「構造は漫画版「ナウシカ」+もう一つの視点( 母への恋心、足りない父の愛情、弟誕生の不安)」君たちはどう生きるか starbowさんの映画レビュー(感想・評価)
構造は漫画版「ナウシカ」+もう一つの視点( 母への恋心、足りない父の愛情、弟誕生の不安)
●最初の印象 演出面
なんだかんだでハウル以来の劇場でまともに見た宮崎監督作品。
サイレンから始まる冒頭は、日常の終わりを告げ、
非日常の世界に我々を誘うのに効果的だった。
その後の火事の現場へと駆けていく描写は圧巻。
少年の不安と焦燥、消火に奔走する人、逃げる惑う人の混沌を
見事に表現していて素晴らしい表現だと魅了された。
キリコさんの巧みな船さばきで風をとらえる動きも素晴らしかった。
しかし、宮崎監督のこだわりである細かい動きの描写は、
丁寧だと思いつつ、時にくどく感じてしまったのも事実。
・燃える病院に駆けつけようと、下駄を脱ごうとして脱げない演出は細かいが、
母の生死が危うい場面では、むしろ下駄ごと家に上がってしまってもいいし、
着替えなんてしないまま飛び出した方が主人公の焦りが伝わるような気がする。
(家を継ぐ長男としての自覚がそうさせなかったのかもしれないが)
・主人公眞人と夏子らが神隠しにあい、閉鎖された塔に父親が向かうシーンでも
大げさなぐらい装備を身に着け、チョコレートまで懐に入れる細かい描写だが
二人を一刻も早く見つけ出したいのならば、刀をガッとつかんで飛び出す方が
男らしくかっこいいのではと思ってしまった。
・おばあちゃんたちの初登場シーンで届いたカバンに群がって
うごめいているシーンはおぞましいほどの気持ち悪さを感じて、
何か裏があるのかと勘ぐってしまった。
最近のジブリ作品の傾向でもあるが、なにか全てのものを丁寧に描こうとして
(とくに水や涙、血、ジャムといった液体の描写がドロドロしていて苦手なのだが、
「紅の豚」の頃ような透き通ったきれいなサラサラな水が見れないのは残念。)
作画的に演出的にも効果的な省略、いい意味での手抜きができていない気がする。
物語上重要ではないがアクセントとなる演出は目立たずさりげなくするべきで
全ての細かい演出が目立ちすぎるとかえって意味があるのではと考えすぎて
物語を追うことへの弊害になってしまうのではないだろうか。
逆に監督のこだわり?かもしれないが、
主人公の家庭事情を説明しない傾向があり
母が死んでから疎開したかと思うと、突然父が母の妹と再婚して
お腹には赤ちゃんまでいるという流れなので、
急において行かれた感がいなめなかった。
最初に少しでも父の仕事、再婚など諸事情に触れてほしかった。
●画面の印象 キャラクターと背景
メインである「青サギ」は、かなり不気味な登場の仕方で印象に残り良かった。
(あとで菅田将暉が演じていると知り、いい意味で驚いた)
ただ全体的に鳥のキャラが多く、鳥の何を考えているのかわからない不気味さを
効果的に使えている反面、かわいらしいマスコットキャラがいないのが物足りない。
ワラワラにしても、ジブリ的ではないデザインで違和感を感じてしまった。
全体的には多くの人が指摘されているように既視感があり、
どこか宮崎監督のオムニバス作品を観ているかのような印象を持った。
和風な外観に洋風な内装、神秘的で荘厳な森、西洋の田舎といった背景も
ジブリが築き上げてきたビジュアルだと思うが、
日本が舞台ならもっと昭和的な背景や
もう少し見たことがない新しいビジュアルが見てみたかった。
そういった意味ではヒミもジブリ作品で見慣れた洋風なビジュアルよりも
和装が似合ったのではないだろうか。
●構造の考察 表面的には「千と千尋」だが中身は「ナウシカ」
神隠し、異世界といった面から見れば、すぐに「千と千尋」が思い浮かぶが、
