「隣の女子高校生は泣いていたからそれでいいのだ、と思う」ゴジラ-1.0 abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)
隣の女子高校生は泣いていたからそれでいいのだ、と思う
いや~~~よくやったな~~~
「特攻隊」というワードだけで嫌な作家を思い出してー山崎監督が自身で映像化しているわけでー、同じくナショナリズムに回収する物語になると思ったから観る気をなくしていた。けれどゴジラはかっこよくて恐かったし、VFXは凄かったし、物語もよかった。隣の人は感動で泣いていたし。皆がみて楽しめて感動できて、色んな人の「ご意向」を上手く調整して、面白くしているのだから素晴らしい。
例えば主人公・敷島浩一の名字について。これがどこから出典または創作されたか定かではないが、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んでいる。この発見はDHC元社長の新会社がホームページで誹謗中傷と差別発言をしているニュースから私も閲覧してできた。元社長には中指を立てて感謝を示しつつ、本居宣長という国学者との関連ーというか「敷島」が日本の別称と後に知るー、また物語でも「戦後復興」という「日本/人」という想像的共同体を構築する物語を準備した点で本作にナショナリズムの側面があることは免れ得ない。簡単に言えば、「俺たち」は焼け野原から必死に働いて復興して高度経済成長を果たしたのだ!俺たち日本人は素晴らしい!そんな美しい国ニッポンに現在の俺たちは生かされているのだ!である。
そういう言説を支持したくなる気持ちも分からなくはないし、ある程度の事実は含んでいると思いつつ、その言説から捨象された事実についても本作は主眼を置いている。
例えば敷島は特攻逃れの内向的な人物として描かれており、それはとても現代的な人物像のように思える。さらに彼はPTSDを患っているようにみえ、戦後になっても戦争の傷が癒えていない。彼と同居する典子は、彼に貧困を指摘され「パンパンになれと言うの」と発言する。「パンパン」とは米兵を主な相手として売春を行う街娼であり、この言葉を物語に登場させたことも大きな意味があるだろう。このように二人の人物像をみれば、「モーレツ社員」の「俺たち」から二人は捨象された人物であると言える。
しかも二人は共同で生活を営みつつ、規範的な意味での家族でもなければ性愛的な関係でもないことは驚きである。そして二人の間に子どももいるが、孤児であり血縁関係は一切ない。つまりここでも結婚して血縁関係になることで家族になるといった保守的な家族観とは違い、生き延びるために共同で生活を営むことで、結果的に家族となり、それを家族と呼ぶ転換が起こっている。このような家族のあり方は戦後に事実としてあっただろう。そういった点でこのような家族像を描こうとしたことも大きな意味がある。
このようにこれら二人の人物像や家族のあり方は、ナショナリズム的な側面を批判的に捉える逸脱があるし、性愛ー結婚ー家族を強固な三角関係に捉えるロマンティック・ラブ・イデオロギーについても同様な眼差しがある。
さらに敷島とゴジラの対峙は、内向的な彼が勇気をもってゴジラを退治する私的な物語≒個人的な語りにもなり得るが、批判的な視座をもたらすことも可能にみえる。つまり自己責任としての語りの不可能性である。
敷島は特攻逃れで大戸島ー硫黄島の連想をしたのは私だけ?ーに「不時着」する。この逃げで彼の臆病が描かれるのだが、さらに島にゴジラが到来してしまう。この時、彼が銃撃をしなかったことで整備兵を死なせることになり、彼らの死を自己の責任として、その傷に戦後も苦しめられることになる。さらに時を飛んで、ゴジラが銀座を急襲する時も、銀座に働きに出た典子を救おうとする。しかしその気持ちとは裏腹に敷島はゴジラの放射火炎による爆風から典子に庇われて、彼女が死んでしまう悲劇に転じてしまう。このことからも典子の死を自己の責任として責めを負うのである。
これは理路整然とした語りのように思える。確かに敷島はその場にいて、彼だけが生きて、他の者は死んだ。彼が他の者が死ぬことを防がなかったことには責任がある。だから彼は役に立たないものであり、トラウマを抱えても仕方がないし、死ななければならない。この語りが逆説的にーつまりそう思われたくなかったらモーレツに働けー「戦後復興」を可能にした側面はあるだろう。けれど現代に生きる私としてはそんなわけないじゃんとも思ってしまう。
