怪物のレビュー・感想・評価
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普通じゃなければ可哀想なのか?幸せじゃないのか?
最初の重要な展開を見た私も母親や先生と同じように真実を知らなかった。
ただ、2人だけの世界で幸せに生きているという真実を2人だけが知っていればそれでいいのかもしれない。
多くの人が手に入れられるものが幸せ、当たり前のことが当たり前にできる環境が幸せであるように、2人にとってはこれが当たり前で、幸せなのだと思う。
もはや真実を知りたいという自分のもやもやを満たすためだけの行為すら正しいのか分からない。
誰かが嘘をついてる、ついてない。
誰がやった、やってない。
自分は間違ってない、貴方が間違えてる。
自分のため、学校のため、利益のため真実を虚偽にするような屈折した考えをするのはいつも大人たちで、自分を犠牲にしてでも目の前の幸せを守りたい気持ちを優先できる子供達の素直さに、自分の10代を思い出した。
こう言った「何気ない日常にある何か」について触れる類の作品はいつも「普通」や「当たり前」とは何なのか考えさせられる。
ラストシーンでは映像の色味ももちろんだが、世界が明るかった。2人だけの世界で幸せに暮らしている、つまり死を意味するのかと個人的には感じました。
思わせぶりの怪しい物語の略、怪物
家族がテーマの是枝監督、今回は小学校を中心にシングルマザーの母子、父子家庭、校長夫婦、担任の先生カップルなど多彩な登場人物に日常的な嘘や思わせぶりがもたらす困惑や葛藤が2時間越えの長尺で語られる。
怪物とは誰の中にも存在しうる心の闇と言いたかったのだろうがモンスターと言うより怪しい物語の略の方が当たっているかも・・。
息子は担任の先生に暴言や暴力を振るわれたと言い、母は学校に乗りこんで大騒ぎだが話が進んでゆくうちに子供の嘘だったと明かされる、事程左様にある描写を見せ、後から伏線回収の様な別の視点を重ねて見せるという観客を混乱に落とす手の込んだプロットの連続、母は亡くなった父は素敵なラガーマンと言っていたけど小学生の息子は父が不倫旅行で事故死と知っていたり、校長の夫が孫をひき殺したと言っているが本当は校長の過失とか、子供が放火魔らしいとか思わせぶりが駆け回る酷い映画でした。確かにフェークニュースや誹謗中傷のSNSが拡散する今日では人の言葉の何を信じるかは重い社会問題ではありますから、悪意の有無とは別に虚言をテーマに人間関係を描きたかった動機は察せられなくもありませんが例によって作家性が強すぎて苦手な部類の映画でした。
最後まで見るべき映画
シングルマザー視点からの先生の対応の疑問点を先生視点から回答していくことでスッキリしていき最後に子供視点にて子供の変化(成長)を見ていくができる。
本当の悪(校長、親、マスコミ)を探してしまうがその必要がないくらい子供2人の変化が素晴らしい。
本当に考えさせられる映画
保利先生側からみた話がかわいそう
作中では小学5年生の麦野湊が急に髪を切りだしたり、おかしな発言をするようになり、その理由を母親に問い詰められた湊が担任だった保利先生に「お前の脳は豚でできている」と言われたと嘘をゆいたところから物語が進んでいきます。序盤では湊が嘘をつく理由が思い当たらなかったので、単に担任のいじめを容認している学校側と母親との間で話が進んでいくのかなと思っていました。しかし話が進むにつれて、保利先生側の視点で話が進んでいき、男の子を好きになってしまった湊と愛着のある学校にい続けたい校長側の身代わりとして使われていて、子供も大人も自分に嫌なことが迫ると誰かを身代わりにして嘘をつくんだなと思いました。
ラストについて
鑑賞した後に、あの二人が無事で良かったと感動しつつラストシーンを思い返していたら
何か違和感が…
最後にあの二人がたどり着いた
鉄橋手前にあるはずの柵が無かった。
母親と先生が横転した廃電車を見つけた時はまだ豪雨だったが
その前にあの二人が廃電車を抜け出して
草むらを走り抜けてた時は晴天だった。
時系列的にありえない。
と言うことは…
無事であってほしいという思い込みを
作者は観る者を試したのか。
考えすぎかな。
身震いするほどの演技力!
