「畏怖の象徴として」ゴジラ-1.0 gladdesignさんの映画レビュー(感想・評価)
畏怖の象徴として
ゴジラとはいったい何なのか?
その答えの無い問いにあえて答えるとしたら、その答えは無数にあるとも考えられる。
人類がかつて経験したことのない「怪物」であり、人智を超えた存在であり、人類が生み出してしまった厄災でもある。
戦うべき相手であり、乗り越えるべき壁であり、克服できない業でもある。
ちっぽけな存在の人間たちがいくら頑張ったところで、敵わない。
だが、知恵を出し合い、勇気を振り絞って、手を取り合えば、わずかな奇跡を信じて立ち向かうことで、現状を打破できるかもしれない。
そんな怪物を考えついてしまったのは、日本人だからかもしれない。
八百万の神の国、何にでも神が宿ると信じる精神性は、人間のエゴから生まれ落ちてしまった存在を怪物として描くことで、より人間の小ささや、無力さ、弱さを際立たせつつ、だからこそ協力し合うことの美しさをも浮かび上がらせている。
初代ゴジラは、明確に核兵器への恐怖と、それに伴う悲劇の象徴であった。
初代ゴジラは水爆実験の影響で生まれたという設定になっている。
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験によって、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆した事件をモチーフとしている。
本作『ゴジラ-1.0』では、時代設定が初代とは違う。
太平洋戦争が終結した直後(おそらく1945年ごろ)からの数年(数十年)にかけてが時代設定だ。
ということは、ゴジラは水爆実験によって誕生したのではなく、古来から存在していた巨大生物、ということになる。
戦争末期に一部の兵士たち(主人公含む)には遭遇しており、戦後、アメリカの水爆実験によってその個体が覚醒、巨大化し、東京を襲った、と見ることができる。
初代ゴジラの「核兵器への警鐘」という側面を継承しつつ、敗戦によって全てを失った日本に、さらなる絶望をもたらす存在として「ゴジラ」を描き出している。
また、作中では「ゴジラ」を「呉爾羅」と表記している。
これも、ゴジラという存在が古代からの生物であり、土着の伝説的生物として描くことで、単なる動物・生物ではなく、「災害」や「祟り」のような「畏怖」の対象としていることがわかる。
「呉爾羅」という、一見して意味が図りかねる表記は、科学や常識では理解しきれない存在であり、人間ごときの手には届かない存在であることをも示唆している。
絶対的な脅威であり、日本古来の信仰や伝承のような、理解すること自体が無意味であるような、絶望感や諦念をも表している。
タイトルの「-1.0」は、「戦後、敗戦国となり、ゼロになった日本にゴジラが襲いかかり、マイナスになる」という意味合いが込められているという。
大きな厄災の後に、さらに試練が待ち受ける、という構図は、あたかも東日本大震災と原発事故とを彷彿とさせる。
予測不能な巨大な脅威、政府の対応の遅れ、そしてそこからの復興への道のりという観点では『シン・ゴジラ』でも描かれていた。
本作が最も特徴的なのは、普通の市民が自分たちの力で生きていく姿を描いている点だろう。
戦時下で特攻隊員として命令が降っていた主人公・敷島が、生き残ってしまった自分の生き様を、どう乗り越えていくか、を描きながら、生きることに執着する姿でそれを表現している。
本作は、2024年3月、日本の作品としては初めて米国アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した。