「「失われたものたちの本」との比較を中心に」君たちはどう生きるか ターコイズさんの映画レビュー(感想・評価)
「失われたものたちの本」との比較を中心に
ジョン・コナリーの「失われたものたちの本」についてのネタバレを多く含むのでネタバレを見たくないかたはご注意を。「失われたものたちの本」を読んだので二度目の鑑賞。
「君たちはどう生きるか」と、「失われたものたちの本」の共通点はまず、主人公が母を失った少年という点。そして、母の死後比較的早い段階で父は新しい妻を迎え、その妻は身ごもるというところ。「失われた」のほうも空襲からの疎開の意図で、少年デイヴィッドは新しい母の所有する古く広い屋敷に住むことになり、そこには沈床園という庭園があり防空壕になるような暗い隙間があり、「助けて」という母の声に呼ばれるように不思議な世界に入り込んでいく。また、時には誘い時には助ける「ねじくれ男」が屋敷に侵入したとき「カササギ」に入れ替わっており、鳥も登場していることも共通点といえる。しかも「サギ」。
他にも細かい共通点、そして相違点もいろいろある。塔の中に入ってからの展開についてはかなりオリジナル色が強いのだけど、眞人の抱える辛さ、孤独、そして塔にはいる動機など、あとは大まかな世界観は近いものがあるなと思う。
面白いのは「失われた」のほうの凶悪な存在は狼ということ。そしてそのリーダーはインコ大王のごとく直立歩行し服を着て宝石で飾り立ててるリロイ。彼の振る舞いが、王国の運命を変えるという点はよく似ている。なぜ狼ではなくインコなのかというのは一つのポイントだと思っている。
大伯父は、「失われた」では新しい母ローズの父の兄で要するにローズから見て伯父にあたる。伯父のジョナサンは家に引き取られた幼い女の子と共に行方不明になるのだが、それは結局ジョナサンの悪意が巻き起こした悲劇で、ジョナサンは王として君臨し続けるという運命を負わされる。そしてジョナサンの後継者として誘われたのがデイヴィッド、彼も弟を疎ましく思い怒りや悲しみを昇華できずに苦しんでいる。こういった子供たちを誘惑する存在が、ねじくれ男であり、この位置づけや描き方が個人的に最も興味深く感じた。
「失われた」でのねじくれ男は、正真正銘の悪でしかない。しかし、アオサギは違う。敵対もし「心臓を食う」などという(これはねじくれ男のする行為)が、最終的に彼らは助け合い、友とすら感じ合う関係となる。インコもペリカンも邪悪にも描かれながら救われていく、大王すら。この勧善懲悪をこえた世界観こそが、宮崎作品の真骨頂だなと思う。誰しも悪意があり、主人公すらそれを認めるなかで、それでも失敗しても罪をおかしても、救われていく可能性があるんじゃないか。誰しもある悪意だけどそれをうまくやり過ごしたり昇華したり和解したりできるんじゃないかと感じることができる。一度目よくわからなかった夏子が塔に入っていった理由だが、「失われた」になぞらえればあれも彼女の抱える悪意(眞人のことをよく思えない的な?)から呼ばれてしまったんじゃないか。「失われた」ではデイヴィッドが弟の名前をねじくれ男(ルンペルシュティルツキン)に要求されるわけだが、夏子も身ごもった我が子と引き換えに眞人を差し出すことを求められたのかなと思う。だからこそ眞人を守りたい気持ちと差し出したい気持ちとの板挟みであんな態度だったのかなと、己の弱さや狡さと対峙させられた苦悩だったのかもしれないと感じた。
ねじくれ男は世界の真実を語る。確かにそういう面もあるしデイヴィッドはそれを身をもって知ることになる。「失われた」の帯に、宮崎駿の言葉として「僕をしあわせにしてくれた本、出会えてよかった」と書いてあるが、これに救われるとは相当の闇を抱えていたんじゃないかと思ってしまう。でも、だからこそ、悪意、妬み憤り意地悪な感情などを抱えたからって終わりではなく駄目でもなくて、それを抱えた自分とどうつきあうか、どう生きるかっていうタイトルにしたのかなと感じた。
一度目は気づかなかったけど、眞人が最後に荷造りししまう本の中に一枚の封筒が紛れていた。大事な友だちからの手紙なのかもしれないな、と思った。誰しも抱える闇と、成長のストーリー。豊かなイマジネーションの宮崎ワールドを堪能できた作品。