怪物のレビュー・感想・評価
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色々詰め込みすぎな気もするが
面白かった。
演出は抜群によかったと思う。
母視点では、常にミナト君の読めない気持ちが終始あり、鑑賞者側は「自殺念慮があるのかな?」と思ってしまう。
学校側には心底イラついた。いや、飴食うなよ、それは演出としてもやりすぎでは?と思ったが、その部分は後で補完されたので良かった。
ホリ先生、マジで可哀想だった。飴玉シーンとかは真面目な故によっぽど追い詰められてたんだと思う。実際にこんな生贄の様な事はあるのだろうかと考えてしまう。噂話は時にその人の生活状況、人生を狂わせてしまう。誰にでもあり得そうで非常に怖い。
ミナト君and星川君、素晴らしかった。星川君はおそらく発達障害を持ち、かつ同性愛者。今作のキーマンは間違いなく星川君で、彼らの葛藤する様や、彼らを取り巻く環境、観ててヒリつく展開が多くて見応え十分。
ただ「ん?」と思うシーンもチラホラ。
•ミナト君の横に座ってた女の子は何故スポンジをミナト君に投げつけた?
•学校側は分かるが、何故子どももホリ先生を追い込んだ?(これもガールズバー疑惑の関係から?)
•結局いじめ問題、ホリ先生の今後や星川君の家庭問題など、課題が山程のまま終わってしまった事にモヤモヤ爆発感はある。
怪物の正体
怪物の正体が誰なのか?は、鑑賞した各個人に依って異なるのであろう。
私は、事なかれ主義の世間と、事なかれ主義の個人、それとそれを取り巻く嘘だということだと感じました。
この映画は、3人の主観が少しだけ異なる時間軸で描かれています。
①主人公である、小学5年生の息子のお母さん
②小学校の先生、
③最後は小学5年生の息子さん。
怪物は、小学校のイジメっ子同級生、学校を守り嘘を突き通す校長、それと母に嘘をついてしまう主人公。
①のラストシーンから少しだけ先が②のラストシーン、②のラストシーンの少しだけ先が③のラストシーンでした。
但し、②のラストシーンが正しい時間軸だとすれば、③のラストシーンにならないため、③のラストシーンは別の世界なのかもしれない、と感じました。
切ないけど子供の幸せを願いたい
ここで終わったら嫌だなと思うところで終わった。
でも万引き家族同様やっぱりか、、、という気持ちだった。
親も先生もそして子どもたちも視点を変えればみんな怪物だった。怖いなーと思う。
何が正解か分からなくなる。
安藤サクラの子供を守るために詰め寄る目が怖いし、田中裕子は血が通ってない感じが怖いし、瑛太は普通の良い先生ぽいのにあの彼女を選ぶというのはやっぱりなんか変だし、見てもないのに平気で嘘ついたり事実と違う事を言う子供も怖かった。
微妙な感じがよくお話になったなーと思う。
最後2人がどうなったかわからないけどそれもまた良くって、子供たちが笑顔で居られたらいいなと思う映画だった。
引き込まれた!
前半のフリの部分で「ん?大丈夫か」という感じだったが中盤から見事に展開していった。
ストーリーの要の子役の演技が素晴らしく、安藤サクラの存在感もフリに思えてくるほど。
怪物は誰なのか。
パッと見ではわからないが子供は多様性をもっていて大人が思っている以上に頭がよく敏感なのだと。
それをわからず単純なものさしですばすばと割りきって接していく大人全員が怪物なのだと読み取りました。
ただ観賞後主役二人(子供)の想像力がすごすぎる点を振り返ると、画一化されていない子供はこれはこれで上とは別の(かなりポジティブな)意味で怪物なのかもしれないとも思いました。
そこまで分かってるなら救ってくれよ!
