君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
全756件中、301~320件目を表示
漫画「風の谷のナウシカ」から続く宮崎駿先生の「不完全な私たち人間への慈愛」の想いを受け止めた
かつて映画の「風の谷のナウシカ」のエンタメすぎるエンディングに非常に落胆をした者です。漫画の「風の谷のナウシカ」を愛読しています。だから漫画を読むたびに、宮崎先生の「ナウシカ」に込めたメッセージは一体いつ映画で発信されるのだろうとずっと気になっていました。昨日、まったく前情報なし期待無し(すいません・・・)で「君たちはどう生きるか」を観ました。鑑賞後、万感の思いで胸がいっぱいになりました。漫画「風の谷のナウシカ」が形を変えて、ここでつながったのだとすとんと腑に落ちました。宮崎先生、本当にありがとうございます。この不条理な世の中で決して善人でない私(少なくとも私)たちはこれからどう生きるか。深い問いかけに答えることはとても難しいです。しかし、前を向き地に足をつけて限られた一度の人生を歩んで行きたいと考えます。
企画自体が面白い
これまでの作品を「悪意に満ちた13個の積み木」とは。ここまで言いたいこと言うためにジブリ単独出資で宣伝も無しで勝負するとは、宮崎駿作品の集大成として見事な戦略です。
内容より、この企画自体が面白いですわ。
要事前学習/「母の死の受容」と誰もが持つ魔界
吉野源三郎の原作は戦前に刊行されましたが、子ども向けの哲学書として読み継がれてきました。17年に刊行されたマンガ版は空前のヒットになるなど、教養の一つとして浸透しています。
宮崎駿が同じタイトルで映画を作るとなれば、原作を踏襲することになり、そこにどんな宮崎流、ジブリ流の創作が加わるのか? それを楽しみにするのは自然だと思います。
本作で、原作が登場する場面が一ヶ所あります。主人公眞人が、母久子が遺した小説「君たちはどう生きるか」を発見し、それを涙して読む場面です。そこからは、原作に対する肯定的な姿勢が読み取れます。
■母の死を受容するというテーマ
小説「君たちはどう生きるか」は亡き母が遺した、という点がポイントになります。
母の死は、本作を貫くテーマです。この場面で不意に、眞人が求めてやまない母からのメッセージが現れます。それは、まさに眞人が今後、世界を生きるための知恵であり、亡き母からの贈り物です。
その後、眞人は母や、義母・夏子を探す旅に出ます。行き先は魔界(下の世界)。
そこで、母と再会し、夏子やキリコを連れ戻すといった冒険を繰り広げます。原作「君たちはどう生きるか」の拡張を期待した私は、その冒険ファンタジーと原作とのギャップが、鑑賞中に処理できなかったというのが正直なところです。
わかりにくい本作がシンプルにみせるのは「死と生」に対する謙虚な姿勢です。
母の死を乗り越えることが、眞人の人格形成には避けて通れないことです。本作ではその過程を、内面心情や、現実世界の体験から直接描くのではなく、冒険ファンタジーとして置き換えて示してくれています。
母の死を受容できず、義母も受け容れられず、そこに弟が誕生してしまう。「下の世界」に旅立つのは、そうした精神的にどん底状態のタイミングです。そして「下の世界」は単に魔界というより、死と再生(誕生)の場であり、そこでもたくさんの生き物?たちが登場し、再生の物語が紡がれています。
そこで眞人が体験したのは、死と再生の現実です。そこは決して楽天地ではなく、均衡をとるのも難しい厳しい世界として描かれています。いずれにせよ眞人は、現実世界を覆うもう一つ大きな世界を体験しました。
■原作との三つの関連性
改めて、原作との関係を考えてみます。また、問いとしての「君たちはどう生きるか」に対する宮崎の答えはあるのでしょうか。
仮説はいくつか立てられます。一つは、原作が説いた人格形成の不足を補完したという点です。
原作が発表されたのは戦前の昭和12年。大衆文化を背景に、原作は自己形成に「個の確立」が重要であることに踏み込みました。原作は当時、旧制中学校・高校のエリート予備群に対してかなり衝撃を与えたかもしれませんが、現代でそれは常識の範疇で、これを唱えても若者には届かない。
