怪物のレビュー・感想・評価
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脚本が緻密すぎる
①麦野早織・湊の母(安藤サクラ)の視点、
②永山瑛太(保利先生)の視点、
③麦野湊の視点、
④星川依里の視点、
⑤田中裕子(伏見校長)の5つの視点を、
⑥是枝監督の6つめの視点で紡いでいく。
①は、③を見ている。次に②を見る。
湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問、「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」。この情報は、星川依里が虐待するクソな父親から言われていた言葉の暴力だったが、母親にとってこの情報の出どころは、息子の湊が「先生が言ってた」とつぶやいたことで『情報源→星川の父親×、保利先生○』になった。ここで、「①→②を見る」状況が出来上がった。
②は、③④(生徒)を見ている。
保利は、蒲田のイジメから星川を救おうと湊が暴れたら星川も一緒に暴れたところ・トイレに星川が閉じ込められたとき湊とすれ違ったところ、『星川のそばに蒲田がいる』という状況より『星川のそばに湊がいる』状況にだけに出くわす。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから、湊がイジメに関わっているという印象を持つ。
③は、④を見ている。
④は、③を見ている。
⑤は、⑤を見ている。校長だけは、自己保身が強い気がする。学校のためといえば聞こえはいいが、孫の写真を自分にではなく来客用ソファに向けて見せるところ、教師に弁明の機会を与えず、親の意見をのらりくらりかわす姿勢は、世間体第一の利己的な一面しか感じられない。音楽室で湊に吹奏楽のレクチャーをしたところで(なんで自分はこんなになったんだろう)という悲哀は感じられた。
まさに劇中にある「怪物ゲーム」。
①が「私はモンスターペアレントですか?」と尋ねたら、②は「正解」というだろう。しかし①にとっては不正解。
②が「私は暴力教師ですか?」と尋ねたら、①は「正解」というだろう。でも②にとっては不正解。
③と④は、まだ何者かがわからない。だから電車の中で怪物ゲームをして遊ぶシーンがほのぼのしている。
⑤と⑤は、自問自答。もはや生きる意味を見出せない。下駄箱の下で掃除をして汚れを取る自分は、何者なのか。「校長」としての役割を持っていなければ、死にたい気持ちになる。だから、校長という役割を担うことで「自分」を保つ、職場復帰の早さも自分を失いたくないから。
怪物ゲームにカードの山のなかに、かたつむりやその他動物の他に「怪物」というカードがあった。多分このカードは、「あなたはコンクリートを食べますか?」「高いところに行けますか」「火を吹きますか」など、全ての質問に対して「はい」と答えられるカード。怪物ならなんでもできるはずなので。
つまり、『すべてに「はい」』とこたえられるのが、怪物。
という仮説を立てると、
①の質問『すべてに「はい」』と答えた校長は、怪物。
息子の話『すべてに「はい」』で応えた母親は、怪物。
ほぼ強制的ではあるが学校側の内容『すべてに「はい」』で応えた保利は、怪物。
子供たちは、抗っている。湊が星川の家にいったとき父親同伴で「引っ越す」「気になる子がいる」「もう大丈夫」と、星川依里が湊に強がるも、一度閉まったドアを開けて「嘘!」と告白する。その後、父親からおそらく折檻を受けている。
③と④は、互いに肩書きを見ていない。「モンスターペアレント」「孫が死んだ校長」「ガールズバーに行った先生」「同性愛」といったフィルター、怪物ゲームの札のようなものはなく、湊と星川として付き合っている。人間同士の付き合い。人間同士。
怪物とは、「人間同士ではない」だから「じゃあもう怪物だ」という意味なのだと思う。
ただ、保利先生が飴を食べるシーンは違和感があった。よっぽど学校のいいなりになっていて心底嫌気がさしていたのか、②の視点で物語が進むほど違和感が残った。(こんな人があそこで飴食うかな?)と思った。
みんな苦しい
観た後に、頭の中がぐわんぐわんする映画。
登場人物それぞれの苦しさが伝わってくる。
まず、湊の母親。
夫が浮気旅行の際に事故死したという事実を封印し、夫を美化しながら生きている。
湊に対する愛情はたっぷりあるし、子どもを守るための行動力もある。
でも、ラガーマンの男と結婚しただけあって、男という生物をステレオタイプの男の枠の中でしか見られない。
それが湊を追い詰めるのだけど、湊が何に苦しんでいるのか理解できないので、勘違いして突っ走ってしまう。
湊が苦しんでいることだけは理解しているので、母親として苦しくてたまらないことは分かる。
保利先生は嘘がつけない人。
だから、学校を守るために謝罪させられる時もうまく喋れない。
教師としては誠実に子どもと向き合おうとしていたことが第二部で分かる。
にも関わらず、不器用さゆえにどんどん追い込まれていく。他の同僚達もすべてを保利先生に押し付け、ことなきを得ようとする。
湊と依里も、自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまう。
子ども達は敏感だし、察しが良い。アンケートには、大人達が期待している答えを察して回答する。
湊は多分保利先生のことが嫌いではないけれど、何かというと「男だろ」「男らしく」と口にするため、男らしさがない自覚のある依里は保利先生に心を開かない。だから2人は自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまったのだろう。
とても気の毒ではあるけれど、LGBTQの生徒がいる可能性に気づかなかったという点で、保利先生はやはり加害者でもある。
校長も最初は存在自体が胸くそ悪かったけれど、音楽室のシーンで本当は教育の現場が好きな熱い先生だったことが伝わってくる。
孫を誤って引き殺し、夫を身代わりにして刑務者に入れるだなんて、苦しくないわけがない。
夫が身代わりになったのは、校長を守るためではなく、校長が勤める学校を守るためなのだろう。
分かっていても、苦しくて苦しくてたまらないのだろう。でも、そのことは誰にも言えない。
音楽室のシーンで初めて校長の苦しみが分かる。
湊は感受性が強くて人の気持ちに敏感だ。
湊の苦しさが一番ヒリヒリ伝わってくる。
