「怪物に集約された形」怪物 さみーさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物に集約された形
黒川想矢さんを応援しているため、怪物を観ました。
3回目の鑑賞です。
子供からみた大人は自分を押さえつけて理不尽に支配する怪物に見えるし、大人からみた子供は理解できない存在として怪物に見える。だとしたら、誰にでも怪物と思える存在がいて、でも誰かが怪物だと思ってるその人にとっては純粋な行動で。
怪物の最後のシーンは、誰かからしたら怪物的な行動(常識的でない行動)だけど、2人からしたら純粋で美しい自由な選択なんだと思います。「怪物だーれだ?」という言葉が何度も繰り返されるのも、自分にとっての怪物を問うきっかけを与えているのかな、と。
人によって怪物と捉える対象が違うから、あなたにとっての怪物の解釈について問いたくてこのタイトルにした。
また、そこから派生して、そうやって人のことを怪物と決めつけてしまうわたしたちこそが真の怪物なのではないかということ。
「自分にとっての怪物」を解釈していくと、そこに辿り着く。そのためのタイトル。
わたしにとって怪物のタイトルは、この二重構造だと思います。
いや、もしかしたら多重構造かもしれません!
例えば、言葉が怪物であること。
怪物の映画の中で大きな役割を果たしているのは、嘘や誤解だと思います。
誰かが口にした小さな誤解や嘘が、どんどん膨らんで人を傷つけていきます。
そう考えると「怪物」とは人間じゃなくて、言葉そのものが怪物化することを指しているのかもしれないな、と。
次は社会に潜む怪物です。
学校の規律、保護者の目線、地域社会の監視などみんな「正しいこと」を守ろうとするけど、それが子どもたちを縛って追い詰めていきます。つまり「怪物」とは個人じゃなく、子どもを押しつぶす社会の仕組みそのものなんじゃないかっていう解釈です。
その次は愛の形が怪物化すること。
親の愛、教師の責任感、子ども同士の友情や恋心など全部愛であるはずなのにすれ違いや歪みで相手を苦しめる存在になってしまう。
つまり、純粋な愛情がゆがむと怪物になるっていう見方です。
最後にそもそも怪物はいないという解釈です。
ラストシーンはとても幻想的で現実離れしていたと思います。
そこで示されてるのは「本当は怪物なんていなくて、ただ純粋な子どもたちの世界があるだけ」なのかもしれません。
だから「怪物」というタイトル自体が観客の先入観を揺さぶるトリックになってるのかもな〜と思いました。
高校生の稚拙な解釈かもしれませんが、まとめると世の中にはいろんな形があって、それが全て「怪物」という言葉に集約されている、ということなのかなと思いました。