崎駿は制作の序盤で死んでしまったのではないか、という疑念が脳裏に浮かんだ。
2度目を観終えた今もその可能性を捨てきれず、5%ほどを占めて残っている。
宮崎駿は冒頭20分の絵コンテを切り、全体のイメージボードを描いたところで死んでしまった。
プロデューサー鈴木敏夫は未完成のその作品を、旧交のある片山一良、及び宮崎吾郎、米林宏昌らの共同演出によって制作し、宮崎駿の死を秘匿することを決意する。
未完の映画を託された演出家たちは、宮崎駿になりきろうと宮崎の監督した過去作、更にはアニメーター時代の宮崎が担当したパートを律儀に勉強し直し、宮崎駿が思い描いたであろう映像を考えて絵コンテを描き、演出する。
しかし、残されたイメージボードの断片を繋げてはみるが、シーンとシーンの間に説話的持続が生まれない。
「長靴をはいた猫」や「どうぶつ宝島」の宮崎パートを引用しても、真似事の虚しさが漂うばかりだ。
凡才の物真似が帰結するのは、宮崎駿の抜け殻のような映像でしかなかった。
しかし公開前後に宮崎駿の直近のコメントがサイン入りで公表されているのをみると、どうやら宮崎さんは死んではいないらしい。
次点で思いつくのは、製作途中で宮崎さんは大病を患い、絵コンテを描くことすら不可能な状態に陥った可能性である。これが15%ほどを占める。
小説「君たちはどう生きるか」の著者・吉野源三郎の孫にあたるライターが、自身の招待された関係者試写に宮崎駿が欠席していたことを記事に記していることも、宮崎さんが病床に伏せている可能性を想起させる。
或いは、病気ではないが体力面の問題で、以前のように作画の修正を乗せることが不可能であることを自覚したために、自ら描いた絵コンテを後身の演出に丸投げするスタイルに振り切った可能性もある。
レイアウトを見ると自分で手を入れたくなってしまうので、作画を本田雄に一任するに止まらず、それをチェックする演出家を別に立ててしまったわけだ。
鈴木敏夫は、宮崎さんが既に次回作を構想していると公表しており、それを敷衍した岡田斗司夫は、このスタイルを次回以降も採用することで、ジブリは今後量産体制に入るとの予測を立てている。この可能性が最も現実的で60%ほど。
逆に、後進に演出を任せた今作の出来に怒り狂った宮崎さんが、やはり自身で全てをコントロールするしかないと、従来のスタイルに戻して次回作を手掛けようとしている可能性、これが案外しっくり来て、一縷の望みも相俟って、一番イメージしやすい想定である。
これが残り20%。
というわけで、上記の予測で行くと、80%の確率で映画監督としての宮崎駿の寿命は尽きているわけである。
本作を褒めている人はもちろん、貶している人すらも、本作を宮崎駿が監督していると想定している時点で大いに間違っている。
宮崎さんを真に愛した者であれば、「君たちはどう生きるか」の中に映画監督・宮崎駿の死を直感し、追悼の念を込めて涙しなければならない。
不思議の国のアリス(ナツコさん)を助けに行くお兄ちゃんの成長物語
不思議の国のアリスのオマージュだと思う場面がちらほら。
ならば、アリス役はマヒトのように思えるがたぶん違う。
ナツコさんは作中で誰に呼ばれたか明白になっていないが物語の作りから姉であるヒサ子が戻って来てくれる事を願い搭にいき、不思議な国に迷いこんだと思われる。
助けにいったマヒトが冒険の中で成長し、ヒサ子さんを思いやる事ができ、お義母さん呼びができるようになり、現実に向き合えるようになった、という話なのだろうと思う。
だが、この現実に向き合えるようになるというのは言うは易いが成すのは難しい。
日本が大敗してその時の東京は焼け野原。何もないところのスタートだ。
魔法使いの大おじからの積み木もない。むしろ帰らない選択しもあったかもしれない。しかし、そんな所へなぜマヒトは戻ったのか。
自分より大人のはずのナツコさんをマヒトは躊躇なく助けに行ったのはなぜか。
ナツコさんが妊娠しているからだ。
