対峙のレビュー・感想・評価
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「赦し」とは何か
これはすごい。今年を代表する一本だ。教会の簡素な部屋で、銃乱射事件で子どもを殺された両親と加害者の両親が4人で語り合う。最初はぎこちない挨拶と日常会話から始まり、だれもが何を話すべきか、どこまで踏み込んでいいのかわからないといった雰囲気の中、死んだ息子の過去の話となってからは、心を削られるような、魂のぶつかり合う対話が全編続いていく。 被害者の両親は、なぜこんな事件が起きたのかを知りたいと訴える。しかし、親だからといって子どもの全てを知っているわけではない。心の闇に気が付けなかったことが悔恨として重くのしかかっている加害者の両親、それでも息子を愛する気持ちは捨てられない。 銃乱射事件が物語の発端になるが、銃規制の是非はテーマにしていない。それでよかったと思う。銃以外でも殺人は起きる。理不尽に命を奪われた両親の悲しみや怒りは、銃でなくても同様だろうから。 回想シーンも音楽もなく、部屋は質素な飾り付けがあるのみ。この複雑な感情を表現するのはもっぱら4人の役者だ。これほど高次元のアンサンブル演技はそうそうお目にかかれない。赦しとは何かを深く探求した傑作。
事前情報がない方がより味わい深いスリリングな会話劇
舞台はアメリカのどこか郊外らしき土地にある小さな教会。子供たちが合唱の練習をしているが、初めて訪れた女性司祭がピリピリした雰囲気を醸しながら会談場所の部屋を事前にチェックし、椅子の配置などを整える。やがて一組の中年夫婦が緊張した面持ちで到着し、少し遅れて別の中年夫婦がやってくる。司祭はほどなく去り、部屋には2組の夫婦が対峙する――。 貴重なお金と時間を費やして映画を観るなら、自分の好みから外れたものを選ばないよう予告編などで事前情報を仕入れてから鑑賞するのはもちろん真っ当なこと。だが、緊張感に満ちた会話劇が好きな人なら、2組の夫婦にどんな関係性があり、何の目的で会談を行うのかを知らないまま臨むことで、秀逸な脚本によりそうした事情が言葉のやり取りだけで少しずつ明らかになっていく過程をよりスリリングに味わえるだろう。 本編の9割方がこの室内だけでリアルタイムに進行し、回想シーンなどを一切挟まない構成なので、舞台劇の映画化だろうかと想像したが違った。俳優でキャリアを築いてきたフラン・クランツによる初脚本・初監督作で、ドキュメンタリー映画などで知った事実から着想したという。つまり、このような“対話”が創作ではなく、現実に行われてきたということ。 異なる立場の者同士が直接対峙して言葉を交わすことの困難さと、それを敢えて行うことの尊さが、SNS全盛で他者を容易に攻撃できてしまう現代だからこそ、観客の心に一層深く突き刺さるのかもしれない。
修復的司法 置き去りにされてきた犯罪被害者と死刑制度
欧州諸国などでは70年代ごろから続けられてきた修復的司法制度。いわゆる従来の報復的司法とは異なり、刑事司法手続きにおいて置き去りにされてきた犯罪被害者の支援に重きを置いた制度である。そしてそれが犯罪者の更生や犯罪によって壊されてしまったコミュニティの修復にも役立っている。 今までの刑事司法手続きにおいては被害者は常に蚊帳の外であり、加害者との接触も禁じられ、ただ判決により刑罰が下されてそれで終わりだった。 残された被害者や遺族は傷ついた心の修復にその後の人生を費やさなければならなかった。 同じく70年代、ストックホルム宣言を皮切りに欧州先進諸国を中心に死刑制度が次々と廃止されていった。 この死刑制度廃止に対する根強い反対意見としては被害者感情の尊重というものがある。確かに死刑廃止は被害者にとっては受け入れがたいものだろう。自分の愛する家族を奪った加害者を極刑にしてほしいと望むのはごく自然なことだと私を含む多くの人がそう考えてきた。しかし、この「被害者感情」なるものが死刑制度存廃の議論において常に独り歩きをしていなかったか。本当にそれが実際の個々の被害者感情を代弁していたものだったと言えるのだろうか。被害者の中には死刑制度に反対する人々もいる。加害者には生きて償ってほしいのだとして。 十把一絡げに「被害者感情」とひとくくりにして第三者が被害者感情を画一的に解釈することはこれもまた個々の被害者を置き去りにした議論と言わざるを得ないのではないか。 