そこで、精神的な「親殺し」に触れていく。もちろん「親殺し」とは親を殺めるわけではなく、親と離別し、親という存在を超えていく精神的な自立過程を指しています。本作でいえば、眞人が母の死を受容し、義母や義弟を受け容れるという精神的な葛藤場面です。
原作ではコペル君の父親が亡くなりますが、そこでの「死」は薄い影でしかありませんでした。本作では、父と母の違いがあるものの、母親の死を一貫したテーマとして、それを受容し超えていくことが、人格形成になくてはならないものと捉えています。
そして、本作において親殺しの葛藤は、死や再生という「生き物の宿命」を自覚する契機になります。それが人格形成に不可避なことだとすると、原作には触れられていませんし、そのメッセージは原作が書かれた時代にはなかなか理解されなかったと思います。
若者に限らず今を生きる我々が「生命」の循環を理解し、考える。これが本作のメッセージと考えるのが自然だと思います。これが二つ目の仮説です。
三つ目は、原作の教養主義的な欠点を、補完した点です。
原作は、戦前に書かれたこともあり、かなり教養主義的です。学問、修養、芸術といった教養の習得によって人格陶冶ができるという核心に基づいています。しかしこれは、知識吸収が得意ないわゆるエリート向けに用意された啓蒙ルートということもできます。
本作は、若者に哲学を促すのには、もっと想像的で、直感的なルートがあることを説いたと考えられます。「生き物の宿命」や「生命」の自覚が必要だということを多くの人々に伝える場合、教養主義的に説得するより、文学的に描いた方が伝わりやすいのは事実だと思います。
■なぜ「下の世界」は崩壊したか?
それにしても本作はわかりにくい。
特に、「下の世界」が突然崩壊する場面は問題です。それも、それは主人公の眞人が継承者として指名された直後です。ただ、そのわかりにくい場面が、物語を読みとくヒントになります。
本作は「上の世界(現実世界)」と「下の世界(魔界)」との二層で構成されています。特に「下の世界」は人格形成の葛藤を描くファンタジー世界であり、生命再生の場として描かれています。
そして終盤、大叔父は眞人に「下の世界」を継承するように勧めます。
われわれ観る者は、「上の世界」同様、「下の世界」は継承すべき価値ある世界だと理解する一方、なぜ大叔父が支配者で、眞人が継承者なのか判然としません。
また、継承するのに眞人は生命を投げ出さねばならないのか、疑問も膨らみます。
こうしたなかで「下の世界」は、いとも簡単に崩壊します。
その崩れ方はまさに積木くずし、あるいは夢の終わりのようです。
ようやく、本作を貫くテーマが母の死の受容であることを理解し、二層構造が持つ意味を考えはじめた頃、「下の世界」は崩壊してしまい、われわれは置いていかれます。
本作の一貫したテーマは、母の死の受容でした。
ようやく眞人が「下の世界」のさまざまな経験を経て、母の死を受け容れられたところで、眞人の旅は終わりました。
そして、その時点で「下の世界」が不要になったといえます。
■誰にでもある「下の世界」
作中で、「どの世界にも塔が存在する」(うろ覚えです)と「下の世界」の秘密が披露される場面があります。
塔とは「下の世界」の入口のことですが、これは、世界中の人間誰もが、それぞれ心の内に「下の世界」をもっていると考えるべきでしょう。想像力が発揮されれば、誰もが「下の世界」を召喚できます。
ここまで考えて、ようやく本作は物語になります。
原作を補完するように、親を失う(親殺し)場面が設定され、改めて「君たちはどう生きるか」が問われる。
そこでは、死と再生という大きな世界を、一人ひとりの想像力を駆使し「下の世界」を経験することで、はじめて理解できる。自分が生きていることを日常生活を覆うもう一つ大きな世界から捉えなおす。
このような形で「君たちはどう生きるか」に応えた物語なのでしょう。
美しい日本式アニメだけど
無広告戦略にダマサレタ。思索的な映画、もちろん有っていい作家映画なれど、たしかにこの内容を広告していたらここまでの集客は無かっただろう。悪い映画とは思わなかったがやられた感を引きずる。
テーマはわかりやすい。でも傑作ではないと思う。