赤ちゃんについての言及はなかったがナツコさん=妊婦=家族の新しい命がある。
腹違いの下の子だ。
名前を出さない時点で複雑な気持ちがあるのは、想像するに余りある。
マヒトはそれでも現実に帰ることを選ぶ大人に冒険を通じて成長した。そんな話だと思った。
眠いから大味の感想まとめ。また編集するかも
田舎•森•海•塔そして迷宮•••世界がどうなるかは••
まあ、ひどい言われようです。。(期待と違ったからってお金と時間の無駄遣いは言うなら、ただの悪口みたいな評価に時間を費やすのはどうなの?って)
自分が期待していたのは、昭和10年代頃の日本の元風景だっただけに、不思議の国のアリスのような西洋風な風景が散見されることにまず、がっかりしました。自分の印象では「ハウル」の範疇にはいるかなぁ。
これは、きっと子ども向けとは言えない「風立ちぬ」のカウンターなのでしょう。
ただ、今作が子ども向けかというとそれもまた違うような。
とにかくもっとシンプルにストイックに軸がぶれずに「物語」を進めてほしかったというのが個人的な感想です。ベクトルがあちこちに散らかってしまったような。。
ストイックにというのは、こちらが勝手に描いている監督には「日本の自然」をノスタルジックに描いてほしいという思いから遠くはなれてしまったからです。むしろ、水や光の色を巧みに表現しつつ、日本古来の伝統をエッセンスに交えた世界観を描く次世代の監督作品から逆にインスパイアされて迷宮入りしてしまったんじゃないかと邪推すら覚えた次第です。
ゆっくりと流れる序盤に予想されるような戦争後の田舎を素朴に描いただけでよかった。いくつものシーンがこれまでの総決算的なものに見えてしまうのです。
もっと、足下の物語が欲しかった。まぁこれは個人の趣味なんですけど。
監督がこの世に未練なく「後継者」として託せる次世代を見つけることを求められる要素(ハウルにも感じた)が垣間見得ることに共感できる視聴者もいれば、私のように個人的な事情を商業ベースに乗せたことに対して興ざめする者もいることでしょう。何も世界をすくう必要なんてないのにって思うんです。
キャラクター表現については、取り上げるとすれば、、
いくつもの象徴を掘り下げることはなしとして、自分は主人公が喧嘩のあと自身で傷をつけたこと、多くの朗らかなばあやの最後尾に唯一人背筋のシャンとしたキリコさんがタバコを嗜み、料理上手で逞しい人柄に魅力を感じました。
今際の際にある夏子さんが「呪い」を宿したような表情に違和感を感じた人もいるのではないでしょうか?あの時の夏子さんには、今敏風のキャラクターが見えた気がします。これまでの「怖い」モノを不気味ではあっても、怖く描かないできたはずなのに「あれっ?」って。。
あと、声優に関しては、あいみょん(個人的に好き)は流石に違うだろって思いました。(泣き叫ぶ声) もののけ姫の声以来、制作側?(監督とは言わない)の趣味の一貫だと理解したいところです。人の暖かさを描くジブリ作品に「甲高いヒステリックな声」はふさわしくないというのが私の見解なので。
そう言う意味では、他に上がる声優人にも違和感はありませんでした。キムタクはすぐ分かったけど、ハウル同様、我をださずに上手に演じていたし、菅田将暉もはまっていたと思います。(勝手に)
本来は、制作の背景やこれまでの作品を踏まえず中身そのもののレビューをすべきだと思っていて、ネタバレも控えたいし、悪評をわざわざ書くのもどうかと思っていたのですが、わざわざ揶揄するための言葉を探す論評があまりに多く、情けないなと思います。
それこそ、作品内の皮肉の対象(インコ)に身を窶してるようなもんだなと。
意味が分かれば意味分かる
おそらく宮崎駿の最終作品
100年200年たっても名前が上がるような監督と同じ時代に生きてた事や
子供の時から大人になった後も充分アニメ映画を楽しませてくれた事に感謝。
今回は分かりやすいラピュタとは違って一般人に向けて作られていないという印象
では誰に向けて作ったのだろうか?
