君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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あれは宮崎駿作品とは言え無い
世界観や、あらすじ、登場人物の背景は宮崎駿が作ったんでしょう。でも、作品全体をまとめあげる作業はしてないと感じました。人物の表情が死んでるのはあらすじからその場にふさわしい表情を読みとる想像力が欠けてるからでしょう。パンにジャムを塗り過ぎるのは良い食事が何か知らないからでしょう。美味しいと台詞を吐き、美味しそうに食べない。口の周りにジャムを付けすぎてあまつさえそれを拭き取った。相手が母と知って思春期の少年があんなハグをするのか?継母はあんな矢を射れる判断力や経験があったのか?何故あの世界を知っていたのか、何故帰りたく無いと言ったのか、何故妊婦は無条件に保護されるのか、門の先には何があったのか、巨大な船は遺体を埋葬出来るほど土の層があったのか、婆の人形、キリコは持ち込まれたから、いいとして、他の婆の人形はどこから調達したのか、数えるのが難しいほど納得出来ないまとまりの無い行動、回収されない伏線を残した。
宮崎駿は昔、「嘘のレベル感」と言う話をした。(殴って血を吹いても、次のカットで全快出来るギャグマンガであるとか。)あの世界の嘘のレベル感は、塔の中と外で分けられているかと思ったが、蛙の大量発生や人語を話してしまう青サギなどで十分に分けられていない。
鉄則や、大事にして来た丁寧な仕事を投げ出し、過去作から劣化流用した表現が散見される本作が宮崎駿本人の作だと本当に言うのであれば、もう今後の作品に期待する事は何もありません。
ありがとう宮崎駿
偉大な監督の最後になるだろう作品としては物足りないと言わざるを得ないです。
所々過去作品を彷彿とさせるシーンが散りばめられていたりと、完全にファン&監督の自伝的な感じの作品だったのではないでしょうか。
メッセージ性もなく、何を描きたかったのか、よくわからない作品でした。これなら人物を一切登場させずに美麗なアニメでの風景表現だけに注力したほうが良かったのでは?と、残念でなりません。
君たちはどう生きるか
この作品を見てまず感じたのは壮大なクエスチョンでした。話の中に必然性をみつけようとすると無理難題の迷路に迷い込んでしまいます。しかし、その中にあるすべての描写から力強いメッセージが伝わってきました。中でも印象的に感じたのが宮沢賢治との関連性です。要所要所で馴染みの賢治童話を彷彿とされるようなシーンがあり、とくにやまなしとの類似性は強く感じました。また、最後宇宙に帰結するところもとても考えさせられました。
今作品において正解を見つけることそれはとてもナンセンスであり、考え感じることが大切だと思います。何度も何度も見返したくなり、宮崎駿さんという人を知りたくなる。そんな作品でした。
わからなかった^ ^
私理解力皆無だから一切内容分からなかったです(^^♪
なんか夢見てるみたいだったから寝かけたけどまぁ駿っち好きだからみたよ〜❤︎前日にポニョみてたからポニョみたいなんだろうって思ったらちゃうかったからそこ注意ね〜
まぁでも面白かったよ>3<
老いてしまった宮崎駿
観客のためのエンタメ映画ではなく、宮崎駿の精神的なマスターベーションに過ぎない内容。自らの青春やジブリの仲間等を描きたかったようだが、内容が抽象的、かつ、伝え方が弱いため、それすら伝わってこない。エンタメでもなく、表現・シナリオも中途半端で多くの観客が期待していたであろう『宮崎映画』ではないことだけは確か。
お金を払って期待して観にきたであろう、子どもたちには酷い内容である。勿論、大人たちに対してでもあるが。
これまでの制作委員会方式ではないため、制作過程で客観的な他者の意見を聞く機会がなく、ひたすら個室に閉じこもって作っていたということなのだろう。老人による独りよがりの映画。風立たず、である。