Twitterをみてると、この映画がLGBTQをオモチャにしてるとか、傷つくから観ない方が良い、みたいな批判がバズってたけど、僕はそんな風には感じなかった。
子供の頃、女子みたいって揶揄われた事とか、親に本当の事を伝えようとしたけど、TVに映るゲイタレントを「気持ち悪い」って言ってるのを聞いて伝えられなかった事とか、色々思い出して心がグッてなったけど、「消費されてる」なんて感じなかった。
寧ろ、何が湊や星川くんを追い詰めていったのかが緻密に、的確に描かれてて、こんな風に自分達と同じ目線を描いてくれるんだなって感覚の方が強かった。
でもだからこそ、描いているモノのリアルさに比べて、ラスト(救い)が抽象的すぎないか、という戸惑いもある。
この映画のラストは、湊たちが生きてるのか死んでるのか、どう捉えても正解な作りになってる。だって、他人が思い込みで誰かに、こうなんだよって言えないって事がこの映画のテーマなんだから。
だからもし、今まさに問題に直面してる人がこのラストをネガティブに捉えてしまわないかって考えが頭の片隅にあって、手放しで絶賛できない。
この映画が「答え」じゃなく「問いかけ」に重点を置いてるのも分かるし、多くの人に観てもらうためには効果的なのも分かるけど、ラストだけは大勢の観客の為じゃなく、今泣いてるたった1人の誰かのために作って欲しかった。
少なくとも、現実的な救済(解決策)を1つでも良いから描いて欲しかった。
校舎の屋上から下を眺めてた当時の自分がこのラストをみても、明日を頑張ろうとはならなかったと思う。
今、自分は大人になって少なからず理解してくれる人がいるけど、学生で同じ様な問題に1人で直面している人達が観たら、かなりキツいんじゃないだろうか。
でも、そういう人は必ずいる。ってか居ないはずがない。湊みたいに、なんで自分は生まれてきたのって、人が望む幸せは絶対に手に入らないのにって苦しんでる人が。
だから、そういう人に伝えたい。
そんな事はないよって。
止まない雨なんて絶対ないって。
嘘だって思うかもしれないけど、今抱えてる苦しみは必ず和らぐ時が来る。
誰にも言えなくて、苦しくて、もしかしてずっと自分は1人ぼっちかもしれないって不安に押しつぶされそうになってる人がいたら伝えたい。
諦めないでって。
大人になって世界が広がれば、貴方を理解してくれる人が必ずいる。あなたの味方になってくれる人が、あなたのことを信じてくれる人が。
だから、あなたのままでいて欲しい。
願わくば子供が、なんで自分は生まれてきたの、なんて悲しい事を言わなくてすむ世界が、2人が駆け抜けた、晴れ渡った柵のない世界が、少しでも現実に近づきますように。
少年を苦しめているもの
芥川龍之介の「藪の中」のように1つの事件を三者の異なる視点から語り直す構成になっている。観客は視点が違うことで同じ事件がこんなにも異なる実相をもつことに驚く。
ただ、単にそれだけではなく、この映画がユニークなのは、異なる視点の3つのパートが、それぞれ全く違うテイストの物語になっている、ということだ。
パート1は、シングルマザー(麦野早織)の視点での物語。この物語での「怪物」は、学校や教師。息子のいじめにまるでまともにとりあってもらえない不条理さは、まるでカフカの「城」のようだ。「あなたたちは人間か? 人間の心をもっているのか?」と叫ばずにいられない。そしてヒートアップする彼女の態度は、ここだけ切り取ればまさに「モンスター・ペアレント」そのもの。彼女にとって教師はモンスターだが、教師にとっても彼女はモンスターに見えているであろうことに気がつく。そこで観客は、「相手をモンスターと見る」ことの相対性にハッと気づく。「モンスター」とは、自分に理解できない相手を安易に「モンスター」とレッテル張りする自分の心にあるのではないか…。