自分が感じたことと同じ思いや感想、捉え方を
すでに大勢の方たちが述べているので、
あまり、そんなには多くは投稿されていない(と思われる)感想を書くなら、
湊君と依里君が、ただ一言ずつ発しあいながら抱き合うときの色気!
これは、もう、日本映画史に残るほどの名演技だと思います。
(誰にもいう必要や理由なんかないし、
今後、彼らがどうなっていくのかは誰にも分からないことだけど、
そんな時代や思いが、あなたにはありませんでしたか?って感じです)
子供たちのなんと眩しいことよ
坂本裕二の脚本がさすが。
藪の中、みたいに
登場人物のいろんな視点からある出来事が描かれ、徐々に真実が明らかになってゆく。
ちょっとした偶然や惰性が重なって取り返しはつかなくなってゆく。
子供たちのなんと眩しいこと。無垢で無邪気でそして残酷。
湊と星川よりくんだけの美しい日々。
いつの世も、真実が正しく語られるには、私たちの世界は複雑すぎるのだと思った。
もし星川よりくんがもっと大切に育てられていたら。
もし湊やその母がセクシャリティに関する広い知識を持って過ごせていたら。
小さなトラブルが起こったあの時、もっと深く立ち入って根本の問題に気づけていたら。。
湊の絶望感や行き詰まり感がわかって、やるせなくて辛い。
ラストシーンはとても美しかった。彼らは晴れた雨上がりの森を駆け回り、笑いあい、幸せそうにじゃれあいながら、かつては入れなかったトンネルへと向かってゆく。
とても切ない終わりだ。
大人たちを置いてけぼりにして、彼らは幸せそうに逝ってしまった。
彼らがとても幸せそうだったのがせめてもの救いであり、大人への罰だ。
重苦しい映画かと思いきや、是枝節の傑作
序盤では、共感できない「悪人」のような存在がデフォルメされており、奇妙なホラーのように感じる。テンポ感が早かったのもあり、是枝監督らしくないと感じた。しかし、この印象も映画全体の構成の一部であり、中盤以降で見事に覆される。「羅生門」式と言われる通り、それほど斬新な手法とは言えないと思うが、認識の死角を巧妙に突いていて、人は感情を持っているかぎり常に誰かを誤解しているということを効果的に知らされる。
完全に術中にはまったので、思わず2回観てしまった。
2回目に見てみて初めて、湊の「テレビで見てるから嘘だってわかるんだよ」というセリフがこの作品の手法を象徴していることに気づいた。保利先生が「僕も片親でした」から始まる何かを言おうとしたところを早織に遮られたのも認識できた。
役者たちの素晴らしい演技も、このミスリードをうまく機能させている。
早織は、子を持つ親なら過剰にヒステリックには見えないと思う。彼女の行動はリアルで熱心な女性として描かれている。
保利先生が序盤の職員室のシーンで完全なる悪役として怒りを感じさせるが、その決定打になった応接室で飴をなめたり母子家庭だからという反論も、一応それぞれ言動の動機が中盤で紹介されただけでなく、根は良い奴だが人の言う事を信じやすく、追い詰められるとああいう言動をしかねないキャラクターが上手く演じられていた。(それでも飴を口に入れたシーンはギリギリアウトだったと思うが)
そして、そこまでに表現されてきた事を忘れさせるぐらい、星川君と湊が心を通わせるシーンは胸を打った。個人的には最初に彼らが笑い合うケンケンのシーンは息が詰まるほど揺さぶられた。シナリオと音楽には日本を代表するアーティストの名が連なっているが、是枝監督が描く原風景は共通している。
ラストシーンでは、やはり星川君と湊は亡くなったと解釈した。救急車かパトカーのサイレンが鳴り響き、校長がびしょ濡れになり、星川君の父親もびしょ濡れになる。彼らが現世・社会から解放されたことで、いじめや嘘、セクシャルマイノリティに関する悩みや周囲からの期待から解放され、純粋に大切な存在と笑い合うシーンで締めくくられている。社会がなければ、それが愛情なのか友情なのかと悩む必要もないだろう。
そして、それをあそこまで美しく描き、子どもが疾走していて、光に溢れているのは、やっぱり是枝節だなと感じた。