単純につまらない映画でした。
最初の一時間くらいは、ホントに退屈でした。後半、少しは動きもあり多少はマシになりましたが、最後まで観た感想は、つまらない映画だったなーでした。
映像は綺麗なシーンもあり、宮崎監督のメッセージもなんとなく伝わりましたが、それにしても映画としてはつまらなかった。ホントに残念な映画でした。
新・銀河鉄道の夜。人生は冒険だ、の集大成。
初日に観に行きました。が、整理がつかなかったので、頭の中でグツグツと煮えたぎってたものを吐き出したいがためにレビューします。
説教臭い映画との前評判。しかし、数々の名作を生み出した宮﨑駿監督、当たり前ですが、登場人物の背中で語らせるくらい朝飯前です。これからの方は、安心して観に行ってください。
ただ、行間の説明が少ないことや比喩的な表現に、頭が追いついて行かないので難しい。分かりやすくは無い映画ですが、観てよかった映画です。
さて、ここからが本題(ネタバレ)。
監督の他の作品である、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョ、また他の作品と共通しているのが、異界への挑戦と冒険だと思います。
千と千尋の神隠しは、引越し→湯屋→銭婆、ポニョは嵐→海に侵食された世界→ひまわり園。他の作品も穿ってみれば似たような表現は見受けられます。トトロとかラピュタなど、涅槃や幻想郷とも言うべき世界への旅立ちは宮﨑監督の魅力的な所の1つ。
そこで表現されるのは、生きるための強さ。
今作もまさにそのパターン。
空襲、引越し、新しい家族、馴染めぬ新天地。その生きづらさは、現代でも共有できるものが少なからずあるのではないかと思います。
その環境の中、主人公は、行動力と知性に溢れ、自ら試行錯誤して弓矢を作成し、アオサギと対峙します。監督が求めているだろう、生きるための強さを持っているタイプです。タバコで屋敷の老人を買収する強かさもあります。
ただ際立つのは、独立独歩の精神であり、周りに馴染めぬ主人公の未熟さです。例えて比較するなら、パズーは採掘場やドーラ達大人の協力を得る必要性を理解していましたが、主人公は全部自分で解決しようとします。
そこで登場するのが、未知で不気味なアオサギ。
今作のテーマは、どう生きるかであり、人間が誰しも持つ問題である人間関係の象徴が、アオサギだと思います。物語を通じての1番の敵にしてテーマは彼。
彼は、未知なる他人です。
幼い母は、別れと産み繋ぐ喜びと、生への肯定。
新しい母は、絆を紡ぐことの難しさと、歩み寄ることの大切さ。
老婆は、見守られていることと、生きることの範。
大叔父は、問題提起と自らの失敗と継承。
それぞれ役割があるなかで、アオサギだけが直接、主人公と関わりを持っていない他人です。
見ず知らずの、どのような利害関係をもっているのかも分からない、ある種老獪な雰囲気を纏うアオサギは、現代社会の中の他人の象徴です。
異界に赴き、冒険を通じて、彼とどう向き合ったか。それが、自ら怪我を負った後に、母からの贈り物である本(タイトル)を読んだ彼の変化であり、物語の最後の答えに繋がってきているのだと思います。
そして、冒険からはいつか帰らねばならないと、ピリオドを打つように、終戦→思い出深い屋敷を後にするという新たな旅立ちがまっています。終戦後、どこも苦しい焼け野原の状態。そこで、どう生きていくか。屋敷を出た瞬間、それを問いかけられるわけです。新たな冒険です。
人生は冒険であり、生き抜く強さとは、そしてどう生きるのか、と、一貫して訴えかけてきているのでしょう。他の作品のことを思うと、まさに一貫してメッセージを送っているのだなと思います。まさに、集大成。
観てよかったなと思いました。
余談ですが、頭がグルグルしているうちに、ふと、宮沢賢治の銀河鉄道の夜に似ているなと、思いました。
あの作品も死後に類似する世界からの帰還と、本当の幸いの体現(生き方の追求)で、締めくくられています。
