対峙のレビュー・感想・評価
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「赦し」とは何か
これはすごい。今年を代表する一本だ。教会の簡素な部屋で、銃乱射事件で子どもを殺された両親と加害者の両親が4人で語り合う。最初はぎこちない挨拶と日常会話から始まり、だれもが何を話すべきか、どこまで踏み込んでいいのかわからないといった雰囲気の中、死んだ息子の過去の話となってからは、心を削られるような、魂のぶつかり合う対話が全編続いていく。
被害者の両親は、なぜこんな事件が起きたのかを知りたいと訴える。しかし、親だからといって子どもの全てを知っているわけではない。心の闇に気が付けなかったことが悔恨として重くのしかかっている加害者の両親、それでも息子を愛する気持ちは捨てられない。
銃乱射事件が物語の発端になるが、銃規制の是非はテーマにしていない。それでよかったと思う。銃以外でも殺人は起きる。理不尽に命を奪われた両親の悲しみや怒りは、銃でなくても同様だろうから。
回想シーンも音楽もなく、部屋は質素な飾り付けがあるのみ。この複雑な感情を表現するのはもっぱら4人の役者だ。これほど高次元のアンサンブル演技はそうそうお目にかかれない。赦しとは何かを深く探求した傑作。
事前情報がない方がより味わい深いスリリングな会話劇
舞台はアメリカのどこか郊外らしき土地にある小さな教会。子供たちが合唱の練習をしているが、初めて訪れた女性司祭がピリピリした雰囲気を醸しながら会談場所の部屋を事前にチェックし、椅子の配置などを整える。やがて一組の中年夫婦が緊張した面持ちで到着し、少し遅れて別の中年夫婦がやってくる。司祭はほどなく去り、部屋には2組の夫婦が対峙する――。
貴重なお金と時間を費やして映画を観るなら、自分の好みから外れたものを選ばないよう予告編などで事前情報を仕入れてから鑑賞するのはもちろん真っ当なこと。だが、緊張感に満ちた会話劇が好きな人なら、2組の夫婦にどんな関係性があり、何の目的で会談を行うのかを知らないまま臨むことで、秀逸な脚本によりそうした事情が言葉のやり取りだけで少しずつ明らかになっていく過程をよりスリリングに味わえるだろう。
本編の9割方がこの室内だけでリアルタイムに進行し、回想シーンなどを一切挟まない構成なので、舞台劇の映画化だろうかと想像したが違った。俳優でキャリアを築いてきたフラン・クランツによる初脚本・初監督作で、ドキュメンタリー映画などで知った事実から着想したという。つまり、このような“対話”が創作ではなく、現実に行われてきたということ。
異なる立場の者同士が直接対峙して言葉を交わすことの困難さと、それを敢えて行うことの尊さが、SNS全盛で他者を容易に攻撃できてしまう現代だからこそ、観客の心に一層深く突き刺さるのかもしれない。
赦しと贖罪
赦しとは、そして贖罪とはっていうお話。
遠い外国の話ではあるけれど、
ニュースで○人と言われた犠牲者・加害者の奥には
これだけの地獄が広がっているのだと再認識させられた。
限りなくドキュメンタリーに近い内容らしく、
観る側にもメンタル的な持久力が求められる。
ひとりの親として、なぜあの結論に至れたのか
または至らざるを得なかったのかっていう部分が
どうしてもこの短い上映時間では腑に落ちないところではあった。
ただ、映像作品として共有してくれたことに感謝したい。
すごい内容ではあったけど、 加害者の親と被害者の親をセラピーとして...
すごい内容ではあったけど、
加害者の親と被害者の親をセラピーとして会わせるというのは本当にあることなんだろうか。
ドキュメンタリーでもないし事実に基づく話でもなさそうだし、これは作り手の理想というかおとぎ話だろうかとふと思い直す瞬間も多少あった
罪と赦し
久々に見応えのある映画でした。
私は良くも悪くもある一定のラインを超えたらレビューを書くことにしています。
学校内で起きた銃乱射事件の被害者と加害者家族による会話劇です。
事件から6年もの長い月日が経ち、息子を殺された両親はひたすら苦しみもがき、セラピストに通い続けた。爆弾を作り銃を乱射した息子の両親は常に酷い悪意に晒され、孤立を余儀なくされた。その間にも互いのケアマネのような人物を仲介に顔を合わせており、この映画の中で会うのは初めてではない。
当時の回想や事件の当事者である息子達の映像は一切出てきません。
ともすれば、ここで映すか?となるシーンでさえ出てこない。それが良いんです。
この4人だけの会話を聴き、我々は自らの脳でそこに映されない映像を想像し、補填しなければならない。
つまり深い想像力で彼らに寄り添う共感力が必須になるので、気が抜けません。似た構成だと『ウーマン・トーキング』もそうでした。(こちらも凄い作品です)
セラピストに通い続け、ようやく《対峙》できるようになった被害者である両親。何と言ってもその表情が、全てを語っています。
私が思うに、この映画の最も凄い見所はこの4人の《表情》です。当事者?と思える程の表情の作り方で、被害者の母は怒りで般若のような顔になりそうな所を理性で必死に留めている、父はそんな妻を宥める為に一見冷静ですが、本音は加害者家族に罰を受けろ!と荒々しく言う自分を必死で押さえ込んでいる。
被害者の父は、常に理性を持って応対し冷静だが、母がまた悲しみと謝罪で顔が溶けそうな印象。
会話は続き、この映画の核心に触れる。
何故私の息子は殺されなければならなかったの?