それぞれの単体エピソードとしては良かったものの、、、
3部構成、それぞれのエピソードは面白かったが、これを一つに繋げた時に、果たして整合性はとれてるの?という印象。
特に小学生のメイン2人が、瑛太のことについて嘘をつくのは理解できるが、なぜ他の子たちまでもが瑛太のことを悪くいう(あるいは味方してあげない)のか、全く理解できなかった。視聴時は、きっとメイン小学生2人のどちらか、あるいはやけに存在感のある女の子のうちの誰かが、クラスを(陰で)牛耳ってるのかなと思ってたんだけど、そんなこともなく。
作品の行間に雰囲気が感じられる脚本と演技はよかったが、なんか消化不良てあった。
タイトルがミスリードな気がして
怪物というタイトルが少しミスリードする印象。事実は一つではなく、それぞれの立場によって何通りもあり、人は自分に良いように解釈し、事実を捻じ曲げる。人の持つそういう特性が怪物ということなのかな。小学生にセクシャリティの要素まで盛り込んできたのは、少しやり過ぎたかな?と思ったけど、親からの虐待しかり、親や教師、他の人には言えない秘密を抱えざる得なかった子供を描く為には必要な要素だと思えた。最後、子役の二人が明るい草むらを楽しそうに走るシーンを見て、ああ二人は亡くなってしまったのだなと。あれだけ再生を口にしていながら、最後の台詞、生まれ変わらなくて良かった!に、決して死ぬことを望んではいなかった気持ちが切なくて泣けました。
あり得ない話をさもありなん、が満載。
学校生活は誰でもが経験しているので、ちょっとしたことは見聞きしているかもしれませんが、本作で描かれているのは、あり得ないことだと思います。
一つ一つのエピソードを拡大し誇張したものにして、鑑賞する側に驚きを与えつつ惹きつけ、
えらい学級や、えらい時代や、と思わせようとしているように思われます。
またタイトルを怪物とし、誰なのか見つけ出させるよう誘導する奇をてらった引き込み方にも
疑問の目を向けざるを得ません。
教師の体罰について、偶然性や子供の嘘で捏造できるような事態なんてあるのかと思いますが。私は存じませんが、全国的にはあるのでしょうか。
現実は、体罰があっても表面に出ずにいることが多くこれはこれで問題ですが、対して関係ない教師に累が及ぶ事態など考えられないです。
校長役田中裕子さん、眉毛を黒く太くして、こんな人、校長いるなぁ、見たような気がするなぁ、と見た目で思わせ、感情のこもらない話し方で、(ああ、おっとろし、面倒くさー、早よ帰ってくれへんかなぁ、)という思いが透けて見えます。話しながら折り紙するのは、イライラを抑える為。ちゃんと聞く気無いです。
孫の事故死を挿入した理由が不明ですが、
机上に飾ってある孫との写真を親の来校に備え、見せるように置き換えているのを見て、そんなに可愛がっていて悲しんでいたわけではないと気づかせてくれました。
近所に住む職員の噂話も加味して、この校長をさらに不気味に見せたい狙いかと思います。
そして、とにかく謝れ!という姿勢。
これは事実。あるところはあるでしょう。学校現場だけでなくとも、常套手段としてあるでしょう。
謝れば済むのか?と論点問題点をごまかそうとするわけですが。
反対にしっかりと事実関係を調べ上げて対処するところもたくさんあるわけで、真面目に働く者には迷惑。
結局、主役の子役二人演技が上手いし、実際は、仲良しの間柄、担任として注意指導すべきは、依里君や二人を囃し立てる周りの男子でしょう。
湊君の依里君への気持ちをごまかす為に母についた嘘。母は忙しいからか、湊君の嘘を鵜呑みにして学校に乗り込み話が大きくなり、
担任退職に追い込まれる、あり得ない話。
追記:
2回目鑑賞。依里君がガールズバーの放火に関わっていないか。炎が燃え盛る様子を遠景に歩道橋に佇む校長にぶつかった拍子にチャッカマンを落として走って行った依里君。これだけでは判断つきません。
依里君が、5年生であるにもかかわらず鏡文字を書いたり、朗読もたどたどしい。午前2時迄出歩くのがよくあるような生活も含めて父親のほったらかしがうかがえます。他児童にからかわれる原因ともなっています。