ゴジラは圧倒的な暴力だ。ゴジラが原水爆から生まれたことから人為的な側面もあるがーちゃんと本作はそこも描いている。素晴らしいー、災害なのだ。だから敷島個人がどうこうしても防ぎようがない。大戸島の描写もそうだが、彼が銃撃できたとてゴジラが死ぬわけがない。だって後の描写で戦艦を簡単に沈めているのだから。典子の死も偶然そうなっただけだ。なぜなら典子が列車の時点で死んでいたことだって十分あり得るからーむしろあの状況から生き延びたのが奇跡だろうー。つまり私たちは災害による生き死にを物語として理解はしたい。けれど自己責任として語るには、災害も死も人為による操作可能な対象ではない。だから本作は一見、現代に即した敷島の自己責任についての物語と思えつつも、その語りの逆説的な不可能性を示してもいる。
このように自己責任の物語を排しつつ、ゴジラにされるがままに破壊されることを受け入れているわけでもない。そのために政府による介入や撃退というナショナリズムを導入するわけでもないーというか銀座襲撃で国会議事堂は暗に爆破されている。政府批判ー。ここで本作は、民営の防衛組織をつくって、科学技術で退治しようとするのだ。まさに人為を超えたゴジラの襲撃という災害をセカイ系のような個人による解決ではなく、市民が集団して民主主義的に解決する。このような問題解決に結実したのは純粋に立派だと思う。今、私たちに必要な物語はまさにこれなのだ。
だから典子が実は生きていたというご都合主義的な結末も問題ない。だって典子にも浜辺美波にも生きていてほしいじゃん。やっぱり大切な人には生きていてほしい。その思いは大事にして、災害のような事象を無理矢理に自己責任の物語に回収させない。そもそも「自己責任」という言葉自体、「責任」が「自己」に内包されている以上、この言葉を使う時には自己に責任をなすりつけたい集団心理、イデオロギーが働いていると考えるべきでしょう。「私に特攻をさせてください」「では、死んでも自己責任だからな」みたいな。ここでは特攻をしなくてはいけない構造/権力関係に対する言及は一切なく自己責任に結実する。
それでも「責任」を負おうとすること。そのために皆で協力して集団的に解決しようとすること。災害それ自体が起こることは防げないが、防災に努めること、起こったことに懸命に対処すること、それは私たちにもできるはずだ。そんな「責任」の原理が今、私たちが生き延びるために必要とされている。
そうは言っても純粋に結末を称賛できるわけでもないと思っている。二点指摘するが、それは「民営の防衛組織の表象」と「敷島がパラシュートで脱出する描写」についてである。
民営の防衛組織については、ナショナリズムを排する点でいいとは思いつつ、現況においてどのように捉えられるかは注意が必要だろう。現在においては、敷島のような市民が集団で民営する形態は、いつの間にか私企業のような私営に取って代わり、災害といった問題を民主主義的に解決することが、利潤の追求に変わってしまってはいないだろうか。それはオリンピックや万博の状況をみれば一目瞭然であるが、このようなイベントの理念は形骸化して、企業の利潤獲得という暴利に変わっているじゃないですか。しかも企業は政府と結託して共犯関係を成していることも明らかだ。本作の民営の防衛組織もそうだ。戦艦は自前では製造されておらず、政府による譲渡だ。このような点で、結末が政府を排しているように思いつつも実は、暗に結託、関係せざるを得ないことは批判的な注意が必要である。しかもゴジラの退治を企業による科学技術で行うことは、戦後復興のナショナリズム言説を再び浮上させることになりかねない。
敷島がパラシュートで脱出する描写も納得はいかない。彼は最後の「海神作戦」で、戦闘機による誘導を買って出て、「特攻」をする。しかしかつて怨恨のあった整備兵による技術改良のおかげで、敷島はゴジラに突っ込む直前にパラシュートで脱出できるのである。もちろん敷島が死ぬべきだと言いたいわけではない。そうではなく、観客は敷島が特攻して死ぬしかないと思いつつも、実は事前に脱出方法が説明されていたというカラクリがある点だ。このように描写されることは、敷島のみが生死を操作可能な主体として描かれてはいないだろうか。それは災害や生死、自然も人工的に操作可能な主体を立ち現させて、再び自己責任の主体/語りを導入することになりかねない。
そのような点で、結末を無批判に擁護したいわけではないし、東宝といった企業と関わらざるを得ない以上、限界はあると思いつつ留保は必要だとは思っている。
山崎監督の「三丁目の夕日」も疑似家族なので、そういったものが
お好きなのではないでしょうか?
ゴジラ映画が好きな人は、ビオランテから、ノリコさんが生き残ったのは
ゴジラ細胞が回復させたからと、了解しているが、そういう映画には
関心がない人にとっては、奇異だとは思います。
山崎監督自身が「あれで生きているはずはない」とおっしゃっていますので、
そういう解釈が普通ですね。