パート2は、教師(保利道敏)の視点での物語。純粋で守るべき存在と信じていた生徒たちに陥れられていくような不気味な物語。パート1であきらかな教師失格のような保利は、パート2では生徒思いの良い先生である。ここで、麦野が星川をいじめていると保利が誤解した経緯が明かされるとともに、無垢な存在であるようにみえる星川がこの一連の事件の真の首謀者であるかのようなほのめかしがされていく。浦沢直樹のMONSTERを思わせる。
パート3は、子供(麦野)視点での物語。この物語はこれまでに提示されていた数々の謎に対する真相解明編にあたるが、それだけではなく、少年どうしでの清らかな桃源郷のような世界が展開される。「青い珊瑚礁」を思わせる。二人だけの幸せに満ちた時間と、”外の世界”の醜さと生き辛さが対比される。少年たちは、ビッグクランチ(世界の終わり)や、死んで生まれ変わることを夢見る。ここで、麦野の苦しみの正体が、性的少数者であることに対する悩みであることが明かされる。パート1で描かれた理想的な母親、パート2で描かれた理想的な教師、彼らが理想的で善人であるほどに、彼らが無自覚に語る「常識」が麦野を苦しめる原因になる。見事な反転の構成であると思う。
同じ場面をパート1,2,3のそれぞれの視点で描きなおしているシーンがたくさんあり、面白かった。一番印象的だったのは、校長先生と麦野が管楽器を吹くシーン。パート2では不快な雑音に聞こえた音が、パート3では全く異なる印象に聞こえる。また、パート1では単なるバラエティ番組が、パート3でははっきり「オネエタレントが出ている番組」と認識できた。テレビでは性的少数者を「道化」として扱っていることについて、我々はもっと自覚的でなければいけないのでは?と思わされた。
この映画を性的少数者をテーマにした映画と見ることは、直観的にしっくりこない。そうだとするには、あまりに少年たちの恋愛を理想化しすぎているように思う。たとえば「恋人はアンバー」などのゲイをテーマにした映画では、慎重に性的少数者を理想化して描かないように気をつけているように思う。
この映画が描こうとしている「苦しみ」は、現実世界という不条理を受け入れて生きていかなければならないこと、なのではないかと思った。
構成は非常に高度で面白いが、脚本が完成されているとはあまり思わなかった。いろいろとひっかかる点が多すぎる。パート1やパート2での学校での対応は現実にはありえない。パート2での教師は保護者との話でアメをなめるといった非常識な行動をとると思えない。実際には何も暴力や暴言をしていない教師をまるでハメるように生徒たちがウソをついたりアンケートに不利なことを書いたりするのも腑に落ちない。パート3で教師は作文から麦野と星川が恋仲であることを見抜いたぽいが、あれだけの情報でそう思うには無理がある。数十年前ならともかく、現代が舞台であれば、自分自身を性的少数者と自覚している少年たちが、自分たちを異常(ブタの脳が入っている)と信じ込むのは無理があるのでは…、などなど。
「怪物」とは
怪物とは何だ?怪物とは誰だ?
社会?学校?世論?人間関係?校長?教師?生徒?友達?親?こども?
何が真実・正義で、何が嘘・間違いなのかは当事者同士しか分からない。他人(部外者)がそのときの感情や憶測で物事を判断するのは、「誤解」に近いものであり、「お門違い」だと考えた。
また、1つ1つのシーンの切り取り方・挿入の仕方・順番、カメラワーク、セリフなどとても秀逸だと感じた。
様々なことを考えさせられる良い機会となった。
かいぶつはだれ?