全身に群がるカエルや、ペリカンがもみくちゃにしながら語り掛ける演出は
漫画版「ナウシカ」にも見られた演出だったのではっとした。
また主人公眞人が千尋のような等身大の怯える女の子と違うのは、
少しくらいの怪異や脅しには全く動じない男の子であること。
これは長男であり将来家を継ぐものとして気高さがなせることであって
ナウシカがもつ、風の谷を治めるジルの子である誇り高い姿や、
宮崎作品でよくみられる貴族や騎士、王族に見られる特徴である。
眞人の世話をするおばあちゃんたちが、ナウシカの城オジたちと考えれば
眞人=ナウシカも納得できる。
とくにラストシーンで主人公やインコ大王が大伯父と対峙する場面は
以下のように登場キャラを対応させると漫画版「ナウシカ」の
ラストシーンと一致していたことがわかる。
眞人 = ナウシカ
ヒミ = 森の人セルム
インコ大王 = ヴ王
青サギ = 道化
大伯父 = 墓所の主
そして漫画版ナウシカは墓所の主が理想とする世界を否定し、毒がなければ
生きていけないという事実を隠しながら、人々と生きていく選択をする。
同様に眞人も自分でつけた傷という嘘を抱えながら、
現実で生きていく選択をする。
●もう一つの視点 母への恋心
映画の後半で印象的だったのは大きな岩で封印された墓である。
まるで古墳の棺を納める石室なようなところに、夏子はとらわれている。
劇中「産屋」とも言われていたように、
日本神話における伊邪那美の出産を連想させる。
伊邪那美は火の神を生んでしまうことで焼かれて死んでしまう。
悲しんだ夫の伊弉諾は子である火の神を殺し、黄泉の国へ妻を探しに行く。
映画の主人公眞人は、死んだ母に会えると聞かされ、さらに神隠しにあった
母にそっくりな妹夏子を連れ戻すために地獄へ行くことになる。
日本神話では夫婦の関係が、映画では母子になっていると最初は思う。
ところが眞人が地獄で出会うのは少女の姿をした母(ヒミ)なのである。
夫婦とまではいかないまでも恋愛対象として成立する姿で母が登場している。
つまり主人公の隠された感情として、母親が恋愛対象にあったことがわかる。
子供が母親に恋愛感情を抱くのは特別なことではない、
将来ママと結婚するなんていうのはよくあることで、
これはまだ眞人が子供であるという証拠である。
●もう一つの視点 足りない父の愛情
そして、映画を観ていてもう一つ印象に残ったシーンがある。
それは夜中に目を覚ました眞人が階段から玄関を眺めていると
炎が噴き出してくる幻を見るシーンである。
その幻を見た後に玄関から入ってくる人物は眞人の父親で、
父は出迎えた夏子と口づけを交わしているようだった。
眞人にとって炎は母親を殺した忌まわしいものである。その象徴として父が現れ、
さらに母にそっくりな妹夏子までも妻として、赤ちゃんを身ごもらせている。
プレイボーイ?な「ハウル」の声をあてた木村拓哉が父親の声優だというのも
眞人にとって父は恋敵だったという暗示なのかもしれない。
では眞人にとって父親は絶対的に憎む相手かというとそんなことはない。
漫画版ナウシカは序盤に父を失うが、最終巻では母親に対しても言及している。
それは「母は私を愛さなかった」というものである。
これを映画に置き換えれば、眞人は母を失い、「父に愛されていない」となる。
●もう一つの視点 弟誕生への不安
眞人がそのように感じる原因は義理の母となる夏子と
生まれてくる子供の存在である。
父が別の家の女性ではなく、母の妹と再婚する理由は映画では描かれないが、
恋愛感情を抜きにすれば家と家のつながりを維持したかったためであろう。
父は軍需工場で財を成し、母の実家もお屋敷をいくつも抱える上流である。