是枝監督は、本当に子役を活かすことが上手い。
友達として好きなのか、恋愛感情なのか、自分でもよく分からなくて混乱し、苦しんでいる。
そのうえ、依里が父親から虐待されていることやいじめに遭っていることにも心を痛めている。だけど、自分もいじめられることが怖くて、いじめから依里を助けることができない。
依里は湊のそんな葛藤を全て受け入れている。
この映画の中で、一番大人なのは、一番幼く見える依里だと思う。
依里はディスレクシアで、性自認も曖昧で男らしくはない。
でも、おそらく知能は高い。美的センスやアイディアにも優れており、天才肌だと思う。
依里の父親は、自分のセクシュアリティーを封印し、自分を誤魔化して生きてきたのだろう。
庭のゴミは気になるが、家はおしゃれだし、植物も好き。依里が花の名前をたくさん知っているのは、父親譲りで植物好きだからだと思われる。
この映画は依里の目線では描かれないので、詳しくは分からない。
きっと依里の父親は、ありのままの自分を受け入れている依里を否定することで自分自身を肯定しようとしている。でも、虐待で自分自身を肯定できるはずもなく、酒浸りになっている。
依里の父親もまた、苦しくて苦しくて仕方ないのだろう。
唯一、最も不遇な立場に置かれているはずの依里だけが、そこまで苦しんでいないように思う。
それは、依里が自分を否定せずに生きているからではないか。
そして、湊という存在に救われたからではないか。
愛されると人は強くなれる。
依里は、湊が自覚しているよりももっと強く湊の愛を感じているのだろう。
ストーリーも徐々にパズルのピースがハマっていって引き込まれるのだが、ストーリーを知った上で登場人物達の心の動きを見返したくなる。
苦しいけど、心に引っかかってしまって、何度も繰り返し観たくなる。そんな映画だった。
リアリティに欠ける部分
映画はあまり見ないのですが、映像、音楽が素晴らしくて傑作だと思いました。
特に坂本龍一さんのaquaが感動的でこの曲がラジオで流れて、それがきっかけになり、この映画に興味をもちました。
また子役の黒川さん、柊木さんの演技は、抜群にすごいと思いました。
ただこれをゲイの少年たちの悩みや葛藤の物語として捉えると、正直リアリティに欠ける部分があり、そこが残念で喉に骨が引っ掛かるような感覚を覚えました。
たったひとつの部分なのですが、湊が男性を好きで苦悩する部分が描かれていないのです。
依里が好きで悩んでいるところはあるのですが、男性全般に性的魅力を感じているところはゼロです。ここはもはやゲイの物語として足りていないところがあるというのではなく、重要なところが欠けていると言っていいと思います。
まだ幼い少年のためそういう性的衝動を描いていないという見方もあるかもしれませんが、lgbtの映画として見るならばそこを無しには通れないと思います。
そこが残念でした。
依里の方は、男性が好きだということを父にカミングアウトしたか、もしくはバレてしまっているような描写があります。
そういう描写が湊の方にもあれば納得できたかもしれません。
実際のlgbtの団体にも協力してもらっていたようですが、そこの残念な点があったせいか、葛藤する場面も、繊細な表現だとは思ったのですが、教科書的なただ見聞きした心理表現に見えてしまいました。
是枝監督のインタビューで「この作品はlgbtqに特化した作品ではありません、言葉にしにくい葛藤や感情を抱えた子どもの話と思って作りました。」と発言されているようですが、これがlgbt映画ではないなら、社会的意義という側面ではかなり薄まってしまう物語になると思います。少年、少女同士の一時的同性愛感情の話は巷に溢れていると思います。
まあそういうところを抜きにしてもとても良い映画だとは思いますが・・・。
あと、この映画を見て私が「怪物」だと思ったのが、安藤サクラ演じる麦野早織でした。一片の悪気もなく社会の異性愛規範をゲイの子どもに期待することは、正直仕方ない部分はあるもののあまりに酷です。この悪意のない発言は、子どもにはとても苦しいものだと思いました。精神的に大人になればただの苦しかった思い出で、通りすぎていけるようになると思いますが。
また作家の凪良ゆうさんが怪物の感想の記事で、最後に二人が走っていったところに追いつかないとダメですねと発言されていましたが、私も同意見です。
子どもたちになにができるか、そして子どもたちに追いついていかないとなと光のなかで二人が駆け抜けるシーンを見て思いました。
人生のバイブルにしたい
安藤サクラさんが受賞したのを拝見して、ずっと観たかったのでアマプラにて。
坂元さんの脚本に度肝抜かれました。是枝監督、教授の音楽、役者が皆素晴らしいことももちろん。
一度ではもったいない、もう一度、もう二度、見返さなければと思う。
なんとなく犯人探しをしてしまっていた自分も『怪物』なのだなと。
安藤サクラの『当たり前の家族を築いて』という言葉も、瑛太の『男らしく』という言葉も、子どもたちの視点に至るまで違和感を感じなかった人はたくさんいるのではないかな。
優しさの中に、当たり前の価値観や正義の中に、誰かを傷つけたりすることはないだろうかと、自分自身も、みんながそう問いながら生きられる世界になればいいのに、と。
特段、なにが真実か、生きるとか死ぬとか、性についてとか、まだもやもや不安なことが多い青少年期の子どもたちと関わる大人たちが心に留めておくべきことがたくさん描かれていると思いました。
クラスのいじめっ子も、新聞配達の仕事してたね。
きっと、中村獅童の背景にもドラマがあることでしょう。
体罰教師がメディアに取り上げられた事件の裏側には、淡い恋がそこにあるだけで、本当のワルモノは存在していないのに、でもみな『怪物』でもある。
たった2時間でここまで表現し切る映画は圧巻。
ラストがバットエンドと捉えている人もいるみたいだけど、私には手放しに喜べるものではないけれど、二人が幸せになれる世界への序章に見えました。
モンスタ-ランキング! 一体どのキャラが一番 怪物なのかな
------- VOL.3 -------
嘘、噂、偏見、思い込み、欺瞞、差別、格差、偽り、欺心、保身、慢心、軽蔑、放任、忖度、媚びへつらい・・・憎悪の数々
これらを総称し、吹聴し そして最後に「知らんけど!」(;^ω^)
★モンスタ-ランキング★ ※感じた事言いたい放題ですみません。
第5位:麦野早織
母親だけど、旦那が女作って逃げて死亡。女作らせる原因あり?