中には死刑を望まない被害者遺族に対して被害者のくせに加害者を庇うとは何事かというバッシングまでなされることもあるという。 確かに自分がもし被害者になればきっと加害者の死刑を望むだろうから他の人も同じだと思いたいのだろう。しかし、自分が死刑を望むのだからあなたも死刑を望むべきだというのは同調圧力ではないだろうか。本当に個々の被害者の気持ちに寄り添っていると言えるのか今一度考え直す必要はあるだろう。被害者の数だけそれぞれ被害者感情があるのであり、当事者でもない第三者が自分の想像だけで被害者感情を理解した気になるのは尚早だろう。 その点でこの修復的司法制度は個々の被害者に寄り添った制度だと言える。被害者は置き去りのままで判決が下ればその後は加害者と話す機会もない。なぜ自分や、あるいは家族がこんな目に合わなければならなかったのか、どうしてこのような事件が起きたのか。被害者はできることなら事件が起きる前の生活に戻りたい。そのためには少しでも疑問を解消し自分を納得させたいのである。 そして納得した上でそれから加害者を憎み続けるのか、あるいは加害者を赦して肩の荷を下ろし、事件のことを忘れて残りの人生を全うするかを決めたいのである。 犯罪被害者側と加害者側という相対立する両者が冷静にひざを突き合わせて自分たちの思いを互いにぶつけ合う、納得がいくまで。そうして両者が今まで抱え込んできた様々な思い、疑念や恨みの感情、罪悪感、そういった負の感情から心を解き放ち肩の荷を下ろすことができるのであればその後の両者の人生は幾分、いや、かなり楽に生きられるようになるはずである。 現在この制度の利用者の実に八割が満足を得られる結果だという。こういった被害者への精神的経済的ケアがなされているからこそこれらの国々では死刑制度廃止も受け入れられてきたのだろう。 憎しみをただ募らせて厳罰化に向かう国もあれば、憎しみという重荷から解放し厳罰化を緩和し犯罪率低下につなげている国々もある。 修復的司法により今まで置き去りにされてきた犯罪被害者の被害者感情が癒されてきたこととこの死刑廃止の潮流は無関係とはいえないだろう。 被害者感情を考えろと声高々に叫ぶ国に本当に被害者に寄り添った政策が出来ていたであろうか。憎しみをただ募らせてそれで被害者が残りの人生を幸せに生きられるだろうか。あるいは加害者を死刑にすることでそれで正義は全うされたとしてそのまま被害者はやはり置き去りにしていいのだろうか。 犯罪被害者は加害者が死刑になろうがなるまいがその後も人生を生き続ける。その残りの人生を苦しみ続けるよりもいかに幸せに生きられるか考えていくことこそが被害者への一番のケアにつながるのだろう。 死刑よりも優先されるのは被害者へのケアであるはずがそういう政策をしないことの理由として死刑制度が利用されることがあってはならない。 袴田氏の無罪判決が確定して、これで戦後だけでも五件の死刑囚への無罪判決が出た。戦前に至っては何件無実の人間が死刑になったかもはや定かではない。もちろん戦後無実の疑いがあるまま死刑にされた件も合わせればかなりの数に及ぶ。 今回の無罪判決で再び死刑制度の是非をめぐる議論が熱を帯びてくることだろう。国は死刑を密室で行ってきた。まるで国民的議論が巻き起こるのを避けるかのように。 同じ先進国のアメリカでは一部の州でのみ死刑は行われているがその執行は常に公開されている。 今こそ死刑制度に関する国民的議論がなされるべき時ではないだろうか。そしてこの修復的司法制度が日本でも根付いてくれることを期待したい。
タイトル通り
ずっと対峙、さすがに辛かった。被害者と加害者、それぞれに苦しみはあるし、あの2時間は視聴者にどちらが本当の被害者か?判定をくだしてくださいと言っているように思えた。描写はどちらに肩をもつ感じでもなく、ある意味公平でした。最後に被害者の赦すが出る前までは加害者家族に同情しましたが、あの言葉で皆んな可哀想にと思えた。
「赦します」
お二人を赦します
対面する前に、ゲイルが「私あれを言えるかしら、、」と言っていたのは相手を赦せるかどうかだったのか、、
息子を殺された犯人の親を赦すなど、
相当な決断、、、
リンダの表情は終始感情移入しやすかった
リチャードの冷酷さが少し気に食わなかった。。
もう少し、”謝罪、後悔、申し訳なさ、息子がとんでもないことをした”それらの感情を発言にのせてよ。。