おそらくは本当のアニメ関係者や業界人へ向けて作った遺言じゃないだろうかと思えた。
エンドロールに総務部や財務部の名前まで出しているのもそういう事だろう 関係者や業界の人の為に向けて作られているのが強い。
・不思議な世界を産み出した大叔父は宮崎駿または高畑勲だろうとは感じる
世界を作り続けて来たが業界自体に限界を感じている
新しい担い手に自分の世界の後を次いで貰いたかったが 次の世代に全てを任せる事に決めた 完全引退宣言
不思議な世界に繋がる塔の声が聞こえるのは『血筋を引いた人』だけ
・血筋を引くのは少年 つまり宮崎駿や高畑勲の弟子筋
少年は戦闘機を見て美しいと言ったりしているので、宮崎駿本人も投影されている気もするが
自傷したりしていたり言葉数の少なさも庵野秀明を色濃く連想させるが
ジブリを引き継ぐ事はせず 自分の世界を進む事を選んだ
・アオサギは鈴木俊夫そのものだろう
人を誘い込んで 騙して 嘘ばかりつく冷酷なプロデューサーだが
そういう人間も綺麗事だけじゃない業界では必要であり、友人だと言うこと
近年 鈴木俊夫は 庵野秀明にべったりでなんとか取り込もうと必死だった所も共通している
・不思議な世界の中で浮かび上がる事を夢を見てるが実際は地獄を見せられているペリカンは堕ちたアニメーターやアニメ製作関係者
(彼らも本来はまっとうな事をしたかったが、純真無垢なホワホワ?を食い物にしないと生きていけない)
ペリカン達は【俺たちは作られた】と嘆いているが
『我を学ぶ者は死ぬ』という代物に殺到していた
宮崎駿のインタビューでも言っているが
『アニメ製作は自分や他人を傷つけ、磨り減らす。
私も若い才能を何人も殺してきた』と言っている
ペリカン達はアニメ制作をしたい!と望んでしまった人達の成功を掴めなかった多くの人達だろう
アニメの世界に縛られながら 本望でも無いことをさせられ続けている
・インコはアニオタやその界隈か
不思議な世界(アニメの世界)にインコをたくさん連れてきたのは大叔父だが増えすぎてしまったという。
増えすぎたインコは 世界を製作者から奪って自分達の都合の良いものに変えようとしており これは2次創作作家やその手の業界なども含んでいると思う。
『インコは子供を食べられない』というのは
コミケ作家やいわゆる萌え豚と呼ばれる界隈でも唯一 手を出していけない物が法に触れる児童ポルノなので、インコがそういう界隈のメタファーなのはほぼ間違いないかとは思う。
正しく言えばアニメという【技法】を愛している訳ではなく、自分の性処理や疑似恋愛の欲求を満たすためにキャラクターや作品をポルノに改変・消費する界隈の人達
・キリコさんはおそらく宮崎駿と二人三脚だったジブリの名物女性スタッフだった人だろうと思うが
分からなかったのは母親とナツコ母が どういう事のメタファーだったのか良く分からなかった
少し話がそれるが【京アニ事件とペリカンの死因】が酷似している。
純真なホワホワ(少年少女)を食い物としているペリカン(アニメ製作者)は火に焼かれて死ぬ。
これだけでは、かなり辛辣なメッセージに見えるが
病院で新しい命(作品)を身ごもっていたであろう母親も火に焼かれて死んでいる。
火で巻かれて死ぬことより産み出せることが素敵だと別れ際に母親は言う
宮崎駿はいわゆる商業アニメを毛嫌いしているものの、当事者達の物を作りたいという気持ちや気概は否定しきれなかったのではないかと見えた。
京アニ事件の犠牲者にはアニメ会のベテラン、ジブリに縁深いアニメーターも亡くなっているのだ。
●この映画はストーリーラインがグニャグニャしており どこが本筋なのか不明。
明確なメッセージがあるわけじゃなく
今のアニメ業界を投影・比喩・描写した パッチワーク的なポエム作品なんじゃないかと思う
業界関係者達に
僕達が好きだった業界はこんなになっちゃったけど、どうすんの?
殺しあいながら犠牲を出してやってくの?
やってくんだね? 頑張ってね!