童話、ファンタジーの違いこそあれ、人が至る、どう生きるかという問いかけを、繋げたからこそ、新だなと感じました。
宮﨑監督と宮沢賢治の意図するところが同じかは分かりませんが、生きている時に、この作品をスクリーンで観られて良かったと思います。
充実した2時間
ジブリ節全開の映像美、過去のジブリ映画の名シーンを彷彿とさせる印象的なシーンの数々。改めて、宮崎駿の作品は何気ない仕草ひとつひとつにに本当にこだわりを感じるなあとしみじみ思った。CGを駆使したり光の描写にこだわったり枚数で攻めたり、美しい映像を売りにしたアニメ映画は今では星の数ほどあるけど、ジブリだからこそ・ジブリにしかできないが徹底されてて非常に満足できた。
ストーリーも、最近の宮崎駿作品の中では非常にテーマが分かりやすく、自分の中で噛み砕きやすい内容だと思う。泣くことはなかったけど、鼻の奥がツーンとなる瞬間は何度もあった。
思うに、この作品が「何が言いたいのか分からない」と賛否両論なのは、合理性のある脚本ほど賞賛される現在の風潮にそぐわない作品だからではないかな。巧妙な伏線を張り巡らしてそれを回収する脚本が素晴らしい。全ての描写は、壮大かつ納得感のあるラストのために存在すべき。そういう考えの人には全く合わない作品なので観に行くだけ無駄。あとは、正解の解釈が存在せず、観た人が抱いた思いに委ねる作品だから、感想や解釈に正解ばかりを求めてしまう現代の若者向きではない。この辺は過去のジブリ作品もみんなそうだと思うけど、昔の作品は考察され尽くして「この作品はこう視聴するのが正しい」みたいな定説が確立してるから、それに従って観ればいいからね。
断片的な描写から自分なりに色々考察してそれに満足できる人、瞬間瞬間の映像美や登場人物の行動に楽しみや感動を見出せる人、映画全体としての整合性を必ずしも重視しない人におすすめ。
こんだけワケわからんというのは奇跡
一回目何も前情報なしで見てきましたが、正直全然意味が分かりませんでした。帰ってきて考察や解釈を色々調べてみると、なるほどこういうことだったのかと分かりました。ワケわからん中で描いていたのは普遍的な人間の本質や悩みで、めちゃくちゃ共感する、感情移入する部分があります。
分かりにくくてワケわからんことに対して、かなり批判的な意見が多いですが、私はむしろワケわからんことが嬉しいですし、こんなにもワケわからん映画を作れることは奇跡のように感じます。ここまで分かりやすさよりも表現を優先するということは、作り手と受け手の信頼関係がないと成り立たないからです。
作り手は受け手が汲み取ってくれることを信じて、分かりにくくても面白い表現、美しい表現を選択する。受け手は作り手が全てに意味を込めていると信じて頭をひねって解釈する。こんなことができるって奇跡のようなことだと思います。ちゃんと分かりやすくしようとしたらいくらでも分かりやすく描く方法はあるし、恐らくそれだけの技量ももってらっしゃるのにそうしなかった。私達観客は信頼されているのだから、それに応えるべきです。実際にワケわからんだけだったものが、他人の考察を読むだけでもめちゃくちゃ面白い映画に変わります。
評価が二極化する理由は充分に分かります。しかしこの映画は誰でも楽しめます。評判でこれは分かる人にしか分からないみたいな事が嘯かれていますが、面白いと感じるのに教養や知識などは特段必要ないです。なんせ誰しもが悩むことについてかいてあるから。楽しもうとするか、それだけだと思います。少しググって考察みるだけでここまで素晴らしいと感じれるのだから、面白いものに出会いたくてこの映画を見た人は、それをしない手はないです。
ワケわからんかったという人は是非、考察や解釈などを調べたり自分の中で考えてから2回目を見てみることをオススメします。めちゃくちゃ面白いです。まじで面白い。このままワケわからんで放置するのは本当にもったいない!!!
