「宮﨑駿の夢であり神話」君たちはどう生きるか Tom614さんの映画レビュー(感想・評価)
宮﨑駿の夢であり神話
宮崎駿の最後の作品かもしれないので行ってきました。自分は決してジブリのファンではないのでジブリ作品は見ていない作品がいくつかありますが、宮崎駿は全ての映画作品と未来少年コナン、風の谷のナウシカ(漫画)、宮崎駿の妄想ノート、泥の虎、などを見てきています。さらに原体験的に6歳くらいに再放送されていたパンダコパンダまで見ています。振り返りますと宮崎駿のファンであったなと思います。
他のレビューを見ていますとジブリ作品ってこういうものなの?という感想が見られます。初めて映画館でジブリ作品を見たのがこの作品なのでしょう。確かに「ラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」と比べると分からない作品だと思いますが、宮崎駿の過去作を見てきた自分には「こういうのも宮崎さんだね」ということで納得をしています。ミリオタであり、児童文学作者であり、神話好きであり、SF作家でもあるのが宮﨑監督です。今回はかなり神話よりの児童文学的作品だと思います。
ストーリーが分からないというコメントがありますが、物語の主点は少年の成長です。主人公眞人は母の死という受け入れがたい喪失によって心の傷を負っています。彼は疎開先の父の実家の裏山にある塔の下の世界に降りていき、そこで下の世界創造の秘密を握る大叔父と実の母の少女時代であるヒミ、その他アオサギ、傷ついたペリカン、キリコなどに出会い成長します。主人公を導くアオサギは神話でいうところのトリックスターです。アオサギは主人公を異世界に導き成長を促します。少年の成長を中心に据えた異世界冒険譚として捉えますと分かりやすくなります。
また、古典的な物語としてオイディプス王の物語が取り入れられています。母久子を亡くした眞人は母に似ていて優しく妖艶な夏子に惹かれます。眞人が夏子に惹かれているのは後にキリコから「その人のことが好きなのか」と問われて「お父さんの奥さんだから」と答えることで分かります。眞人は自分の夏子への思いを父の後妻さんだからと抑え込んでいるのです。眞人は父と夏子のキスシーンを盗見しますが子どもの彼はどうにもできません。つわりで寝込んでいる夏子の病室に眞人は訪れ傷を優しくなでられ労りの言葉を受けますが、しかしそれは母としての労りであり自分のものにはなりません。その自分のものにならないという思いは憎しみとなりタバコを盗むという行為で代償します。
ここで私は驚きました。主人公が堂々と盗みを働く宮崎作品を初めて見ました。また少年の性欲を隠さず描いています(とても上品にオブラートで包みながら)このような点でこの作品が宮崎監督作品ではなく宮`﨑`監督作品であると理解ができました。有り体に言えば宮崎駿が初めてパンツを脱いで下半身を私たちに見せているのです。
眞人は夏子が塔に向かっているのを見て追いかけます。この時点で母捜しと夏子探しは重なっています。ここで細かい辻褄がおかしくなることで物語が難しくなりますが、しかし眞人の無意識化の次元では母久子と夏子は重なって認識されているので物語上ではあまり問題にはなりません。下の世界で実母の少女時代であるヒミと出会い、夏子が向かった産室までたどり着きますがそこで夏子から拒絶されます。このあたりはイザナギに桃を投げつける黄泉に降るイザナミのようです。黄泉下りと桃による神々の誕生が重なるように生と死がこの世界では両立します。そしてイザナミが姿をイザナギに隠したように、出産の場所は他者に見られてはいけないのです。女ではない母としての夏子を見てしまった眞人は「夏子お母さん」と呼びかけます。ここで父を殺して母を娶るという無意識下の眞人の思いは頓挫します。