置いていかれるとか、理解できないとか、聞いていたので身構えましたが、テーマはわかりやすいと思いました。本の『君たちはどう生きるか』を読んだことがあって、テーマがリンクしているだろうと推測しながら観たからかもしれませんが。
読み返したわけではないので曖昧ですが、本では「人は成長過程で自分中心のものの見方を離れ、社会を俯瞰して見れるようになる」とされていたと思います。
私が映画で気になったのは「義母が眞人を『大嫌いだ』と言った後、眞人が急に『お母さん』と呼ぶようになった」シーンです。
眞人はここで[義理の親子になったことに義母も苦しんでいる]ことに初めて気がつき、[だからこそ自分のいない異世界に来て出産しようとしている]と理解したのではないでしょうか。そして[義理の親子という関係を築く]覚悟をしたのだと思います。
(なんで妹と再婚?というレビューを散見するのですが、この頃は結婚は家同士でするもので、配偶者が死んだ時に兄弟姉妹と再婚することはよくあったと聞きます)
本でいうと冒頭なので、映画では自分中心の子供時代をゆっくり描いている感じです。
他にもいろいろあると思うのですが、本では最後に「自分で考えて生きること」を訴えていました。
映画でも眞人は「与えられた無垢の石で新しい世界を築く」という用意された道を拒否し「戦時中の混乱した世界に戻って友達と協力して生きていく」ことを自分で決めます。
そしてラストシーンでは、戦争が終わり東京に帰るという変化の時に本を持っていたことから、その後も眞人が自分で考えて生きていこうとしていることが示されました。
テーマが好きだし、全体として嫌いではないけど、傑作という印象ではありませんでした。
その時代がそうだったと言っても男尊女卑を無批判に描くのはどうなのか?と思いますし。眞人がタバコを渡したりクチバシを治したりと男性(らしきもの)には報酬を払うのに、女性には無報酬で助けてもらう、という描き方も気になります。
監督がジブリや自分や後継者を重ねて作ったかはわかりませんが、もしそうだとしたら、プライベートフィルムとして身内で見ればよいものです。
映像もセルフオマージュなのかもしれませんが、過去作を上手く織り込んであるというより、見覚えのあるもののツギハギという印象で、懐かしくて感動するより先に飽きてしまいました。
ザ・ジブリ
映画館に行く機会がなく、とりあえず久しぶりに行こうと見に行った。
最後に見たジブリは本当にナウシカとかトトロとかの時代のしか見ていない。
冒頭から懐かしいジブリの映像があった。BGMもなく、日本家屋の床を歩く音などとても心が落ち着いた。
話が進むにつれ話が雑に分裂していると感じた。母親の死、アオサギ、おばあちゃん、曾祖父、外れにある建物、話がばらばらでいずれ紐解かれるにしても雑に広げている感じがあった。話もリアルよりでファンタジーじゃないのかと思っていた。
そこから話が展開していき一気にファンタジーになり、話の展開的には前半は話がバラバラだったが、幼少期の母親とインコの家で出会ってからは割と楽しめた。最終的には自分が求めていたジブリをしていてよかったと思う。
最終的に特に感じることはなく、まあジブリってよかったよかったで終わるのはらしいから、これで十分な気がした。
ただ、話の展開の仕方の雑さ、面白い部分が後半からしかなかったりと展開が全体的に満足するものではなかったなと思った。
あとは、視聴者からすればメタ的に読み解くことができる部分を登場人物たちがなかなかの速さで理解していたのが結構気になった。まあ、賢ければそんなものかと流しているが、もしかしたら世界が南淳もしていたりなど秘密があるかもしれない。
まあ、ジブリなのでそういった考察は野暮なので特に気にせずジブリを見たという満足感だけで十分よかった。
宮崎流身勝手の極意!
宮崎さんは最後に高畑勲さんみたくわがままし放題をやりたかった。
かぐや姫の物語みたいに金と時間とスタッフを贅沢に使いまくり庵野さんから超有能なスタッフを引き抜きファンにもスポンサーにも忖度しないわがまま作品をつくったんだなと思いました。
その結果はかぐや姫の物語と同じくなんとも言えないつまらん作品に仕上がった。
それでも宮崎さんのコアなファンは評論や分析や解釈のしがいがあって大喜びですかね。
ネタバレなのかな?