過保護な一面。何度も学校へ面会に行き謝罪させる。やはりモンペかも。
子供の話を素直に聞きすぎたのが一因。
校長室での一幕は大爆笑の展開であった。
第4位:星川清高
父親だけど、妻が失踪。男作った?その原因ありかも。
子供を放任し過ぎ。また心身共に虐待を行っていると感じる。
息子を豚の脳人間、女みたいだと蔑む。息子への愛情の欠片も無い。
昼間っから酒飲む。粗暴な親父。初対面の担任の先生への態度は良くない。
第3位:保利道敏
あんたバカ~て思える程のお人好しの 謝罪場面にそして会見。
とにかく 謝り最中にいくら緊張をほぐす為とはいえ、それを緩和するのに
飴食べるとは。彼女に勧められたらとはいえ、場所とタイミングを弁えろ。
ちょっと抜けてる。マジでガ-ルズバ-でハッチャケてそう。
だから形勢逆転劇みたいな目に遭う。飛び降りしなかったのが幸いのメデタイ人。児童に総舐められてる先生。鏡文字の謎解き文章に気が付いたのだけが冴えてるかも。国語のうんちくキツそう。
第2位:伏見真木子
保身のため?自らの名誉のため?自分の孫を車で轢いておいて、旦那が運転やった事にしたのか。ス-パ-ではしゃぐ子供の足をわざと引っかける。
校長室 机上の写真立てを自分を良く見せる為にアザトク置き直す。
大して音は微妙なのに楽器を鳴らす。音楽先生ってこんな非常識な感じな人が多いのか。何故か子供に興味が無い性格が漂ってて良くそれで小学校の校長に成ったと思う。率先して児童を探しに行かないと。問題解決に対して旗振り役に成れてない。校長室の謝罪場面はマジなら最低な対応だと感じる。
第1位:麦野湊・星川依里
小学生だからといって、シングルマザ-、ファ-ザ-の子供だからと言って
何でも有りではいけない。湊が母へ嘘の保利先生の事を告げ問題化させた。
親に心配させる様では駄目だぞ。親を憎むなら尚更、親の様な振る舞いに成ってはいけないな。父や母を助ける存在にならないとね。
他人がどうなるのか考えないと、巻き込むような事件(放火)は決して赦されるものでは無い。人を好きに成るのは男女関係なく罪では無いよ。愛とはそう言うもんだよ。
豪雨の中、アノ場所が危ないって知ってたよね。あのサイレンの音。
出発の合図な訳がないやろ。親に心配させて探させてはイケないな。どんな遊びをしようが、何処に行こうが 必ず家に帰ってきて”タダイマ”と言わないと。
そして 今より強く生きて行かないと・・・
第0位:是枝監督
毎年周囲に期待されて映画撮ってるのが、凄い事でもあるが、精神病んでいないか心配してしまう。だからこんな作品を撮ってしまうのかもですよ。昔の伊丹監督を思い出す。だから心配しちゃうね。今作はやっぱり過剰演出が目立ってしまい、折角の脚本を十分イカせられなかったと推測するわ。
怪物を撮るなら自ら怪物で無くては無理でしょう。
監督の心の深淵を垣間見た気がします。
次作に大いに期待しております。
------- VOL.2 -------
ラジオでやってた と或るカフェCMを思い出したんよ。
「知らんけど!」編。
当事者の如く周囲には詳しく話して回るけども・・・
話の最後は 「知らんけど!」の言葉。
知っているのか 知らないのか・・・
決定的には言えないけど、最後は曖昧に真相を濁す~
きっとソレだと思うわ。
------- VOL.1 -------
公開初日、台風の影響でどこもが集中豪雨~
何て日だ!(小峠かよォ)
しかし、この物語には この豪雨に関係したシ-ンが有り、心の何処かに、ひょとして あの子達・・・無事に戻れるだろうか、
それとも誰も触れる事の出来ない世界へ旅立ってしまったのだろうか・・・ 今思えば そう思う~。
今日は先日、
第76回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門 最優秀脚本賞(坂元裕二さん)受賞の「怪物」を観に行った。
監督・編集:是枝裕和さん
脚本:坂元裕二さん(最優秀脚本賞おめでとうございます)
音楽:坂本龍一さん(ご冥福をお祈りいたします)
MC
(シングルマザ-とシングルファ-ザ-の家族と子供達)
麦野早織(シンママ):安藤サクラさん
麦野湊(息子・星川の親友:黒川想矢さん
星川清高(シンパパ):中村獅童さん
星川依里(息子・放火・イジメ受ける):柊木陽太さん
保利道敏(担任教師):永山瑛太さん
鈴村広奈(保利の恋人):高畑充希さん
伏見真木子(校長・孫轢く):田中裕子さん
正田文昭(教頭):角田晃広さん
兎に角、ちょっと思ってた内容とは違った印象を受けました。
これは 何処の小学校でも起こりうる学級内イジメがテ-マです。
シングルマザ-、ファ-ザ-の家庭の子がタ-ゲットになっててこれを取り巻く クラスの子供達や、担任教師、周りの先生、教頭、校長の対応や 家族の親視点で語られ展開していきます。
