「米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。 牧師の妻が対...」対峙 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。 牧師の妻が対...
米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。
牧師の妻が対面セッションの準備をしている。
テーブルはこれでいいかしらん、お茶や食べ物はこれぐらい必要かしらん、と。
コーディネーターの黒人女性が現れ、部屋をチェックする。
シンプルで問題はないわね、ピアノの練習音はちょっと気になるわね、ティッシュはあるかしらん、テーブルの真ん中に置くのは良くないわね、と。
しばらくして、あまり裕福でない感じの中年夫婦ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲイル(マーサ・プリンプトン)が到着する。
遅れて、身なりが整い、やや慇懃な感じの夫リチャード(リード・バーニー)と小さなボックスに入った花束を持った妻リンダ(アン・ダウド)が到着。
コーディネーターを介して、対面セッションが開始される。
セッションは4人だけで行われる・・・
といったところから始まる物語で、あまり前知識なく観る方がよいでしょう。
語られるのは6年前に起きた事件のこと。
リチャードとリンダの息子が高校で引き起こした銃乱射事件。
ジェイとゲイルの息子は、被害者のひとりだった・・・
ということが徐々にわかってきます。
被害者家族と加害者家族が直接会うことはかなり障壁が高いようで、ジェイとゲイルは様々な権利放棄をしてきたことがわかります。
映画は、ぎこちない対話の開始から、緊張感を持って描かれます。
限定空間、限定的な登場人物。
これで2時間近く持たせるのは至難の業なのですが、初監督兼脚本のフラン・クランツは脚本のみならず、抜群の演出力をみせます。
セッションまでは引きの画の固定カメラを使い、セッション開始からは丸テーブルで対峙した4人のアップを中心に、これまた固定カメラでみせます。
やや保身態勢のリチャードに対して、感情を高ぶらせるジェイ。
ここで画面は黒味になり、外の風景ショットを挟みます。
有刺鉄線が張られた野原。
鉄線から垂れ下がる中途半端な長さのリボン様のもの。
で、これまでビスタサイズだった画面がシネスコサイズになり、感情を高ぶらせたゲイルが丸テーブルを離れます。
同時にカメラは手持ちになり、緊張感と不安定さが増します。
計算された演出です。
ジェイがゲイルに寄り添うためにテーブルを離れ、リンダもジェイの話を聞くためにテーブルを離れ、感情を高ぶらせたゲイルにティッシュを渡すためにリチャードもテーブルを離れます。
このタイミングも素晴らしいです。
彼らのセッションは続きますが、この対話の中に答えや正解はありません。
あるとすれば、相手のことを理解しての「応え」でしょう。
そして、息子の思い出を語り終えたゲイルが、ジェイに「言ってもいいか」と問うた後に、心の底からの言葉を絞り出します。
「(リチャードとリンダの)ふたりを赦します。あまつさえ、おふたりの息子も・・・」と。
このシーンも演出が際立っています。
ゲイルの言葉とともに、部屋の外が明るくなり、露光がオーバー気味になります。
静かにセッションは終了するのですが、リンダが持ってきた花束を巡って時間が費やされる間、先に立ち去ったリチャードとリンダ夫妻のうち、リンダが戻ってきてセッションのときには言えなかったことを告白し、ゲイルの抱擁で終幕を迎えますが、ここでの演出は画面外から教会で練習している讃美歌の声が聞こえてきます。
すこしキリスト教的な感じが強いのですが、「赦し」がキリスト教教義の中心なので、やはりこの演出になります。
ラストショットは、ふたたび有刺鉄線から垂れ下がったリボン。
野原の奥の建物に明かりが点り、フェードアウトしていきます。
垂れ下がったリボンは、心に残った引っ掛かり。
その向こうには、あかりがある、という暗喩かもしれません。
傑作です。
<追記>
映写用のデジタル素材のせいなのですが、ビスタ→シネスコのサイズ変化が効果を発揮していませんでした。
以前のようなフィルム上映だと、天地のサイズを固定して、ビスタ→シネスコと変化する際は、スクリーンが横に伸びたものですが、今回は左右の幅は変わらず、天地のサイズが縮んでしまいました。
「赦し」へと導く画面サイズの変更なので、横に伸びないと効果が半減、激減です。
これは残念。
途中での画面サイズ変更の参考作品として『モンタナの風に抱かれて』『ブレインストーム』を挙げておきます。