君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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ジブリ過去作を見てきた人には最高のフルコース
過去作を想起させる場面がこれでもかと出てきて、それに気づき始めると作品の内容云々関係なく楽しくなって、駿さんのサービスてんこ盛り!と思ったが、サービスなんてトンデモなかった。いやいやこれは、不安の渦巻く現実、そして未来を生きぬかなければならない私たちへの駿さんからの壮大なラブレターだと思った。私も「人間」を一生懸命生きよう!
私たちはどう生きるか
本日、二回目の鑑賞をしてきた。最近は忙しく、一回目の鑑賞から随分と時間がかかってしまった。
感想としては、「よくわからない」というのが最も正確なものだろう。
もう少し詳しく書くと、この作品は宮崎駿の世界観をそのまま体現したものである。「これまでの宮崎駿作品のオンパレード」と感じるのはこれが原因だ。これまでの作品と比べて宮崎駿という人間をより濃く前面に押し出しているので、とても難解な物語となっているのだ。
この作品は、矛盾点だったり、キャラクターの一貫性の欠如だったり、突っ込みたくなるような箇所がちらほらと散見される。批判を受けたりつまらないと評されるのは、これらのことが原因だろう。しかしこれは「映像によるオクシモロン的表現」「キャラクターの多面性」とも解釈することが出来る。このように解釈することが出来るのは表現の繊細さ、ギリギリ解釈できるような場面を設ける宮﨑駿のやさしさがあるからだが、その根底には「宮崎駿が作ったから」という先入観が存在している。無名監督が作ったらこのような評価はごく一部になり、多くの人からは「駄作」と評されるだろう。宮﨑駿もきっと「売れよう」などとは微塵も思っていないはずだ。好きなものを好きなように表現するという、「売れる」ことを意識しなければならない他の創作者たちからは嫉妬されそうな作品を世に出したのである。
個人的にこの作品は、宮崎駿を永久保存したようなものだと感じた。「自分はアニメ制作に生きたんだ」という思いが詰まっており、クレジットで数多くのアニメ制作会社の名前が表示された様はまさに圧巻だった。
ではこの物語は結局何を伝えたいのか、何を表現したいのか、ということについて少しばかり書いていく。
簡単に言うとタイトル通りである。そのままである。「君たちはどう生きるか」、その問題提起だけして観客にすべてをゆだねている。それゆえ賛否両論が存在している。宮﨑駿は「それも君の生き方だ」とでも言うのだろうか。
この作品には「おわり」の文字がない。このことから、今回映画にした部分は主人公の生き方を指し示す前日譚であり、本筋はその後のキャラクターたち、我々観客たち、そして宮﨑駿の「これからの生き方」にあるのではないかと解釈できる。我々は一度原点に立ち返り「自分はどう生きるか」について考える必要があるのかもしれない。
最後になぜ4.0という評価を付けたかということについてだが、この映画はエンタメ性がほぼないからというのが主な理由である。宮﨑駿による宮崎駿のための作品であり、我々観客はその表面しか掬えないのだ。
しかしこの作品は、宮崎駿という人間の人間性を垣間見ることが出来、その核心に少しでも触れることのできるとても素敵なものとして完成している。
一つの芸術作品として、鑑賞する価値は十二分にあると感じる。
宮崎駿と司馬遼太郎が日本人に遺したもの
最後の作品にして紛れもなく傑作でしょう。
賛否両論渦巻いていますが。
私は熱心なジブリファンという訳ではないですが、ジブリの世界観は日本人なら誰にでも身体感覚として持っているような気がします。
なので誰でも語る資格があるということでご容赦ください 笑
まず過去のジブリ作品が走馬灯のように思い起こされるという不思議な感覚に陥ります。
比類なき創作の才能。
宮崎駿さんが幼少の時に想像を膨らませていた世界が、大人になっても、ビジネスで成功しても、年老いても尚、燃え続けていて、それが深化し続けてていたのだと思いました。
そしてやはりこのタイトル。
吉野源三郎さんの本が出版されたのは1937年。
ウクライナで戦争が起き、タモリさんが戦争前夜と表現した混迷を増す現在において、このタイトルをつけた意図を想像せずにはいられません。
そうしたことを考えると引退作品であった『風立ちぬ』はリアル過ぎたのかもしれません。