吉野源三郎と勘違いする
てっきり吉野源三郎の小説の内容と思って見に行ったが、まったく関係なかった。少年少女若者向けの単なるファンタジーだった。戸惑う題名と宣伝をしないでほしい。小中学生の課題映画になることを期待していたが、関係なかった。
ご老体が最近よく見る明け方の夢
……をそのまま映像化したんだよこれ。だって実家に零戦のキャノピーが置いてあったって半藤一利との対談集で読んだし。
過去に見たことあるようなキャラの総出演といい、少しづつ自身を投影したような主人公や大叔父といい、REM睡眠中に見た記憶の断片をそのまま商業映画に載せちまったとしか思えん。スタッフも?マークの中、帝王の言いつけ通り制作したんだろうなぁ。色んな解釈がなされてるようだけど、ご本人の夢の映像化だから考えるだけ無駄な気が。(まあ考えてみれば千と千尋もポニョもようわからん映画ではあったが)
我々中高年はそれでも表現の端々に共感を得ることもできるが、ものすごく楽しみで目を輝かせてた親子連れが終わって出て来る時の表情を見て、何だか罪なことするなぁと思ったのが結論。お父さんが解説に苦労するので家族で見に行っちゃいかん映画。
難しい
通常スクリーンで鑑賞。
★3つになったのは、
ストーリーが難解
声の役者の力不足
前情報が何もないのが裏目に出てる
主人公の年令と思考・行動がミスマッチに感じ違和感
あたりでしょうか。
知人からは現実の話だよね。と聞きましたが、全然ファンタジーですよね?
宮崎アニメの中で考えると、ハウルの動く城に雰囲気が似てるように思えました。
絵は素晴らしく、童話の絵本かと思えした。
ただ、次々と世界がとんで行くのに思考が追い付かない。
その他、声が有名俳優さんがたくさん出てくる割に下手くそ(誰かは書きませんが、前情報が無い様なやり方するなら、もっと純粋に本職声優さんや、昔の宮崎監督らしく何処から連れてきたんだろうみたいなはまり役を何故器用出来なかったんだろう)。
前情報が無いって事は、本編は誰もが物語の本題を押さえられる位の解りやすさにして欲しい、原作を読めば(未読です)解るのか知りませんが、映画として物語が成立していないと、と思うのは私だけでしょうか。
主人公の年令と思考のギャップがある事や、自傷行為をした理由などがいくつか思い当たるもその中のどれかわわかりませんでした。
この尺の中に収めるのに無理がある?
故に、勝手に推測すると、
晩年の宮崎監督は自身の描きたい物語と絵を描いて、年齢的にも丸くなってしまった為、細かい事は制作側に一任したら制作側の政治的理由などで物語のクオリティなど気にせず、どんどんダメな方に行ってしまった。
的な?
すみません、あくまで私の勝手な想像ですが。
素晴らしい所と、疑問ばかりの点と両極端が存在する作品という印象でした。
これは宮﨑駿の生き方を知っていればわかる映画
これは元々宮﨑駿が共産主義者として学生運動をしていた事と映画の内容が重なっていると思う。
昔の学生運動では、共産主義世界を実現した北朝鮮はこの世の楽園とうたっていた。ところが現在では共産主義世界の理想は崩れ去り、次の世代は競争社会である資本主義を選択した。
これから生まれてくる子供達が、どのような道を選択していくのか?と問いかけた内容の映画だと思う。
そして伝説へ
ジブリ作品とともに昭和、平成を駆け抜けて来た中年です。
千代の富士や、イチローでも体力が落ちて引退する日が来たように、永遠に最強だと思っていたジブリ作品、宮崎先生にもその時が来たのではと感じてしまいました。
圧巻の映像は、やはり別格のクオリティでしたが
新しさが感じられない。主人公が少年なのに若さが無い。
メッセージもストーリーもここまでくるとカオス。
ポニョあたりから、エンタメというよりは半分哲学書を読んでいる感覚
全盛期のジブリの、とにかく鳥肌の立つような躍動感、エネルギー、メッセージ
有無を言わさず名作といわしめるパワーがない。
何も考えずに世界観にひきこまれて魅了された、かつてのジブリ作品達は
巨匠宮崎駿とともに伝説となるのでしょう。
若者たちよ!未来の巨匠たちよ!君たちの作品が世界をうならせる時がきたぞ!!