・最初、ガールズバ-の入居してるビルが燃え盛る。必死の消火作業。
ここの火災の絵はキレイに非常に良く撮れてたと思う。
原因は何か?事件、事故か分からないがガールバ-に保利先生が通ってる噂話が広まる。事件性と関連性は分からない。しかしコノ火災は意味が有ったと後半に分かる。
・母親(早織)視点で語られる展開。
息子がイジメを受けている様で、しかも担任の先生から。
原因を追究すべく学校へ乗り込む。校長、教頭、過去担任教師が対応で一斉に謝る。全く訳が分からない母親。モンペと思われ兎に角 謝罪作戦にあう。保利先生からも謝罪を受けるが ココの一連の流れ展開が非常にコメディっぽく思えて なぜか笑えてくる。真面目にやってるんだけど可笑し過ぎだよ~。
特に飴食べ出す先生を見てギャグかと思えた。(後に理由が分かるのだが)
演出が少し過度と思われます。
・保利先生の視点展開
児童の母が乗り込んできて、説明しに行こうとするが教頭らに止められる。児童イジメ(麦野 ⇒星川イジメる)であったと勘違いしてしまう。先生に豚の脳だと、耳を引っ張られたとか言うが、この事はすべて麦野の嘘である。
周囲の先生から謝罪するよう勧められたが全く道理が通ってなく納得がいかない本人。しかしこの件が問題視され、保利先生が校内で窮地に。
学校を追いやられて雑誌にまで載る羽目に。恋人も離れていってしまい学校の屋上から飛び降り自殺をする手前まで行き・・・留まる。
ココの展開は あれよあれよとアッと言う間に先生が窮地になってて、非常に噂は怖いなと感じた。ビル火災の噂話とか、事件の真相を誰も確かめず決定打を下す~、この心理性が正に怪物を生み出すんだと思う。
・麦野と星川の視点展開。
元々二人は友達でもなく、仲良くはない。
星川は前の学校でもイジメられていて、コノ学校でも嫌われていた。また転校に成ると考えていた。楽器を返しに一緒に行ったとき隠してたお菓子を星川から貰った。そっと髪(頭)を星川が撫でてきた。話しかけて来ないでとお願いして部屋を出る麦野。イジメが自分にまで及ばない事を思っての事と思う。彼は家へ帰ってから彼が触れた髪の毛をハサミで落とす。この時点では縁を切りたかったのだと思う。
女を作って母と自分を置いて出て行って死んでしまった父を持つ麦野。
同じ様に自分と父を置いて出て行った母を持つ星川。
お互いの不幸な境遇が彼らを引き寄せ、やがて親友になって行く。
相手の事を思いやりつつも、イジメに遭う方、それに巻き込まれない様にする方。お互いがお互いを庇い合って生きていく・・・ここが一つのポイントかと。
確かに男の人に興味が有ったかも知れない星川だが、過度とは思えない。母の愛、父の愛を受けられず育った子で有ったため 甘えたかったのではと思う。
少年なら誰でも良くやる秘密基地ごっこ。彼等の心の希望、旅路をひた走る 廃墟化した車両。ここの空間だけが二人にとって、誰からも手が届かない世界であったのだろう。
・やがて・・・
保利先生は 偶然にも星川作文の鏡文字の謎を解いた。
そして、麦野と星川との仲を誤解していた事。
クラス中の皆と二人の関係性の本当の姿に気がついたのだった。
豪雨の中、麦野邸で大声で麦野に真実を理解したと話しかける保利先生。また母親も出てきて息子が居ない事に気が付く~。
そしてそれは、その時が既に遅かった事を語っていたんだと~
今、それを大人達が初めて気付き、二人の行方を探し追いかける。やがて秘密基地が有った土砂災害の現場。流し圧し潰された廃墟車両。
泥で真っ黒の窓。手で拭いても直ぐ泥で塞がれて。
激しい雨が泥をハジク。そこだけが銃の玉が当たった様な表現。
何度も 何度も そして何度も。
彼等の乗った車両の窓、心の窓を大人達が必死に開けようともがく。
ココの描写は素晴らしかった。本当に良く出来てたと感じます。
そして やっとの思いで開けた心の窓の奥に・・・見得たもの、
大人達と、子供たち二人に 最後に訪れたものとは。
ここのシーンは 皆さんの心の目で確かめて
欲しいと感じます。
ご覧頂いた方々が怪物に成らぬ様、
祈りを込めて 坂本龍一さんの最後の音色が
エンディングを優しく包み上げています。
ご興味有ります方は
是非、劇場へどうぞ!!
不確定要素一部自己解決残り勝手に考察してくれ作品。
不確定要素一部自己解決残り勝手に考察してくれ作品、とでも表現したくなる。 まあ私の好きな作風ではない。
タイトルは、人の心には誰でも "怪物" が存在するという漠然としたもので、予告編で「怪物だ~れ」を煽っているが、個別な表現ではないかと。
まず内容と違う視点から。
最近、「伏線の回収が見事」とか、「ラストで疑問シーンが一気に解決」とのレビューをよく見かけますが、
その作品はなぜ、"伏線" を張っているのか考えた事があります?
