ワース 命の値段のレビュー・感想・評価
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「耳を傾けること」の大切さが痛いほど伝わってくる一作
テロの犠牲となった様々な背景を持った人々の補償額、つまり「命の値段」をどう付けるのか、という答えを出すことが非常に困難な問題をテーマに据えた本作、あまりにも大きな問いだったためか、誰もが納得できる結末となっているかどうかは評価が分かれるところではあります。
しかし本作が提示するものとは、明確なゴールや答えではなく、やるせない思いを抱えた人々の言葉の声を聴くことの重要性です。作中でテロの遺族が語る言葉は、たとえ作品用にある程度編集または改変した部分があるだろうとは言え、非常に重みを持って伝わってきます。マイケル・キートン演じるファインバーグ弁護士が、最初は職業意識から業務を引き受けたというちょっと突き放した姿勢から、徐々に遺族の心情に寄り添っていこうとする過程は、大きな山場を設けなくとも十分説得力があり、ここはキートンの演技力が際立っていました。映像も柔らかく全体を包むような静かなトーンで統一されており、キートンの内面の静かな変化と同期しています。
分かりやすい感動を求めてしまうとちょっと微妙な気持ちで鑑賞を終えることになるかもしれませんが、同時多発テロという巨大な悲劇と凶行のこれまでなかなか知られてこなかった側面を知りたい、という人にとっては特に意味のある作品であると言えるでしょう。テロの映像そのものは非常に限定的かつ抑制的にしか使われていないので、そうした直接的な描写が苦手な人も動揺することはなさそうです(もっとも、その分遺族の証言の辛さ、重さはとても大きなものとなっていますが)。
どんなに忙しくても精神的に追い込まれていても、家族や親族とのイベントを欠かさないキートンの良い人ぶりもまた、本作の感銘ポイント!
思い悩みます
命の価値は同じだが、社会的価値は年収ベース。
9/11の7000人の死者に値段をつける汚れ役を無償で買ってでた弁護士の実話。
観ながら人の命の価値やら、裏表やらを考えさせられる映画ですわ。
目標人数になかなか達なかったのは、ざっくり年収ベースの方程式の初期設定額が低すぎたって事だと思う。
あと被害者と言うか遺族がお金では埋められない悲しみなんじゃ!って気持ちと、、まあくれるなら貰っとこ、、と言う気持ちの折り合いを付ける時間が必要だった事なんだろうと思う。
まあ、決め手は一人ひとりに寄り添う信頼関係構築って事なんだな。時間も手間もかかるし、欲望や嘘や知りたくもないダークサイド噴き出して来て大変だけど。
一番凄いと思ったのはエンドロール直前のその後の彼の働きっぷりだった。いくつもの見直しと、再受け付。
そしていくつもの難しい事件を引き受けている。
無償で頑張った元はとれてる。
難しいね。
マイケル・キートン良いね。
初めからすごい悪い人でもなく突然とてもいい人になった訳でも無く。
真面目に働いてる人がごく普通に認められたくて、でも色々制限がある中で最善を尽くそうとした結果。という感じ。
事件のことはみなが知ってるけどその後も人生は続く。いや、続かなかった人の家族の人生、と言うべきか。
お金なんていらないし、人の人生に値段をつけてそれが人の善し悪しなの?価値なの?ってなると本当に難しい。
だって確かに小さい頃から努力して勉強して例えば医者になった、大企業に勤めた。って人とそれなりに楽して、適当に好きなように生きた人。値段をつけるなら、差が出てしまうよね。
でもだからと言ってその人の価値がそれで決まるか。と言われとら違うんだよなぁ。
お金、というわかりやすい価値で人の価値は決まらない。
でも他人からお前はいくらの価値だよ。なんて言われたら………
なににせよ、テロでなくても毎日事故、殺人等々で被害者家族は発生している。
そんなことが起こらない世の中には絶対にならない。
でもいかに少なくしていくことは出来ると思うんだけど………。世の中悪い方にしか進んでない気がするなぁ。
色んな人に見て欲しい。
スゴく泣かせにかかってる訳でも無く、考えさせられますね。
chatGPTには回答できない、、、
chatGPTには回答できない、、、
いや、
GPTだからこそできる、
GPTにしか、
回答できないのかもしれない。
国の論理よりも、
国民の感情が大事。
と、
国の政策の、
本音と建前を逆転させた、
人間の心に向き合う社会への、
歴史的転換点の記録、
その価値→worth。
を
マイケル・キートンと、
周囲のキャストが、
少ないセリフ、
細かな視線、巧みな表情で、
事実を積み上げていく。
worth 価値、数字で表せる価値のようなもの。
劇中のセリフにもあった、
dignity 尊厳。
生涯賃金は数式で計算可能、
だが、
尊厳は数値化できるのか?
