「不思議な石の塔での再会と別れ」君たちはどう生きるか 葵須さんの映画レビュー(感想・評価)
不思議な石の塔での再会と別れ
良かった点は宮崎駿が『君たちはどう生きるか』と題した作品を見ることができた事。悪かった点は統一性・まとまり感(戦争ものか?SFものか?鳥ものか?)の無さ、納得感(なぜ鳥か?なぜヒミは火を使うのか?なぜ青鷺は最後消えなかったか?なぜ主人公は肝が据わっていたのか?)の無さ。画面に登場する構成要素のまとまりがなく、体験としてはまるで構成要素が理屈なく繋がり構成される夢のようであった。石の塔における映像表現は時折現代美術の絵のようだ、と感じたが、それは悪くいえば地続きのストーリーが見えない綺麗な絵を所々続けてみさせられていると言う思いの裏返しでもあった。とか言ったが、今いった批判的な意見は自分の直感的に感じたものであって論理的にその悪い点を自分は説明できるわけではない。
自分の事前情報としては、Xにてスタジオジブリ公式アカウントに謎の鳥頭キャラのアイコンの画像がアップされているのを見ていただけだ。鳥に変装する民族が活躍するファンタジーかな?というイメージで見に行ったのだが、もちろん違った。確かにサギ男は登場したが人間としてではなく人を化かす狐のようなキャラクタとして登場していた。鳥関係のキャラクタで言語を喋り知能も有するものは他にもペリカンやインコがいたが、人面を有し、主人公に幻を見せたり母親の名前をチラつかせ言葉で主人公を翻弄しながら石の塔へ導く様子は、知能を有しつつも石の塔の中の生態系の中で生きるペリカンや、王国を気づくインコの軍勢とは一線を画していた。
そんな、ジブリのXにおける公式アカウントにおいても今作のアイコンとして使われ、千と千尋の神隠しにおけるカオナシのようにも見える青鷺……序盤は悪い奴だがよく付き合えば根は悪い奴ではないような、深みのあるキャラとして重要な役割を示す……であるが、彼のバックグラウンドについては、石塔の主人である大叔父の下僕としての役割が明かされるのみで、それ以上は説明されず、物語最後においては、ペリカンやインコが崩壊する石塔から外に逃げる中でその効果が切れることで普通の鳥に戻って見える中、彼のみはその知能と人外の力を有したままだった。石塔によってその力を得ているかに思えた青鷺が石塔崩落後もその力と知能を持ち続け、現実の戦時中の日本の世界にあばよと言ってどこかに消えていく姿は異常だ。石塔をめぐる冒険の全てが頭を自傷した眞人が亡き母を思い見た夢の中での出来事とするならば、現実における非リアルな枝葉末節の出来事を全て白昼夢的表現であると考えれば辻褄は合わせられるかもしれないが、この題名で夢オチの作品を作るだろうか?『風立ちぬ』では、主人公の夢や白昼夢をリアルでの体験の描写と陸続きにスムースに行き来する表現により、ファンタジー要素のない作品にのびのびとしたファンタジー表現方法を取り込むことに成功していた。それと同じような描写を今作の話の始まりの頃の主人公の夢や白昼夢描写に自分は感じていた為、もしかしたら全ての表現が眞人の夢出会ったのかもしれない。……かもしれないと言っただけでそういう考えを押し付けたいわけではない。思いつきだが別の妄想では、青鷺は大叔父の別の姿だと言う思いもある。もう一つ後から思いついたのは、彼が石の塔とともに生きて地球にやってきた宇宙人であるという説だ(石の塔崩壊後も鳥と人どっちつかずの妖怪じみた姿を崩さなかったのは、不思議な力をもつ石の塔と同様に宇宙人自身も妖怪じみた力を個体として有していたという説)。どこかで宮崎駿が今作のタネを披露してくれたらなと思う。ポッドキャストの『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』を時間がある時に聞いてみよう。