あなたの息子は何故あんな事件を起こしたの?
双方の母は自分の息子の記憶を語る。ポツリポツリと紡ぐ言葉には後悔、悲しみ、怒り、戸惑いが凝縮されている。
そして息子を愛する気持ちは互いに同じ。
それが加害者であろうと…
加害者両親も《被害者》であり、事件を起こした息子もある意味では《被害者》だったのだ。
愛おしい息子を思い出すと事件への怒りで頭がおかしくなる。このままだと私達は息子を永遠に失ってしまうと恐れた両親は、この深淵に触れてようやく《赦す》と口に出す事ができた。神のみ前で。
被害者の母リンダから渡された花と鉄線に揺れるリボンは何かの暗示かと推測するが、あの花は「赦してください」という目に見えない加害者両親の心のようなものであろうか。
その花を床に叩きつけず、ゴミ箱に捨てず、しっかりと手に抱えて帰ると口に出したからこそ、そのタイミングでリンダは心に残るあの出来事を伝えられたのではないか。
彼女を抱きしめるそれは深い愛であり宗教画のようであった。そこから聴こえる讃美歌の声。本当の赦しを目に見た気がした。
ふとした壁のポスターの文字が字幕に出る。
《神は我らと共に》
そしてあの揺れる悲しげなリボンは、赦しても赦してもそれでも消えない《何か》なのだろうか。人間は人間が故に完全に罪を赦すことはできない。人間は神ではないのだから。
それでも日常は続いていく。
罪を背負い、苦しみと共に。
そして自らを救い続ける。
素晴らしい作品でした。
無理筋。こんなもんじゃないだろ。
非支持。
こんな修羅場でも皆が順に一度は激昂して一時間足らずでスンナリ収まる非現実的な無理筋に拍子抜けした。
それなりの知的レベルなら神様の仲介で大丈夫って、ホンマかいな。
そりゃこれが綺麗な理想だろうけども。
こんなもんじゃないだろ。
無理がある。
三宅隆太氏推薦作だが。
後悔と、、、
私の高校の後輩はアメリカで射殺された
私はヨシくんの代わりに生きることはできないが、彼の死という大きなマイナスをプラスにできなくとも、できる限り小さなマイナスにできれば思いながら生きてきたつもりだ
あの事件がなければ、今の私はいないと断言できる
この映画が実際に起こった事件をモデルにしているのか、完全にフィクションなのかはわからない
しかし、このような事件の関係者が、なんとか前に進むことを願っています
You DO NOT know. I know.
この映画ではないが、ある台詞を思い出した
You don't know about real loss, cause that only occurs when you love something more than you love yourself.
