「80代の宮崎駿が引退してなおどうしても撮りたかった、「少年」版の『千と千尋の神隠し』。」君たちはどう生きるか じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
80代の宮崎駿が引退してなおどうしても撮りたかった、「少年」版の『千と千尋の神隠し』。
あれだけあえて事前情報を伏せて公開した映画なので、一応ネタバレ扱いにするのが礼儀なのかな?
もう引退したと思っていた宮崎駿が、辛抱たまらなくなって撮り始めた最新作。
ほんとにコペルくんとおじさんの出てくる『君たちはどう生きるか』のアニメ化なのか。
ただひとつ明らかにされていた、アオサギとハシビロコウのあいの子のような謎生物はいったい何なのか。
まったく何の予備知識もなく観に行って、2時間、映画に正対して思った。
まずは、まごうことなき「宮崎駿」の映画だった。
それもいったん引退した監督が撮ったとは思えないくらいの、重量級の長編映画。
そこには、今まで宮崎が扱ってきたありとあらゆる要素がぎっしり組み込まれていた。
その意味では、宮崎駿という円熟した監督の晩年を飾る作品としては、じゅうぶんにご褒美感のある映画だった。
いっぽうで、面白かったのかといわれるとちょっと首をひねるところがある。
いや、マジで宮崎駿らしい映画だったし、思ったよりは辛気臭くも説教臭くもなかったし、思いがけないくらいの宮崎アニメ的なアクションとキャラクターにも満ちていたんだけど、なんとなく作りとしては諸要素がかみ合っていないというか、序破急のバランスを逸しているというか、物語としての緊密さを欠くというか、個人的にエンタメとしては消化不良感のいささか残る作品だったような。
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総じていうと、本作は少年版の『千と千尋の神隠し』だ。
異界に迷い込んだ「少年」が、奇妙な動物たちに囲まれて、「アオサギ」や「姉御」や「幼母」の助けを得て、「神」のごとき「大叔父」との邂逅ののち、「世界の理」の一端を体感したうえで、一定の成長とイタ・セクスアリスを経験して、現世へと帰還する。
そういう話だ。
物語の祖型としては、西洋における『冥界のオルフェ』や日本における『黄泉平坂(よもつひらさか)』の神話がベースになっているといってよい。
すなわち、「妻」のかわりに「喪われた母性」を地下の冥界へと探しに行って、それを連れ帰ろうとする「少年」の物語である。
異界へと入っていく描写は、コクトーの『オルフェ』を思わせるところがあるし、義母の寝所に入ったときに、「禁忌」に反応した御幣のような「紙」に襲われる陰陽道ふうの描写は、まさに「イザナミ・イザナギ」の神話を想起させる。
この大枠に、宮崎駿がこれまでに積み重ねてきた様々な要素が注ぎ込まれる。
まず冒頭は『風立ちぬ』や盟友・高畑勲の『火垂るの墓』のような、先の大戦における大火災の描写で幕を開ける。出だしから「乗った重みによる車体の沈み込み」や「高いところから下りたとき足に来る衝撃」といった、重力と身体性をめぐるネチネチとしたアニメーション描写が執念深く繰り返され、「ああ、俺いま宮崎アニメ観てる!!」という気分にさせてくれる。
疎開先に少年がやってくる描写は、少し『となりのトトロ』や『借りぐらしのアリエッティ』(宮崎は脚本参加)を思わせる。そこに「オールド・ダーク・ハウス」ものの怪談めいた話が出てきて、その「妖しさ」の象徴として登場するのが、謎めいたアオサギだ。ヒッチコックの『鳥』を意識しているのは間違いない。
今回、久方ぶりに「少年」を主人公としたことで、ある意味ファンが待ち望んでいたような「初期様式」への遡行が見られたのも確かだ。
西洋的な城や洋館、階段や壁を用いた垂直アクション、空中浮揚と重力のせめぎ合い、手に手を取って走る少年・少女といった、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』といった「初期宮崎アニメの鉄板ネタ」が随所で見受けられ、個人的にはとても懐かしい感じがした。