遺言、確かに受け取った
舞台は戦前。主人公の真人は小学生の男の子。
父と一緒に引っ越した疎開先には、亡くなった母の妹(叔母)が義母として出迎えてくれる。真人は亡くなった母を忘れられずに、叔母が義母となり、しかもすでに妊娠している事実に戸惑いを拭えない。そんな中で田舎暮らしをしていたが、家の近くには先祖が建てた塔がありその入り口は異世界へ繋がっていて…というお話。
導入はともかく、異世界はいつも以上にファンタジー色の強いジブリ世界であり、深く考えずに頭を空っぽにしたほうが楽しめる系統の作品と思う。またストーリー自体はメタファーだらけで前後の繋がりがなく必然性のない展開が続くため童話、ともすれば神話を彷彿とさせる(筆者は「不思議の国のアリス」を思い出した)。まぁ、その辺りの細かい議論は考察班に託すとしよう。
今回の映画で受け取ったメッセージは一つだけ。クライマックスでの大きな石をバックにした大叔父様との言葉。
大叔父(妄想)
「君はこの積み木の塔に一つだけ積み木を足すことができる。それは世界のさらなる安定を齎すだろう」
大叔父(現実)
「君はここで積み木を組んで新しい塔を造るのだ」
言うまでもなく大叔父=宮崎駿なのだが、これは以下のメタファーと解釈した。
・石 =宮崎駿の意思
・積み木=宮崎駿の仕事あるいはアニメ制作手法
・異世界=ジブリあるいは既存のアニメ業界
これを有体に抽象化すると
大叔父「既存の仕組みに従って生きるのであれば、君は一つだけ何かを足すことができる(逆にそれしかできない)。ここで私の仕事を継承してほしい」
となる。結果的にいんこ大王=心無い悪意のある大人の手によって積み木は両断され異世界は崩壊へと至ってしまう。この辺りもこれまでの宮崎駿と世間の関わり方を示したメタファーなのであろう。相変わらず作家の主張が激しく前に出ているわけで、またくだらないものを作って…と感じると同時に「この爺さん、自分の正当な後継者が育たなくて寂しかったのかな」と思ったら泣けてきた。
翻って自分の人生を思い返すと、概ね既存の仕組みから大きく外れることなく生きており、日々「積み木を一つだけ足す」作業に没頭しているわけだ。社会の歯車とならざるをえない現実はどうしようもないとしても「他者の悪意に気づき、それを拒絶する感性」まで忘れてしまったときに、自己を見失ってバランスを崩してしまうのであろう。最後に真人と大叔父様のやり取りを掲載して筆をおくこととする。
真人 「それは積み木ではなく悪意に満ちた石だ」
大叔父「それに気づくことのできる君にこそ、お願いしたい」
真人 「ダメだ。僕は外の世界に帰る」
大叔父「外の世界はこれから焼け野原になる。それでもいいのか」
真人 「大丈夫。アオサギのような友達を作ってなんとかする」
個人的に大満足
賛否両論あるので映画館での鑑賞を悩んでいたのですが、誘われて観てきました。
結果、個人的にはとことん『ジブリ』で、でも流行も取り入れつつ、限られた予算と体力の中で魅せてくれた今作に大変満足しています。
自分の場合、考察や解説は昨今YouTubeを見れば鋭い人たちがたくさん動画を上げてくれているので、まず難しいことは考えずに純粋に世界観を楽しむつもりで挑みましたが、子どもの頃に初めて映画館でジブリ作品を観た時の気持ちに戻れた気がしました。
「分からない」「理解できない」という意見が少なくないかと思いますが、無理に分かろうとする必要もなく、ただその雰囲気、宮崎駿ワールドを味わうという楽しみ方もありなのではないでしょうか。
咀嚼するためにあと5回は映画館に足を運びたいです。
主人公は監督の分身で、ジブリで溢れている宮崎作品の集大成。でもストーリーやや薄め。
吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」(1937年)からタイトルを借り、内容は小説と異なる宮崎駿監督のオリジナル。新作の設定やストーリーはそう説明されているが、間違いではないにしても、十分でない。小説と映画が同じなのはタイトルだけではありません。映画で描かれているのは、小説に宿る精神そのものではないでしょうか。
宮崎駿監督10年ぶりの長編は、視覚の大冒険、めくるめくイメージの連打。それらを突き通す「芯」となるドラマが薄味で、日本が敗戦に向かう時代を背景としながら前作「風立ちぬ」よりも苦みや省察に乏しいのが難ですが、ラストには力強いメッセージが「君たち」(つまり私たち)に向かって放たれるのです。主人公が異世界に行き成長して帰ってくるオーソドックスなファンタジーです。