校長が折り紙折りながら話していたのは、拘置所の夫に面会に行った時。このシーンで運転していたのは校長だったように思えました。孫の墓を自分たちとは別にすると子供夫婦から言われる原因を作ったのは自分だと認識していたようにも見えました。相談室のベランダに出ていた湊君がウソつきました、と告白した後校長も一緒だよ、と言ったことからも。同時になぜ、校長をこんな人物にしたのか、疑問を感じます。
スーパーで走り回る子供にコソッと足をかけるのも、なんだかなぁ、気持ちはわかるけど、
してはいけない事です。ケガさせるかも。
(なぜ折り紙折りながらの場面で気づくかと言うと自分も経験があるからです。自分の場合は、全く別でただただ騒がしい帰りの用意を待つ間のことですが、他に用事が無く待つのがイラっと来るので。折り紙すると心が平静になります。滅多にしませんが。)
近年LGBTへの理解が少し深まり公的機関の認証も微々変化して来ていますが、小5の男の子の気持ちってどうなのでしょう?それも二人揃って、というのは明らかにおかしいと感じました。
ラスト、湊君の母親の慌てぶりを観ていると、二人は亡くなってしまったのでしょうか。口癖のように言っていた、生まれ変わったのかな?にいや、違うよ。の返事。依里君が転校する辛さから二人逃げ出したのかも。湊君も母親の口癖の普通の家庭を作ることができない自分からの逃避だったのかも、と描かれていますが、前述のようにここまで考え悩むか不明です。
ラスト二人を死なせる必要あったのかどうか?無理に怖い話に仕立てたようにとれます。
<3回目鑑賞>
図工の時間、依里君の絵の具雑巾を投げ合いしていた男子が、従わない湊君に囃し立てるところ。男子と女子ならともかく、男子同士なのに、あの囃し立て方、現実を見ずにこうあって欲しいストーリーを書く方の思いの方向に引っ張って行くように見受けられます。
校長が折っていた折り紙、変わった形の騙し舟のような気がします。
(蛇足)
2回学校の倉庫が出て来ますが、スカスカ、いいなぁと思いました。現実味が無いとも思えました。
あんなところに電車をほったらかしにしているのか疑問。鉄道会社が対処すると思いますが。
校長と金管楽器吹き合うのも意味不明。校長が自分のウソを吐き出している?
母親が来校した時、校長が靴箱の前で床を削っていますが、こびりついたガムを取る作業かと思いますが、あり得ないです。日本の小学校の床にこびりついたガムが有るなんて。脚本家は、何を見てストーリーにしたのか疑問です。また、この校長には、これくらいの仕事しかできないと思えました。
タイトルなし(ネタバレ)
「誰にでも手に入るものを幸せという」このセリフをあの校長に言わせるところにこの作品を凄みを感じる。
人間社会、他社を見る眼差しやそこから生じるほんの少しの誤解が怪物を生み出す。でもそれは誰しもが幸せに生きようと精一杯だから、というやるせ無さ。そんなことを感じた。
思ってたより深いテーマが詰まっていた。
自分が親になってから子供が何かなりそうな映画はちょっと怖くて見れないんですが、ブラッシュアップライフ以降、安藤サクラさんの演技が好きなので今回ドキドキしながらこちらを見た。
主人公が入れ替わる。わかりやすくて好き。
う~ん、ラストは見る人にゆだねる系か…。
そうか…。
考察サイトはどちらともとれるラストとあるが、つじつまを考えると、悪い方にしかとれないと思う…。
やっぱ子供が何かなるラストは、辛いな。
絵面的には綺麗に終わったのだけど、その中身は大変重い。
個人的に思ったのは、自分は「この人最悪だ」と思った人が、結果として自分の身近な誰かを救う人になったりする。
校長先生は、男の子の気持ちを理解したうえで楽器を吹いていたのかなと思う。
自分が思っているよりもずっと深いところにいる映画だと思う。
考察が好きな人はぜひ見てほしいと思う。
タイトルなし(ネタバレ)
「すごい」と感じさせるほどの普通の演技は映画の邪魔になるかどうか?