序盤はへんなテンポの映画だなと思っていたら、まぁ仕掛けのある作品でした。
「かいぶつ、だーれだ?」この言葉自体がミスリードなんですね。
怪物はだれもが心のうちに抱えて増幅させるもの。起こった事象をだれもが自分の見え方で価値観で解釈し、イメージを増幅していくわけです。
麦野早織は学校がおかしいと声を荒げ、息子の湊の担任教師・保利のことが怪物じみて見えてくる。
その保利からは、湊がいじめをしているのではないかと疑い、得体のしれない怖さを感じる。
そして、湊は同級生の依里が不思議な存在だと思いながらも仲良くなっていく。
まるでプリズム。誰の目からどのように見るかで、なにが怪物なのか変わってくるんですね。
冒頭のビル家事が象徴的です。だれが放火したのか、ビル周辺でだれがなにをしていたのか。それぞれの人物の見方で変わってくるわけです。当事者なのか傍観者なのかでも違う。本当のことすらわからない。
子役は相変わらずのすばらしさでしたね。
特に湊と依里が仲良くなっていく過程がすばらしかった。片方ずつ靴を履いて、ケンケンしながら帰る場面なんか、ずっと見ていたいと思ってしまった。
湊が依里を好きかもしれないという感情が芽生えたところもまさに演技。セリフなしで愛情なのだと、観客をハッとさせないといけないわけで、しっかり演技で見せている。友情ではなく愛情なのだと。すごいこと。
音は全編、大事なところで鳴っていました。坂本龍一の曲もちろん、不穏な管楽器の音が学校で響いているのも象徴的でした。これは湊と校長先生がイヤなことは楽器を吹いて吐き出すと話していたんですね。
田中裕子が演じる、校長先生も不気味でしたね。ひたすら謝り続ける。子どもを憎んでいるのかもしれない。孫殺しの犯人とも受け取れる。しかしそれもなにもかも偏見でしかなかったのかもしれないんです。
そう観客すら他人事ではいられない。第1幕で穿った見方をして誰が怪物なのか疑い続ける。第2幕でも偏見が覆された体験をしているのに、真の悪を見つけようとする。違うんです。この悪を見つけようとする行為自体が、怪物を生み出すんです。
このバイアスがなければ、2人はもっと素直に周りに話せたかもしれない。母親に先生に。そのチャンスは間違いなくあったけれど、大人がつぶしてしまった。だから2人は追い込まれ、嵐の中を逃避行せざるを得なかった。2人だけの世界へ行かなければ、2人の思いをさらけ出せなかった。
是枝裕和、坂元裕二の2人の仕掛け、味わってみることをおすすめします。
自分の中に潜んでいる怪物性に気付かされました…
公開前から何かと話題になっていた本作ですが、内容については全くの予備知識無しで観ることが出来ました。
色んな視点から語られる真実。
それぞれの立場にたてば全てが真実。
その中で、勝手に犯人を決めつけている自分…。
あぁ…怖っ!
ラストシーンですが、三途の川を越えて、二人はようやく望み通りの新しい人生へと歩み出す…と希望に満ちた解釈をしたのですが、どうでしょうか?…っちゅーても死んでるんですが(笑)
タイトルなし(ネタバレ)
長野県諏訪湖にほど近い小学校。
クリーニング店で働くシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、ある日、5年生のひとり息子・湊(黒川想矢)がいじめに遭っているのではないかとの疑念を抱く。
幾日か経た後、その疑念は確信にかわり、いじめの主体は教師にあるように思えた早織は、学校へクレームを入れに訪れた。
そこでは、担任教師の保利(永山瑛太)のみならず、校長先生(田中裕子)も死んだような眼をして、頭を下げるだけだった・・・
そして、、担任の保利からはなぜこのような事態になったのかはまるで理解ができないままで、保利の眼では湊を虐待したことなど一度もなかったとしか思えなかった・・・
といったところからはじまる物語で、母親・早織と担任教師・保利からみた事態の顛末はまるで異なっている・・・というのが映画の導入部。
いや、導入部と書いたけれど、ここまでで1時間以上経過している。
それぞれの視点からの事態は、様相が異なっており、いわゆる黒澤明監督『羅生門』的でもある。