おばあちゃんの若いころは「きっぷのいい魔法の使える姉御」だとか、お母さんの若いころは「ヒロインオーラ全開のパイロキネシス美少女」だとか、「ロリババア」要素が唐突にぶっこまれて来るのも、『ラピュタ』とか『ハウルの動く城』で見られた宮崎駿の特殊性癖の一環だ。
少女として異界に生きる母親は、わかりやすく「不思議の国のアリス」の装いをまとって漫画チックな城内を闊歩し、トランプの兵隊と女王ならぬ、インコの兵隊と王様を蹴散らして、やがて産むはずの我が子を守り導く(ただし、母親役の泣き演技はひどかったなw)。
主人公の少年は、基本的に寡黙で、常に姿勢がよくて、頑固で、ひたむきだ。
よくいえば武士のような佇まいがあって、きりっとしたキャラクターにも思えるが、
悪く言うと、何を考えているのか今いちつかめない、軽くアスペっぽい感じのある少年だ。
もちろん、この少年には宮崎駿自身の少年時代が重ねられているのだろう。
ただ、少年キャラの「得体の知れない」感じは、少なくとも初期の『コナン』や『ラピュタ』には全くといってなかった要素で、むしろこの依怙地で人の言うことをあまり聞かない感じは、『崖の上のポニョ』の宗介に近い感じがあるように思う。
主人公の少年を異界に導き、反撥し合いながらも、やがて「友」となる「アオサギ」は、最初に変化したときのその風体から『千と千尋』のカエルみたいなキャラかと思ったのだが、ふたを開けてみればまさしく『未来少年コナン』のジムシーに近い、究極のバディ・キャラだった。
おそらく本作で一番の、愛されキャラではないだろうか。
アオサギというのは、実際になかなか面白い鳥で、人間に対して総じて警戒心が強い鳥種なのだが、その割に、水前寺公園や不忍池などで常駐している個体にはやたら人なつこいものもいて、釣り師に魚をねだったり、手から投げた餌をキャッチしたりと、飼い鳥のようになっている場合もある。住処として、神社や屋敷森や公園の林地の樹上に、かなり規模の大きいコロニーをつくるのも特徴で、要するに「妙に人と近いところで」「得体の知れない威圧感をかましながら」「結構貪欲かつ傲岸に生きている」。いかにも本作のマスコットキャラにはぴったりの選択ではないか。
建築空間の設定については、一定の法則性を感じる。
まず出てくるのは、紙のように戦火に燃える東京の木造家屋。
疎開先には、豪華な書院造の和洋折衷建築の母屋と、洋館の離れが立っていて、少年の部屋は洋館のほうにあてがわれている。さらにその後背に広がる森には、謎の(ちょっとサグラダファミリア風の)廃塔が呑まれている。
塔から通じている「異界」には、「魔女の隠れ処」や「西洋風の城」が立っていて、さらにその深奥部にはタルコフスキー的な哲学的空間が隠蔽され、海辺のあずまやに異界の神として君臨する「大叔父」が坐している。
つまり、少年の生活圏から離れて「幻想」へと近づくにつれて、世界の「西洋」度が増していく。おそらく宮崎駿のなかでは、少年にとっての異界(ファンタジー)の極限にあるのが「西洋のお城」なのだろう(だからこそ少年の心をもつルパンは城の壁面に挑むのだ)。
異界を象徴する「ペリカン」と「インコ」は、どちらも「日本の鳥ではない」のがポイントかもしれない。
疎開先で異界と現世を結ぶのは、日本にも西洋にも生息するアオサギで、完全に異界で暮らしているのはペリカンとインコという「完全な洋鳥」である。
インコはもともとオセアニアの鳥なので、ヨーロッパ的な文脈ではエキゾチックな博物学的興味を喚起する鳥でしかなく、「華美」を象徴する程度のイコノロジーしかない。一方で、ペリカンは自らの血で我が子を養うとされたことから「キリストの犠牲」の象徴と解されていた。
このイコノロジーが興味深いのは、本作ではペリカンが、無垢な精霊として宙に還ってゆく魂を「捕食して妨げる存在」として登場するからで、しかも実際に胸を「血まみれ」にした姿で一羽は出てくるので、つい深読みをしてみたくなる。