リンダ「殴りなさい!気の済むままに思いきっり殴りなさい!」と言っていれば、その時点であの子が何者か分かったかもしれないのに。。。
リンダも辛かったね。
ゲイル「みんな子供が恋しいのよ。。」
ゲイルからハグしに行った。
リンダの息子に我が子を殺されたのに、
殺人犯の親をハグできるゲイル凄いよ、、、
ゲイルも前に進みたいって言ってたからね、、
最後の聖歌隊の練習、
良いタイミングで練習が始まった
ジェイの心が和らいて良かった。。
机や椅子を配置するシーンから始まり、
こんなシーンから入るの?と思ったけど、
振り返るとそのシーンがあったからこそ
話し合う部屋の臨場感、何気ない部屋と椅子だけど、部屋や机の存在感も溢れていた気がする。
振り返るとセッティングのシーンは良かった。
お見事
冒頭道徳の授業中に見せられるビデオのような画質画角にこれはムリかもと思ったけど、四人の俳優たちが揃った途端空気が変わる。マーサ・プリンプトン売れっ子子役の頃から謎の仏頂面で何で売れるんだろうと不思議だったけど、その顔が全面的に生きている。リンダは悪意はないんだろうけど空気読めてない行動が多すぎ、リチャードは言い訳が多すぎて自分も被害者だと思ってるのか?ジェイこの人だけはまともなのかなと思ったらやっぱり結構直情的で、そう言わないほうがいいよっていう方に流れていってしまう。こういう立場に立ったことがないから分からないけど、みんなベストじゃない言動ばっかりする。それがとてと自然なので、やきもきさせられながらも引き込まれる。ラストも良い。途中ダレるのでもっと短くても良いのかなと思ったけど、観客にもこの話し合いラチがあかないよ!と思わせるためにも必要なダレと流さなのかもと思うと、スゴイ計算だなと思う。これを経たからこそのラストだよね確かに。
わかり合えない家族
銃乱射事件は単なる暴力ではなく、その背景には政治的な問題がある。銃規制に反対して銃の所持の権利を掲げている保守派の政治家や国民は、キリスト教の保守グループと密接に結びついている。 この映画の舞台となっている教会は聖公会のものであるが、この教派は、キリスト教の中では、比較的保守ではない、公民権運動やLGBTQ、中絶などにも寛容な姿勢を示す立場を取っているグループである。 つまり、その教会で対話するということは、保守的な政治思想とは距離を置くということであり、それがこの映画の政治的スタンスとなっている。 監督は、実在する銃乱射事件に着想を得て、その中で銃撃犯の両親と犠牲者の両親が会談を行ったという事実を知り、脚本を書き上げたそうだ。ドキュメンタリーではなくフィクションであるこの映画では、演技でその張り詰めた空気を表現している。 「あなたの息子が私の息子を殺したからよ」被害者家族の妻ゲイルの言葉とともに会話が弾け飛び、悲痛な沈黙が訪れた瞬間が忘れられない。 この対峙は、被害者家族にとっては、相手から「息子が死んだ原因」や「息子の人生の意味」への回答を求める場であり、加害者家族にとっては、相手から「許し」を求め、「孤独」を理解してもらう場である。 被害者家族は加害者である息子の幼少期まで遡り、原因を究明しようとする。 「前兆はなかったのか」「あなた達の教育に問題はなかったのか」「防げたのはないか」「親として気づけたはずだ」「あなたたちの息子が邪悪だったんだ」 加害者家族も被害者家族と同様に息子を失った親である。 「自身の教育が間違っていたのか」「自身の罪ではなく、息子の罪をどう贖えばいいのか」「二人目は望んでいなかった」「自分たちは子育てに失敗した」「私は人殺しを育てた」 絶対にわかり合えないであろうこの4人が対話を通じて何かをつかもうとしている、その姿勢に胸を打たれる。 そして、ラスト10分、意外な展開が訪れる。
赦しと贖罪
赦しとは、そして贖罪とはっていうお話。 遠い外国の話ではあるけれど、 ニュースで○人と言われた犠牲者・加害者の奥には これだけの地獄が広がっているのだと再認識させられた。 限りなくドキュメンタリーに近い内容らしく、 観る側にもメンタル的な持久力が求められる。 ひとりの親として、なぜあの結論に至れたのか または至らざるを得なかったのかっていう部分が どうしてもこの短い上映時間では腑に落ちないところではあった。 ただ、映像作品として共有してくれたことに感謝したい。
すごい内容ではあったけど、 加害者の親と被害者の親をセラピーとして...