眞人の現実の父は善い人ですが現実に生きる企業人でかつ眞人のことを理解していません。塔の向こうの世界も分からず入ることもできません。話はあくまで少年と母たち(キリコ、婆やたちを含む)だけで進みます。少年と母と動物しかいない下の世界にいるもう一人の男性は大叔父です。大叔父は13個の石を3日に一個積むことでこの下の世界を絶妙なバランスで維持しています。一つの解釈ではこの13個の石はジブリの過去作、13×3でジブリが続いた39年、そして大叔父は宮﨑監督、という解釈も成り立ちますが、そこは神話的物語として寓意が開かれています。つまり、解釈はいくらでも可能なのでこれという答えがあるわけではありません。大叔父は自分の血族の中から誰かが下の世界を継ぐことを待ち望んでいました。眞人に善意だけでできたこの石で積み木を続けて世界を維持してくれと頼みます。しかし、善意だけでできた石など嘘だと眞人は傷ついたペリカンとの出会いで知ってます。理想郷を作ろうとした大叔父の善意は多くの人を傷つける偽善的な世界を作りだし、この世界は人を食べる獰猛で扇動されやすいインコの大群に占拠されつつあったのです。大叔父は塔の最上部で下層の苦しみを何も理解しないまま積み木をつみ続けていたのです。眞人は傷を見せて自分が無垢ではないと示します。この傷の意味も多様だと思います、継母に欲情する汚い性欲、友達を作れない傲慢さ、金持ちとして生まれたことの負い目、いろいろあるでしょうが物語的に意味は開かれています。そして眞人は汚さと苦しみのある現実世界に戻りアオサギのように善悪美醜両方を持つ多くの人々と「友達」となることを宣言します。男が一人しかいない理想の美しい世界に閉じこもることを拒絶して美醜が混在する現実に欲望と痛みを持った一人となって戻るのです。異世界冒険譚は主人公が死などによって異世界に降りて、そこで敵と戦うなどの困難を経て元の世界になかった宝を持って戻ることが主要テーマになっています。ここで眞人は、下の世界の王になる、あるいは塔の宝を持って帰るのではなく、「現実で友達を作る」という決意持って現実世界に戻るのです。友情を作るという決意、これが主人公が現実に戻ることに対して宮﨑監督が持って帰って欲しいと思った宝でした。これは現代における神話として監督が少年少女に示す一つの解でした。
物語的に父の代わりである大叔父の願いを拒絶することで王殺しを達成した眞人は下の世界から現実へと戻ります、その現実へと戻る際に実母の少女時代であるヒミと別れます。火に焼かれて死ぬ世界に戻るのかと眞人は母ヒミに問いかけます。この問いに「眞人に出会いたいから戻る」と答えます。父から母を奪い娶るという形での性の解消ではなく、母が父と結ばれることで自分が生まれ、自分が母から強く望まれて生まれるという生殖の営みが示されたことで別の形での性の解消となり宮﨑版オイディプス王物語は終わります。ここで私は奇妙な爽快感を覚えました。大叔父に代わり下の世界の王となることで自己を自己が肯定するのではなく、母からありのままのあなたを愛している、と言われることで他者からの肯定を眞人は得たのです。眞人は母を救えなかったという負い目から解消され、うじうじしていた自分を含めた存在そのものを亡き母から全肯定されました。ここが物語の終結点だと私には思えます。このような聖母的な母かつ少女から全肯定されたいという宮﨑監督の思いを「気持ち悪い」と突き放したいという思いも私にはあります。ですが火事で死ぬことが決まっている世界に戻る母から「あなたに会いたいから」と言われることの感動が上回りました。
正直、この映画は細かいつじつまを追って行くと疲れるだけです。設定や登場人物の動きは主人公が体験する主観のためにあるものでつじつまが合わない部分も多いです。ですが、主人公の主観的な物語はちゃんと追えていますので眞人の主観を中心で見ていけば物語は理解できます。また、最近の漫画やアニメのように主人公が感情を吐露したり、脇役が状況を台詞で詳しく説明もしてくれません。ですので、見ている方に絵や行動から物語を解釈する力が求められます。そういう点で万人向けでありませんし、また近代の小説(物語)というより昔話や神話の方に近く作られているため主人公が内心を吐露することはあまりしません。ですので、最近の物語(小説、漫画、アニメ)に慣れている人は面食らうと思いますが、動きや表情をよく観察し、台詞の裏の思いを推し量っていけばなんとなく感情は想像できて流れを追うことができます。
私個人は最近の映画やドラマにある、オーバーで分かりやすい演技、なぜか状況説明を台詞でしだす登場人物、色分けや容姿でハッキリと分かる敵味方、などに食傷気味でしたので、分かりやすさに全く媚びなかった宮﨑駿に共感しています。また、これだけの作品を作った宮﨑監督に次の作品がないとは思えません。一つ言えるのはこれ作ったら漫画版ナウシカのアニメ化は必要ないなということです。それは、大叔父と眞人、インコ大王、アオサギのラストが漫画版ナウシカまんまだったので。