あのまるい精霊(ふわふわ? 忘れちゃったww)を浄化したうえで地上に返す「装置の機能」は、「賽の河原」を体現しており、そこの番人として捕食して数減らしをしているペリカンは、「無垢なる赤子の魂」の「敵」でもあり「守り手」でもあるという「鬼子母神」に近い存在といえるのではないか? みたいな。
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以上観てきたように、本作にはいろいろと宮崎駿ワールドの集大成的な部分があって、総じて面白い映画ではあったし、想像していた以上に活劇としても力が入っていたし、あまりえらそうな人生訓とか大所高所からの価値観の決めつけがなかったのもよかった。長年のファンとしては、まずは一安心といったところ。
正直言って、80を過ぎた老人がすべてを取り仕切って作った映画とは、とても思えないくらいの密度とボリュームがある。
とはいえ、凄く面白かったかといわれると、うーん、なんか回答に悩むなあ(笑)。
まず、出だしから異界に行くまでが、いかにも長い。
異界に行って、インコの城に入ってからは俄然テンポ感が良くなって愉しい映画になるが、そこまでの展開も間延びした印象が強い。で、ラストの大崩壊と現世への帰還のあたりは明らかに足早だ。ラスト付近のインコ大王も、一体なにがやりたかったのかイマイチよくわからない感じで、物語を急速に終わらせるために、「鉄砲玉」よろしく適当で便利な扱い方をされているような気がする。
それから、主人公の少年に感情移入するのがたいへんに難しい。
とくに、いきなり自分の頭を石で殴るシーンは非常にショッキングで、映画としてはこの少年を語るうえでたいへん重要な要素であることはわかるが、観客の少年への共感度は駄々下がりである。
久々に、ちょっとコナンやパズーに似たような少年キャラが出てきたので、心の中で愛でる気まんまんでいたのに、なんだこいつ、頭おかしいのかと(笑)。
宮崎駿という人は、キャリアの初期から「間違わない正しい子供」と「間違ってばかりの大人」の対比で、なにかと物語を構築する人だった。
その点、『ハイジ』や『赤毛のアン』や『火垂るの墓』など、「間違う子供」を描くことにためらいのなかった高畑勲とは、じつに対極的なスタンスといえる。
そもそも海外でだって、『トム・ソーヤの冒険』にせよ『大草原の小さな家』にせよ、大半の子供たちは「間違ってばかりの不完全な存在」として描かれているわけで、いかに宮崎駿の「間違わない子供」が特異なスタンスかがわかろうというものだ。
その「正しい子供」の極北にあるのが『千と千尋』の千尋だが、この法則が「崩れた」のが、先にも言ったように『崖の上のポニョ』の宗介で、それ以降の宮崎アニメでは、少なくとも少年は無謬の存在ではなくなった(『ゲド戦記』のころあった長男・吾朗との確執が遠因かもとか思ったりもする)。
『借りぐらしのアリエッティ』の病弱少年も、自分のサイズがアリエッティのそれに合わないことで性的懊悩を高まらせたあげくに、地下のこびとの住居にドールハウスをねじ込んで擬似レイプを果たす変態(何もない部屋にティッシュだけがある)で、最後は別のこびとにNTRされてざまあ、みたいな身もふたもないお話だったと記憶する。
あと、これまで「自然と文明」「田舎と都会」「墜ちてきた少女」など、「二つの異なる存在」の出逢いと衝突を描き続けてきた宮崎が、今回の作品を完全に閉じた「血族の物語」に仕上げているのは、「進化」とか呼んでいいものなのか。
母親を火事で亡くした子供と、あえて妻の妹を後妻に迎えた軍事産業社長の父親と、異界で少女として生き続ける母親と、姉の夫の種を宿した妹(少年の叔母)と、屋敷を守護する「式神」めいた老婆ズ(布団での老婆人形を並べる扱いがまさに陰陽道)と、ラスボスの超セカイ系大叔父。なんかちょっとイタい横溝正史みたいじゃないすか。
で、それが一緒くたにまとめて崩壊&救済されちゃうハッピーエンドって、『ポニョ』のPTAで世界の未来を決めましたエンドと同じくらい、「えええ、それでええのんかいな」感が個人的には強かったんだよね……。
と、まあくさしてはみましたが、宮崎駿ファンなら必見です。
平日昼に調布くんだりでもしっかり満席になってるのは、さすがとしかいいようがない。