最後はファンタジーとして、宮崎駿の世界観を貫徹したかった。
作品のテーマやメタファーについての考察はマニアの鋭い人がたくさん書いていらっしゃいます(中には舌を巻くほどの深いものも!)ので、私は別の切り口で考えたことを纏めてみます。
宮崎駿さんは司馬遼太郎さんに重なるところが多いなと感じています。
どちらも創作の名手。
一方は小説で、一方はアニメで。
司馬遼太郎さんも幼少の頃は図書館で本を読んでは想像の世界にのめり込んでいたようです。
司馬遼太郎さんの処女小説は『ペルシャの幻術師』、伝奇小説というジャンルでファンタジーです。
そして両人とも現代日本とその未来を憂えてたと思います。
司馬遼太郎さんは子供たちに唯一書き下ろしの随筆を残しています。
『二十一世紀を生きる君たちへ』
そして
『君たちはどう生きるか』
私には小説とアニメの世界で類稀なる才能を持った両巨人の二つの作品が、今そしてこれからを生きる日本人に残した遺作として重なって映るのです。
みんな、やっぱり宮崎駿が好きなんだ❗
宮崎駿10年ぶりの監督復帰作は、公開直後の興収が『千と千尋の神隠し』を上回ったとのこと。宮崎駿ファンの飢餓感が高じた熱量は凄まじい…ということだろう。
セルアニメを感じさせる映像が流れ始めると、それだけで感動的ですらある。
のっけから火災の表現に圧倒される。『風立ちぬ』での震災の表現が見事だったのを思い出す。
大塚康夫の流れをくむ宮崎駿の絵柄(厳密にはキャラクターデザイン・作画監督の絵柄のはずだが)は、故郷のような懐かしさと心地よさがある。「ルパン三世('71)」「侍ジャイアンツ('73)」で子供時代を過ごした者の刷り込み現象だろうか。
さらに本作には、『ルパン三世/カリオストロの城』以降の宮崎駿長編アニメーションの数々を連想させるシーンが忍ばされているのだから、マニアでなくても嬉しくなるだろう。
戦時下、主人公の眞人少年は軍需工場の経営者を父にもつ裕福な家の坊っちゃんだ。
彼が母を火事で亡くし、母の妹と再婚した父と母方の実家(屋敷)に疎開する。そこで摩訶不思議な大冒険が展開するのだ。
宮崎駿は「群」の描写が好きなようで、最初は使用人の老婆たちが旦那様のカバンを覗き込んでいる小さな「群」だったが、段々とエスカレートして最後は不気味なまでのインコの大群が現れる。
人それぞれの感覚かもしれないが、この「群」というのは嫌悪感を抱かせる作用があると思う。「ルパン三世」でみせた大勢の制服警官が一斉に飛びかかる演出などは、宮崎駿が繰り返し用いてきたコメディー表現で、この程度なら実に面白い。しかし、老婆も含めて異形のものが集合すると不気味さを感じずにはいられない。
宮崎駿作品には時折“気持ち悪さ”が持ち込まれている気がする。明るい色調で見失いがちだが、そういう変質的な面を宮崎駿は秘めていると思う。
さて、物語自体は少々破綻ぎみではないかと感じた。
いったい何のために少年は戦ったのか。ふしぎの国のキャラクターたちの役割は何だったのか。そして、少年はこの体験で何かを得たのか。
全ては、流麗で迫力あるアニメーション表現に溶け込んで見えない。
この物語が「君たちはどう生きるか」と問いかけているのかと言うと、そうではないと思う。
だが、長編アニメーション映画を作るという重労働に、老骨に鞭打って、制作部門を解体したジブリにスタッフを集めてまで再び挑んだ宮崎駿の生きざまが、君たちは…と、問いかけているのかも知れない。
敬意を表して★半分加点。
何も心が動かない
最後まで退屈せずに見れるけど、
途中ハラハラドキドキする事もなければ
最後まで心が揺れることが何も無かった。
解釈をいろいろ考えるのが好きな人には良いのかも。
ポニョとか風立ちぬのようにイラっとする事は無かったので☆2。
悪意に染まらぬもの
悪意を識る者こそ、悪意に染まらぬものだとしたら、私の悪意は、何処に向かえばいい?。
原本未読。予備知識は、原本原理主義者が本作を観て、怒り捲っているとの噂だけ。まぁ、無理もないですね。
この映画、傑作だと思います。まず映像。宮崎サンの集大成。これまでのジブリ作品、総てに捧げるオマージュ。だから、初めて観るのに懐かしい。それだけでも凄いことですが、やはり、原本が気になる。おそらく宮崎サンが、原本から大きく逸脱したのは、原本と張り合うことを避けたのでしょう。何故避けたのか?、その理由は原本読むしかなさそうです。きっと宮崎サン、自分のネームバリューを使ってでも、多くの人に、原本を手に取ってほしいんだろうな。私、手にしてませんけど。