主人公の母親は、「君たちはどう生きるか」を大人になった息子へ贈ります。この作品は本来は青年に成長する前の子供向けに書かれた作品。自分で考え行動する習慣を持ちなさいってね。
一般に物語の主人公は作者の分身であり読者の分身でもあります。
つまり宮崎版「君たちは〜」は、これまで忖度しまくった作品を残してきた宮崎さんの過去の自分への決別宣言であり、さらに大人になっても子供向けアニメみたく分かり易いストーリーを期待してわからんぞと憤ってるファン(私)への説教かなと。
マーケティングの勝利
事前情報をシャットアウトしての公開は、宮﨑駿の復帰作だからこそ成立するマーケティング手法ですね。じゃあ映画の中身がそれに伴っているかと言うと、正直言ってあんまり関係なく、単純にファンタジーものとして楽しめました。じゃあ、ファンタジーものとしてどうかと言うと、正直言って過去の宮﨑作品の既視感たっぷりの内容でした。しかし、後半の異世界篇から段々と世界観や誰が何をしたいのかの方向性が分かりにくくなって迷走気味なのが残念。この体験が主人公の少年にどのような影響を与えたのかもよくわからず、パッツンと切ったような幕切れも唐突です。宮﨑駿ファンには悪いけど、監督の心境とか、なんかのメタファーがあるかもしれないけど、ピンときませんでした。役者では、菅田将暉がビックリのキャスティング、全然気がつきませんでした。
難解?いえいえ カへカへ テーマはわかりやすい「コピー」です カへ
7月14日、15日、16日、22日視聴。
映画が、まだ身体の隅々まで沁み入っていない現時点での感想です。
まず、以下『』内、私の7月19日tweetを、ご覧ください。
本稿のダイジェストとなります。
『 ネタバレ注意
インコは声真似。コピー の象徴かと。
大叔父様や彼の築いた世界は、黒澤明監督的な存在や映画界の比喩でしょう。
最終盤「時間がない」のに追い打ちをかけるようにインコ大王(コピー)の心ない行動で映画界は崩壊。
宮崎駿 流の警告?
定めならね 従うしかないんだよ? 』
君たちはどう生きるか のテーマ、「コピー」は2通りあるように思えます。
インコを通して描かれるもの
インコを通さず描かれるもの
今回は、公開後徐々に声が大きくなってきていると思われます、インコを通さず描かれる「コピー」 セルフオマージュ(今までの宮崎駿作品にこんなシーン出てきたでしょ)
については、記述しません。
インコを通して描かれる「コピー」についての記述となります。
まず、君たちはどう生きるか でインコとは何か。
インコは声真似をします。これは「コピー」の象徴かと思われます。
スタジオジブリは、自社映画作品の国内でのネット配信(アマゾン、Netflixなど)を認めていません。これは、一言でいえば行き過ぎた「コピー」を嫌っているからです。
作品最終盤、インコ大王は、心ない行動により大叔父様の築いた美しく幻想的な世界を
崩壊させてしまいます。具体的には、大叔父様が眞人に3日に1個づつ積むよう用意した13個の悪意に染まっていない石を、インコ大王が、まるでファスト映画を表現するような素早い動きであっという間に積み上げてしまい、積み上げられた石は案の定すぐにバランスを崩し~大叔父様の築いた世界はあっけなく崩壊します。
また、インコ帝国にいる無表情な、おびただしい数のインコたちはネット配信など、氾濫する「コピー」のわかりやすい例えでしょう。
つまり、ネット配信やファスト映画など、行き過ぎた「コピー」の横行によって、いまに映画界は崩壊しますよ、という重大な警告メッセージというわけです。
続いて
大叔父様や彼の築いた世界は、黒澤明監督的な存在や映画界の比喩でしょう。
について
「1993年4月、宮崎駿監督は、黒澤明監督と対談します。その模様はテレビ放送され、今もYouTubeで視聴することができます。また書籍化(「何が映画か」)されています。
宮崎駿監督52歳の頃です。対談の様子を一言でいうと、平身低頭。宮崎駿監督は黒澤明監督への敬意を隠そうとせず、聞き手に徹しています。」
「」内は、ー神の隠れる場所 映画「千と千尋の神隠し」のネガフィルムーより