長男であった主人公は、跡継ぎとなるべく威厳をもって気高くあろとしているが、
母の死と、父の再婚、弟の誕生があって自分の将来に希望が見いだせなくなる。
そういえば墓の入り口の門はヴェルサイユ宮殿の門と同じだったと思う。
ヴェルサイユ宮殿では王妃の寝室において公開出産が行われたという。
これは子供のすり替えを防ぐためだが、
人々は同時に王の誕生を見守ることになる。
つまり眞人にとって弟が生まれれば、もう一人の王の誕生となり
それは自分の地位を揺るがすできごとと捉えていたのかもしれない。
だから自分の頭に石を打ち付けた。
これはミュンヒハウゼン症候群的な行いで、
自らを傷つけ周囲の関心を引き付けるのが目的があった。
最もひきつけたかったのが父親の愛情だったのだろうと思う。
もし仮に神隠しや、あちら側の世界が、そんな不安定な状態の眞人が
作り出したものだったとしたら、やはり夏子とお腹の中の子も神隠しにあったのは
二人にいなくなってほしいと眞人が心の奥底で思っていたからなのかもしれない。
●もう一人の自分の象徴 鳥
そんな主人公の心の中を見透かして現れたのが「青サギ」。
眞人は青サギを噓つきだとののしるが、それは自分も嘘をついているからである。
なんだかんだ助け合う二人はいつしか友達だと思える関係となる。
眞人が最後に語った「友人と生きていく」という言葉はもしかしたら
青サギ=嘘ということなのかもしれない。
青サギの次に現れるのは「ペリカン」。
ペリカンに手を焼いているのはキリコである。ペリカンは墓の門をこじ開けたり
ワラワラを食べたり、地獄から抜け出そうと高く高く飛び続けたという。
キリコに対しての情報は少ないが、お屋敷に詰めるおばあちゃんたちも
規律を求められる使用人の暮らしの中で、ちょっと覗いたり、食べたり、くすねたり
そんな願望や、自分の中のものがペリカンとなっていたのかもしれない。
最後に「インコ」の群れと「インコ大王」の登場である。
ノイシュバンシュタイン城をつくったルートヴィヒ2世をモデルにしているだろう
塔の主・大伯父は本の世界にのめりこみ、塔を築き、現世から姿を消してしまう。
その塔の中でインコたちは、ファンタジーの王国や騎士のように忠実でありながら
食べることに貪欲で、数が増えすぎてついに外の世界に出ようと考えている。
現実世界から逃避した大伯父にとって「インコ大王」は
本来は家を継いで当主としてみんなを引っ張っていかなければならない
自分自身の投影だったのかもしれない。
そう思える理由は「積み木」である。積み木は子供のおもちゃである。
大伯父はおおまじめに積み木を積み、世界の秩序を守っていると訴えているが
それは現実からの逃避である。
積み木は積み上げて遊んだら必ず崩して片付けなければならないものである。
積み木が崩れかけているのはそのためである。
だからインコ大王は怒った。こんな積み木遊びで世界を治められるはずがないと。
だから眞人は断った。積み木遊びはしない。子供の感情から卒業する。
すでに夏子を母親だと認めた、
かつての母への恋愛感情を捨て去り、
弟の誕生を祝福する。
現実世界で頭の傷という嘘を抱えて生きていく大人になるのだと。
●最後に
眞人が頭を自分で傷つけ、嘘を抱えるというコンセプトが非常に光った。
できればその方面で、家族間のエピソードがあればもっと共感できる
映画になったのではないかと思う。
こうして色々考えさせられる映画もたまにはいいと思うが、やっぱり自分は
漫画版「ナウシカ」や「シュナの旅」、「戦国魔城」なんかを
こねくりまわさず、そのままかっこよくアニメにしてほしいと思う一ファンです。
映画を観た後にあれこれ考えたことを、とりあえず書いてみました。
長文失礼しました。