で、大人ふたりの視点からの物語のあとに少年の視点の物語がつづられるわけで、早織の息子・湊と彼の友人・依里(柊木陽太)の物語が本編のメイン。
ここで映画かれる物語は、かつてならば「奇妙な」と形容される類の友情譚なのだけれど、現代の価値観からいえばそれほど奇妙でもない。
依里は、ある種のギフテッドのような才能があるのだけれど、周囲との同調性はなく、なかんずく中性的な魅力にあふれている。
(ギフテッド的才能なのはわかりづらく、観ている間はある種の発達障害にも感じられました)
さて、そんな依里だから周囲の男子生徒(男子だけなのは、よく見るとわかる)からは疎外されて、いじめの対象になっているのだが、本人は唯々諾々、馬耳東風、そんな馬鹿なことには当事者でありながら我関せず。
そんな依里に好意を抱いていく湊の物語として、一本の独立した映画でもよかったのではないかしらん、と思った次第。
思春期前夜の少年の恋愛とも友情ともつかない物語を、映画は、『銀河鉄道の夜』『スタンド・バイ・ミー』のモチーフも用いて描いていきます。
坂本龍一の音楽と相まって、切ない感じが醸し出されてきます。
さらに、依里少年の無邪気さが、意図的な邪気はないのだけど、すべてが善意ではないという感じで、妙に大人以上に大人びていて不気味なところも魅力なのだが・・・
で、個人的に評価が悩ましいと感じたのは、前半の大人ふたりの視点をわざわざ切り出してみせる必要があったのかどうか、というところ。
たしかに、ものごとは一面的でなく、みた人によってそれぞれの受け捉え方はかわり、真実とは遠ざかっているのかもしれませんが、後半の少年たちの物語と比べると、なんだか図式的になっているような感じがしないでもない。
また、後半の少年たちの物語に、校長先生の視点がはいっているもの、観ている方を混乱させます。
(組織のなかで、虚(嘘)をとおして、自分を守ろうとする身という共通点はあるものの。また、校長先生と少年ふたりが同じコインの表裏というにしては、なにかコンテキスト的には弱い感じもするわけで。)
ということで、ラストシーンも含めて傑出したシーンもあるのだけれど、どこか「ヌエ的な映画」という感じを拭い去ることができず、もろ手を挙げて評価するところまではいかなかったです。
なお、ヌエというのは「猿の顔、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇」という日本の昔の架空の動物ですが、ま、その実、レッサーパンダだよね、という動物学者もいるようです。
ははは、レッサーパンダ。
湊くんと依里くんのようでかわいいね。
人間の数だけ怪物がいる
主に、湊の母、担任教師、湊と星川くんの3部展開。
3人の視点に加えて、校長、学校の先生達、同じクラスの小学生達、ママ友達の[閉鎖感・退屈・嫉妬・弱さ]による少しずつ複雑に積み重なったすれ違いや嘘が、各々にとっての怪物になる、そんな話。
湊の母は決して過保護ではなく、夫が事故死したので夫の分も頑張ろうとして息子のことを第一に考えるあまり、本当のことを湊の口から聞き出す方法が性急でストレートすぎて湊に嘘をつかせてしまったのかな…。
もともと不器用なタイプなのかもしれない、夫が不倫旅行で事故死しちゃうくらいだから、不倫も気づかなかったのかも。
担任教師も、真面目な人だけど湊や生徒の嘘でメディアに叩かれ辞職に追い込まれてしまう。
薄情女にプロポーズしちゃうあたりも、人の心を読み切れない若造を表現したのだろうか。いい人なんだけどね。
「真実は誰かの口から語られたこと」という幻想をそのまま信用している大人達。それを利用する子供達。
『事実は一つ』だけど『真実は人の数ほどある』というのに。
絶対性別感、先生は潔癖でないといけない神話、親からのクレームは全て受け入れる、波風立たせない風潮、を逆手に取り、閉鎖的な町で退屈を持て余したママ達や教諭達は事実無根な噂話で担当教師を追い込む。
クラス内のいじめも同じ。湊の隣の席の女の子も、湊のことが好きなのに自分を見てくれない嫉妬心から星川くんがいじめられているのを見てみないふりどころか焚きつける。
小学生のうまく言語化できない憤りによる嘘や行動は自分の人生を振り返ると思い当たる節がありすぎる。
決して悪気があるわけじゃないところもせつない。