さて、今作の題名は『君たちはどう生きるか?』だった。どこでその問いかけがされているか、その回答がなされているか?それを考えて思い返されるシーンは、宮崎駿自身を表した姿と考えられる白髪白髭の大叔父が、自分の支配していた塔の管理(彼は石の塔の中の世界の事を、現実における醜さのない世界だ的な事を言っていた)を主人公眞人に託そうとし、その選択を委ねるシーンだ。そこで主人公は積み木を積み重ねる(石の塔の管理者の後継者となる)のではなく、現実ではすでに死んでしまっている実母と別れ、自分の第二の母親と共にまだ戦争が続く醜い世界に戻る事を選んだ。このシーンは宮崎駿からの彼自身の息子やオタク文化に沈溺する者へのどう生きるかという問い掛けとその回答例と捉えた。眞人の選んだ選択は現実回帰である。シンエヴァンゲリオンのラストもそういう終わり方だった。他にも『現実に帰れ』的な締めくくりのアニメ映画か何かを最近みた気がするが思い出すことはできない。もしそう言う主張であった場合、自分はその主張に対して特に肯定や否定する言葉は出てこない。確かにな、と思う程度だ。なぜなら、確かにそうだと思える分別はあるが、自分はアニメが好きで結構見てしまうところがあり、現実がおざなりになるのはしょうがないと言う思いもあるからだ。話はそれた。眞人の選択は現実回帰であったが、大叔父が眞人に求めた(少なくとも口上においては)選択は、拒否サレはしたが石の塔という綺麗な世界を存続させるベく今後自分の代わりに石の塔を管理することであったし、インコの王様がやったことは、王様なりに大叔父の代わりに自分が管理者となるべくテキトーに積み上げ、その積み木が倒れそうになるのを見るや激情して刀で一刀両断し、積み木とリンクしているコアと石の塔を崩壊させるという選択だった。それら三つの選択と結果を駿から彼の息子やジブリ内の有力者に対する複雑な思いと激励と考えるならば、それは結構きつい表現な気がするが、宮崎駿の歳(82歳)を考えれば、こういう言葉も出てしまうよなと思った。
今作のテーマについて思ったことを書いた後で、以下は脈絡はないが劇中のエレメントや物語の構成や監督の思いについて思った事を段落に分けて思い思いに書いていく。途中で論理破綻していたりするので申し訳ない。
今作の鳥たちの表現について。鳥、特にインコ、ペリカンの可愛いかったり平和な見た目に対して、ペリカンが群集で主人公の方を見つめる描写やインコが包丁を持ってたり、胸を膨らませながら鼻息を立てる狂気迫る気持ち悪い描写には、カートゥーンにおけるブラックユーモアの効いたキャラクタの描写を思い出した。少しずれるがアニメでいえば空中ブランコ、パプリカ、あと一つ名前が思い出せないアニメ(2000年代で隠れた名作的なもの)と似ていると感じた。
続いて今作の物語の構成について思ったこと。不思議の国のアリスと千と千尋の神隠しを男女逆にして鳥仕立てにしてブレンドしたような印象(石塔の中での母やキリコおばさんの主人公眞人に対する言動にはハクを感じた)。それにつけて思うのは、冒頭で今作の悪かった点として軽く書いたが、今作は現実の日本を舞台にして、宇宙から来た石から作られた謎の塔の中に展開された異界に主人公が入ってしまって冒険をすると言う話であったが、千と千尋の世界観では旅館に八百万の神が来ているという現実において非科学的な分野で信じられている世界観がそのまま表現されている(それらのデフォルメされた神々の容姿は個人趣向による傾向を受けて見えることはなく、貧乏神やカオナシという特殊な存在についても違和感を感じることがなかった)のに対し、今作では鳥(青鷺とインコとペリカン)が取り立ててとり立てられている理由がわからず(大叔父が鳥が好きだった、鳥類の研究者だった等、一言でも説明していればよかったのでは?)、塔の中で海があったり森があったりする様が塔のいまの位置とリンクして今どこ的な実感を伴った描写ができておらず場当たり的で、連続性が掠れた描写は夢想的であり、そこに火の力を使う母親ヒミと来たものだから、なぜ火なのか?と疑問に思った(母の死因は火であるが因果は逆転している。眞人にも石の塔に入った後に何かの能力を目覚めさせるべきだったのでは?)。