それは当初の脚本通りに通常時間軸で物語を進めただけでは、物足りない作品(見応えがない作品)になってしまうから。
それを補う為、後に起こるワンシーンを前半に持って来たり、その時点でわざと説明不足に描写して考察ポイントを作り、ラストに解説描写としてまとめて表現してる訳です。
(勿論、推理物や、追想シーン・過去の出来事説明シーン等は含まない)
それにより、見る者側は考えるポイントが増え、謎が解けた満足感が、作品全体への満足感に繋がる場合も多い。
が、歴史的名作には、その様な作風の作品はほとんどない。
さて本作。 まずよい点を。
出演陣はキャスティングが上手いせいもあり、皆存在感ある演技。 私は安藤サクラより、二人の子役と永山瑛太に目が留まった。 特に子役二人が怪しい雰囲気になるシーンは、(演出的にはこんな子供までマイノリティ性愛が?と気持ちよくなかったが)とても演技には見えない。
顔が接近してもミナトは目を見開いたまま、ヨリは2度ほど瞬きするがお互い目線を外さない。
その後気まずくなる表情まで抜群で、ベテラン俳優でも難しいと思うシーンをさらりと演じている。
瑛太はミナトに「なんにもしてないよね・。」と同意を求める様な笑顔から、冷めた表情への変化が絶妙だった。
あと「TVで見てるから嘘だと分かる・・」や「体中の力を全部抜いて、諦めます・・」等、その作品の重要点を暗示している言葉が多く、台詞はかなり練られている。
(特に後者はヨリが親から○○されている事を・・)
と、出演陣や台詞表現は文句なしだが、最初のパートの先生達へのクレームシーンで、長く頭を下げ続けたり、校長の鼻を指で押さえる等は過剰演出に感じ、感情がやや離れる。
さらにミナトの異常行動で、こんな作品かと・・今度は呆れる・・。
その後、時間軸が遡る進行に戸惑い、火事も2度目?等の疑問も湧く。 幸い配信視聴なので、疑問箇所のおさらいにもう一度見て、3つのパートが主人公を変えて、それぞれスタート地点に戻って描写されている事を認識・理解。
が、こいう作品こそ、最初のパート「母親」、次は「担任」、ラストは「子供達」など、章タイトル付けて見る者に分かりやするする事が必要と感じる。
でないと、映画を見慣れてない者には、ただ難解な作品とだけで片付けられてしまう。
タイトルを付けない=観客にさらに疑問を付加してやろうとの制作側のよこしまな思惑に感じる。
↓ ネタバレ含む
もし今作が時間軸通りに全ての描写が表現されていたと仮定して考えてみて下さい。
ラストは美しい描写でも、途中わざと誤解を生むシーンを何度も作ってない?と気付くはず。
そして今作で一番やっかいなのが、不確定要素を多く含めたままでエンディングを迎える点。
火事の犯人、校長事件の真相、ミナトとヨリの生死、等々。
これらは各自で考察してくれと言わんばかり。
ハリウッド作の「TAR/ター」も不確定要素が多く、類似していたなと思い出す。
それに細部を指摘すると、貸した靴と玄関に片方残った靴が色が違う。廃墟電車シーンが3度あるが、2度目シーンでは電車右側にトンネルの入り口が見えるのに、他のシーンでは見えない。(別の場所?との疑問も・・)
線路へ繋がる道で、最初シーンは雑草が二人の膝ぐらいの高さが、ラストシーンではミナトの身長ぐらいあり、閉まっていた鉄骨柵の所と同じ道だったのかも分からなかった。
(故に、真っ白にホワイトアウトしたシーン以後が、違う世界なのかリアルなのかの想像判断にも迷う・・)
ラストの走りシーンは、生き生きと子供本来の笑顔描写が素晴らしいのだが。
見たいからもう一度視聴するのと、謎解きの為に再視聴するのは、全く意味の違う行動。
前述はもう一度感動を味わえるが、後述は理解出来ただけで終わってしまう場合も多々。
今作も疑問点や確認の為、2度半も視聴したが、ほとんどレビューを書く為の作業で終わってしまい、自身「何をしてるこっちゃ・・」と・・。
PS
クィア・パルム賞はLGBTQの関連映画に与えられる賞だが、クィア(queer)とは、「妙な、変な、いかがわしい」等の意味もある。 小児性愛者もこれに含まれる為、性犯罪を含むマイノリティをも承認させてしまう事に繋がる懸念が・・。
うーん…
なんとも評価が難しい。
男らしくとか言う言葉がキーワードかなと思ったけど。言葉が少なすぎる。正直に話そうとは思わなかったのかな。そのせいで先生の人生めちゃくちゃになったのはどうなのかな?田中裕子の存在意味もいまいちよくわからず。安藤サクラの演技はほんま自然体やな〜すごい役者やなと思った。
最後は夢の世界なのかはたまた現実なのか…あのバスの中を覗いてたからあのとき発見できたと思うんやよね。現実ならね。
話題にはなったけれど、最後の解釈も丸投げしている感じがしてあまり好きな映画ではないなと正直思ってしまった。
思ってたものとは、ちょっと違ったかな…?