観ているのが辛く胸が張り裂けそうな作品
銃乱射事件の加害者と被害者の両親が顔を合わせて対話するストーリー。
観ているのが辛く胸が張り裂けそうな作品。
加害者も被害者も親にとってはどちらも大事な息子。
ずっと平行線のままだと思いました。
平行線どころか殴りかけてもおかしくない感情になります。
被害者は加害者がなぜこんな事件を起こしたのか知りたいし
加害者は被害者に赦しをもらいたいと思うし。
やっぱりまともな感情にはいられないでしょう。
ずっと苦しい
つらいつらすぎる。
ずっと苦しい映画だった。
配信で観たが、一気に観れなかった。ちょっと中断しながら観た。
最後、部屋に残された被害者の親をみて虚しさを感じた。あなたたちを心から赦すと言ったけど、気持ちのいい別れではなくぎこちなくて、教会に残される描写がそのまま彼らの心が残されてるようだった。
加害者母が戻ってきて、今まで話した息子の見逃した危険な兆候とは違う、たしかに怖いと思った、危険で見逃せなかった個人的なエピソードを話したところつらかった。
最後までみた後、
加害者親が赦すと言われても喜んでるようには見えなくて、父親は居心地が悪そうだったし早く帰りたい感じだったのは、彼らの赦すという言葉では何も救われないからじゃないかと思った。
加害者家族も被害者家族もどちらもつらい。
加害者親は自分が犯罪者ではないけど、未成年の犯罪者の親で責任があって、誰もが親のせいに思う。加害者が死んでるから生きてる両親に批難が集中して、でも息子がどうしてしたか、どうすればよかったかなんて親もわからない。
被害者親は赦すことで自分たちを救おうとした。
前に進むために赦すという選択肢があるのは被害者側だけなんだと気づいた。
赦すことは加害者側のためではない。
加害者親も救われるかと思ったらそうは見えなかった。
あの教会に最後までいて讃美歌を聞いて心を癒されたのは被害者親で、先に帰られて残されるのは事件に残されるようだと思ったけど、癒しの歌を聞けた。
加害者親のあの後の歩いて帰るのを想像するとつらい。
話せなかったこと
犯人はサイコパスか
精神病か
それとも可愛い息子か
悩める少年か
2つの家族が加害少年をどう解釈するか。1つの答えは出ないでしょう。
何を求めてここに来たのか。
罰を与えるため。それとも赦して前に進むため。
少年はもう死んでいるので、家族同士で話し合う。何度目かの対話なのでしょう。4人それぞれでも少年の解釈は違う。それが描かれていました。
別の過去を望んだままでは生きていけない。それが真実なのでしょう。
映画も音楽も聖歌も、前進するためにある。
本作は、深刻な事象に光を当て、
登場人物たちの心の奥底を克明に描き出す、
心理劇の傑作である。
オープニングシーンから、
机の配置、イスの角度、ティッシュの置き場所、
といった細部の描写が観客の注意を一点に集める。
これは、単なる写実的な描写にとどまらず、
これから始まる緊迫した状況への予兆として機能している。
カメラは、登場人物たちの表情をクローズアップで捉え、
彼らの心の揺れ動きを正確に映し出す。
眼球の動きや目線の交差といった、
微細な表情の変化は、
言葉を超えたコミュニケーションとして機能し、
観客にステマのようにシグナルを送り続ける。
これは、キャストたちが経験と訓練によって培った、
非言語コミュニケーションの高度な技術である。
登場人物たちの心理戦が、言葉は最低限の分量で、
身体表現によって繰り広げられる。
限られた空間の中で、
彼らは姿勢、頭の角度、呼吸といった身体の細かな動きで、
defenseのアクション、retaliationのリアクション、
互いの心理状態を探り、間、タイミングをコントロールし、
駆け引きを行う。
物語は、4人の人間関係が複雑に絡み合い、
徐々に破綻していく様を描き出す。
それぞれの立場や価値観を持ち、
互いに衝突し、そして理解しようとする。
この過程で、
人間の心の奥底にある醜い部分や、脆い部分が露呈していき、
感情と感情が対峙する時に論理的思考は不毛だという事もあからさまになる。
最後に、
見事なエンターテインメント作品にとどまらず、
人間の心理に関する深い洞察を提供する。
特に、感情をコントロールすることの難しさ、
そしてその重要性が浮き彫りになる。
感情に任せて演技をすることは、時に危険な状況をもたらす。
そのため、俳優は、感情をコントロールし、
役柄に没入するための高度な技術を身につける必要がある。
昨今、スポーツ界でもメンタルトレーナーが重要視されつつあり、
NPBでも2球団が専属トレーナーを起用している。
映画界でもインディマシー・コーディネーターが話題になっているが、
メンタルトレーナーの起用と、
演技の理論と実践を体系的に教習するシステム導入も急務である。
サイコには神の声は届かない