観てから読むか、読んでから観るかで、意見が真っ二つになるようですが、改めて本作のタイトル、思い出してほしい。私達に、悪意に染まらぬものを受け継ぐ資格が、あるのか知りませんけど、他者を批判、あげつらうことで、自分が優れていると思うような生き方、したいですか?。君たちはどう生きるかを問う前に、私がどう生きるかを問うべきかな。
追記
「沈黙の艦隊」映画になりますね。原作好きの私としては、どんなに優れた映画であっても、今回は、原理主義者として、敵に廻る予定です。予告見ただけで、私の悪意が止まらないから。
更に追記
ネットの受け売りです。日本人の国語力、読解力は著しく低下したそうです。文字は読めます。単語の意味は、分かります。ただ、その文章を書いた人の意図を汲むことができなくなったそうです。
例えば「はだしのゲン」。作中に、ゲンが朝鮮の人を、からかうシーンがあります。それを見たお父さんがメチャメチャ怒ることで、差別の愚かさを伝えようとしたのですが、からかうシーンだけ見て、「はだしのゲン」は差別マンガだと思っているヒトが、いるそうです。
原因は不明。ネットで短文のやり取りを繰り返すうちに、表面的な言葉のみ使うようになったとか、学校のテストが、木を見て森を見ない、字面だけなぞる文言解読に、高得点つけるようになった為とか。学校で、思想、信条を教育するのは、やめてほしいですが、何故、文章を正しく解読することが必要なのか、何の目的で長文が、今、そこにあるのか、そこは伝えてほしかった。
昔と異なる宮崎サンを嘆くコメントが、散見されます。「ワ◯ルドスピード」のように、フォーマットは変えず、アクションスケールだけをアップすることを良しとしない宮崎サンの意図は、何処にあるんでしょうね。変わりゆく世界を描けば、変わらない世界を求める方々は、反発するでしょう。それでも、この映画のタイトルは……ね…。
書き込み自体が、他者を批判することになりますが、アニメという変わらない世界から、変わりゆく世界を描こうとした宮崎サンの問いかけを、汲むことができるのは、誰かな?。未だに「カリオストロの城」の、派手なアクションが好きな私が言うのも、変ですが…。
予想外にわかりやすい作品。ただ主人公に魅力なく共感は得られず
遅ればせながら、話題の映画『君たちはどう生きるか』を観てきました。
巷では難解でわかりにくいという噂だったので、私もちょっと構えていったのですが、フタをあければ拍子抜け。個人的には驚くくらいわかりやすい作品でした。
ほとんど説明もなく異世界に行くような流れに慣れてない人はともかく、アニメ、特に現在のアニメでは、どこにでもある設定なので、そういったところはまったく気にならないし不思議にも思わない。
そして異世界でのキリコもすぐに一緒に消えたお婆さんだとわかったし、ヒミも最初に登場した時点ですぐに眞人のお母さんだとわかりました。おそらく宮崎駿もまったく隠す気はなく、ほとんどの人がそう思ったことでしょう。
私はもっと不条理に満ちていたり、理解困難な理念を提示されたりするものと予想していたのですが、そういうことはほとんどなく(アオサギやペリカン、インコの存在が不条理だと思う人もいるかもですけど、そういうのも不思議の国のアリスから延々と描かれ続けているものなので、どうということもない)、完全に寓話としてのお話。
あちこちに込められた、散りばめられた、ひとつひとつの暗喩や意図がすべてわかるとは言わないし、そこにものすごい深淵な寓意が潜んでいるのかもしれない。
ただ私は、古今東西を問わず物語の基本中の基本、少年の成長譚、大人になるための通過儀礼を丁寧に美しく描いた作品だと理解しました。
少年の成長譚の基本といえば、父超え(父殺し)と母との別れ。ガンダムもまどか⭐︎マギカもこれをしっかり描いているから歴史的名作足り得た。
「君たちはどう生きるか」に登場する父親は俗物に過ぎず、乗り越えるべき畏怖する存在としては描かれていない。ここでは母との別れが物語の中心をなす。
ナツコは母の面影であると同時に、眞人の初恋の存在でもある。そして異世界でヒミと会うことにより、絶対的な存在であった母を相対化することができ(母が自分の母親である前に、ひとりの女性であるということを、目の前につきつけられるわけだから)、今生の別れを覚悟することができる。