なぜなら、そういうことを考えながら観てしまうから。
クセがあるのも一周回って普通(リアル)になる。
ものごとの背景はカラフルでクセがあって怖い。
いつも目に入る人々やありふれた景色にも、きっと、なにか幸せや悲しみ、狂気も存在するんだろう。
誰から観て?
ここからの後半か。
すごいです。
映画、面白いなぁ
そしてそのセリフを校長に言わせる。
その人にとっての真実は、その人にしかわからない、なのだとしたら、
「誰にでも手に入る幸せ」とはなんなのか。
もとのまんまで、そして生まれ変わったよ!
是枝監督、坂本先生、全演者、スタッフの皆さん、今回も映画作ってくださってありがとう!という気持ち。
怖っ!
予備知識無しで鑑賞。
えっ、イジメの映画なんだ。教師の無表情怖っ!と思っていたら、途中から母親の表情も怖くなった。教師の態度おかしいだろと思ったが、途中から視点を変えて、時間も巻き戻しになると、母親にはあぁいう風に見えてたって事?
最後はやっぱり死んだんだろうなぁ。
しかし、なんでクラスメートの女子は嘘ついたんだろう?湊にむかついてたんだろうけど、教師を嵌める必要は無いだろうに。
田中裕子の校長には全然共感出来ないが、田中裕子の演技怖っ!
脚本が緻密すぎる
①麦野早織・湊の母(安藤サクラ)の視点、
②永山瑛太(保利先生)の視点、
③麦野湊の視点、
④星川依里の視点、
⑤田中裕子(伏見校長)の5つの視点を、
⑥是枝監督の6つめの視点で紡いでいく。
①は、③を見ている。次に②を見る。
湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問、「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」。この情報は、星川依里が虐待するクソな父親から言われていた言葉の暴力だったが、母親にとってこの情報の出どころは、息子の湊が「先生が言ってた」とつぶやいたことで『情報源→星川の父親×、保利先生○』になった。ここで、「①→②を見る」状況が出来上がった。
②は、③④(生徒)を見ている。
保利は、蒲田のイジメから星川を救おうと湊が暴れたら星川も一緒に暴れたところ・トイレに星川が閉じ込められたとき湊とすれ違ったところ、『星川のそばに蒲田がいる』という状況より『星川のそばに湊がいる』状況にだけに出くわす。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから、湊がイジメに関わっているという印象を持つ。
③は、④を見ている。
④は、③を見ている。
⑤は、⑤を見ている。校長だけは、自己保身が強い気がする。学校のためといえば聞こえはいいが、孫の写真を自分にではなく来客用ソファに向けて見せるところ、教師に弁明の機会を与えず、親の意見をのらりくらりかわす姿勢は、世間体第一の利己的な一面しか感じられない。音楽室で湊に吹奏楽のレクチャーをしたところで(なんで自分はこんなになったんだろう)という悲哀は感じられた。
まさに劇中にある「怪物ゲーム」。
①が「私はモンスターペアレントですか?」と尋ねたら、②は「正解」というだろう。しかし①にとっては不正解。
②が「私は暴力教師ですか?」と尋ねたら、①は「正解」というだろう。でも②にとっては不正解。
③と④は、まだ何者かがわからない。だから電車の中で怪物ゲームをして遊ぶシーンがほのぼのしている。
⑤と⑤は、自問自答。もはや生きる意味を見出せない。下駄箱の下で掃除をして汚れを取る自分は、何者なのか。「校長」としての役割を持っていなければ、死にたい気持ちになる。だから、校長という役割を担うことで「自分」を保つ、職場復帰の早さも自分を失いたくないから。
怪物ゲームにカードの山のなかに、かたつむりやその他動物の他に「怪物」というカードがあった。多分このカードは、「あなたはコンクリートを食べますか?」「高いところに行けますか」「火を吹きますか」など、全ての質問に対して「はい」と答えられるカード。怪物ならなんでもできるはずなので。
つまり、『すべてに「はい」』とこたえられるのが、怪物。
という仮説を立てると、