すごい内容ではあったけど、 加害者の親と被害者の親をセラピーとして会わせるというのは本当にあることなんだろうか。 ドキュメンタリーでもないし事実に基づく話でもなさそうだし、これは作り手の理想というかおとぎ話だろうかとふと思い直す瞬間も多少あった
罪と赦し
久々に見応えのある映画でした。
私は良くも悪くもある一定のラインを超えたらレビューを書くことにしています。
学校内で起きた銃乱射事件の被害者と加害者家族による会話劇です。
事件から6年もの長い月日が経ち、息子を殺された両親はひたすら苦しみもがき、セラピストに通い続けた。爆弾を作り銃を乱射した息子の両親は常に酷い悪意に晒され、孤立を余儀なくされた。その間にも互いのケアマネのような人物を仲介に顔を合わせており、この映画の中で会うのは初めてではない。
当時の回想や事件の当事者である息子達の映像は一切出てきません。
ともすれば、ここで映すか?となるシーンでさえ出てこない。それが良いんです。
この4人だけの会話を聴き、我々は自らの脳でそこに映されない映像を想像し、補填しなければならない。
つまり深い想像力で彼らに寄り添う共感力が必須になるので、気が抜けません。似た構成だと『ウーマン・トーキング』もそうでした。(こちらも凄い作品です)
セラピストに通い続け、ようやく《対峙》できるようになった被害者である両親。何と言ってもその表情が、全てを語っています。
私が思うに、この映画の最も凄い見所はこの4人の《表情》です。当事者?と思える程の表情の作り方で、被害者の母は怒りで般若のような顔になりそうな所を理性で必死に留めている、父はそんな妻を宥める為に一見冷静ですが、本音は加害者家族に罰を受けろ!と荒々しく言う自分を必死で押さえ込んでいる。
被害者の父は、常に理性を持って応対し冷静だが、母がまた悲しみと謝罪で顔が溶けそうな印象。
会話は続き、この映画の核心に触れる。
何故私の息子は殺されなければならなかったの?
あなたの息子は何故あんな事件を起こしたの?
双方の母は自分の息子の記憶を語る。ポツリポツリと紡ぐ言葉には後悔、悲しみ、怒り、戸惑いが凝縮されている。
そして息子を愛する気持ちは互いに同じ。
それが加害者であろうと…
加害者両親も《被害者》であり、事件を起こした息子もある意味では《被害者》だったのだ。
愛おしい息子を思い出すと事件への怒りで頭がおかしくなる。このままだと私達は息子を永遠に失ってしまうと恐れた両親は、この深淵に触れてようやく《赦す》と口に出す事ができた。神のみ前で。
被害者の母リンダから渡された花と鉄線に揺れるリボンは何かの暗示かと推測するが、あの花は「赦してください」という目に見えない加害者両親の心のようなものであろうか。
その花を床に叩きつけず、ゴミ箱に捨てず、しっかりと手に抱えて帰ると口に出したからこそ、そのタイミングでリンダは心に残るあの出来事を伝えられたのではないか。
彼女を抱きしめるそれは深い愛であり宗教画のようであった。そこから聴こえる讃美歌の声。本当の赦しを目に見た気がした。
ふとした壁のポスターの文字が字幕に出る。
《神は我らと共に》
そしてあの揺れる悲しげなリボンは、赦しても赦してもそれでも消えない《何か》なのだろうか。人間は人間が故に完全に罪を赦すことはできない。人間は神ではないのだから。
それでも日常は続いていく。
罪を背負い、苦しみと共に。
そして自らを救い続ける。
素晴らしい作品でした。
無理筋。こんなもんじゃないだろ。
非支持。 こんな修羅場でも皆が順に一度は激昂して一時間足らずでスンナリ収まる非現実的な無理筋に拍子抜けした。 それなりの知的レベルなら神様の仲介で大丈夫って、ホンマかいな。 そりゃこれが綺麗な理想だろうけども。 こんなもんじゃないだろ。 無理がある。 三宅隆太氏推薦作だが。
後悔と、、、
私の高校の後輩はアメリカで射殺された 私はヨシくんの代わりに生きることはできないが、彼の死という大きなマイナスをプラスにできなくとも、できる限り小さなマイナスにできれば思いながら生きてきたつもりだ あの事件がなければ、今の私はいないと断言できる この映画が実際に起こった事件をモデルにしているのか、完全にフィクションなのかはわからない しかし、このような事件の関係者が、なんとか前に進むことを願っています You DO NOT know. I know. この映画ではないが、ある台詞を思い出した You don't know about real loss, cause that only occurs when you love something more than you love yourself.
