「君が、誰か他者ではなく、君自身を生きるヒントにと」君たちはどう生きるか tohru hayabusaさんの映画レビュー(感想・評価)
君が、誰か他者ではなく、君自身を生きるヒントにと
作られた映画、届けられた映画。
そういう感想を持った。
この映画のタイトルは『君たちはどう生きるか』だけれど、1937年出版の吉野源三郎の著書とは別物だ。
敢えて、『君たちはどう生きるか』としたのは、「この本は今、若い人たちに再び手に取られて、読まれなければならない」と宮崎監督が強く感じたからではないか。
かつて「君たち」の一人に過ぎなかった宮崎駿少年と、少年眞人が、この本から受け取ったことはあまりに大きいのだろう、もしかするとこの現実世界を生きていく「よすが」となるほどに。
大きいからこそ、具体的には描かれなかった。そこは描いてしまいたくなかったのだ。
この映画をキッカケに実際に読んで、受け取る体験をするよう願っているのではないか。
大叔父の塔が崩れたのは、「誰かが作り上げた虚構の世界」、もしかするとアニメーションの創作群、それらよりも「君と一冊の本」との結びつきのほうが素晴らしいんだよ、人生にはよっぽど大事なんだよ?と諭す寓意があるのではないか。
本当に素晴らしい一冊との出会いがあれば、(眞)人は生きていける。
大人たちが性欲のまま動き淡い想いを踏みにじり、かと思えば独善だったり人生のレールを敷いてくるような醜い世界であっても。
他者の悪意や冷笑も、自身に渦巻く悪意も、どちらも制御不能であっても。
それが一番言いたいことなんじゃないかと受け止めた。
その他思いつくままに書き留めると…
・思いもかけず関わってくる他者も、なんだかんだと行動や時間を共有し交流することで情が湧き、もはや無関係ではいられないし、友情や絆のようなものだって生まれてくるだろうこと。
・自分の手を動かして、ナイフで削ることで武器を作れること。だがコツを掴むまで練習しないことには、その物は道具や武器として用をなさないこと(アオサギを射抜こうと弓矢をこしらえる場面)。
・人と、自然という「異界」との親しさは、里山的、田園風景的な(自然)環境の中でしか育まれないこと。
・男性にとって、母親は永遠に「はじまりの女性」なのだということ。
・威圧的な他者(インコ王)、神のような存在(大叔父)がruleする世界は、所詮は他人の「世界」であってそれは「君自身」がゼロから関わった世界ではない。 それを譲り受けるのではなく(それは例えば「とても流布した他者の見方」をそのまま信じることにもあてはまる。そうするのではなく)、未熟でも不完全でもとにかく君の実感、思うままに重きを置くこと、信じてみること。
君自身オリジナルの内的世界(観)を少しずつ築いていくことのほうがよっぽど価値があること。
この荒々しい、悪意に満ちた世界にあって、それは簡単ではないとしても。
私が勝手にそんなメッセージ、思いを宮崎監督から受け取った。
なので、この映画に関するいくつかの考察を検索やTwitterで読んでからも
「いやいや、自分はこう思うね」
とどこかに書いてみたくなりました。
眞人は部屋を出た。
私も「君たち」の一人として、「どう生きるんだい」、その監督からの問いかけに、まずは書くことで答えてみたくなった。
この先も、この映画を見たから出力された行動、動いてみようという衝動が、湧いてくるかもしれない。
私にとってはそんな映画。
あたたかく素敵な返信だったので、あの後はラブリー聴きながら家事をし、翌朝は父母におはよう電話をしましたよ。こうして誰かに力をもらうことがありますね。遅くなりましたがありがとうございました。