劇場公開日 2023年7月14日

「生と死の間=「十三重の石の時空を超えた世界」=『黄泉の国』に迷い込んで」君たちはどう生きるか アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0生と死の間=「十三重の石の時空を超えた世界」=『黄泉の国』に迷い込んで

2023年7月30日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

取り敢えずは、人の評価に惑わされず、余計な先入観など持たないままの素直な気持ちで受け止めることをお勧めしておきます。

やはり、宮崎ワールド=ジブリ感全開の素晴らしさだと感じました。

多くを語りだすとキリがないので、感じたことを並べる程度に納めておく事にしたいですが…..

一番気になった『13個の石の積み木』にまず触れておこうと思います。
劇中で重要な意味を持つ「十三重の石」ですが、これについて様々な解釈、意見が披露されているようです。
私見としては、古代から時間や方位などに使われている六十進法の、60の約数である12はそれらの基準の数として、月、時間、方位などに用いられ、この数は、十二因縁、十二支も意味します。
実は『十三重石塔』というものが国内だけでもかなりの数存在し、アジア各地に同様の塔が存在しているようです。
この建造物のもつ意味は、上記の12に対し「因縁を超えた」13という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んだというようにも解釈されており、この数が「時空を超えた黄泉の国」の象徴なのではないかと感じました。
逆に、時間の概念の数字として大きな役割を持つその12に対し、12より一つ多く素数である13は、その調和を乱すものとも考えられることがあるので、劇中のようにその「13個でバランスを保つ」行為に「危うい現世のバランスを保つ」意味を持たせているのではないかと。
周りにあった沢山の石のことを考えると、何らかの原因で崩壊してしまった、実は元の『十三重石塔』の破片、或いは残骸ということなのかもしれません。

作品内容についてはまず、戦争繋がりで、ある意味前作の姉妹編とまでは言えずとも、延長線上のテーマは感じます。
特に「夫(一族)が戦争で敵味方を問わず人の生死を左右することになる、兵器(だが”大空を飛ぶ物”という側面もある)製造に関わる仕事に就いており、その妻は何らかの因果で天に召される。」という類似点を持っていること。(あえて劇中で、ゼロ戦のキャノピー=風防ガラスを見せる描写もありました。)
ある意味、前作のお話の最後の部分からの続編的に、それを更に次を担う世代のストーリーへと繋げるかたちとして描いた、”発展形”的作品のように位置づけられるのではないかと。

そして、直接的な反戦という形で見せるよりは、「戦時下の人(身近な)の生と死」を描く事で問いかけてくるもの、何かを感じ取って欲しいのだろうと受け止めました。

それから、この映画のタイトルになっている本が途中で登場する前後で、主人公に変化が現れたように思いませんでしたか?
他作品にもみられる様に、今回は少女では無く少年の、(異世界での)冒険を通しての成長ドラマという基本は失われることなく、ストーリーの軸になっていると思います。
個人的には、その後の主人公が自らの意思で、惑わされる事なく、目的をつら抜いたこと=「どう生きるか?」の問いかけの答えに既になっている様に感じましたが。

途中、あの世界を“地獄”と呼んでいた箇所があります。
そのものズバリじゃないですが、元の生者の世界から“堕ちて”しまった者たち、これから生まれてくるものたちが交錯する、時空も超えた場所、所謂「黄泉の国」とかの解釈になるかと。

しかしそれはシチュエーション(状況設定上)の必要性からという側面が強く、空(宇宙)から飛来した『それ』は生と死の狭間の世界から、現実世界の(善悪の?)バランスを計る力を持ち得て、大叔父さんはその力を管理する番人として長年現世を保ってきたが、寿命を迎えるにあたって後継の必要性から“血筋の者”の誰かを求めたという背景と、それを理解した主人公が「以後もその力により(裏の)見えない世界からバランスを図る」道を選ぶのか?、それとも、実際に自らの行動でやって見せた様に、自ら(と周りの者たちと)の力を信じて現実世界の道を行くのか?

その選択は既に映画のラストで、作品タイトルへの答えとして示されていると思いました。

考え方によっては、他のSF 作品にもみられる設定としてある、「宇宙の何らかの意思からもたらされた(争い続ける人類を試すべく)超自然的テクノロジー」との解釈も出来るとは思いましたが、そちらに重きが置かれているかと考えると、そちらは微妙に思えました。

あと、世界観や登場キャラクターのインスピレーション的にすぐに思い浮かんだのは、

不思議の国のアリス
白雪姫=七人の小人
イエローサブマリン

などとか?

鎌倉物語の映画も思い出したかな?

あと、どなたかの指摘にあった「なぜ夏子があの世界で出産する事に?」については、主人公が対象にならないとしたら彼以外には彼女のお腹の子供が唯一の血筋=あの世界の後継者であり、主人公を追い返そうとするなつこの態度もそれを受け入れている故と解釈できる。

「父親の早い再婚」を不倫まがいに受け取った方も居られるようですが、そここそ終盤直前の“姉妹”のやり取りと、上記の事などから考えるに、「この時が来た場合の姉妹の取り決め(姉の願い)」=主人公の継母になるという約束事が存在していたのではないかと考える方が、むしろ自然かと。

観終わって、思いついた点について忘れぬうちに、雑駁ながら......

それから書き漏れたので追加しておきます。

題名が「君たち」と複数形になっている事についてですが、幼少期に既に向こうの世界に行って自分の未来も理解していた事で母が主人公の“その時が来たとき”の為に残しておいたと解釈される本の題名からきているという事。

そしてもう一つは、この作品を観た人々がこの主人公のとった選択、この作品の結末から受け止めるメッセージについて、「自身に投影して考えて欲しい」という事が込められているということは、言うまでもないと思いますが…..

うがって考えるとそれは、
「誰かの意思で与えられた調和(平和)を受け身で生きていくのではなく、“友達”や“自分の周りに居てくれてる人々”と、自分たちの努力で築いていって欲しい。」という『平和への願い』の様に私には感じ取れましたが、皆さんは如何に解釈されたんでしょうかね?

ウクライナ問題や中国の台頭ほか、混迷を極める世界情勢の中で、この10年間の間に宮崎監督が抱かれた、特にこれからを担う世代へと向けられたメッセージであるかの様だと、強く感じました。
特に、毎年やって来る“終戦の日”がまた近づいてきたこの夏の時期に、という公開のタイミングも無縁では無いのでは?

悪戯な先入観や、妙な邪推を排除して、まっさらなご自身の心のままに受け止めて欲しい作品であると、願うばかりです。

あえて前宣伝や事前情報を排除された監督の意図も、けっして勿体ぶって隠し立てされてその効果を狙う様な、下衆な発想からのものなどではあり得ないでしょう、正に上記の願いゆえと理解しております。

結局また、書きすぎちゃいました……

最後にもう一つ、蛇足ながら。
事前に、「次回作はナウシカの続編では?」との説が流れていた様でしたが、あながちハズレでも無いようにも。
それは、映画版のナウシカはハッピーエンド的に変えられていましたが、宮崎氏の原作版は“主人公が拒否して終わる”という展開でした。
その点について、ナウシカで果たせなかった「元通りのエンディング」を今作で取る形でもって再現して、自身の最終作として締めくくっておきたかったのではないだろうか?
との考えも浮かんできましたが、如何でしょうかね?
まあ、監督ご本人に伺わないかぎり、その真相は分かりませんね……

アンディ・ロビンソン