校長も目も心も死んでたけど、ラストで本当は真っ当な先生だったことがわかる。
きっと、今まで同じようなことが起こるたびに先生や生徒を守ろうとしたけど、うまくいかなくて疲弊し心を殺さないと続けられなかったんだろうな。
星川くんと湊が秘密基地の中で怪物当てクイズやってる時、湊のお題のナマケモノの特技を「攻撃されてもフワフワして心を殺してやり過ごす」的な説明したら、「わたしは星川依里ですか」って返したところ泣けた。ああ、ちゃんと見てくれてる人がいる、って嬉しかっただろうな。
フィクションの映画なのに、作品中に流れるテレビ番組にLGBTQ表現で出演したのは「ぺえ」。
全体的にすごくリアルな演出してる上、架空のテレビ番組に本当の情報を入れてくるあたりギミックが凝りすぎててうへぇ〜!ってなった。
監督に是枝さん、脚本に坂元さん、音楽に坂本龍一、企画に川村元気、って最強の布陣だな。
ほんとにどうでもいい話だけど、「ある男」でも安藤サクラは旦那2人に先立たれ、今回も先立たれて、しかも子供ももしかしたら先立たれ、万引き家族では誰も家族じゃないし、薄幸感がたまらんんん。
誰が怪物だったのか。
皆さんのレビューで分かりやすい解説がいくつか載っていたので、私はこの作品の題名について考えたことを述べたいと思う。
羅生門スタイルで進んでいく物語だが、はじめの母親視点では、教師側が怪物に見えた。
そして、後半教師側の視点となると、母親側、もしくは子供が怪物かもしれないと視える。
結局のところ母親も子供も担任も怪物ではないと分かったのだが、では誰が怪物だったのか。
それはこの映画を視ている我々こそなんじゃないだろうか。
演出一つで対象を怪物だと思い込む…
少なくとも私はその怪物のひとりになってしまった。
今後のものの見方について一面だけみて結論づけるのは怖いと感じた。
ヒリヒリして
是枝監督の映画は初めて見ましたが、映像の美しさやカットの妙がとても素敵でそりゃ評価の高い監督なんだなと納得。
映画論は分からないので、ただ自分の感想ですが、シングルマザーにいじめに虐待に教育現場問題、モンスターペアレント、LGBTと詰め込みまくって(それなのにまとまっているのはすごいことなんだと思いますが)、ちょっと疲れてしまいました。
飴のシーンと消しゴム拾うところが違和感。なぜ先生を貶めたのかも考察が浅いのかよく分かりませんでした。そしてこれから小学生になっていく子どもを持つ親としては、そんな嘘つかれたら分からないよと怖くなってしまいました。
湿度を感じる映画
個人的に印象に残る映画って、
湿度を感じる映画だなぁと思います。
全然違いますが、パラサイトを見た時も同じようなじめっとした空気を終始感じました。笑
人の怒り、焦り、後悔、憎しみ…様々な感情が、
役者さんたちの芝居、そして映像を通して湿度を持ってとてもリアルに伝わってきました。
特に保利先生の視点からのシーンでは、
追い詰められる保利先生の焦りや怒りが、流れ落ちる不快な汗を通してとても伝わりました。
人間の想像力には悲しいかな限界があって、
この映画は3人の視点から描かれているけれど、それでも全部を描き切れることは到底ない。
"答えはないからこそ面白い"というありきたりな結末ではなく、観終わった後に
"人間ってなんなんだろう"
"私たちの見えてるものって主観でしかないんだな"と、
ちょっとじとっとした、なんとなく不快な後味が残りました…。
でも、いい映画です。
設定ありきで登場人物が動いているように感じました
是枝監督の映画を初めて見る者の感想です。
前情報等や期待は特に無く、たまたま時間があったので暇つぶしに見に行った形なので、何かしらのバイアスがかかってない公平な目で見れたのかと思います。
序盤は母親視点で物語が進みますが、この時点で母親以外の登場人物(主に学校関係者)の行動がおかしく、理解できないような行動をしています。
中盤から保利先生へ視点が変わった際、この一連の物語を多角的な視点で見せることで物語の全容が分かる映画なのかと思い、この時点でかなり映画にすごく引き込まれました。
あの時あの人はなぜこのようなことをしたのか、次がどんどん気になってきます。
中盤の先生のパートが幾分か進んだ後、これは尺が足りるのかとふと気になりました。