前半はすごく面白かった。
久しぶりに観る是枝作品だと、身が震えるような感じで「この先どういう展開が待っているのだろう?」と、ワクワクしながら鑑賞していた。
しかし、中盤以降になってガキ2人の友情話にすり替わってしまった。ここでジュブナイルものが好きな人には申し訳なく思うのだが、当方は興味ないジャンルなので、正直なところ、だんだんウザく感じるようになってしまっていた。
そして途中から浮かび上がってくるBL色……相手役の子役を女の子っぽい外見と声にしていたのは、こういう同性愛が色濃くなっても下品に見えないよう最低限、観客に気を遣ってくれていたのかなとも思える。事実、BL系ドラマを苦手として避けてきた僕でも、何とか視聴に耐えられた。そういう節度を保ってくれていたのは、是枝監督の配慮ある采配なんだろうと感謝したい。
後半から僕はかなり興味が薄れてきて、どうでもよくなっていたのだけど、ラストシーンを観てハッとした。
子供2人は、すでに死んでいたのかと。
はっきりとした描写や演出的な明示もなかったが、そんなような美しさを感じさせるラストシーンだったのだ。
もし、これが2人が死んでいたとされるのなら、僕はもうちょっとBL色の表現にも許容できていただろうし、むしろ増やしても良かった。いや、もっと死の匂いを前半から伏線的にチラリズムさせても良かったのではないかと思う。そのほうが文学性も高まったし、2人が合い言葉のように「○○の夜」とか記念日のように指折り数えて待つような、その日に向かっていく高まりがあっても良かった。
それだけ死という表現は、生きてるときに生々しかった表現をすべて浄化させてくれる作用があるからだ。
子供たちは心身を「純化」させないと、2人同時に「死の夜」の高みにはいけないだろうから、それをお互いに守るため約束しようと誓いを立ててもいい。それを邪魔する同性愛的な性交への誘惑とかなら、僕もかろうじてBLシーンを許せる……。
「禁じられた遊び」的な感じで、性器の見せ合いっこから、互いに自慰のやり方を見せ合うなどのチラリズムも許せる。それは死という浄化が最後にあるから許せるのだ……。
こんなことを書いてしまうのは、ラストシーンで子供2人が死んだかどうかわからないような「観客の判断にお任せします」的な終わり方をしたからだ。正直、もうこういう終わり方は飽きたな。このパターン、そろそろやめませんか、と是枝監督にちょっと言いたい気分になってしまっていたので、こういう「死の匂い」をもっと出して欲しかったと書かずにはおられなかったのだ。
……というわけで、映画としては物足りなかった。
スクリーンから迫ってくるようなもの、心を抉ってくるような感覚、見てはいけないもの的な非日常の何かを覗いてしまった後ろめたさなど……求めていたものの何かひとつでも発見できれば良かったのだけど……拾えなかった。心には届かなかった。届きそうだったけど、そんなエグさは途中で消えていた。
とはいえ、映画としての節度は保てていた。
この映画を観たあとで、とある批評家のレビューを読んだが、まあ政治的にLGBT方面にこの映画を利用したくてたまらないといった内容で、非情にキモかった。
批評というより、政治系の活動家による印象操作、誘導、洗脳系で吐き気がした。
この映画が、そのようなプロパガンダに屈しなくて良かったと思う。それは映画の敗北だと思うからだ。
担任の先生が受難過ぎw
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主人公の小学生がある日、怪我をして帰って来た。
他にも靴が片方ない、夜に近所の洞窟で一人で歌う、
走行中の車から突然飛び降りるなど奇行三昧。
母が問い詰めると、担任に侮辱され殴られたと言う。
学校に怒鳴り込むと、穏便期待満載の機械的な謝罪のみ。
担任本人も反省してる様子などまるで無かった。
そして主人公が星川くんをいじめてるとも言った。
やがてこの一件はマスコミに取り上げられる。
こうして担任は大勢の前で謝罪会見し、クビ。
これが原因で女にも振られた担任は主人公と話しに来る。
でも逃げられた末、担任に突き落とされたとか言われる。
担任は絶望し、自殺しようと屋上へ。
そこへトロンボーンだかの音が聞こえて来る・・・・。
で後から、カメ止め的な種明かしが始まる。
まず担任はいい先生だった。怪我も偶然で、殴る気も無し。
でも責任を認めないと保護者を怒らせるということで、
認めて謝罪するよう校長らから指示されただけだった。
星川君は主人公以外の生徒達からいじめられてて、
いじめっ子のいない所では2人は仲良しだった。
というか互いに恋愛感情を持ってた。
奇行と思われたことは、全てこの関係が故に起こってた。
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「怪物」なる黒幕がいて裏で糸を引いてるのかと思いきや、
決してそういう訳ではなかった。
「怪物」は単に、2人がやってた遊びに出て来る歌。
裏事情も、それによる主人公の奇行も大体分かったが、
全く分からんかったことがある。
それは何故、主人公や星川が担任を陥れたのか?
彼らのことを思ってくれる、いい先生なのに・・・。
同性愛を隠すためだけに、そんな嘘までつくかなあ?