物語当初、石で自分の頭を傷つけたのは、自身の弱さ・幼さが表出した自傷行為であると同時に、それは結果として、大人になるためのイニシエーション(通過儀礼)となった。それは異世界でのキリコの頭にも同じ傷があることからもわかる。これも物語の基本であると同時に、古来より人類の風習でもある。
父が毛が伸びたら隠れるから大丈夫と言ったことも、時の経過とともに消失してしまう少年期の一時のものであることを暗示している。またラストにアオサギが異世界の出来事を忘れてしまうと言う場面も同様だろう。
つまりこの映画が描くのは、少年が大人になるときの葛藤を描いたモラトリアムの寓話であり、大人になったら記憶から薄れてしまうような類のもの。忘れてしまうかもしれないし、大人になったら必要はないものかもしれないけど、それがとても重要で意味のあるものであることは変わらない。必要がなくても、大事なものはこの世の中にいくらでもある。
宮崎駿は以前、自分たちが作るアニメなんて、二、三回見たあとは全部忘れて大人になって欲しいって公言していた。たぶん今も同じ思いで、この作品を作ったんじゃないかと思う。
大おじが目指したものについては、これはあくまで個人的な見立てだけど、多くの人がこのように思うのではないか。
宮崎駿の背景からも、大おじが目指したものは、戦後民主主義的なるものであり、「下の世界」が崩壊したのは、その挫折をそのままに描いたのではないか、と。
もっと直截にいえば、学生運動や社会主義革命の挫折。大おじの跡を継ぐものがいない、血縁のある眞人すら拒否するというのも、当時の思想が現在ではすっかり大衆から否定されていることをなぞっている。元いた世界では大人しいインコも、その異世界では人食いインコと化すのも、普通の学生たちが狂気に走ったことを重ねているように僕には映る。インコの大王は森恒夫か重信房子か。
…と、このような感じで、私にはものすごくわかりやすい作品でした。先に述べたように、あちこちに散りばめられた暗喩や意図がすべてわかったわけではないけど。
だから…というわけでもないけど、そこまで面白いと思ったり、深い印象が刻まれる作品でもなかった。また主人公の眞人も作中の努力が足りず、ご都合主義的に周囲に助けられるばかりで、あまり共感できる存在には感じなかった。千と千尋の千尋の方がよっぽど頑張っていて共感できた。
私は世間ほどジブリが好きではなく、実はあんまり観ていなくて、限られた中では、もののけ姫のほうがよっぽど胸に刺さったかな。
まあ当時は自分もまだ若かったし、感受性ももっと敏感だったろうから、そう思うのも仕方ないか。それに何より、宮崎駿もさすがに年老いて、当時のようなエネルギッシュな作品は作れないのだろうし、こういう寓話になってしまうのは必然なのだろう。
若い人がこの映画を観て、どう思うのか?
「君たちはどう観たのか」私はそれを聞いてみたいなあ。
この時代だからこそ
タイトルと鳥の絵のポスター1枚。覗き見せず、聞き耳を立てず、思い切ってめくって飛び込んだ先の作品世界への没入体験。
目隠しでスクリーンの前まで連れてこられたような、鑑賞前の時間も含めてエンターテイメントだと思った。
このクオリティの作品を世の中のたくさんの人が事前情報ほぼなしで鑑賞するなんて、なんてワクワクする仕掛けだろう。
設定についていけるよう、集中して見ているうちに、真人と一緒に塔の世界に落ち、不思議な世界をめまぐるしく体験する。
個人的には仕掛けにのっかって大正解だった。
なんでも手の平で調べられる時代、正解を探さずにはいられない時代だからこそ、この作品から受け取れるメッセージは人それぞれ、自分で感じて自分で考えなくてはこの仕掛けの意味がない。
作品の中ではどこからか降ってきた塔がどうしようもなく世界を歪めるけれど、完全なる悪人はでてこなかった。
悪意も善意も入り交じるこの世の中で、善意の石をそれでもコツコツと積み上げていけるのは、勇者でも何者でもないただこの世界に生きる私達1人1人だ。
真人が自分につけた傷、悪意のしるしだと言った傷。自分に向けられた悪意か、自分で自分に向けた悪意か、周りの大人に心配をかけた悪意か。悪意のしるしを認めた上で、前に進む勇気を真人のように持てるか。
鑑賞前と鑑賞後で、タイトルもポスターの絵も見え方が変わった。
素晴らしい体験だった。
あまり刺さらなかった
世界観の説明や分からせようとする気がないのそういう作品だからで解釈したが,感情を表す描写やパーツ.情報があまりに不足していたと感じた.それゆえマヒトが何を考えているかよく分からず,淡々と移り変わっていくシーンをただマヒトが歩いているだけとそんな印象をこの映画から受けた.