というただの遺言だと思う
後は制作時期がコロナだったのも大きいと思われる。
コロナは戦争そのものだと良く言われるが ガラリと変わった価値観や社会の先で、これからの人達はどう生きていくのだろうという宮崎駿の単純な疑問がタイトルになっている。
戦争が終わり現実に返されて映画は終わる
※アニメ視聴者を現実に帰らせて終わらせる という終わり方は高畑勲イズムだが、庵野秀明も最後のエヴァで継承していた。宮崎駿もそれに倣ったのだと思える
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作品の感想
◆私的な考えを言うならば 宮崎駿 本人の総括は風立ちぬで完成していたにも関わらず
今作を作った理由は やり残したこと=先輩が認めてくれる作品を作りきれてなかった点にあると感じる。
表の話に裏の設定をつけるのではなく
裏に話のラインを引いて、それを隠すように表にストーリーを乗せる、この形は高畑勲の傑作【かぐや姫】を強く意識している。
かぐや姫は水彩画のような手法が凄いと言われることが多いが、そこではない。
ホタルの墓~おもひでポロポロなど、どの作品も絵だけ見ていると昔話やノスタルジーや反戦などがテーマのように見えるが、実際はかなり真に迫ったメッセージを叩きつけている。
(高畑がかぐや姫で何をやろうとしていたかは、別のレビューを読んでいただきたい)
後輩の宮崎駿は高畑の遺作となった かぐや姫で作家としての文学的力量とアーティストとしての姿勢にコンプレックスを植え付けられたはずだ。
魔女の宅急便で高畑から叱責を受けた後は明らかに作風は変わり、かぐや姫の後 高畑が亡くなってからは更に文学やアートとして深みを持たせたアニメに傾倒していっているのも明らかだった。
宮崎駿も見た目だけの作品を作る人間ではないのだが、高畑にはとうとう認めてもらえないままお別れすることになってしまった。
そんな彼が最後にやりたかったのが亡くなった先輩が喜びそうな作品、先輩にまたあーだこーだ言われそうな文学的・芸術的なアプローチに挑戦したという事が実に泣ける師弟愛なのである。
大人であれば好き嫌いは別に楽しむことは出きる
子供は大人になった時に見返して楽しめれば良い
混ざり合う世界の中で
生と死
国と国
現在と過去
さまざまな世界でそれぞれの常識がある。
死の世界での殺生の可否や、人を食べるインコの世界など。
違う世界で生きていた人が他の世界に入り込んだとき、常識の違いや価値観の違いなど必ずずれが生じてしまう
インコの世界に入ってしまったまひとや、死の世界でわらわらを食べることになったペリカンなど
そして少しずつ生まれたズレがやがて大きな破壊を引き起こす
それはどんなに大切にしていたとしても一瞬で崩れ去る
守られていた均衡もズレによって導かれた、誰かの大きなたったの一手で。
それは国同士の戦争や生から死への一手かもしれない
そんな世界で、君たちはどう生きるのか
というような解釈で見ていたが、やはり甘かったように思う
宮崎駿監督と登場人物との関連性の考察をみてなるほどと思いました。
傑作!
最高でした。少し長文になってしまいますが、感想と解説、、というほどのものでもないですがそれを少し吐き出させてもらおうと思います。
まず、第一に本当に面白かった。ストーリーが全く分からなくても美しく躍動感のある映像が私たちを楽しませてくれる。前半は好奇心を煽り、「もっとよく見せろ!」と叫びたくなります。それが中盤になると一変、何もかもを曝け出した素晴らしい冒険の数々が押し寄せてくる。説教くささは殆どありません。私たちに一瞬の休む隙も与えず、まるで急上昇と急降下を繰り返すジェットコースターのように楽しませてくれます。
そして第二に本作の前半から中盤に渡る本筋でもある眞人と母親について。この映画の前半から中盤における本筋は簡単に言ってしまえば主人公の眞人が実の母の死を受容し供養して、夏子お母さんの愛情を受け止めるという話です。夏子お母さんは最初に会った時から主人公に一心に愛情を注いでいます。眞人のことを愛する姉の子供で自分の子供とも捉えている。これは前半の夏子を注意深く観ていれば確かなことで寝顔を愛おしそうに見つめていたり(眞人を憎んでいたり嫉妬していたら寝顔を見てあんなに愛おしそうな表情はできない)、わざわざ食事を作ってあげている(悪阻で寝込んだ後のご飯が美味しくないのは夏子が今まではご飯を作ってくれていたから、父親を好いているだけの女であれば眞人と同じ食事を共有したくないので二人で外で食事をするはず)。その後塔の中に入りますが最初、塔に入った第一の目的は母親が本当に死んでいることを確かめるためでした。しかし、母親がどろどろに溶ける姿を見て母親が死んだという事実を受け止めます。そこからは目的がお父さんの好きな人(夏子お母さん)を探すことに変わりますが依然として実の母親に対する気持ちは残っている。しかし、ヒミに殺されたペリカンと話し、ペリカンを土に埋めることで母親の供養をして母の死を乗り越えます。その後、ヒミに連れられて夏子お母さんと会いますが、夏子は眞人に「大嫌い」と言います。しかし眞人は髪を振り乱し、鬼のような形相を曝け出した本心でも夏子が眞人のことを大切に思っているということに気づき夏子を母として受け入れます。
