「常識から外れる力」青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない GOさんの映画レビュー(感想・評価)
常識から外れる力
これまでのシリーズでは「思春期症候群」がテーマとなっていたのだけれど、それは「常識では解決できない問題」の厄介さを症候群という形で表現したものだと思う。それに対抗するには咲太の「常識を外れる力」が重要になる。本作では「思春期症候群」は出てこない。でも、描いているものは根本的には同じことだろう。つまり「過去と今の自分は連続しているべき」という「常識が作り出す呪い」と対峙する花楓とそれに巻き込まれる咲太、という構図だ。これも「常識では解決できない問題」なので、やっぱり咲太の出番になる。これまで、咲太が巻き込まれるカギは「思春期症候群」だったけれど、今作では「かえでの記憶」がカギになる。
花楓は、「記憶のない過去の自分(=かえで)」の日記に縛られ苦しむのだけれど、一方で咲太は、花楓に「かえで」を重ねてみている自分に気付き、深く傷つく。常識的に考えるなら、花楓は「引きこもり」経験者で「変わる必要がある人」だ。でも咲太だけは、自分の問題を解決しない限り「花楓にかけられた呪い」が解けないことに気付いてしまう。つまり変わるべきは花楓より先に「自分」なのだと。これは本当に胸を締め付けられる。そして咲太の出した答え「どっちも好きじゃない。普通だ。」は秀逸だと思う。感情を「好きという言葉」で表現すると、「常識的な範囲」に簡略化されてしまい、そこにあった「もっと複雑で言葉にならない感情」は「無かったこと」になってしまう。自分にとって家族はそんな言葉では括れない。咲太はそう感じたのだろう。それは、過剰に「かえで」に拘ってしまっていた花楓の気持ちを解きほぐす。どっちが好きかなんて、本当にどうでもいいんだ、と。そして、私は私で「かえで」は「かえで」、それでいいんだと心から思えたのだろう。
他者と自分を比較してしまって辛くなることは私たちにもよくある話だ。それは結局、他者と自分との線引きの失敗で、自意識が引き起こすバグのようなものなのだろう。けど、それを解きほぐすことは容易ではない。花楓とかえでのように「線引き失敗がとても起こりやすい状況」の物語を通して、線引きのむつかしさと、それが引き起こす苦悩、そして解きほぐすために必要な「痛み」と「資格」について、色々感じることが多いお話でした。
本作では、花楓の「通信制高校の選択」という要素をラストに持ってきているのだけれど、正直、二人がどう「かえで」を受け入れて前に進むのか、の山場がよかっただけに、後半は常識的な結論に収束する印象が強く、本シリーズの「常識から外れるからこその良さ」があまり感じられなかったのは残念でした。「かえで」との間に適切な線を引くことができた花楓が「他人の期待」ではなく「自分の気持ち」で動けるようになる、というのは必然的な流れなので、もっと短く描いてもよかったのかなと。しかし、全体的には意図的に「淡々とした描き方」をしていて、そこがよかったと思います。