というのも序盤から行動がおかしかったのは保利先生だけで無く、子供や校長等まだまだいたため、どういった畳み方をするのか、少し不安になりました。
終盤子供視点となり、一応の答え合わせとなるようなパートとなるのですが、登場人物の不可解な行動に最後までちゃんとした説明は無く、不完全燃焼で映画は終わってしまいました。
終わってから思ったことはこの映画は中盤私が思い描いていた多角的な視点で物語を追っていくものでは無く(登場人物の行動が理解できるようになっていく物語では無く)、視点によって誰しもが怪物になり得るというような一種の啓蒙的な作品だったのかなということでした。
そう言う作品として捉えたらこういうまとめ方でも少しは納得できるような気がするのですが、それでも登場人物の行動がおかしすぎて終了後ももやもやとしたものが残りました。
特に気になったのは下記
1.みなと君はなぜ追い詰められて行ったのか
一応それらしい描写は見られましたが、なぜ子供はあんな大事件になるような嘘を吐き、またそのことに対して特に罪悪感が無いまま進んでいったのか。
いじめられていた子の方が何かしらの行動を起こすのは分かります。ただこの子は最後まで特に自分から行動は起こしませんでした。
好きな子がいじめられていたからなんとか助けたい、これなら分かります。ただ、みなと君がやったことは保利先生を陥れるような嘘をついただけで、みなと君には全く利が無いような行動でした。
母親からの追及をかわすための嘘としてもおかしいし、物語の根幹とも言うべきこの嘘の動機に説得力のあるものは無かったように感じました。
2.同性愛について
今こういったテーマが流行だからでしょうか、あまり必要性を感じなく、取ってつけたように組み込まれていました。
おそらくこれが子供達を追い詰めた主な原因かと思いますが、これも別に同性愛をテーマにする必要が無く、終盤にぽっと設定が出てきました。なぜぽっと出の設定のように感じたかは単純に同性愛ということが分かったからといって中盤までに散りばめていた謎が解けることが無かったからだと思います。
後、子供の頃って普通に女の子より男の子同士でいる方が楽しいと感じるし、恋心というのも正確に分からなかったように思います。口には出さなかったけど小さい頃って普通に同性と遊んでいる方が楽しいし、自分って同性愛なのかな?くらいのこと少しはよぎることあった人も少なくないのではないかなと思います。
子供の頃の同性愛は大人になってからの同性愛とはまた別で特に珍しいものではなく、追い込まれるような要因にもならない気がします。(人それぞれだとは思いますが…)
3.なぜ先生は怒られている時に飴を舐めたのか
あんなにまともな先生なのになぜ舐めたんでしょう…
4.校長先生はなぜあんな態度なのか
途中までは孫が亡くなって心が壊れてしまったのかと思いましたが、終盤のみなと君との接し方や写真の位置を気にする場面でそれは間違いだと感じました。
最後までこの人の行動は謎です。多分誰が見ても彼女は怪物です。
他にもありますが上記のような中々理解できない行動が散見された為、物語の都合や演出の都合で登場人物を動かした結果、よく分からない物語になったように感じました。
私は上記のような行動に理解ができませんでしたが、人によって理解できるのかと思いますので(実際評価も高いですし)、やはり映画は見る人によって感じ方が全然違うなということを再認識しました。
難しい。
見終えて面白かったです。でもどう伝えれば良いのかが難しい映画でした。
3視点で物語が進んでいき物語により怪物が異なりますが、最後の子どもたちの視点で答え合わせができました。
ラストシーンですが、あの二人はようやく自由になれたんだと捉えました。
さて、作中に出てくる「豚の脳みそ」や「男らしく」、「父みたいになって欲しい」此等は全て偏見から生まれるワードです。このことから私は作品においての怪物は「偏見」であると思いました。
自分の中では怪物の正体が理解できたのですが、これを言語化して相手に伝えるのが滅茶苦茶難しい…何せ偏見って生まれ持った考えであり、そう簡単に受け入れることができませんからね。
全295件中、121~140件目を表示