本作のメインプロットを主人公のdignityへの気づきと、
捉えると作品のスケールが矮小化されてしまう。
本作は米国社会のあらゆる状況下の国民のdignityに対する具体的な施作、政策の進化、
がメインプロットと捉えると、
本作で、問われている意味を理解しやすいのかもしれない。
【ワース 尊厳の価値】
AIはすでにdignityを理解している。
シン・シンギュラリティは、
尊厳を具体的実践的活動に落とし込むAI、
と、
尊厳を無視して利益を優先するhuman、
との臨界点なのかもしれない。
そう解釈すると、
米国はすでにシンギュラリティは克服可能かどうかは置いておいて、国として具体的政策の試行錯誤の第一歩は始めてる証拠の作品と解釈できる。
【蛇足】
そうすると、
人工知能と人間の、
明らかな能力の差を、
話題にするよりも、
人としての価値基準について話題にする方がいい。
具体的施作の足枷になってる物、事、人、
とは。
つい先日、日本では、
尊厳には価値がない(と捉えられてもしかたない)判断が出た、しかも裁判所の判断。
憲法よりも数式だそうだ。
chatGPTなら一発回答だろう。
ヒトの能力を数値化するという事は、
一定の事実を根拠に、
フィクションを書き連ねて、
積み上げて、
わかったような答えを出すという事。
数字なんて概念、
人は存在する。
適当に答えられるよ、
なあGPT!
何を修正したのか
マイケルキートン
もっと観られるべき傑作
極めてオーソドックスなハリウッド演出ながら、冒頭から胸を揺さぶられ続ける。それはこの映画が、あの事件の被害者や遺族が何を感じていたのかを実感させてくれるから。
冒頭から、被害者達の日常とあの事件が(多分)ニュージャージー側からどう見えていたのかを描写する。我々とは違い彼らにとってあの事件は、日常を侵害し取り上げそしてもう二度と返さない、そういう事件だったことが描かれる。
主人公はそうした人生を生きていた人々一人一人に向き合うこととなる。人間。稼ぎを生み出す可能性としての、計算式としての人間ではなく、家族に愛されあるいは疎まれていた人間、けして聖人ではなく過ちを犯し、それでも懸命に人生を生きていた人間として。
大局や天下国家を語る連中がいかほど薄汚れてみえるものか、愛と平等と寛容を語る人々がいかほど尊くみえるものか。ごくごく平静な筆致ながら雄弁に描き出す。
ハリウッド的に合意がどの程度まで得られるのかが焦点となるが、むしろ大事なのはその課程であり一つ一つの合意がなされた事情なのだということも伝わってくる。
傑作であり必見。もっと広く公開されるべきだし観られるべき。アカデミー賞は本来こうした作品のためのものだと思う。
命の価値はいくらか、計算できるか?
そうか、あれからもう20年が過ぎているのか。Sonyのウォークマン、カシオの計算機、そうまだこの頃は日本製の品質は世界を席巻してたな、と思い出しながら。
被害者補償基金。人の人生に値段をつける汚れた仕事。マシーンのように人の人生に値段をつけていた弁護士が、徐々に変わっていく。そこには、人としての感情が、値段に掛ける係数に作用していく姿がある。最後は、気分的にはゴール直前でブチ抜いた会心の勝利、ってわけだ。
でもね、じゃあ被害者及び遺族はすべて善人か、といえば噓になる。企業家たちが利益優先(補償金を極力出したくない)はデフォルトなのだ。そのうえで、公平であるべき、公平は存在しない、、、まるで詭弁の応酬のような化かし合いの様相でもあった。「血に飢えた狼たちの群れ」を相手にする弁護士こそ、気の毒に思えた。寄り添おうとすれば、そこには少なからず悪意寄りの思惑があったし、食い違いもある。本音と演技、涙を流す人がすべて善でもなければ、怒れる人がすべて正義でもない。そんな被害者と遺族との交渉なんて、身内の苦しみまでも共にしょい込んでヘトヘトになるわ。