①の質問『すべてに「はい」』と答えた校長は、怪物。
息子の話『すべてに「はい」』で応えた母親は、怪物。
ほぼ強制的ではあるが学校側の内容『すべてに「はい」』で応えた保利は、怪物。
子供たちは、抗っている。湊が星川の家にいったとき父親同伴で「引っ越す」「気になる子がいる」「もう大丈夫」と、星川依里が湊に強がるも、一度閉まったドアを開けて「嘘!」と告白する。その後、父親からおそらく折檻を受けている。
③と④は、互いに肩書きを見ていない。「モンスターペアレント」「孫が死んだ校長」「ガールズバーに行った先生」「同性愛」といったフィルター、怪物ゲームの札のようなものはなく、湊と星川として付き合っている。人間同士の付き合い。人間同士。
怪物とは、「人間同士ではない」だから「じゃあもう怪物だ」という意味なのだと思う。
ただ、保利先生が飴を食べるシーンは違和感があった。よっぽど学校のいいなりになっていて心底嫌気がさしていたのか、②の視点で物語が進むほど違和感が残った。(こんな人があそこで飴食うかな?)と思った。
怪物誰だ
人の目線で怪物が変わる。
見える部分と見えない部分を照らし合わせて初めて真実がわかるけど、それは誰にもわからない。
嘘か本当かは誰にもわからない、怪物って誰なんでしょうね。
誰もが怪物になるし、誰も怪物じゃないし、
2人がどうか幸せでありますように。
そう思う作品でした。
長い長い小説をじっくり読んだような作品でした。
みんな苦しい
観た後に、頭の中がぐわんぐわんする映画。
登場人物それぞれの苦しさが伝わってくる。
まず、湊の母親。
夫が浮気旅行の際に事故死したという事実を封印し、夫を美化しながら生きている。
湊に対する愛情はたっぷりあるし、子どもを守るための行動力もある。
でも、ラガーマンの男と結婚しただけあって、男という生物をステレオタイプの男の枠の中でしか見られない。
それが湊を追い詰めるのだけど、湊が何に苦しんでいるのか理解できないので、勘違いして突っ走ってしまう。
湊が苦しんでいることだけは理解しているので、母親として苦しくてたまらないことは分かる。
保利先生は嘘がつけない人。
だから、学校を守るために謝罪させられる時もうまく喋れない。
教師としては誠実に子どもと向き合おうとしていたことが第二部で分かる。
にも関わらず、不器用さゆえにどんどん追い込まれていく。他の同僚達もすべてを保利先生に押し付け、ことなきを得ようとする。
湊と依里も、自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまう。
子ども達は敏感だし、察しが良い。アンケートには、大人達が期待している答えを察して回答する。
湊は多分保利先生のことが嫌いではないけれど、何かというと「男だろ」「男らしく」と口にするため、男らしさがない自覚のある依里は保利先生に心を開かない。だから2人は自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまったのだろう。
とても気の毒ではあるけれど、LGBTQの生徒がいる可能性に気づかなかったという点で、保利先生はやはり加害者でもある。
校長も最初は存在自体が胸くそ悪かったけれど、音楽室のシーンで本当は教育の現場が好きな熱い先生だったことが伝わってくる。
孫を誤って引き殺し、夫を身代わりにして刑務者に入れるだなんて、苦しくないわけがない。
夫が身代わりになったのは、校長を守るためではなく、校長が勤める学校を守るためなのだろう。
分かっていても、苦しくて苦しくてたまらないのだろう。でも、そのことは誰にも言えない。
音楽室のシーンで初めて校長の苦しみが分かる。
湊は感受性が強くて人の気持ちに敏感だ。
湊の苦しさが一番ヒリヒリ伝わってくる。
是枝監督は、本当に子役を活かすことが上手い。
友達として好きなのか、恋愛感情なのか、自分でもよく分からなくて混乱し、苦しんでいる。
そのうえ、依里が父親から虐待されていることやいじめに遭っていることにも心を痛めている。だけど、自分もいじめられることが怖くて、いじめから依里を助けることができない。
依里は湊のそんな葛藤を全て受け入れている。