最後に本作の設定や中盤から後半に渡る本筋である宮崎駿と宮崎吾朗について。まず、この大叔父様というのは宮崎駿を、眞人は宮崎駿の息子、宮崎吾朗を、そしてこの塔はスタジオジブリを暗喩しています。大叔父様は塔を作りその中で自分の創作世界を必死に守っていますがこれに限界を感じ、血縁である次世代の有望な若者である眞人にこれを継いでくれと頼みます。しかし無情にもこれを断られ自分の創作世界の核である積み木をインコの王様(スタジオジブリの人間)に壊されます。大叔父様にとっては塔の中こそが世界の全てで「積み木が崩れると世界が壊れる」なんて言いますがそんなことは全くなくただの脅しに過ぎなかった。塔を出ると眞人が隠喩するものは一転、我々観客に移り変わり、宮崎駿とともに崩れ去った塔からはたくさんのスタジオジブリの人間が飛び出して私たちに糞を引っ掛けて多大な迷惑をかけてきます。それでも大衆はインコ(スタジオジブリの人たちの作品)を見て綺麗ねという。しかも最後には宮崎駿が私達に積み木を渡してきて「そのうち俺を忘れることはわかってる、しかしどうか俺のこと忘れないでくれ」と言ってくる。誠に勝手で滑稽で面白い。
最後の本筋がわからないと話が終わったのにダラダラと続いているように感じるかもしれませんが、実際には終盤は宮崎駿の悪あがきが見れて非常に痛快です。
宮崎駿流ホラー&ハウルの声に一途な純愛を求めるならNG
まず、宮崎駿がホラー映画に挑戦したらこんな感じ。ワラワラというマスコットキャラが唯一可愛いものの、ススワタリやこだまのような単純なのに唯一無二で独創的なデザイン性は皆無で何かのCMで見たような何番煎じもされた造形でがっかり。なにより、他の人外キャラクターが総じて気持ち悪くてホラーを過剰演出してばかりで、画面を見ていると具合が悪くなります。まあ、ホラーなら仕方ないことです、エクソシストやムカデ人間とかもあの気持ち悪さが魅力なので。ただ、私はホラーを見に行ったつもりではなかったので、ハマらなかったです。
また、2人の女性を愛するキャラクターにハウルの声優である木村拓哉さんを起用したのはなんの意図でしょうか? 木村拓哉さんは声優さんではないのもあり、やはりハウルと同じ声に聞こえます。なので、ジブリでは一途なキャラクターを演じてほしい個人的希望がある人にはしんどいかもです。不倫とかではないし時代背景の問題ですが、姉妹で同じ男性に嫁ぐのを現代の純愛モノを楽しむ感覚で楽しむのは無理なので、時代モノだと割り切れる必要があります。
母を失い父が再婚するというデリケートな状態の未成年男子に突然自分の腹を触らせてあなたの兄弟ができるんだぞ受け入れろと迫る継母は私の価値観では好きになれませんでした。主人公はなぜおかあさんと呼べるようになったんでしょう?
そして、異世界では謎の石と契約すると現実の平和の均衡を保つ役目がその血族に与えられるという設定が唐突すぎて意味がわかりませんでした。新海誠のすずめの戸締まりの閉じ師と似たような存在ですが、閉じ師もなぜ閉じられるのかよくわかりませんでしたが、石と契約して云々はさらにまったくわかりませんでした。石の気まぐれなんでしょうか。
そこで、これは宮崎駿の生み出したジブリ13作品を基盤としたジブリと宮崎駿の自叙伝だと思うとたしかに解釈できます。
だけど、それなら見に行きませんでした。
少年の冒険活劇だから見に行ったのであり、宮崎駿の自叙伝なら見ませんでした。
また、この映画のテーマの1つである“1人の男性を愛してしまう姉妹、その子どもと破れた方の姉妹(つまり叔母)の関係、葛藤” も、現在公開中の「アイスクリームフィーバー」の方がよほど納得できました。
なので、この評価で失礼します。
『死の島』をはじめとする、数々の絵画のモチーフは好きですが、それなら美術展に行きますし。
宮崎駿の自叙伝を見たい方には星5の映画だと思います。
理解できた上でお金返して欲しい
ジブリ、宮崎駿、これらのワードを取り除いて映画と向き合っていただきたい。いったい、これ、何が面白いの。面白くないよなって話題にするために、俺はお金を支払ったのか…逆であってほしかった。とにかく不快。
世論への考え→①理解できるできないで面白いは決まるのは確実。こうやって話題にでてるわけだし。決まらないならまず論争にならない。②想像する、自分なりの解釈ができる映画→別にどの映画でもそうですけど?なんか"特別"が強くて笑える。③これはアート→知らんがな。こちとら総合芸術見に来てるんすけど。美術館でやってくれ〜。
ただ前情報なしで映画鑑賞できたのはよかった。でもそれは、この映画じゃなくてもできることだな。
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