大切なのは、公平さではなく前に進むことだ、という。それは、結局グレーゾーンが存在するということか。だから、「金じゃない」と声高に叫ぶ奴から漂う、金への執着心にちょっとうんざりした。こういう社会派映画に対する評価は高めにしておかないと情がないようの思われそうだが、結局、残されたのは気の毒な家族ばかりではなくて、真実から目を逸らしていた人や、本人の真意を理解していない遺族もいたってことが、僕をそういう気分にさせるのだ。被害者の尊厳を守ろうとしているだけではなく、訴訟を起こして少しでも金を引き出そうとしている人だっていたってこと。初期の賛同者があまりにも少なかったのは、そういうこと。
こちらの気分は、けして喝采ではなく、こういう人たちを相手に誠意を試される仕事は大変だ、という思いばかり。
変わっていく姿を自然に
予告編では「感情に寄り添い、納得できる数式を提示した」
ように見えたが、蓋を開けてみたら
「政府を守るために、一方的に数式を押し付けた」
クソ弁護士だったとこからスタート。
まずお悔やみを申し上げる…って挨拶すらできてなくて、いきなり金の話なのは人としてどうよw。
しかし、遺族との対話を通じて自分が間違っていたことに気づき、いかに遺族へ寄り添うようになっていったかという展開で、リアリティがあって納得しながら観られました。
これ、主役の弁護士を演じたのが普通の役者なら「基金利用率の低さに屈した」おっさんようにしか見えないシナリオなんだけど、考えを変えていくのが自然に見えたのはマイケル・キートンの表現力なのかなー、などと思いつつ。
はじめから「被害者のために」という人権派より、双方の最大利益を考えながら、徐々に人の心を理解できるようになっていき、最終的には最適解を見つけようとするタイプの方が信用できるかもな、と思ったりもし。
ただ、どこまで弾力的運用ができたのかの具体的例はボカシているので、リアリティはあってもリアルじゃない、エンタメ作品ではありましたね。
否定的な
大切なのは親身になってくれる存在
9.11の被害者の命に値段を付けるという重いテーマの作品
「計算式」と言ってたら、そりゃ被害者家族から非難されて当然だと思います
公平なんて無理な事で
ストーリー全体としては、被害者家族のために交渉にあたった弁護士のケンの思いに感動しますが、最初「計算式」ばかり言ってたケンがなぜ途中から被害者家族の話を聞く事にしたのか、その流れが私にはあまりわからなくて、わりと唐突にケンの行動が変わったように思えました
私の理解力がなかっただけかもしれないけど、そこが残念でした
被害者家族を救ったのは、お金という部分もあるだろうけど、結局人は辛い気持ちを親身になって聞いてくれてそばにいてくれる人がいるという事が癒しになるという事なのかもしれません
とても印象に残った事、カレンの決断、すごいと思いました
ラストで、このケンはその後も何件も大きな事件の担当もされたという事がわかって、素晴らしい人だけど、そういう事件が何件もあるという事がとても悲しいです
声に耳をふさがない、心が揺さぶられるLOST
WORTH命の値段(邦題)
2019年にアメリカで制作
原題WORTH(価値)
主人公ケネス・ファインバーグ弁護士(マイケル・キートン)の主観で映画は展開していく様に見える。
アメリカ同時多発テロ9.11のNY
被害者遺族の補償基金プログラムのトップに立つ
これは被害者の労働~表面に見えるものに価値をつける役と言えるだろう。
ファインバーグは、遺族の声の底にあるもの、可視化できないものに寄り添えず反発される。
オペラの愛好家で疲れて家へ帰れば立派なオーディオルームでもヘッドフォンをつけて聴く安息の時を持つ、まるで他の音(声)に耳をふさぐ様に。
私たちもケン(ケネス)が聴いているヘッドフォンの音楽がスクリーンから流れてケンの主観にシンクロする。
しかし遺族〜9.11の鎮魂コンサートを聴いた時からヘッドフォンでふさいでいた耳が開く様に心が開き、遺族の心に寄り添っていく
ケンが心を開いていくことで、ついていけなかった弁護士チームも安定していく。
自らの価値観が変化したのは
7,000人あまりの被害者のドラマ・人生。残された者の喪失感に私たちも心が揺さぶられる。
どれだけ深い傷なのか
残された者の喪失感は20年以上経ても消えない。
忘れない…
監督サラ・コランジェロ、悼みを忘れない映画をありがとう。
#WORTH命の値段
#マイケルキートン
#映画
映画代金を返して!!
