「ゴジラの意味がないゴジラ」ゴジラ-1.0 バーモンドさんの映画レビュー(感想・評価)
ゴジラの意味がないゴジラ
山崎監督といえばオールウェイズ三丁目の夕日や永遠の0でお馴染みの名監督。
過剰な説明セリフとミュージカル調の幻想的演技演出を武器としノイズなきノスタルジーとしての昭和を描いてきた監督だ。
そんな監督の手掛けるゴジラは昭和ロマンの極北といえる作品だろう。
マイゴジの登場人物はオールウェイズばりにクリーニングされ漂白剤の香りさえ漂う。
そんなカリカチュアされた役者の大根演技は本作の昭和ロマンを力強く支える。ただし神木隆之介のやたら大声で脈絡なく発狂するだけの棒演技だけは個人的にはきつかった。
さて序盤で主人公を罵倒するおばさんも、話せばいい人で白米を無償でわけてくれる。一事が万事で、この映画に部外者は存在せず、補正された思い出の中だけにあるファンタジーとしての古きよき共同体が描かれる。
こうした本作の描写は共同体が解体し殺伐とした現代日本の社会的矛盾、利己的個人主義の蔓延といった現実からの逃避に過ぎないのではないか?
じじつ本作の舞台は、いわば幻想としての昭和であって現実のそれとは関係がない。そのため時代考証的な現実性を度外視したイメージだけが描かれる。
たとえば戦後にも関わらずGHQが出てこない。またそればかりかゴジラの正体や経緯なども有耶無耶となる。
繰り返しになるがノイズとなる部外者が一人もいないなど本作における現実性の排除は枚挙に暇がない。
なにより個人的に納得しかねるのは、あらゆるノイジーな現実を排した空想としての箱庭的舞台で、主人公たちのトラウマ克服の玩具を演じるだけのゴジラだ。
登場人物がいかにもなデフォルメされたキャラクターを型通りに演じるかのごとく、ゴジラまでもがいかにもなゴジラを忠実に演じ、主人公のトラウマの象徴としての役割に徹しきる。
ゴジラのどこかカメラを意識したキレのあるモーション、モデルあがりの役者がカメラの前でポーズをとるような動き。感情的な表情さえもつ人間的な面構え。
ここではゴジラさえもが主人公の仲間であり外部たりえない。
あまつさえ熱戦を放てば雲があがり黒い雨がふる。もはやゴジラは置き換え可能な記号表現でしかなくその実在性を喪失しているのだ。
だから本作のゴジラはたとえばキングコングに置き換えても成立する。つまりゴジラであることの必然性もない。
個人的には主人公のトラウマとして原爆や敗戦の記号を精密に演じ、カメラ映えを意識するイケメンゴジラの臭すぎる舞台演技には苦笑するしかなかった。マイゴジのゴジラの演技は本作における佐々木蔵之介のくっさい芝居に近い。
噂では本作を見て多くの人がゴジ泣きしたという。
またアカデミー賞を獲得し確固たる国際的地位を築いたようだ。
僕には映画を観る目がないのだろう。
噂によるとこの映画をYouTubeなどで派手に批評すると脅迫されるといった事件も起きているとか。
さて本作では敗戦の反省からその全体主義を改め、海神作戦では自由意志による参加が求められた。
もし本作の批評、批判的感想に対して言論弾圧的な態度や空気、権威に従えという言説をなすのであれば、それこそ本作で批判の対象とされた戦中の全体主義、権威主義の礼賛に他ならないだろう。
もっともこうした現象こそ本作がもつ部外者なき閉じた箱庭幻想の効果なのかもしれないが。
オールウェイズ三丁目の夕日から山崎監督の本質は何一つ変わっていないように思う。
ところで個人的には銀座の黒い雨のシーンの神木隆之介の演技があまりに嘘臭く感じ見ていて本当に困惑した。