一言でいうと、宮崎駿監督にとって黒澤明監督は憧れの存在です。また、アニメというくくりでなく広く映画界というくくりでは、宮崎駿監督は黒澤明監督の直系後継者という声が散見されます。
さらに、眞人の夢に出てきた、大叔父様が卓上で自分の積んだ石のバランスを確認するシーンでは、バランスを確認した高く積み上げられた方の石は7つ。(それとは別に2つの石が同じ卓上に。)この7という数字は、黒澤明監督にとって芸術全般の「最良の友」早坂文雄氏とともに完成させた「生きる」「7人の侍」「羅生門」を含む全盛期7作品を指していると思われます。
(※映画「千と千尋の神隠し」で釜爺が千尋らに渡した回数券の残り枚数は4枚。回数券は1951年から11枚綴りが定着。使用された7枚の回数券の意味は?詳しくは ー神の隠れる場所 映画「千と千尋の神隠し」のネガフィルムー を)
話が堅苦しくなりましたが、スタジオジブリ公式ツイッターのトップページを、ぜひご覧ください。7月14日公開日以降、かわいいアオサギのキャラクターがカヘカヘ鳴いています(笑)これはアオサギの鳴き声のふりしてモールス信号という声が大きいですが、私はさらに映画のテーマである「コピー」を表現していると読みます。
昔は(今でも)コーヒーのことをカフェと。カフェを単純化してカヘに。
カ→コ、ヘ→ヒに置き換えるとコとヒ、つまり「コピー」が浮かび上がるという仕掛けと
読んでいます。
ぜひ家族連れで鑑賞していただき、観終わった後上記のようなうんちくを、お子さんに。
気軽に本物の芸術に触れるチャンスかと。
面白い。が、鳥苦手な人は見ない方がいい。
とても面白かった。宮崎さんの良いところが出ている。仮にストーリーが分からなくとも作画だけでも楽しめる作品。ネタバレになるが、鳥が苦手ならマジで見ない方がいい。ほぼ鳥しか出てこない。系統的にはファンタジー。
君たちはどうミるか?
漫画 [君たちはどう生きるか]
の
映画化か(まだ未読ですが)
安心して下さい
ぜんぜん違いますよ(まだ未読なので、たぶん)
とりあえず、[君たちはどう生きるか]
読んでみようかと思います。
この映画について
うわ~!
インコが〜!インコが〜!うわわわわわわわぁぁあぁ〜〜〜!!!
インコ大王だーーー!!
なんだよあれ?(笑)
日々「生きる」を考えていないとピンとこないかもしれません。
示唆に富んだ芸術を鑑賞する時、人生レベルで下ごしらえが必要なのだと感じました。
装飾が多く、本質が見えにくい作品でしたが、物語にあったドアノブのように、タイトルに最初から最後までしがみついていると骨格がわかりやすいと思いました。宮崎駿さんが書籍のタイトルを映画化した点も珍しく、かつ今の時代に必要性を感じたのかもしれません。
結局「僕らはどういきるのか」が結論でしょう。一番単純な作品のように感じました。
誰しも置かれた環境を不遇だと感じる時期はあると思います。
旦那に不満を持つ主婦、やりたくない仕事をしている会社員、同期に虐められている学生。そんな環境で腐っていくのか、立ち向かうのか、諦めるのか、清く真っ当に生きるのか。
「真っ当に生きようとする方が難しい」京セラの稲盛和夫の言葉です。嘘をつく、言い訳をする、人のせいにする、サボる、方が簡単で、本作はそこに堕ちた人を死人と表現しているように思いました。理不尽な境遇に陥り、自分で石を額にぶつけた眞人も死と隣合わせにいのたでしょう。嘘をつくことは誰にでもある。それを白状できるか?私自身、まだ清く生きることはできておらず、道半ばです。
いつの世もきっとそうだった「世の中おかしい」という人々の漠然とした思い。令和も例外なく問題がたくさん横たわっています。こんなに技術が発展したのに人々の心は穏やかでありません。幸福度も決して高くないように感じます。これまで世界を築き上げた先人たちの世も均衡がとれなくなっている今、僕らはその積み木を積み上げて、未来へと紡いでいく。僕らの意志をピースとして世に影響を及ぼしていく。その意志が悪なら絶対に崩れるし、善ならきっと更に良いものが創り上げられていくでしょう。