既にどなたかがレビューで書いておられるように、せっかく良い素材に着目したのにレシピが悪く、しかも調理も下手で、結局不味いものを食わされた感じです。
非常に期待した分だけ余計に落差が大きく、全くのハズレ。
この映画を見て分かったこと。
特別管理人という制度があることくらい。
この映画を見なくても分かっていたこと。
一個人が国や巨大企業相手に裁判で争おうと思ったら、膨大な時間とエネルギーと費用が必要で、しかもほとんど勝ち目が無いということ。
この映画を見ても分からなかったこと。
どうして被害者・遺族はサイン拒否から一転して同意に変わっていったのか。
どうして主人公の特別管理人が被害者等への対応態度を変化させたのか。
それらがウルフ氏の発言やブログに起因するとすれば、スポットライトが当てられべきはウルフ氏である。
補償額の計算式FORMULAの内容が表に出て来ないのは、今後の事案に関わる恐れがあるので権力への忖度なのか。
また実際に個々人の補償額にどれだけの格差があったのか、そしてそれは途中で格差が納得できるまで縮小したのか。
こういう事柄を話に盛り込まなきゃ全然ストーリーにならない。
この監督の作品を今後二度と見ることはない。
全く蛇足ですが、
偶然にもつい先日、日本で「命の値段」につながる裁判がありました。
耳に障害のある少女が交通事故で亡くなり、遺族の方は逸失利益の損害賠償請求の裁判を起こしました。
被告(加害者)側は従来の判例により障害者には健常者の65%を支払うという主張をしました。
当然遺族側は健常者と差別される理由はないと拒否します。
大阪地裁の判決は健常者の85%を支払うというものでした。
その結果原告・被告双方とも納得できず上告することになったのです。
皆さんはどのように判断されますか?
ちなみに日本では逸失利益が確定しても、そこから一時金受領により将来受け取るであろう利息分(中間利息という)が差し引かれます。
単利計算によるものをホフマン方式(係数)、複利計算によるものをライプニッツ方式(係数)と呼び、近年は圧倒的に後者によるものが多いそうです。
またその元になる金利率は年5%で、ずっと変わっていません。
この低金利の時代にも非常に高い利率が適用されているのです。まったくポンコツ。
120分でまとめるのは難しいのかなー。
人を「公私」でわけないあり方
「一人の人間の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない。」この映画を見て、ナチス親衛隊、アドルフ・アイヒマンの言葉を思い出した。
私自身の原風景として、95年の阪神大震災がある。当時9歳だった私は関東に住んでいたので、直接被災したわけではない。しかし朝のニュースが伝える神戸の街と、時間を追うごとに無機質に増えていく犠牲者の「数字」に、底知れぬ恐怖を感じたことを覚えている。最終的に6000人以上の犠牲者を出したが、「6000」という数字と、その数字に含まれる一人ひとりの「人」の存在を結びつけることが難しく、子供の私はただ漠然と怖かった。思えばあれが「死」というものを強烈に意識した初めての経験だったように思う。そして中学のときアイヒマンの言葉を知り、私は9歳の時感じた恐怖を思い出し、「人の死は数値化してはならない」と思い至った。
「数字」というものは客観的である。本作のように政治と切っても切れないケースの場合、客観性を保つことはとても重要である。政治とは利害の一致しない他者同士の意見の調整の側面を持つからである。ケン(マイケル・キートン)も、始めは私情を挟むことを良しとせず、極めて客観的に物事を「前にすすめ」ようとする。70億ドルを遺族に「公平」に分配することはまさに政治的調整であり、「私情」を入れない「公的」な作業でなければならない。ケンが補償金額を被害者の収入、つまり一人の人間の「公」の側面で数値化したことは間違いではない。犠牲者のリストの名前ではなく、その隣に書かれた職業や肩書を見て補償金を書き込むシーンが印象的である。ケンは彼らを名前(私)ではなく、社会的立場(公)で見ていたということである。
しかし、それと同時に亡くなった人々にはとても個別的で多様な「私」の側面がある。大切な人を亡くした遺族にとっては被害者は一人の「人間」であり、そこにはそれぞれ個別で複雑な「私」が存在する。そんな中で、「公」の側面しか見ていないケンに対して遺族が憤るのも当然である。ウルフ(スタンリー・トゥッチ)を代表とする遺族たちが訴えていたのは、人を公私で分けず、その存在そのものを認めるべきだという主張であったように思う。
人の「公」の部分しか見ていなかったケンを変えたのが、個々の遺族との「対話」であったことがこの作品の素晴らしいところであろう。一人の人間の「私」の部分を知るには、対話を重ねるしかないからである。個別の対話を重ね、人や社会を多面的に捉える姿勢が我々には必要なのではないか。一人ひとりを大切にすることが、社会を、世界をよくする第一歩だと、改めて感じさせてくれた良作であった。
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