最後,世界の主からの頼みを断り”現実”を選ぶシーンも,マヒトがそれを選んだ根拠や感情的なにかが全く見えてこなくて ,はいそうですかと思ったのが正直な感想.
君たちはどう生きるか というタイトルからマヒトが立ち直っていく姿を見せていくものかと思ったが,この話は冒頭からマヒトがすでに概ね立ち直っている.そのため,この映画をどの視点で見ていいものかわからなくなった節がある
あと米津は相変わらずいい歌を書く
ジブリ初心者はよくわからなかった。
マーベル映画を追いかけていない人が最近のマーベル映画を観たらこんな感じなんだろうなぁって思った。
映画としてそこそこ楽しめたが他の方を見ていると本当の意味では楽しめていなかったんだなって置いていかれる感覚。。。
好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい
なんか庵野的でもあり新海的でもあり(一番にすずめの戸締まりを想起した)それでも宮崎駿でしか描けない作品だと思った。
ストーリーテリングはあんまりハマらなくて、特にロードムービーの部分に必然性を感じさせるまでは正直退屈なんだけど、鳥の集合体とか蛙の集合体とか、いちいち絵面が強いので、面白い。おばさんの集合体ももはや可愛いレベル。
主人公が物事を受け入れ過ぎだなあと特に後半思ったり、周りの女性キャラクターが無条件に母性を振りまいている点も気にはなった。
とはいえ、後半の確信に迫るシーン、あの世界に戻ることを選択する母親と主人公の葛藤、主人公が成長できたのは母親からの「君たちはどう生きるか」の本だというところは痺れたねえ。青サギの「じゃあな、友達」も良かった。
宮崎駿の「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい 僕はこうして生きてきた」という強いメッセージに素直に打ちひしがられる方が良いと思う。
悪意のない石を積み上げるのだ
「悪意のない石を積み上げるのだ」
主人公の亡き母親の叔父の言葉が心に響く。
悪意のある石を積み上げたから、人は人を傷つけてしまうのか。
悪意のある石を積み上げたから、戦争が起こったのか。
悪意のない石を積みあげることが、善き道に通じる。
宮崎駿のメッセージが聞こえてくる。
いじめや反戦を超えたメッセージが。
アオサギは平和の象徴か。
そして母親への飽くなき想い。
母親との思い出に浸りたい。
そんな男性陣の願望も充たしてくれる作品かもしれない。
子供たちのために!もちろん、「大人になった眞人(あなた)へ」
感動しました!これは未来に残る、泉鏡花のような幻想文学に似せた児童文学…あくまで子供たちへ向けた愛のある映画です。とにかく、難しく考えられるのは、モチーフが難しいことと、放映時間が2時間と限定されているから。でも、無駄がない!
まず、序盤は戦災の悲しみから…この開始5分程度のつかみでぐっとくる!戦災のトラウマをこんなに見てる側に感情移入させるように作るなんて!