フラン・クランツという新人監督さんが撮った本作の英語原題は“MASS”。英語で“ミサ”を意味するらしい。プロテスタントとカソリックのちょうど中間に位置する“聖公会”教会?の一室で、これからなにやら重た~い雰囲気のミーティングが行われるらしいのだが、表れた2組の夫婦がなんのために呼び出されたのか、観客になかなかわからない演出がとられている。
トランプ政権時代、アメリカ内に広まった“分断”にインスピレーションを得たと語っていた監督さんではあるが、元々あった格差を極大化したのは何を隠そうあのオバマ元大統領なのだ。LGBTQなど人権的な差別に米国民の目をむけさせ、肝心要の貧富格差を裏でこっそり極大化させたのは、リベラルの代名詞このバラク・オバマなのである。現大統領のバイデンはそのオバマの操り人形といっても過言ではないだろう。
そんな民主党政権が、他国の戦争をけしかけるくせに自国ではなぜか銃規制を強化する。その矛盾がアメリカ人の子供たちに良い影響を及ぼす筈もなく、銃乱射事件の犯人を子にもつ老夫婦と、その犠牲になった子供の父母が対面し、事件後一応の和解をするまでを描いた問題作なのである。歳をとってから授かった子供のため家庭でも孤立、人殺しゲームCODにはまったあげく、お手製のパイプ爆弾を製造して警察沙汰に、今回(名ばかりの)友人の銃を借りて事に及んだことが次第にわかってくる。
誰がどうみても“サイコ”にまちがいないガキんちょを野放しにした甘々の夫婦を、話し合いの最中に激昂糾弾に及ぶ殺された子供の父親(ジェイソン・アイザックス)。その奥さんは「あなたたちを赦すことは、あの子を忘れること」と言って、老夫婦を睨み付ける。「幸せになんかなりたくない。学校の成績なんかどうでもいい!」と自分の部屋にとじこもっていった次男をどうすることもできなかった、と老夫婦はただ不毛な言い訳を繰り返す。
済んだことを蒸し返してああだこうだと口論しても、満足いく解決に結び付かないことは映画中盤にしてもはや明らか。そこでこの若き監督はその解決策として、“信仰”による結びつきを無理やりラストにもってくるのである。確かに日曜日に教会に通う人が多い地域では、凄惨な事件の発生率はすくないという話しをどこかで聞いたことがあるが、本作のエンディングはハッキリいって強引すきて映画らしくないのである。
泉にこんこんとわき出る湧水や、騎士とチェスをたしなむ死神、壁に写り込む水面の輝きをもってして“神”を顕在化させようとしたベルイマンの演出に比べると、あまりにも安易すぎやしないか。魂から神が逃げ出してしまったような脱け殻人間に、信仰による安らぎを思い出させるにはどうすればよいのか。バラセンに巻きつけられたテープの揺れごときで、それが表現できるとはとても思えないのであるが....
ぜひ観てほしい!
「対峙」という固いタイトル、銃乱射事件の加害者と被害者の両親が教会で会うという重苦しいストーリー。
かなり身構えて観始めましたが、観終わった後の感情は全く違っていました。
対話を通して浮かびあがる人間の哀しさ、優しさ、尊さ、不条理な運命に翻弄されてもよりよく生きることをあきらめない強さ、、感動があふれて涙が止まりません。
ラストシーンは今まで観た映画の中でも最高に愛に満ちていて、深い余韻に包まれました。。
教会のオープンでカジュアルな明るい雰囲気も素敵。
スタッフの女性や青年も親しみやすく優しい人たちで、答えのない重苦しい悲劇に日常の生活感を添えてくれます。
会合の準備、お花の箱、聖歌隊の歌の練習など、ふつうの生活の一コマにこんなに感動し癒やされるとは。。
全く違った立場にあっても真摯に対話し、たとえ答えは出なくても分かりあおうと努力を重ねることをあきらめてはいけない。
観てよかったと心から思える映画です。
聖歌の練習で泣けた
アメリカの高校で銃乱射事件があり、死傷者多数、加害少年は自殺。それから6年。一被害者の両親と、加害少年の両親が教会で対話することに。
セラピストの意味ありげな細かい配慮、ぎこちない会話から始まり、もどかしい展開。それらから、実際の対談を再現したノンフィクションと思いました。しかしモデルはあるようですが、オリジナルであることに驚愕。そして最後の美しい聖歌。聖歌でこんなに感動したことはありませんでした。俳優であるフラン・クランツ監督の力量に感嘆。高校での銃乱射事件を扱った、映画「君が生きた証」を思い出しました。
どこにでもいる普通の人たち
ほぼ4人の会話劇やけど、ひりひりした感じが伝わってきてこちらまで緊張感MAXで鑑賞した。
被害者側もそうやけど、加害者の両親も普通の人のような感じやし、これは止めることができたのか。赦すというのが意外ではあったけど、自分たちが前に進むためにはどこかで折り合いをつける必要もあるからってことなのかな。加害者側の母親の気持ちも分かるし複雑な気持ちになった。加害者側の父親は、ほとんど感情を出さないポーカーフェイスな人という印象やったけど、その分未だ気持ちが整理できないままなんやろうなと思った。
殺人事件の加害者の両親と被害者の両親が4人だけで話し合うというのは...