●中盤までの物語(声優名は、筆者の推定)
太平洋戦争中、牧眞人(山時聡真)は実母・久子を失います。軍需工場の経営者である父親の正一(木村拓哉)は久子の妹、夏子(木村佳乃)と再婚し、眞人は母方の実家へ工場とともに疎開するのです。疎開先の屋敷には覗き屋のアオサギ(菅田将暉)が住む塔がある洋館が建っていました。
不思議に思った眞人は埋め立てられた入り口から入ろうとするが、屋敷に仕えるばあやたち(風吹ジュン、阿川佐和子、滝沢カレン、大竹しのぶ)に止められます。その晩、眞人は夏子から塔は、頭は良かったが本の読みすぎで頭がおかしくなったといわれている大叔父様(火野正平)によって建てられ、その後大叔父様は塔の中で忽然と姿を消したこと、近くの川の増水時に塔の地下に巨大な迷路があることから夏子の父親(眞人の祖父)によって入り口が埋め立てられたことを告げられます。
転校初日、眞人は学校でうまく馴染めず、帰り道で地元の少年らからイジメを受けます。眞人は少年らから殴る蹴るの暴行を受けるでした。眞人は道端の石で自分の頭を殴ると、出血を伴う大けがを負ってしまいます。
自室で寝込んでいる最中、アオサギが眞人の部屋に入り込んできます。それをきっかけに襲ってくるアオサギに木刀で立ち向かうのでした。アオサギに「母があなたを待っている。死んでなんかいませんぜ」と話しかけられ、眞人は魚やカエルたちに全身を包み込ります。
眞人の怪我に正一が校長に怒り狂う一方で、夏子は妊娠によるつわりに苦しみ、何度も眞人の顔がみたいと周りに話しますが、眞人は夏子を受け入れることができず、そっけない態度をとってしまいます。
眞人は、ある日夏子が森の中へ消えていくのを見かけるのでした。そして自室で久子が昭和12年に眞人のために残した吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』を発見し、読んでいくうちに涙を流してしまいます。
その日の夕暮れ、夏子の失踪に屋敷中が大慌てになる中、眞人は使用人のキリコともに夏子の後を追って洋館の裏口に入り、閉じ込められてしまいます。
そしてアオサギからは偽物の久子を見せられるのです。怒った眞人はアオサギに弱点であるアオサギの羽根「風切りの七番」を矢羽根にした矢を放ち、アオサギの嘴を穿ちます。するとアオサギは半鳥人の姿から戻れなくなってしまいます。塔の最上階にいる謎の人物に命令され、眞人とキリコは「下の世界」へいざなわれていくのでした。
「下の世界」に落ちた眞人はペリカンの大群に襲われ、「我ヲ學ブ者ハ死ス」と刻まれている墓の門を開けてしまいますが、通りすがりの船乗り・キリコ(柴咲コウ)に助けられ、成り行きでキリコの仕事を手伝うことになります(殺生ができない「下の世界」の住人のためと、生まれる前の魂たち・わらわらを飛ばすのに魚の内臓が必要であるため)。 仕事を終え、外へ出た眞人の前で多くのわらわらたちが飛び始めました。それを狙ってペリカンたちがわらわらに襲い掛かり、捕食を始めたのです。
そんな中、舟に乗って現れた少女・ヒミ(あいみょん)が自らの力を使って花火を打ち上げ、ペリカンたちを撃退します。わらわらたちも巻き添えになる中、止めろと叫ぶ眞人でしたが、ヒミがいないとわらわらたちは上の世界へ行けないとキリコはつぶやき、ヒミに感謝の言葉を投げかけます。
便所から出た眞人はヒミの力によって瀕死状態となった老ペリカンと出会うことに。老ペリカンは海には魚がほとんどおらず、わらわらを食べるほかなすすべがない、子孫の中には飛ぶことをしないものもいる、どこまで飛んでも島にしか辿り着かない、などを眞人に語った後、力尽きてしまいます。
どこからともなくやってきたアオサギを横目に、眞人は丁重に老ペリカンを土葬するのでした。
翌日、アオサギに手伝わせて水くみをしていた眞人でしたが、アオサギの「夏子の居場所を知っている」という発言から、キリコにアオサギとともに夏子を探しに行くよう提案され、キリコの下を離れる。その際、お守りとして「上の世界」のキリコによく似た人形を手渡されます。
「下の世界」で夏子を探す道中、ピンクのインコに「お待ちしておりました」と告げられ、夏子の元へと案内されるがそれは罠で、眞人はインコたちに囲まれ、殺されそうになる。ヒミのワープする力を使って二人はヒミの家へ移動、そこから夏子がいる石の塔へ向かうのです。
(中略)
インコたちの王であるインコ大王(國村隼)とその手下たちに捕まったヒミは大叔父様のいる塔の上へ連れて行かれ、眞人とアオサギは塔の外壁からインコ大王たちを追っていきます。
●眞人は宮崎監督自身の分身?