此処から入っていく物語…戦争物かと思いきや、謎の美女•夏子登場。木村佳乃さんがはまり役。この時点で、泉鏡花や夏目漱石の小説に出るような妖しい婦人オーラ満載。
「この後妻…というか、眞人の家、普通の家ではないな?」ということに気づき始める。
家の建築もさることながら…昔の日本の幻想文学や民俗学の遺産にあるように、どこか妖しい、戦時中の「非日常」の世界スタート。ここからモチーフ紹介。
アオサギ…青鷺火という民俗学的に実際に存在した日本の伝承と、他国の宗教上のモチーフ(生死の境等、何かと境界を超える存在であるらしい)
インコ…ドイツ?のプロイセンに感じました。王族的であり士族的なもの。しかし、イメージです。このインコの原産国はオーストラリア。なんで日本の地下に?そもそも、「下の世界」は日本ではない可能性が高い…のは、キャラの西洋風の服装等から分かりますね。インコの風景も英語が多く記されている。
ペリカン…キリスト教上の愛のモチーフ。自己犠牲、愛の強い動物。
産屋…昔の日本にあった実在の家屋。穢れ思想、神道にて産屋は何かと「異界」として登場。また母子を離別させる強制力のある存在。(戦時中、母子別離せざるを得ない家庭も)
13の積み木…13はキリスト教圏で忌み数。中国では吉数。やはりキリスト教圏だね、「下の世界」。でも、眞人達は神道の日本の慣習のまま!ヒミ(久子)は洋風になっていて、少女らしくも「下の世界に適応した(少女は西洋の童話的世界、好きだろうな)」から。
悪意のある石…キリスト教で「罪を犯したものだけこの女に石を投げなさい」とある。姦通罪の女を処罰する際のイエスの言葉。姦通罪、夏子(妹で後妻というのはダットサンを乗りこなす洋風の夫とはいえ珍しいのでは)の隠喩か?いわゆる略奪愛と同じで、悪意って何なのかの問いかけ。眞人は怪我すれば何とかなるという下心も。それだけ追い詰められていたわけだけど、ずるをしたのも嘘ではないと内心、考えていて、自らには悪意があると主張。その時点で西洋風の意思の持ち主というか賢い子供。自分で考えて生きていける人。
積み木が墓石の理由…積み木ってそもそも何?子供の頃、積み木遊びは自由で楽しくはなかった?何を作ってもいい。それなのに墓石(それも西洋の)でルールに基づいて世界秩序を守るために積むなんて!インコ大王は騎士(戦士)だから軍人と同じ、ナチスと同じ、「裏切り」と怒るし、13はイエスを裏切ったユダを指す意味もある。まさに裏切り!
眞人達からすれば…。積み木は、キンダーガーデンという幼稚園の遊具。キンダーガーデンとは?フリードリヒ・フレーベル考案の遊具。フレーベルは子供に自由に遊ばせることでその神聖さを守ろうとした。要は子供は大切にという日本人の幼稚園の元となる思想家。その積み木が世界秩序のための墓石…戦時中らしいですよね?まるで機能しない国連か政治思想(全体主義)みたい。大叔父も子供を犠牲にするわけじゃないが、メーテルリンク「青い鳥」のように異界にいるままで本当に幸せなのか…。
久子と夏子…日本神話の女神の姉妹。火に関連する。火=文明。久子と夏子って幻想文学の悪女と似ていて、人間だがどこか当時の日本人らしくない、普通じゃない。戦時中で統制されてる時代なのに?欲望に忠実で抑圧されていない。そもそもこの二人の親、どうして戦時中なのに全く登場しないの?使用人が妙に多く、どうやってこの人たちを養うのか…。夏子は弓矢の名手で、当時の女性にしては相当、戦いなれてる。お嬢様なのに!そもそも「普通じゃない」が、不思議な生命力があり、夫にとっては心の支えになるというのも戦時中だから、なおのこと。西洋という以前に、当時にしては「同調圧力」が全くない「普通ではない家庭」。普通じゃない異様なキャラが異界には多い中、怪異的な怖さがなぜかこの二人には存在しない。言動と背景が普通じゃないのに。夏子は日本文学で異界の者と婚姻する文学に登場する女性の妖しさ、自由さ、綺麗さ、優しさに似ています。
私はこの映画全般に流れる何か怖い空気は、死の匂いが付きまとう全体主義の当時の怖さと似てると思いました。全体主義はそもそもどこから来たのか?これが不明。戦間期にも存在したからです。これが戦争の始まり、原因。大叔父の積み木は正しいことをしているようでいて、なぜか墓石、死の匂いが付きまとうし一日しか持たない秩序。まるで戦時中の日本みたいじゃない。あるいは世界。それは眞人も悪意があるって思うよ。彼は正直に台詞を言うねと使用人からよく言われている。日本人にしては西洋風の洒落た父よりもはっきりした性質で、敵に刀を持つのに最初から迷いがない、アシタカに似た凛々しい人。戦災でトラウマを持つが、その繊細さと壊れやすさ、戦いのさなかに全く見えない姿は、最初から描かれている。子供なのに?いや、そもそもそういう性質の人なんです。
大叔父はハイソなのにどこか死んでる。登場した時から凍ったバラを投げてる。愛もないし生きていないということ。ハイソな割に全体主義、右翼、左翼等と何か変な空気感で抑圧して、その割に欲望と相反するような殺戮は容赦なくやる、戦時中の空気感のおかしさと似てます。そもそもそれが全体主義の持つ変な感じなんです。灰色の狼みたい。荒野みたいな。どこから来てるか不明で、誰が始めたとかじゃないのが、全体主義。戦間期にもあったのだから。心の中の問題なんです。戦後、天皇が人間宣言をして、そもそも何を拝んでいたの?あれは私らの知る前からいた天皇制じゃないじゃん。天皇は今も尊敬するけど、あれ(戦時中の考え)は何だったの??そういうカルトのコンピュータウイルスみたいな違和感と似てるんです。当時、世界中がそれに感染していた。形を変えて。大叔父は国連みたいな、あるいは児童文学者と似たようないい人、実際はハイソな学者ですが、「大叔父様ほんとにそういう人だっけ?あなた私欲に忠実な研究者じゃ?」という違和感があるのも、戦時中のあの空気の違和感と似ているのです。武士道精神とか言って戦いましたが、あれは武士道じゃないでしょ!元の武士道は生きる上で結構好きなように生きてないか!?そういう違和感!