殺人事件の加害者の両親と被害者の両親が4人だけで話し合うというのは衝撃だった。
とても演技とは思えない生々しさ。
加害者の両親、特に父親の方が妙に他人事のような対応をしているのは、事件後にさんざん周囲から責められた開き直りか。
また加害者の少年も事件直後に自殺していることが分かる。
最後の和解まで息を飲むような白熱ぶりではらはらした。
舞台はほぼ教会の部屋 登場人物も、かなり限られている 実際の事件は...
舞台はほぼ教会の部屋
登場人物も、かなり限られている
実際の事件は、彼らの話の中に出てくるだけ
淡々と進む会話劇
冒頭の神経質なほどの準備から始まり、当事者がやってくる
けれど、しばらくはどちらがどちらの親なのか、はっきりしない
ようやくどちらがどちらの親なのかが分かってくるが、話はいきなり核心に行かず、なんとなくさぐりあうような雰囲気が続く
互いに夫婦間で事前の準備や話し合いが行われてきたことが垣間見えるような、夫婦での牽制が入る
それが徐々に、感情を帯び、徐々に、核心に入っていく
この時間は、当初は、それぞれがなにかに納得したい、答えを得たい、というものに見えたけれど、最後まで観ると、ゆるしを求めていたのだろうと思えた
被害者の親は、憎むことで過ごした時間に終止符を打ち、憎む対象を赦すことを自分に許す
加害者の親は、赦されざることをした息子をそれでも大切な我が子でもあったと思う感情を持つことを自分に許す、こんな悲劇が起きる前に止めることが出来なかった自分を許す
赦しがなければ、つらく苦しい感情にとらわれ続けてしまうから
許すことで、歩き出せるから
でも、それを行うことの難しさ
そんな風に感じた
そして、加害者の親には、やはり責任を求めてしまう気持ちが働いたものの、観ていると、少なくともこの話の中の両親は、ごくごく普通の、どう扱っていいかわからない10代の子供に悩み、手探りで日々を過ごしていたどこにでもいる普通の親、にも見えた
ラストの加害者の母の告白もそう
どれほど自分を責めてきたのかがよくわかる
私の産んだ子はモンスターだった。
6年前の銃乱射事件の加害者ヘイデンの両親(リチャードとリンダ)
被害者エヴァンの両親(ジェイとゲイル)
彼ら4人は6年経ても息子を失った哀しみから立ち直れない。
そんな4人が時間と費用をかけて、ようやっと会う事になった。
ラスト以外には音楽が全くない。
回想シーンも再現シーンもない。
対立する4人がただただ向き合い対話する=対峙
一幕一場の舞台劇のような映画です。
どんなに平静を装っても加害者への憎しみとその両親への怒り。
息子を奪われて、やっと立っているジェイとゲイル。
その日の凶行を現す言葉が映像よりもよほど恐ろしい。
一番冷静に見えたヘイデンの父親ジェイ(リード・バーニー)は、
被害者一人一人の死に様を分刻みで覚えている。
ダニエルは3発撃たれた。2発は頭、1発は心臓。
……机に座って息絶えた。
ジュリアナは脚に2発、1発は膝、もう1発は腱、
……大動脈が撃たれてガラス片が目に入り、
……這って外へ逃げようとして力尽きた。
ヴァネッサは4発撃たれた。腹に2発、頭部2発。
……机の下でうずくまり命乞いをしたのを息子は撃った。
エヴァンは必死で這った。血の跡がそれを現している。
……それでもヘイデンは追ってトドメをさした。
リンダは言う
「私は人殺しを育てた」
☆☆☆
モンスターは一定の確率で生まれると思います。
育てた親になんの責任もない・・・私はそう思っています。
防ぎようがないのです。
どんな映像よりも生々しい。
「2番目はほしくなかった」
「生まれてこなければ良かった・・・」
10人の被害者は追悼式が行われた。
けれど11番目は追悼されない。
葬式も断られたて墓にも苦労した。
この映画で会話のチカラ、言葉の強さを思い知らされました。
役者たちの力量がどんな映像にも勝り迫って来る。
対峙して言葉をぶつけ合い本音を吐き痛みをぶつけた事で、
エヴァンの母ゲイル(マーサ・プリンプトン)は最後に、
決意したように言います。
「あなたたちを赦します」
「ヘイデンを赦します」
加害者家族のリチャードとリンダも、ジェイとゲイル同様に
愛する息子を失った被害者なのだ。
被害者と加害者の夫婦は互いを思い遣り帰路につく。
彼らが少しでも晴れ晴れした気持ちで生きていくことを、
私は心から願いました。
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