動物、鳥のように本能だけで、欲だけで生きていくのか。社会あっての自分、と考えて人のために、社会のために、世のために生きるのか。後者はさぞかし困難な選択です。気高く、清く生きる勇気を。その先には爽やかさだけが残るきれいな世界が広がると信じましょう。
分からない…
観る前に「難解」「分からない」の意見があり、どういう事か?確認も含めて鑑賞。
なるほど、確かに分からない…。
自分の理解度が低いせいか、考える力が足りないせいか…しかし、分かる分からないで、結構半々くらいに分かれているらしくちょっと安心した。
かの有名YouTuber曰く、アート作品であるから例えばモナリザの絵を見て普段からそういう物に触れていて分かっている人には分かるがそうでない人にはよく分からない、という感じらしい。
作者の宮崎駿も途中よく分からんという様な事を言ってたらしいし…笑
個人的には分からないに加えて、なんとなく盛り上がりに欠けるというか、何か大人しい感じがして、宮崎駿も歳とったなぁと思ってしまった。
宮崎駿の劇場版エヴァンゲリオン。あらかじめ宮崎駿という人物考察が必須
個人的にはめちゃくちゃよかった。
良かったというのは、自分が思ってる宮崎駿像を答え合わせてきたという点。
本当にその点に尽きる。
まず先に言わないといけないのは、宮崎駿という人物に興味を持っていないと、まるで言っている意味が分からないだろう。
映像作品そのものとしては、冒頭の小手先のビジュアル的な上手さ以外は、心惹かれないのではないかと思う。
物語の内容は、大きく2点フォーカスが当たっている。
・現在の子供の成長環境の問題(と片親問題)
・ジブリスタジオが歩んできた軌跡(隆盛と衰退。後継者問題)
この2点は宮崎駿本人が、ジブリスタジオ内に保育所を作り、そして直面した後継者問題でもある。
なのだが、それと同時に、宮崎駿自身の個人的な感情をぶちまけた感じになっており、瞬間的な感情をそのままぶち撒けているだけなので、その瞬間何が言いたいかはとても分かりやすく、そして荒い。
全体を通して言いたい主題というのは弱い。
以下雑に考察を書くが、精度は他の方が高いと思うため、流し見程度で見ていただければと。
一つ一つのパーツは分かりやすい。
眞人=宮崎駿が思い描く理想的なジブリ後継者であり監督本人の分身
大叔父=宮崎駿、屋敷=スタジオジブリそのもの(一面ではアニメ業界全体)
大叔父はどう頑張っても1日くらいしか世界を変えられないと自覚している。
しかし大叔父の思想を受け継いでほしいと思っている。
アニメ(ジブリ)に触れる=穢れている構図があり、穢れずに駿本人が認める後継者が見つけられないという現実。駿本人は大人がアニメを見ることをずっと否定している。駿本人が納得しうる絵やテーマを描くことができる人物がいないという現実。
この辺からして大体病んでいる。
そして子供の成長を妨げる片親問題、現代的な子供の孤独、成長環境への危惧、仕事を優先する毒親等…。
前半はこういった要所をそれぞれ描かれていると思う。
最後に場面に鳥の糞の表現がある。
これは鳥の糞でも掛かってしまえ、ざまあみろという監督の悪意にように、個人的は思った。ここの解釈はいろいろだと思う。自分が思っている宮崎駿は、こういうことをやる人間だ。
軍事産業に猛進し金と資本主義の亡者の父親。くそくらえだ。
子供そっちのけで男といちゃついて本心では子供が嫌いな母親。くそくらえだ。
自殺未遂を行う孤独で愛を失い、屋敷(ジブリ)のかけらを持ち帰った眞人。くそくらえだ。
ただ、鳥の糞が掛かっても、それぞれのリアクションは違う。そこに登場人物それぞれの意匠があるように思う。
最終的に積み木の一かけらを持ち帰った眞人
それは純粋ではない欠けら。監督自身が愛したいくつもの純粋な原作作品(ハウルやゲド戦記など原作)とは違う、屋敷(ジブリ)によって生み出されたかけらを持ち帰ってしまった眞人は、この先どう生きるのか。
それが作品の終わりになっている。
あくまで一人の人間の解釈であるが、総括としては以下のような感じだ。
君たちはどう生きるか。→ 自分はこう生きたけど、お前らはどう生きるのか?
