「台詞無用」最後まで行く KeithKHさんの映画レビュー(感想・評価)
台詞無用
この映画に台詞は無用だったと思います。
カメラは徹底して岡田准一演じる主人公目線で捉え続ける一人称ドラマ、而も一刻も観客を冷静な気持ちにさせない恐怖と危機が主人公を襲い続ける、ノンストップ・ジェットコースタームービーです。観終えた後に冷静に鑑みると、辻褄の合わない、非論理的な出来事やシチュエーションばかりですが、息を継がせず次々とヤマ場からヤマ場へ導いていくので、観賞中は全く気付きません。
一方、途絶えることない恐怖と危機に晒される主人公の心情は、その時々のBGMが鮮やかに描き出していました。巻頭からずっと暫くの間は不安と絶望に苛まれていることを実感させ、中盤の姑息な隠蔽工作を施すごとに狡猾な安堵感が漂い始め、それが徐々にどす黒い自信と自己顕示に移り変わり、ラストには濃密な緊迫と極限の恐怖、そして強烈な闘争心に変わっていく、その目に見えない主人公の心象風景が、台詞ではなくBGMにより、観客は主人公に同化して感情を激しく揺さぶられていきます。音楽の効果をこれほど見事に、心の波打つ状況にシンクロさせる手腕と技量には、ただ敬服します。
その上、多くの映像はローアングルの手持ちカメラにより描かれます。更にしきりに揺れる寄せカット、而も長回しは殆どなく、短いカットを細かくつなぐことで観客を威圧し恫喝し続け、主人公の視線が定まらない心情と動き回る目線に、自然に同一視させていきます。決して等閑視させません。
また敵を演じた綾野剛の無表情の平板な顔つきは、底知れぬ無気味さと恐怖感を煽ります。その冷酷な傍若無人ぶりは、私には、『ブラック・レイン (Black Rain)』(1989年)で松田優作が演じた殺し屋・佐藤を彷彿させました、
ただ綾野剛が主人公を狙う事情背景が、主人公目線から離れた独立したシーンとして延々と挿入されますが、この長々と描かれるシーンは、私は不要であり、寧ろ逆効果だと思います。とにかく訳も分からず執念深く憎悪に満ちて冷酷に襲い続ける、それだけで十分であり、その人物像や人間関係を詳細に描くと、観客が変に客観的に冷静に観るようになり、折角の一気呵成に進むテンポが崩れてしまったと思います。
スティーヴン・スピルバーグの実質的デビュー作にて上質のサスペンス『激突!(Duel)』(1972年)のタンクローリー運転手のように、その正体や襲う理由が分からないままドラマが進むことが観客には恐怖であり、スクリーンを凝視し続けざるを得なくなると思います。
尚、本作の希少な点は、登場人物が悉く悪人であることです。巨悪、小悪人、偏執的犯罪者、確信犯、出来心等など区々ですが、これほど人っ子一人同情することのないシナリオ設定も見事だと思います。唯一の善人のように見える、広末涼子演じる主人公の妻も、己のエゴを押し付けるという点で、堂々たる悪人でしょう。世の中、悪党だらけで成り立っていて、その悪党同士の微妙なバランスが少し崩れるだけで、一気にカタストロフィーに化してしまうという、一種のメタファーという側面も本作は有しているのでしょう。
ともかく本作には、伏線も、ストーリーの仕掛けも一切ありません。寧ろそのような小細工は一切不要であり、観客は、ただひたすらに主人公と同一目線で、スクリーンに身をゆだねていけばよいのだと思います。
ただラストが完全にマンガに堕してしまったのは痛恨の極みです。