今作で自分が理解不足で理解できなかった点を一つ。石の祠に妊婦である夏子(第二の母)が入った理由だ。彼女がそこに隠れた理由については想像できる。素戔嗚の狼藉に恐れをなして天の岩戸に隠れた天照のように、理由は変わるが自分になつかない息子に絶望して石の塔の中の石の祠の中に隠れたのだ。しかし、石の祠を神聖なものとして周りのインコやキリコに説明させながらも、そんな場所に血を連想させる妊婦である夏子を入れた意味がわからないのだ。夏子本人が石の祠の主人だったとして、彼女が自分が隠れる場所として石の祠を選んだ説明がされていないため、彼女と石の祠の関係性が読めなかった。石の塔の中で眞人が冒険している最中に、石は人を嫌うという描写もあり、彼女が石でできた祠の中で横たわっていられる理由が分からなかった。もしかしたら大叔父が眞人を管理者に迎える前に夏子の適正を調べていたのかもしれないが、それは説明されていない。
作品を通じて駿が子供達にリアリティを感じさせようとしているのが伝わってきた。主人公が弓矢を竹で作ったり、青鷺の嘴の穴を塞ぐために木を削ったり、大きな魚を内臓をぶちまけながら捌いたり等の描写をみて、これはこうした体験が希薄な子供達を思って描いているのだろうなと過去の彼の言動を思い出しながら思った。主人公が自分の頭を打ちつけて血を出したのも、今の無菌室で育つ子どもへの傷という感覚のプレゼントと感じた(眞人はそれを悪意だと言ってた気がするがその悪意については分からなかった)。他の子供に対するエレメントとしては、トトロのまっくろくろすけや、もののけ姫のこだまを連想させる白い奴ら、ワラワラだ(話はそれる。彼らは人の魂が生まれる前の段階を表現しているらしく、DNAを思い起こさせる二重螺旋、三重螺旋の弧を空に描きながら空を昇っていた。駿の死生観に通じるのだろうと思った)……少し脱線するが、リアリティといえば、作品全体を通して、いろんな場面でその描写の音を表現している効果音がとてもリアルだと感じたのは自分だけだろうか?
主人公眞人の肝の据わった性格について。年齢の割には大人びていて寡黙でありながら激情的に敵を敵と断定すればすぐ行動し果敢に突き進む様を見せつけられる。年齢設定を青年にしても良いくらいの様が物語中見せつけられ、彼はへこたれず、弱音をはかず、最後、東京に帰ることになった時の姿も凛々しい。彼くらいの年頃の子供が普通は起こすであろうワイワイ、ゲラゲラ、うわーん、ぎゃーと言ったひよわで朗らかな表情がまるでない。それが何を示しているのか?火の巫女に撃ち落とされたペリカンと対峙する様も、子供の弱さは全く感じられない。……と書いている最中、千と千尋のハクも、ポニョのソウタも、もののけ姫のアシタカも程度の差はあれど似たようなものだったか。駿は強い男を描いてそれを見る子供を感化させたいと思っているのかもしれない。
最後に枝葉末節的でテーマには関係ないにしろ見ていて気になったのは、召使のおばあちゃんたちの映像表現が、例えていうなら妖怪じみた非リアルな表現で描写されていて、周りの戦時の描写に対して浮いて見えたことだ。駿の趣味と、今作で所々取り入れられているCG技術、もしかしたらばあさん達にはモーションキャプチャーが使われていたのかもしれないと思うほど彼女らは周りに対してグリグリ動いていた。彼女達の頭の形も通常のアニメデフォルメ表現を超えて個性豊かに誇張とデフォルメがありながらもリアルに描写されているのもあって彼女達は特別な何か、人外の妖怪なのでは?と最初に彼女達が現れたシーンで思ったのだが、キリコさんが活躍するだけで(守護霊的なちょっとした活躍はあるのだが)彼らは普通の人間だったのだと思う。結局おそらくはこれまで手書きで描いてきた所にそれなりにこなれていないCG技術を駿の趣味の人たちに導入して起きた過多な存在感の表出であり、そこに深い意味はないのだろうと思う。しかしみていて気になった。