この映画の中で、一番大人なのは、一番幼く見える依里だと思う。
依里はディスレクシアで、性自認も曖昧で男らしくはない。
でも、おそらく知能は高い。美的センスやアイディアにも優れており、天才肌だと思う。
依里の父親は、自分のセクシュアリティーを封印し、自分を誤魔化して生きてきたのだろう。
庭のゴミは気になるが、家はおしゃれだし、植物も好き。依里が花の名前をたくさん知っているのは、父親譲りで植物好きだからだと思われる。
この映画は依里の目線では描かれないので、詳しくは分からない。
きっと依里の父親は、ありのままの自分を受け入れている依里を否定することで自分自身を肯定しようとしている。でも、虐待で自分自身を肯定できるはずもなく、酒浸りになっている。
依里の父親もまた、苦しくて苦しくて仕方ないのだろう。
唯一、最も不遇な立場に置かれているはずの依里だけが、そこまで苦しんでいないように思う。
それは、依里が自分を否定せずに生きているからではないか。
そして、湊という存在に救われたからではないか。
愛されると人は強くなれる。
依里は、湊が自覚しているよりももっと強く湊の愛を感じているのだろう。
ストーリーも徐々にパズルのピースがハマっていって引き込まれるのだが、ストーリーを知った上で登場人物達の心の動きを見返したくなる。
苦しいけど、心に引っかかってしまって、何度も繰り返し観たくなる。そんな映画だった。
リアリティに欠ける部分
映画はあまり見ないのですが、映像、音楽が素晴らしくて傑作だと思いました。
特に坂本龍一さんのaquaが感動的でこの曲がラジオで流れて、それがきっかけになり、この映画に興味をもちました。
また子役の黒川さん、柊木さんの演技は、抜群にすごいと思いました。
ただこれをゲイの少年たちの悩みや葛藤の物語として捉えると、正直リアリティに欠ける部分があり、そこが残念で喉に骨が引っ掛かるような感覚を覚えました。
たったひとつの部分なのですが、湊が男性を好きで苦悩する部分が描かれていないのです。
依里が好きで悩んでいるところはあるのですが、男性全般に性的魅力を感じているところはゼロです。ここはもはやゲイの物語として足りていないところがあるというのではなく、重要なところが欠けていると言っていいと思います。
まだ幼い少年のためそういう性的衝動を描いていないという見方もあるかもしれませんが、lgbtの映画として見るならばそこを無しには通れないと思います。
そこが残念でした。
依里の方は、男性が好きだということを父にカミングアウトしたか、もしくはバレてしまっているような描写があります。
そういう描写が湊の方にもあれば納得できたかもしれません。
実際のlgbtの団体にも協力してもらっていたようですが、そこの残念な点があったせいか、葛藤する場面も、繊細な表現だとは思ったのですが、教科書的なただ見聞きした心理表現に見えてしまいました。
是枝監督のインタビューで「この作品はlgbtqに特化した作品ではありません、言葉にしにくい葛藤や感情を抱えた子どもの話と思って作りました。」と発言されているようですが、これがlgbt映画ではないなら、社会的意義という側面ではかなり薄まってしまう物語になると思います。少年、少女同士の一時的同性愛感情の話は巷に溢れていると思います。
まあそういうところを抜きにしてもとても良い映画だとは思いますが・・・。
あと、この映画を見て私が「怪物」だと思ったのが、安藤サクラ演じる麦野早織でした。一片の悪気もなく社会の異性愛規範をゲイの子どもに期待することは、正直仕方ない部分はあるもののあまりに酷です。この悪意のない発言は、子どもにはとても苦しいものだと思いました。精神的に大人になればただの苦しかった思い出で、通りすぎていけるようになると思いますが。
また作家の凪良ゆうさんが怪物の感想の記事で、最後に二人が走っていったところに追いつかないとダメですねと発言されていましたが、私も同意見です。
子どもたちになにができるか、そして子どもたちに追いついていかないとなと光のなかで二人が駆け抜けるシーンを見て思いました。
全301件中、21~40件目を表示