それがこの作品のタイトルの問いかけ。宮崎駿人生そのものを書いたに過ぎない。
宮崎駿という超絶アニメーターで一代で作り上げた大ヒット映画監督が、アニメに込めた思いも碌に伝わらないこの世の中で、凡人のお前らがこの世の中の一体何を変えられるというんだ、というプライドからの蔑みも聞こえる気がする。
岡田斗司夫の言葉を借りれば、単純に言えばアート作品。
それがとても的確のように思う。
この作品を最後まで見て、本当にジブリを継ぐものはいないんだなと。
この作品を作って監督は、最後にパクさんに恥じない作品と作ったよというのだろうか? それとも完璧に作れなくてパクさんにまた怒られるなと思っているのだろうか?
そう思うと俺は帰りの電車で思わず泣いてしまった。
追記にはなるが、ヒミが現れたあたりから内容がガラッと変わる。
前半は本人の思っている美しき日本の肯定や内面描写が多く書かれているが、後半は西洋文化の肯定、大きな権力への屈伏、アニメ業界から期待されるジブリスタジオと、理想から現実にガラッと描くものが変わっている。
理想・根源的な動機はこうだったが、現実にはこんな妥協も起こってしまうし実際できなかったんだということが描かれていると思う。この辺りがこの作品をわかりにくくしていると思う。
宮崎版エヴァなのだろう
引退かと思われた宮崎駿監督の新作が見られるということで、しかし全く宣伝が無かったということと、タイトルの地味さが気になってあまり見に行く気はなかったのだけど時間があったので公開日に見た。
前半と後半でまったく舞台が異なっていて、その展開にぽかんとしてしまうところがある。
もっと今生世界と地底世界のつながりを感じられる描き方があるとよかったんじゃないだろうか。
物語の骨格は、大叔父さんがアオサギを使って少年を地底世界にスカウトする話、
少年の母親の死と、疎開先と新しい母親とやがて産まれる兄弟を受け入れられずに悩む話、
これを時代世代を超越した不思議な地底世界を絡めて見せるというもの。
最終的に少年はすべて現状を受け入れることで終わる。
大枠として少年の内面の話になっているので、これはエヴァなのかなと思う。
風立ちぬでは庵野が声優をやっていたし、宮崎監督もそれっぽいのを作りたくなったのかもしれない。
少年の父は聡明で活発で仕事もできて、女にモテる。
死んだ妻の妹を早速孕ませてしまうのだからとんでもないエロ親父である。
真面目な少年はそんな父を苦手に思うのは当然で、新しい母親にもどうにも馴染めない。
そりゃあそうなんだが、地底世界に行ってから特に脈絡もなくこの新しい母を受け入れてしまう。この辺の心理がよく描かれていないように思えた。豹変したように見えた。
そういえば地底世界は崩壊したようだが、だからと言って世界にさしたる影響は無かったように見えた。ただの夢の世界だったのだろうか。消えても良いものだったのか。
全体として、物語を構築するための大事な部分がいくらか抜け落ちているような印象をうけた。
もっと丁寧に作ってくれると良かったと思ってしまう。
なお、ジブリ飯の描写については大いに不満。
今生世界では砂糖に群がる婆しかないし、地底ではシチューが冷めてしまうし。
ただ食パンを無表情にかじるだけ。
特にシチューが冷めるシーンは本当にがっかりした。
どうでもいいから早く飯食いに戻れよって思っていた。
監督が歳を取ってしまって食への執着が薄くなってしまったのだとしたら残念でならない。
追記:
NHKの特集を見たが、大叔父は高畑監督で、アオサギは鈴木プロデューサーなんだそうだ。
なるほどそういうことならこの映画タイトルも納得がいく。
この二人に大いに振り回された自身を回顧した映画というわけだ。
そのうえでお前たちもこんな濃密な人生を送れているかと問うているんだな。
ただやっぱりそのような背景を知らなくても楽しめる作品として作りこんであれば尚よかったと思う。
う~ん、何を言いたいのかわからない。
つまらないの一言かな・・・。
見るのが途中でつらくなるレベル。
転校後、同級生にいじめられていて、なんでそのあと
自分で石で頭を傷つけたのかその思考回路も理解できない。
なくなったお母さんと新しいお母さんがそっくり?