観ているのが辛く胸が張り裂けそうな作品
銃乱射事件の加害者と被害者の両親が顔を合わせて対話するストーリー。 観ているのが辛く胸が張り裂けそうな作品。 加害者も被害者も親にとってはどちらも大事な息子。 ずっと平行線のままだと思いました。 平行線どころか殴りかけてもおかしくない感情になります。 被害者は加害者がなぜこんな事件を起こしたのか知りたいし 加害者は被害者に赦しをもらいたいと思うし。 やっぱりまともな感情にはいられないでしょう。
ずっと苦しい
つらいつらすぎる。
ずっと苦しい映画だった。
配信で観たが、一気に観れなかった。ちょっと中断しながら観た。
最後、部屋に残された被害者の親をみて虚しさを感じた。あなたたちを心から赦すと言ったけど、気持ちのいい別れではなくぎこちなくて、教会に残される描写がそのまま彼らの心が残されてるようだった。
加害者母が戻ってきて、今まで話した息子の見逃した危険な兆候とは違う、たしかに怖いと思った、危険で見逃せなかった個人的なエピソードを話したところつらかった。
最後までみた後、
加害者親が赦すと言われても喜んでるようには見えなくて、父親は居心地が悪そうだったし早く帰りたい感じだったのは、彼らの赦すという言葉では何も救われないからじゃないかと思った。
加害者家族も被害者家族もどちらもつらい。
加害者親は自分が犯罪者ではないけど、未成年の犯罪者の親で責任があって、誰もが親のせいに思う。加害者が死んでるから生きてる両親に批難が集中して、でも息子がどうしてしたか、どうすればよかったかなんて親もわからない。
被害者親は赦すことで自分たちを救おうとした。
前に進むために赦すという選択肢があるのは被害者側だけなんだと気づいた。
赦すことは加害者側のためではない。
加害者親も救われるかと思ったらそうは見えなかった。
あの教会に最後までいて讃美歌を聞いて心を癒されたのは被害者親で、先に帰られて残されるのは事件に残されるようだと思ったけど、癒しの歌を聞けた。
加害者親のあの後の歩いて帰るのを想像するとつらい。
話せなかったこと
犯人はサイコパスか
精神病か
それとも可愛い息子か
悩める少年か
2つの家族が加害少年をどう解釈するか。1つの答えは出ないでしょう。
何を求めてここに来たのか。
罰を与えるため。それとも赦して前に進むため。
少年はもう死んでいるので、家族同士で話し合う。何度目かの対話なのでしょう。4人それぞれでも少年の解釈は違う。それが描かれていました。
別の過去を望んだままでは生きていけない。それが真実なのでしょう。
映画も音楽も聖歌も、前進するためにある。
本作は、深刻な事象に光を当て、 登場人物たちの心の奥底を克明に描き出す、 心理劇の傑作である。 オープニングシーンから、 机の配置、イスの角度、ティッシュの置き場所、 といった細部の描写が観客の注意を一点に集める。 これは、単なる写実的な描写にとどまらず、 これから始まる緊迫した状況への予兆として機能している。 カメラは、登場人物たちの表情をクローズアップで捉え、 彼らの心の揺れ動きを正確に映し出す。 眼球の動きや目線の交差といった、 微細な表情の変化は、 言葉を超えたコミュニケーションとして機能し、 観客にステマのようにシグナルを送り続ける。 これは、キャストたちが経験と訓練によって培った、 非言語コミュニケーションの高度な技術である。 登場人物たちの心理戦が、言葉は最低限の分量で、 身体表現によって繰り広げられる。 限られた空間の中で、 彼らは姿勢、頭の角度、呼吸といった身体の細かな動きで、 defenseのアクション、retaliationのリアクション、 互いの心理状態を探り、間、タイミングをコントロールし、 駆け引きを行う。 物語は、4人の人間関係が複雑に絡み合い、 徐々に破綻していく様を描き出す。 