「宮崎氏のルーツとイマジネーションの歴史」君たちはどう生きるか bukojiさんの映画レビュー(感想・評価)
宮崎氏のルーツとイマジネーションの歴史
まずはじめに感じたのは、これは基本的に宮崎駿監督の自叙伝だろうと思った。
戦時下の日本、空襲で母を亡くし、父は義理の妹と再婚し新しい命=弟を授かる...
そして駿少年たる主人公は唐突な継母との新生活や疎開先の田舎に馴染めず同級生と喧嘩...
現代で考えても相当ヘビーなトラウマを植え付けられ「自分は何も悪くないのに、次々と周りの大人たちのせいで大いに傷つけられた」と嘆いていただろう。
だからワザと石を頭にぶつけ喧嘩の傷を広げ周りの大人を心配させ自己憐憫にふける。
そこで思ったのは、人の喜怒哀楽を拡大・誇張する「デフォルメの才能」が幼少から在ったようだ。まあ石のくだりが事実かは不明だが、何となく映画の前半は「幼い自分が時代や大人たちから受けた理不尽さ」の説明に費やされてた印象。
そして後半は、そんな田舎暮らしの駿少年が自己憐憫にふけりつつ毎日妄想してた「オリジナルのおとぎ話」を、現代のスーパーアニメーターたちを総動員して映像化したものだと思った。いわば「宮崎駿はじめてのオリジナルファンタジー案」の完全映像化だ。
なぜそんなもの作ったか?まずは単純に「クリエイターとして最後に創りたいモノは?」と考えたら、宮崎氏にとってはコレだったんだろう。
いわばアオサギは当時の自分のアタマの中にいた妄想上の親友で、当時の駿少年は、そいつとの冒険譚が鬱屈した疎開時代を生き抜けることができた生命維持装置みたいなものだったし、ひいてはクリエイティブな才能をじっくり醸造できた時期でもあったんだと思う。
勝手な持論ですが「リア充は第一級のクリエイターにはなれない」と思ってる。女にもてずクラスの人気者になれない日陰モノは、妄想という名のクリエイテビティを良くも悪くもコジらせ肥大化させることで、リアル世界に現出しないファンタジーを創造することができる。リア充は結局そこまで頑張らないし定時になると帰りたがるので驚きを生まない。
だから今作を見てて「アオサギは何だったのか?大叔父の存在とは?インコは何の隠喩なのか?」と考えてても、正直「たいした意味はない」のでしょう。教室で授業も聞かず妄想に耽ってた駿少年の妄想ベストシーンをもとにストーリー性を設けて再現しただけと思う。らインコとか、疎開先のお屋敷で沢山飼ってた?の程度の事だと思う。いやまあ「それもアナタの妄想でしょ?」と言われればそうですが、そう考えるのが一番合点いった私の感想です。。でも、それでいいんですよ。それこそ宮崎駿氏にしかできない遺作の在り方です。
長年アニメクリエイターとして生きてきた宮崎氏が最後に語る「自分はこういうモノで出来てる人間で、こうやって生きてきた。キミたちも自分で考えながら生きてみれば?」と晩年になって書き残してみたくなった…という映画なんだろうって。なので、鈴木プロデューサーが「あえて宣伝しなかった」と公開間近になって宣伝?しはじめたのも、そういう目でみると合点がいく。そりゃあ、宣伝できませんよね。。だって「大いなる自分語り映画」なんだから。だから宣伝「しなかった」でなく「出来なかった」が正確と思いました。
でも、エンドロール見てて思ったのは、結局その鈴木Pは、言葉は悪いがコモノだったなあと思った。日本のウォルトディズニーにはなれなかった。だからジブリは、このまま消滅するんだろうって。錚々たる名アニメーターが参加してたのは感動したが、と同時に、みな個々にスタジオを設けてて、ジブリを預かる後輩がいない。しかも上映開始前に流れたポノックの予告を見てて「なんでヨネさんがポノック名義で新作だすのさ?」って思った。鈴木Pは宮崎氏と若手クリエイターのカスガイになってなかった。。。
改めて日本アニメ界の旧態依然を見せつけられた気持ちになった。