劇中の病院の火事で母親を亡くし、父親と共に地方に疎開。母の妹との生活が始まるという件。時代は恐らく1944~45年のことでしょう。宮崎監督自身が幼い頃、宇都宮市などに疎開していた時期と重なります。
主人公の少年、眞人は少し年齢は上ですが、たぶん眞人には監督自身が投影されているのと思われます。
終盤、迷宮の主である白髪の老人が登場、長年担ってきた大事な仕事を眞人に継がせようとします。彼も宮崎監督の分身です。「これを使って豊かで平和な美しい世界を築け」と、特別な石で出来た13個の積み木を差し出すのです。
自分は力を尽くした。バトンを受け取れ、君たちが未来を作れ、というメッセージです。
●宮崎作品の集大成
序盤の描写は、前作「風立ちぬ」に近い印象。実在したゼロ戦の設計者を主人公のモデルにした「風立ちぬ」を継承したかのように、時に映像のダイナミズムをいかしつつ、端正な描写が続きます。時々姿を見せる謎の鳥が何かが起こる予感を感じさせ、眞人の心はざわめくのです。あの時代の日常の空気感を残しながら、ファンタジー世界への扉を開いていきます。
行方が分からなくなった新しい母を眞人が捜し始めると、観客の期待に応えるかのように監督の映像世界が全開となります。上から下へ、風が吹き草が流れ、鳥のはずなのに人間のようであり、日本かと思っていたら無国籍風の世界へ。生きているのか死んでいるのか。まるで一切の境界がうせたかのよう。融通無碍とはこのこと。もはや理屈ではありません。
物語そのものは冒険活劇ファンタジーとして、これまでのジブリ作品の集大成として、各作品の名場面をオマージュしたジブリらしい映像表現が盛りだくさんに見られました。「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」や企画・脚本の「借りぐらしのアリエッティ」など、過去の宮崎作品のモチーフをいくらでも指摘できそうです。でもそんな作品の境界さえなくなっていきます。
床を抜ければ海の上、火に飛び込めば別の家の暖炉、扉の向こうは現実世界。迷宮の塔のイメージは、宮崎監督が愛する江戸川乱歩の「幽霊塔」や仏アニメ「やぶにらみの暴君」から。過去の自作を連想させる描写や人物もちりばめ、宮崎ワールドの集大成と呼びたくなりますが、それぞれのモチーフはきちんと整理されるのでなく、ぶつかりあい、混沌の渦となるのです。
それでも宮﨑駿監督は絵コンテしか手掛けていないとされており、シブリ作品における若い世代への“継承”が見てとれました。
●最後に本作の惜しいところ
様々に思いを巡らせながら、2時間4分の映画を見終わりました。全てをのみ込む渦の中でも、はっきり見てとれたのは眞人の決意と母親への思慕です。
生きにくい世界であっても、仲間と力を合わせて乗り切っていこうというのは、小説の大事なテーマ。小説の主人公、コペル君に絶望せずに生きることの意味を伝えるのは、彼の慈愛に満ちた母親だったではないでしょうか。
眞人は母を失った悲しみから、現実世界に対し悪意に似た思いを抱きます。宮崎アニメに珍しい屈折型です。クセ者のアオサギ男との交流や、行く先々で出会う庇護者の優しさで心がほどけていきますが、眞人が母にどう愛され、ナツコとどう心を通わせたのか、その描写が希薄なので「母捜し」のドラマの推進力が弱くなったのではないでしょうか。
ファンタジーの装いの下、小説のメッセージやモチーフを現代によみがえらせること。作品の真意をそう読み取ってみました。
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