「君たちは死や喪失をどう乗り越えるか」君たちはどう生きるか 春雨さんの映画レビュー(感想・評価)
君たちは死や喪失をどう乗り越えるか
死や喪失に対し「はい!これが苦しいんです!」という明確な主張はありませんでしたが、序盤の主人公の説明できないような行動から、苦しみや喪失感が伝わってきました。
私たちも、身近な人を喪ったり、世の中の不条理や悪意に遭遇したりと、そういった苦しみが誰しもあると思います。
失意といっても色々です。ちょっと「いいな」と思った好意、幼かった頃の、感受性が強い時の、密かな思い。でも、それが思いもよらない形で無惨に裏切られた(と思ったり)、 小さなプライドを守るにはあまりに心にさざ波が立ちすぎる事件が起こるときもある。
と、若くてきれいな義母を主人公が横目でちらっと見た視線から感じました。詳しくは本編。
でもこの映画を極彩色の世界を主人公と一緒に駆け抜ければ、一生懸命になる自分に爽快感があったり、ひそかな思いを暗い恥の感覚としてではなく別の面から捉えることができ、新しい自分になっている事に気づくと思います。
それは何かというと、主人公が意図せずお婆さん・キリコさんたちやアオサギと関わったように、人は当初「この人と」とは思っていなかった人たちと一緒に世界を懸命に生きていく、と思います。大変な目に遭った時、今現在だけの姿や見た目にとらわれず、心の全ての感覚を使って人を判断することを学んでいくのだと。
見る時によってつど姿を変えるアオサギ、キリコさんなどが、そんなメッセージを送ってくれている気がしました。
以下、ネタバレあり
①アオサギ
・物語のトリックスター(予測できない動きで物語を進展させる人物)のような、鍵となる人物。最初はトラウマの引き金を連呼して刺激してくるなど、とんでもなく邪悪で、人の心の聖域にずかずかと入ってくる人物に見えます。しかし油断ならない相手ながらも、物語後半ではその飛行力が必要になってくる人物。
→現実世界でもそういう人たちと協働しないといけない時がありますよね。憎い、嫌い、じゃ割り切れない。相手の力が必要。
②キリコ
・使用人たちの一人のおばあちゃん。はっきりした態度で一際きわだっています。最初は矢と引き換えにタバコをねだるなど、「裏取引を持ちかける」ずるい人物だけのように見えましたが、精神世界のアナザーワールドでは、持ち前の気性のしっかりしたところを生かして主人公を救ってくれ、命を慈むような思いがけぬ優しさを見せる人物。
→ 物語中盤で、主人公がおばあちゃんたちの人形に囲まれながら呟くシーンがあります。
「おばあちゃんたち、ごめんね」と。
なんでごめんね、なのかなと最初は思ったのですが、おばあちゃんたちは最初は戦争中の薄暗い雰囲気の中で、卑しさ、得体のしれなさ、醜さ、平凡さとともに描かれていました。
だから主人公も「所詮自分とは関係ない知らない人たち」「賤しいつまらない人たち」と見下げ、距離を取りたいと思っていたと推測します。
そして、そんな自分の先入観や心の氷に気づき、謝罪したのでは?と思われます。
なんてったって、異世界のアナザーワールドで守ってもらった後に見たおばあちゃんたちの人形には、醜さはなく、慈しみや安心感に満ちていましたから。最初と全然印象が違います。
不条理な悪意にさらされることのある世の中で、おばあちゃんたちは本当に「護ってくれる」よき身内だと本能的に主人公は察知したのだと思うのです。
このあたりから主人公が望みのために闘っていく、という転換点が始まったと思います。
もっと踏み込むと、「君たちはどう生きるか」という生き方の智慧がさりげなく描かれているようになりません。ーー先入観を排し、かつ過去や背景を考慮し、相手のよさに目を向けながら、包括的に理解しようとしていくうちに人間の本質が見えてくる。そうすると、自分の中のここは安全という身内や仲間が決まるので、外の世界に向かっていける、体当たりできるようになるーー主人公も後半では、「警戒すべきもの」と「安心できるもの」とがちゃんと識別できるようになっていました。例えば、の解釈ですが。
以上が最終的に仲間になる①アオサギや②キリコから私が受け取ったメッセージです。
まとめると、
・死や喪失、失意を乗り越えて生きていかなくちゃいけない
・そのためには、身近な人たちとの新しい関係をしっかり認めて築いていきながら、今を一生懸命駆け抜ける営みの連続によって、仲間を得て、不条理な悪意を退け、自分の望みを明確にし、生活の中での立ち位置を確立していくしかない
そういうことを、象徴的に繰り広げられる色彩豊かなファンタジーの中に凝縮させたのではないかなと思いました。
極彩色の世界を、説明のつかない出来事のなかを一生懸命駆け抜ける主人公と伴走させてもらい、まとめて自分自身を振り返ったような気持ちでした。言葉にならないで感じてきた思いーーしいていえば、自分の学生時代の鬱積、絶望、そして憧れを、その後の社会人時代でどう闘い、どう昇華していったか、という自分自身の物語をも、映画の中にかいま見た気がしました。