主人公は賢く分別のある子供として描かれてたけど、
そこだけ異常に幼児性が高くない?って思った。
あと高畑充希が担任の彼女役で中盤に出て来て、
疑惑を晴らす重要な存在なのかと思いきや・・・
出番も少ないしストーリーにもほぼ関係がない。
しかも薄情。こんなの駆け出し女優がよくやる役やん。
出演者に名を連ねさせて集客狙い?と思ってもたってのw
somewhere
ウエストサイドストーリーの秀逸なナンバーのひとつにsomewhereがある。スピルバーグ版ではオリジナル版のアニタ役のリタ・モレノが唄うが、マリアとトニーがデュエットする前作のナンバーの方が、行き場のない愛する二人の切なさに涙せずいられない程、感動的だ。このナンバーは、実は男女になぞらえて、当時はひた隠しにしなければならなかった同性愛者の心情を表現したと言う逸話がまことしやかに語られていた。しかし、スピルバーグ版の新作のメイキングでスピルバーグはこの映画に携わった主要スタッフが同性愛者だったことを公言した。ウエストサイドストーリーが、半世紀経っても今なお色褪せないのは、人間そのもののアイデンティティーの問題と言う永遠のテーマを訴えているからだ。(映画の中でジェット団に入りたがるボーイッシュな女の子の存在は、今なら多くの人が理解出来る)
怪物のラスト、二人の少年が台風一過の清々しい晴天の中を閉鎖されていた線路を駆け抜けて行く。これはあくまで自分の解釈だが、やはりこの二人の少年はこの世にはいない。台風の日に自宅の浴室で自殺しようとした少年を助けて、二人が唯一呼吸の出来る森の中の廃車へと逃げ込む。映画では、二人の少年が死の覚悟をしながら亡くなったのか、そんな暇もなく死んでしまったのかは、観客に委ねれている。
この映画が多くの人に評価されたのは、「怪物だれーだ」と言う問いかけに、単純な回答を用意しなかったからだろう。人間は誰しもその中にモンスターの要素を内蔵していると言うことなのか、それとももっと究極を極めれば、そんな人は誰もいないと言う事なのか?後者を信じたい自分がいるが、昨今の世の中を見ると、前者なのかと疑ってしまう自分がいるのも否定出来ない。
片方の靴がこんなに切なく感じるなんて…
終始ヒリヒリする感覚で見ていました。
結局本当のことなんてどうやったらわかるんだろ。
何事もなくスクスク育ったと思ってるのは、単に分かってないだけなのかもな。とてつもない悩みを抱えてたら、きっと母には話してくれると思ってるのは母親だけで、何にもひとつも分かってないのかもしれない。片方だけなくなった靴がいじめを表してるかと思ったら、実は二人の仲を表してた描写は秀悦だと思った。
次々と視点が変わる描写に、どんどん自分の中のそれぞれのキャラに対する想いが変わっていって、その度に一つの視点から物事を捉えることの危うさを感じ…
でも…どうしたらいい?だってみんな全部なんてわかりきれないじゃない?日本がもっと性に寛容なら二人は悩まなかったの?ヨリの父親がヨリを病気だと言ってるのは、ヨリが同性が好きだからだけなのか、発達障害がある(鏡文字を5年生で書いてるとか、教科書読んでるところとかでそう思ったんだけど)ということなのか、そこがいまいちよくわからず…だってヨリがあのお父さんにそんなに自分の事を話してるとは思えなくて。
色々後から考えると?な事は多いですが、とにかく子供二人のシーンが可愛くて美しくて切なくて…そして子育てした身にはどうやったって子供の全部なんてわかり得ないというのを感じ、自分の子育てを振り返ってしまう、そしてより切なくなってしまう…
とんでもないものを見てしまった
鑑賞後しばらく、すごいものを見た…とんでもないものを見てしまった…という感情の渦の中で、動きが鈍くなった。
序盤から中盤にかけて、予告で流れていた「怪物だーれだ?」という無邪気で空恐ろしい子供の声が頭の中に渦巻き、「この物語の怪物はいったい誰なんだろう、こいつか?いやそいつか?あ、こいつかもしれない…」などと考えながら見ていた、そんな自分の中に確かにある、悪意のない独断や偏見をまざまざと見せつけられ、苦しくなった。
それぞれの見方
母親、教師、子供たち。
それぞれ、三者三様の描き方をしているため、それぞれが相手に感じる感情が変わってくる。
母親の視点では、教師の非道さはもちろん、子供の奇怪さも相まって、母親の不安を充分に煽っている。
また、一人の教師が子供たちの複雑な環境や親や他の教員との関係で窮地に落とされていく様も見事だった。
また、子供たちのそれぞれの家庭環境からの鬱屈した思いや不安など、是枝さんは相変わらず痛々しく、でも純粋に描いてくる。
最後、全てから開放された子供たちは、幸せに暮らしていけているのかもしれないと思うことが、この作品での唯一の救いになるのかもしれない。
後半になってやっと光るが…
前半は謎が謎を呼ぶ展開で、後半になるにつれ、その謎が一つ一つ解明されていく形式のストーリー。
(前情報ないまま見たとして)「怪物」というタイトルと、前半の折々に挟まれる、猟奇的なにおいのする描写を見れば、「酒○薔薇事件を扱った映画だろうか?」等と思わされるが、謎が解明されていくにつれ、全くの思い違いだったと気付かされる。
最後の方でやっと解明される本作の最大の謎は、少年たちが「同性愛を自覚し出していること」である。「怪物」というのは、少年の一人が虐待の加害者でもある実父に言われている事だった。
これは憶測だが、製作者側は「『酒○薔薇事件だろうか』等と思う私のような鑑賞者も同性愛に理解のない怪物なのだ」と言いたいのではないだろうか。自省を促すという面では効果的かもしれないが、考えてみれば、ビルの火災に始まって、学校での暴行事件、猫の死体等、猟奇的な描写の数々に加えて、「怪物」というタイトルなのだから、そう思っても全く不思議ではない。もし製作者の意図がそうなんだとすれば、「私は怪物です」と自己紹介しておいて、怪物と呼んだら「怪物なんかじゃない!」と言われるようなものではないか。まあこれは憶測にすぎないが。
この映画は、不穏な前半から、時系列を遡って少年たちのビタースイートなセクシャリティに帰結する物語だが、思い返せば、その前半が中々ご都合主義的である。