眞人は「いい子」だから清廉で、結果的には、そういう悪意を見抜いてる賢い子。
ベースは難しいモチーフがちりばめられているが、基本的には児童文学、子供のためのものでした。大人向けとしては泉鏡花みたいな幻想文学。ハッキリ意味が分かることはないが、夏休みに見て、どこかへ出かけて遊んで、いつかすると何となく思い出す。その時に意味がわかっていればなおよしという感じ。そもそもそういった普遍的なテーマだと思います。
「大人になった眞人へ」の本の日付は明らかに生まれてないんじゃという年代で、大人ってその後の眞人のこと。大人になって賢く、さらに生きる道を自分で選んで生きていく。そういう子になるに違いないとヒミは分かっていたみたい。あの本は教養文学だからね。旧制高校あたりの。ヒミのような女性が当時、好き好んで読む本ではない。ヒミは未来の眞人を想像していたみたい。この一連のファンタジーを経て眞人のトラウマは別の記憶に塗り替えられ、本当にトラウマ克服となっている。なので、全体的に前向きな話なのです。
当時の全体主義、独裁者っていつも厳しくなかった?人間に対して。それなのに妙に高尚で、批判的で、そこには愛を感じない。眞人達が喧嘩するのと同じ。あれが悪いこいつが悪いとか。子供のための作品と感じたのは、母性愛が背景にありました。キンダーガーデン。愛されていて、自由に生きていったらいい。夏子さんがやっぱり、「まあかわいい!」と自分の感想に正直に笑うような、妙に昔の人らしくない奥さんなんです。宮崎監督らしいと思います。
追記:
2012年、京都に大学生でいた頃、私は将来に悩んで涙したいとき、京都御所の母のような雰囲気の中にある厳島神社にいました。同時に、書店でたまたま見つけた本の中に、北一輝のような当時の軍人や研究者の本があり、読んでいました。その内容は、塔の中の違和感と同じで、何かといつも戦っているような世界観でした。私は正しいとか、認めてほしいとか。
この映画の良いところは、傷ついた人に寄り添うところです。説教くさくない。
映画の入りのタイトルと久石のピアノ「ask me why」で、「どうしてなのか聞いてほしい」ことは当時も今も多くあるはず。どうしてそう思ったの?どうしてそう行動したの?