それぞれの立場や価値観を持ち、 互いに衝突し、そして理解しようとする。 この過程で、 人間の心の奥底にある醜い部分や、脆い部分が露呈していき、 感情と感情が対峙する時に論理的思考は不毛だという事もあからさまになる。 最後に、 見事なエンターテインメント作品にとどまらず、 人間の心理に関する深い洞察を提供する。 特に、感情をコントロールすることの難しさ、 そしてその重要性が浮き彫りになる。 感情に任せて演技をすることは、時に危険な状況をもたらす。 そのため、俳優は、感情をコントロールし、 役柄に没入するための高度な技術を身につける必要がある。 昨今、スポーツ界でもメンタルトレーナーが重要視されつつあり、 NPBでも2球団が専属トレーナーを起用している。 映画界でもインディマシー・コーディネーターが話題になっているが、 メンタルトレーナーの起用と、 演技の理論と実践を体系的に教習するシステム導入も急務である。
サイコには神の声は届かない
フラン・クランツという新人監督さんが撮った本作の英語原題は“MASS”。英語で“ミサ”を意味するらしい。プロテスタントとカソリックのちょうど中間に位置する“聖公会”教会?の一室で、これからなにやら重た~い雰囲気のミーティングが行われるらしいのだが、表れた2組の夫婦がなんのために呼び出されたのか、観客になかなかわからない演出がとられている。 トランプ政権時代、アメリカ内に広まった“分断”にインスピレーションを得たと語っていた監督さんではあるが、元々あった格差を極大化したのは何を隠そうあのオバマ元大統領なのだ。LGBTQなど人権的な差別に米国民の目をむけさせ、肝心要の貧富格差を裏でこっそり極大化させたのは、リベラルの代名詞このバラク・オバマなのである。現大統領のバイデンはそのオバマの操り人形といっても過言ではないだろう。 そんな民主党政権が、他国の戦争をけしかけるくせに自国ではなぜか銃規制を強化する。その矛盾がアメリカ人の子供たちに良い影響を及ぼす筈もなく、銃乱射事件の犯人を子にもつ老夫婦と、その犠牲になった子供の父母が対面し、事件後一応の和解をするまでを描いた問題作なのである。歳をとってから授かった子供のため家庭でも孤立、人殺しゲームCODにはまったあげく、お手製のパイプ爆弾を製造して警察沙汰に、今回(名ばかりの)友人の銃を借りて事に及んだことが次第にわかってくる。 誰がどうみても“サイコ”にまちがいないガキんちょを野放しにした甘々の夫婦を、話し合いの最中に激昂糾弾に及ぶ殺された子供の父親(ジェイソン・アイザックス)。その奥さんは「あなたたちを赦すことは、あの子を忘れること」と言って、老夫婦を睨み付ける。「幸せになんかなりたくない。学校の成績なんかどうでもいい!」と自分の部屋にとじこもっていった次男をどうすることもできなかった、と老夫婦はただ不毛な言い訳を繰り返す。 済んだことを蒸し返してああだこうだと口論しても、満足いく解決に結び付かないことは映画中盤にしてもはや明らか。そこでこの若き監督はその解決策として、“信仰”による結びつきを無理やりラストにもってくるのである。確かに日曜日に教会に通う人が多い地域では、凄惨な事件の発生率はすくないという話しをどこかで聞いたことがあるが、本作のエンディングはハッキリいって強引すきて映画らしくないのである。 泉にこんこんとわき出る湧水や、騎士とチェスをたしなむ死神、壁に写り込む水面の輝きをもってして“神”を顕在化させようとしたベルイマンの演出に比べると、あまりにも安易すぎやしないか。魂から神が逃げ出してしまったような脱け殻人間に、信仰による安らぎを思い出させるにはどうすればよいのか。バラセンに巻きつけられたテープの揺れごときで、それが表現できるとはとても思えないのであるが....
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