急に失踪をして、不思議な世界へ踏み込む。
なくなったお母さんが生きていると言われるも、
触ると、どろどろにとける。。。
シュールすぎる。
屋敷にいる奇妙なおばあさんたちの存在もよくわからない。
そのうち一人が若い姿で不思議な世界の中で活躍するとか、支離滅裂。
いんこや青さぎ、ペリカンが気持ち悪く描写されていて、
見ていて不快感しかなく。
いんこの王様、なんだこれ? 最後、自分勝手に自滅か?
キャラ的に理解ができないし、共感ももてない。
キャラクター、すべてに興味を持てず、名前すら憶えていないけど、
あの火をまとう女の子も意味不明すぎる。
ストーリーがすごく分断されていて、一貫性がなくよく理解できない。。。
感動もなにも感じない。時間の無駄だった。
こういう映画は、あまり好きではなく、理解ができない人です。
だから、このような辛口コメントで申し訳ありません。
劇場で見たのはお金の無駄だったなと後悔しました。
声優も有名な人を使っているのも、、、、もったいなさすぎる気がします。
宮崎駿全部盛り
まずはアニメーションの描写のこだわりを感じる部分が多くて魅了された。眞人がズボンのファスナーを上げる、水中から浮かびあがる、キリコさんが主に乗りあげる動作などなど、細かい描写にフェチズムすら感じる場面が沢山あったと思う。
ストーリーはさておき、宮崎駿作品の名シーンをセルフオマージュしたような場面が沢山あり、宮崎駿作品のファンなら滅茶苦茶楽しめるのでは無いでしょうか、どうでしょうか
個人的には眞人と青鷺がテーブルに並んでキリコからお茶?をもらっているシーンがポニョに出てくるシーンに似ていてほのぼのして好きでした。
どこかちぐはぐで整合性の取れない設定やセリフのやり取りは、これが監督の頭の中に存在していた存在で、それぞれが独立した世界観を持っていてその世界の条理に従って行動しているからなのではないかと感じられてこれはこれで面白かった。
宮崎駿が自分のアニメーション人生を振り返り終わらせるような内容とも、この某石屋に支配された世界を憂いたような意味深な内容とも取れて興味深かった。(深読みすれば、それが理由で宣伝を打たなかったのかな?など)
向こうの世界での魔術的な要素は最初は西洋的だと思っていたけど、結界的な要素や式神を弾き飛ばすような要素から陰陽的な世界観なんだろうか?
眞人が青鷺の風切羽を使って矢を作ったけど、米を一旦口に含んだことで力を持ったんだろうか、もしくはあの世へ通過するするための神事的な要素なのかしら(君の名はの口噛み酒的な)、など色々考えながら観るのが楽しかった。
あと作品に出てくる沢山の鳥!鳥鳥鳥!鳥が苦手な人はさぞかし苦痛だった事でしょう
あの鳥たちはなんの意味があったんだろう
鳥といえばTwitterを連想します笑
インコはただただ作品をネタとして消費するだけのSNS民への意趣返しだろうかなんてTwitter民の私は思ったり刺さったりしました笑
だとするとペリカンはアニメオタク達かなあ
あのインコたちのフスフスな鼻息がちょっと可愛かった
他にも主とふわふわ達が生殖行為をモチーフにしているだろうという事から、キリコさんは大叔父とそういう関係だったのかも?
久子が2年後に戻ってきたという事はキリコも2年神隠しにあっていたのかな?
宮崎駿は手塚治虫と色々あった、という話をよく聞きますが、最後の青鷺の友達という言葉に、なにか本人達にしか分からないような想いがあったのかな、とうっすら感じました。
個人的に色々考察していくのも楽しいかもしれない映画でした。
エンドロールにまたびっくり
え、菅田将暉だったんだ!!!
全756件中、301~320件目を表示