第一に、ありもしない暴行で辞めさせられる担任。辞めさせられるに至るまでのプロセスがかなりよくわからない。辞めさせられる原因となった生徒の母親との関係はかなり悪いはずなのに、後半になって、なぜか台風の真っ只中で彼女の家まで行き、なぜか車に乗せてもらって、突如行方不明になった生徒を仲良さそうに探しに出かける。これに関しては本当に「…なんで?」と思わずスクリーンに突っ込みかけた。
あと、子供に暴行を加えたとして、校長室で母親に謝罪するシーンがあるが、ここでの担任の印象が最悪。後々暴行自体が無いと観客は知ることになるが、事実関係は抜きにしても、謝罪の場で飴を舐めだすヤツは絶対頭おかしい。後々担任はいいヤツだと判明するが、前半の描かれ方は「ヤバいやつ」すぎて、無理矢理感が強い。
第二に、校長先生。この方、担任以上にサイコな描かれ方をされている。自分の孫を車で轢いて殺してしまったのに、その罪を夫に擦りつける(これだけでも相当ヤバイ)、スーパーで走り回る子供の足を故意に引っ掛けて転ばす、保護者に謝罪する場で、保護者の席から見え易い位置に死んだ孫と一緒に写った写真を置く等、かなりサイコパス。な割に、最後の方では少年と音楽室で二人きりになって、「幸せは絶対来ないから幸せなのよ」みたいな、最もらしく、いかにも校長的な事を突然言い出し、一緒に思いっきり管楽器を吹いて「いい人感」が演出される。さすがに校長の印象はもう、その程度のことでは拭いきれなかった。この人の役割は、終始迷子になっていた印象が強い。
担任とその恋人との会話で「小学校の先生の名前、覚えてる? 覚えてないでしょ、そんなものよ」というセリフが印象に残った。ある意味、観客の記憶力が試されている事を示すようなセリフだった。(というか、少なくとも一人や二人ぐらい覚えてないか? 小学校の先生の名前)
時系列がぐちゃぐちゃな映画なので、確かに記憶力は試される。
ただ、このぐちゃぐちゃ時系列は少しやり過ぎな印象で、普通に追っていくのが疲れる。それなりのペイオフはあるが、そのためにここまで時系列をかき混ぜる必要はあったのかというと、疑問だ。
ここまで不満点しか述べていない気がするが、二人の少年に焦点が当たる後半からは光る画がいくつもあった。少年たちが廃列車や廃トンネルでただ遊び回るシーンは素晴らしい。それが友情から、恋愛感情だと気付かされる描写は圧巻だ。
ラストの駆け出していくシーンも、ジーンと来るものがある。先行きはあまり明るくはないが、とにかく「今」が嬉しい! というような、幸せでいっぱいの名シーンだ。
前半をグッと減らして、その分、後半の少年たちのシーンを増やした方が絶対良かった。前半の不穏さがあってからこそ後半が効くのだ、みたいな意見もあろうが、どうしてもご都合主義感が勝る。例えば、星川少年と実父とのやりとりは中々リアリティがあったが、それでも、父の行ってるキャバクラ燃やすかね、いくらなんでも… という風に思わさられる、無理矢理感の強い描写がありすぎた。
あとは個人的にどうしても安藤サクラの演技が苦手だ。なんというか、彼女個人のエゴがプンプン漂ってくる演技。瑛太の演技はとても良かった。
根本的な問題として、同性愛者ではない人間が、こういう風に同性愛を描いても良いものだろうか? という倫理的問題もある気がする。脚本家も監督も同性愛者ではないだろう。問題はないような気もするが… あるような気もする。とにかく、モヤモヤはする。ここを深掘りするとかなり長くなりそうなので、辞めておく。
後半、「終わりよければ全て良し」的な感じで、力技的に持って行かれた気がするが、思い返せば「アレなんだったんだ?」「アレおかしくない?」と思うことばかりの惜しい映画だった。
ありのままを受け入れられない人間のサガ
怪物とは誰なのか?
誰が怪物を作るのか?
子供同士の他愛もない遊び、カードを額に充てて書いてあるものを予想させるゲームも、上手く伝わらないことが面白味になるゲームだが、生活の中で些細なすれ違いから疎遠になることもある。
疎遠になりそうなあの人に、今度こちらから声をかけてみよう、と思わせてもらった。
最後にいじめっ子の家が新聞配達をやっていて、ただの子供であることがわかる。
誰も怪物じゃないんだな。ちゃんと話そう。
いい親、いい先生、いい子供
すべり込みで劇場鑑賞。
ドラマで見たかった気もするけどまあ無理なんだろうな。。
正直、ネタ的に坂元裕二のカマトト節に絆されるのをなんだかんだ待ってしまったとこはある。からの子供パートで、まんまとキター!と。。
いやわかってる。そんなことだろうと思ってた。それでもすでに何も学ぶ必要がないほど賢いし、そのままでいいよ教えたくて仕方ない。永遠に見ていたいと思う反面、美しいと感じることそのものが後ろめたい。
しかしモヤモヤする。映画的にオチてない気がする。
安藤サクラ演じるあの健全そのものの母にすら自分をごまかすための嘘はあり、そのために弱い人間に不要な圧をかけたりする。
「人は見かけによらないから、一面的に断罪するのはやめるべき」というなら、逆に一見どんなにひどい行為にも一定の留保をするべき、となる。
ならば、あの悪ガキたちにも、教員にも、中村獅童演じる父にも、高畑充希にも、しかるべきバックグラウンドがあったんだろうか?
モスト悪質なピープルに見えた田中裕子ですら見方によっては…てことは、答えは言わずもがなだよね?
そしてああいうラストだと結局、贖罪のために努力したり、赦しを請う必要もない、というメッセージにならないか…?それ以前に、下手すると知るための努力すら無意味な場合がある=知る必要もない、となりかねないこんな世の中じゃ。
最終的に2人は行き止まりにぶつかって、生まれ変わった後でその柵を乗り越えた先へたどり着く。彼らの見た景色は画面には映らない。
だけど私は彼らが互いを知った時点で救われたと思ったので、1人でも現実の時間に帰ってくるべきだったんじゃないかと思う。なにしろ彼らの彼らとしての人生は今がスタート地点だし、画面のこちら側にいるたった1人を応援したいんだ、というならなおさら。
こちとら「ムーンライト」とか見てるしさあ。やっぱり余韻の深さが違うじゃん。。
うーん…「万引き家族」の時とはまた状況が違うんだろうけど、やっぱりオチをつけないのがいいオチだ、とは思えないんだよな。
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