眞人も石を自分でぶつけたときはそうでした。それから「君たちは…」の本を読んで涙する。どうしてそうしたのか受け止めたのだと思います。
本を読んでいると共感できる、一人になるときのやさしさがある。母が母性愛で包み込んでくれるように。その愛がないとき、いつも戦ってけんかをしてる。本当はそういう戦いがつらいはず。この映画はそういう青年期に寄り添うやさしさに似ています。もちろん、お石様に連れていかれる夏子は、もしかしたら戦時に流行った新興宗教かもしれないし。日本の維新後から戦前まで、新興宗教が非常に流行しました。
維新の頃に巨石が降ってきたというが、証拠がない。あくまで伝承の中の伝承で、劇中、それが口伝になる。戦時中は国家神道だから、眞人達みたいな日本人は、お石様は信じられないはずです。もちろんこれは仮定かもしれませんが、なぜ下の世界が西洋風でおそらくオーストラリアなのに、石は和風に聞こえるのだろう。昔から神隠しは産中の女性がなりやすいもので、それは精神的に不安定だからだとされました。
今の時代も人には言えない本当の気持ちがあると思います。この映画はそういう浄化の映画です。だから、千と千尋に似ているようで、豪奢な感じが全くありませんでした。眞人は本を読める子ですが、本を読むことで自分でがんじがらめになって戦っていた、当時の軍人とは異なる性質の子でした。この映画はそうした人の精神に寄り添う映画。
半藤一利さんに見てほしかった、、、
と、週刊文春で宮崎駿氏が語っていたのでピンときて見た。誰かがどこかで書いていたとおり、戦闘シーンなき反戦映画。そして少年の喪失と再生の物語。アニメ映画は基本的に見ない(とはいえ子育て中には家族イベントの一環としてジブリ映画はおつまみ程度に味わってきた)。なので今回は人生初のひとり宮崎駿鑑賞だ。セルフオマージュのみならず、いろんな映画文化へのリスペクトから持ってきたモチーフに溢れていたように思う。
ちょうど自分の父親と同世代の作り手が残したかったドラマとしてグッときた。戦争中はこの逆パターンで、戦死した夫の兄弟と再婚する女性(正に生きるため、、、)も多かったと、昔から親に聞かされてきた。
何より、人物以外の絵画的な背景、実際に撮影しているかのようなカット割りやカメラワーク(すみません、アニメに詳しくないのでそれなりの用語があるのでしょうね)が芸術的で、退屈しなかった。
難解とか良いとか悪いとかの前に
まず最初に言っておきますと、自分、ジブリマニアではありません。もっと言うと「千と千尋〜」以降、この作品を観るまでジブリの作品観てません。
なので、ジブリファンからすると、恐らく「こいつ何言ってんだ」ところがあると思いますので、ご了承下さいね。
評価は極端に分かれる、という記事をこの作品に関してはよく目にしていましたし、頑なに作品の内容を公にしないため、観る前にこちらが勝手に色んなイメージを抱いていました。
「トンがってる作品なのかも?時間軸がわざとメチャメチャになっててわかりづらくしてるとか?老害垂れ流し?2001年みたいに説明とか全部なくて解釈は全て観客に丸投げ?」などなどです。
で、実際観たのですが、先ずは宮崎駿監督の「この作品を作り、世に出すのなら、自分の最高の作品にしたい、ならばそのために、自分も命を削って頑張るから、携わる周りのスタッフも役者も精一杯の力を貸してくれ」と言う圧倒的な思いの強さがワンシーン、ワンシーンから溢れんばかりに伝わって来ます…正直怖いくらいです。
だって、これアニメーターさんが描いてるんでしょ?CG使ってないんでしょ?もう、その筆のチカラが凄い。
こんな妥協のなあ完成度の高いものを観られるだけで幸せでした。
目に入ってくるそれぞれのシーンの圧倒的な情報量の多さにも驚きました。
今までのジブリ作品へのオマージュとか、メッセージとか色々あるんだろうな(観てないからわからないけど)。
ワンシーンワンシーンのこだわりの強さは、畑は違うけどトムクルーズのそれと似てるかも?
で、作品の内容としては、前記した、どんなとんがったものぶつけてくるのかな、って、構えてましたが、僕が観た
限りでは、凄く優しい映画でした。
「よく来たね、まぁ座りなよ。色々悩んでるんだって?うんうん、私がね、今君たちに伝えたいことは、こういう内容だよ。少しでもチカラになれたかな」
そんな風に言われてるような感じがしました。
考えすぎず、その世界観をそのまま受け止めて浸っているのが僕的には良い見方なのかな、と思いました、
そして、そう思いつつ作品が終了し、エンドロールが出て米津玄師の曲が掛かった途端に何故だかわかりませんが、大号泣しました。
もう、嗚咽クラスでした。50過ぎの仕事帰りのおじさんが映画館で嗚咽です。恥ずかしい…!
で、後、この作品でもう一つ凄いな、と思ったのが
いわゆるキムタク、木村拓哉さんの声優と言うか、役者としての上手さ。
どちらかと言うと僕は木村拓哉さんは、アンチでしたが、表現力の高さに、ほんと、今までごめんなさいって言うくらい感銘を受けました。
菅田将暉さんは、なんか、らしいなって言う配役で、こちらも楽しめたし、事前情報がないため、エンドロールで気づく驚きもこの作品の良さかも。
あまり構えずに楽しんで欲しいです。
僕的には凄く良い作品でした。
恐らくもう一回観ます。
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